第21話 声が増える日
朝霧の村口へ着くと、番に立っていた男がこちらに気づいた。
「殿! 若様!」
門番の声に、畑にいた者が顔を上げ、荷を担いでいた若衆が足を止めた。村の空気が、わずかに変わる。
屋敷の門前には、政虎が立っていた。いつも通り背筋は伸びているが、顔は硬い。
頼政は歩みを緩めず、門前まで進んだ。
「戻った」
政虎は静かに腰を折った。
「殿。お戻りをお待ちしておりました」
その声にはいつもの落ち着きがあるが、どこか張り詰めていた。
頼政は政虎を見た。
「何があった」
「奥方様が、お産にございます」
一瞬、門前の音が遠のいた。
お産。
つまり、春が。
頼政が短く問う。
「春は」
「ご無事にございます。お疲れではありますが、しっかりしておられます」
頼政の顔から緊張が少し抜けた。俺も、胸の奥につかえていたものが下りる。
「そうか」
政虎はさらに続けた。
「男児にございます」
男の子。
俺の弟である。
春の腹は大きかったし、いつ生まれてもおかしくないとは聞いていた。それでも、言葉にされると別物だった。
この乱世に、俺の弟が生まれた。
「留守をよく守った」
「恐れ入ります」
「屋敷は」
「騒ぎは抑えております。村口には番を増やし、見知らぬ者は通しておりませぬ」
「よい」
頼政はうなずき、屋敷の奥へ向かう。
俺も続こうとして、ふと新九郎を見た。
少し離れて立ち、こちらのやり取りを静かに見ている。道中を共にした相手ではあるが、まだ橘の者ではない。朝霧を見に来た甲賀の者である。
産屋の近くへ通すわけにはいかない。
「悪いが、少し表で待ってくれ。奥へは通せない」
「承知しております」
「弦十郎」
「はっ」
「新九郎を頼む」
「承知」
俺はひとつうなずき、奥へ向かった。
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産屋の近くには、湯と布の匂いが残っていた。
女中が廊下の端で頭を下げる。奥から、細い泣き声が聞こえた。
春は横になっていた。顔色はいつもより白い。だが、目はしっかりしている。
頼政が枕元に腰を下ろした。
「春」
「殿……お戻りに」
「無事でよかった」
その声は、いつもの頼政より少し低かった。
春は小さく笑い、俺の方へ目を向けた。
「小徳丸……」
「母上。ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
その一言で、ようやく本当に帰ってきた気がした。
産婆が、布に包まれた赤ん坊を少しだけ見せてくれる。
小さい。
顔は赤く、目はほとんど開いていない。手も指も、驚くほど小さい。
これが弟か。
男児である以上、いずれは家のために働くことになる。朝霧の田を見て、山を歩き、いつかは槍を持つ日も来るのかもしれない。
だが、今はまだ、布に包まれて泣くだけの赤ん坊だった。
「小さいですね」
「あなたも、こうでしたよ」
「俺もですか」
「ええ。もっと泣いていたかもしれません」
それは、言いたいことが多すぎたからではないだろうか。
ただ、赤ん坊の俺に村の改善案など言えるはずもない。あの頃は、泣くしかできなかったのだから。
頼政は赤ん坊を見て、しばらく黙っていた。
「名は、落ち着いてから考える」
「はい」
まだ名はない。
小徳丸の弟。橘家に生まれた、新しい男の子。
今はそれだけで十分だった。
赤ん坊が小さく泣いた。
その声を聞きながら、俺は妙な責任を感じていた。
俺は兄になった。前世では、そんな立場をまともに考えたこともなかった。
兄。
若様。
どの顔をすればいいのか分からない。だが、少なくとも一つだけ分かる。
この小さな弟が生きていける場所を、俺は作らなければならない。
朝霧を、小さいままにはしておけない。
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表へ戻ると、新九郎は弦十郎とともに庭先にいた。
ただ立っているだけに見える。だが、見ていないわけではない。
屋敷の中の声、家人の足取り、門番の立ち位置、女中が通る間合い。そういうものを、何気なく見ている顔だった。
「待たせた」
「奥方様も若君もご無事で何よりにございます」
「まずは、それで十分だ」
「屋敷の内も、乱れておりませぬな」
「彦九郎が抑えてくれた」
俺がそう言うと、政虎がわずかに頭を下げた。褒められたと分かっているのか、分かっていないふりをしているのか。
頼政が表へ出てきた。
「新九郎。朝霧を見てもらう。飾るほどの村ではない」
「飾った村を見に来たわけではございませぬ」
頼政は俺を見た。
「小徳丸。案内せよ」
「はい」
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まず、村口へ向かった。
朝霧の入口は、立派な門ではない。木を組み、柵を置き、道を少し狭めているだけだ。
軍勢を止めるものではない。だが、誰が入るかを見る場所にはなっている。
新九郎は柵を見て、番の者を見て、道の曲がりを見た。
「止めるための門ではございませぬな」
「大勢は止められない。知らぬ者が、知らぬまま入り込むことを止める」
「草の役に繋がりますな」
「そうだ。外から入る者も、内から漏れる話も、見えなければ防げない」
「人が増えれば、今の番だけでは足りませぬな」
「だから、目と耳が要る」
新九郎は柵へ目を戻した。
次に、油場へ向かった。
中では、女衆が壺や桶を並べ、搾った油を布で濾していた。量はまだ多くない。濾した油を移すにも、澱を分けるにも、置き場が狭い。
それでも、ただ田を耕すだけではない仕事が、朝霧の中に生まれていた。
新九郎は、油場の入口で足を止めた。
「ここが油場でございますか」
「そうだ」
「搾る場所ではございませぬな」
「搾るのは水車場だ。ここでは濾し、分け、壺へ移す」
「なるほど」
新九郎は、並べられた壺と、桶を運ぶ若衆を見た。
「ここにも人が要りますな」
「油を扱う者、荷を運ぶ者、番に立つ者。使い道はいくらでもある」
「動いておりますな」
「まだ粗いがな」
油場を出て、水車場へ向かった。
沢の水を引いた流れの先で、二つの水車がゆっくりと回っていた。
どちらも大きなものではない。軋む音もある。水の逃がし方も、まだ荒い。
それでも、二つの木の輪は水を受けて回り続けている。
新九郎はしばらく黙って見ていた。
「これは、聞いていた以上でございますな」
「まだ二つだ」
「されど、二つ回っております」
新九郎は二つの水車から目を離さなかった。ただ珍しがっている顔ではない。
水の流れ、道の幅、荷を運ぶ足場、人が隠れられる木陰。そういうものを、まとめて見ている。
「守る場所も増えますな」
「増える」
「見張る場所も、入り込まれる隙も増える」
「ああ」
「ならば、草の役も要りますな」
新九郎は小さくうなずき、もう一度水車へ目を戻した。
「ただの山村では、こうは動きませぬ」
「まだ動き始めただけだ」
水車場を出て、納屋へ向かった。
中には、大豆と蕎麦が分けて置かれていた。山のように積まれているわけではない。だが、俵と莚に分けられ、湿気を避けるように板の上へ載せられている。
納屋の脇には、干した肉と皮を掛ける棚もあった。
多くはない。だが、山で獲ったものを、そのまま食い潰すだけにはしていない。
新九郎は、大豆と蕎麦、吊るされた肉、張られた皮を順に見た。
「米だけの村ではございませぬな」
「そうだ」
「山も見ている」
「見ざるを得ない」
新九郎は小さくうなずいた。
それから、村外れへ向かった。
草を刈り、石をいくらかどけただけの場所である。小屋もない。井戸もない。畑と呼べる場所も、まだない。
だが、ここを見せないわけにはいかなかった。
「ここだ」
俺が言うと、新九郎は足を止めた。
「ここに住まわせるおつもりで」
「そうだ」
「まだ何もございませぬな」
「何もない」
「よく、何もない場所を見せますな」
「何もないから見せる」
新九郎は、草の残る土地を見渡した。
「甲賀で聞いた話は、ここに繋がるわけですな」
「そうだ」
細かい問いは、もう甲賀で済ませている。
ここで見せるべきは、言葉の続きではなく、その言葉を置く場所だった。
風が草を揺らす。
遠くから、子供たちの声が聞こえた。屋敷の方からは、かすかに弟の泣き声が届いた気がした。
新九郎は、その声の方へ少しだけ顔を向ける。
「新しい声が増えた日に、我らを迎える話をなさる」
「偶然だ」
「偶然にしては、出来すぎておりますな」
「俺が仕組んだわけではない」
「それは分かっております」
新九郎は少しだけ笑った。
「ですが、朝霧は、そういう日を逃さぬ村に見えます」
褒めているのか、警戒しているのか。たぶん、両方だ。
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屋敷へ戻ると、頼政が座敷で待っていた。政虎も控えている。
新九郎は座り、両手を畳についた。
甲賀の屋敷では、こちらが見られていた。今は、朝霧を見た新九郎が答える番だった。
頼政が口を開く。
「朝霧を見たか」
「はい」
新九郎は静かに答えた。
「小さな村にございます」
遠慮はないが、侮りもなかった。
「されど、甲賀で聞いた話は、口だけではございませんでした」
頼政は黙って続きを待つ。
「油場は動いております。水車も二つある。納屋には大豆と蕎麦、山の獲物もございました。人を置く場所は、まだ何もない。ですが、隠さず見せられました」
新九郎は俺を見た。
「出来上がった村ではなく、作っている途中の村にございます」
頼政が問う。
「では、どう見る」
新九郎は深く頭を下げた。
「彦右衛門様へ、進める値のある話としてお伝えいたします」
座敷の空気が、少しだけ変わった。決まったわけではないが、退けられたわけでもない。
新九郎は続けた。
「ただし、私一人では足りませぬ。若様が望まれた通り、家として根を下ろす者が要ります」
「五十か」
「はい。ただ、すぐに五十を動かすわけにはまいりませぬ。一度、甲賀へ戻ります。家内、若衆、働ける者、忍び働きに耐える者。選び、話を通し、段階を分けて移すことになりましょう」
「そなたが決めるのか」
「いいえ。決めるのは彦右衛門様にございます」
新九郎は顔を上げた。
「されど、私の目で見たことは申し上げます。朝霧は、甲賀の者を銭で使い捨てる場所ではない。そう伝えることはできます」
「それで十分だ」
俺は言った。
「忍び働きの主は、十から十五で構わない」
「承知しております。残りは、朝霧で食う者として考えねばなりませぬ」
新九郎は、そこで改めて頭を下げた。
「ですが、朝霧に来る以上、朝霧の者として働かねばなりませぬ。甲賀の顔だけを持ち、朝霧の飯を食うわけにはまいりません」
それは、俺が言おうとしていたことだった。
頼政はわずかに頷いた。
「分かっているならよい」
新九郎は、少し間を置いてから言った。
「願わくば、甲賀との縁を断たぬことをお許しいただきたい」
「断たせない。朝霧に根を張っても、甲賀との道を失えば意味がない。どちらにも道が残るからこそ、人も話も動く」
新九郎はじっと俺を見る。
「若様は、欲が深い」
「そうだ」
「隠さぬ」
「隠しても、見えるだろう」
新九郎は小さく笑った。
頼政が言った。
「新九郎」
「はっ」
「この場で決める話ではない。戻り、彦右衛門殿へ伝えよ」
「承知いたしました」
「その上で、甲賀より人を出すと決まったなら、改めて朝霧で預かる」
新九郎が深く頭を下げた。
「その折には、若様の目と耳として働きとうございます」
甲賀の者が、俺の目と耳になる。
まだ決まったわけではない。だが、その道は見えた。
頼政の目が俺へ向く。
「小徳丸」
「はい」
「言い出したのはそなたである。人を呼ぶなら、食わせよ。役目を与えよ。捨てるな」
「承知しております」
「目と耳を欲しがるなら、曇らせるな」
「はい」
頼政は、そこで声を低くした。
「だが、裏切りは許すな」
座敷が静まる。
俺と新九郎は、同時に頭を下げた。
「心得ました」
話が一区切りついたところで、新九郎が頭を下げた。
「甲賀へ戻り次第、見たことを伝えてまいります」
「頼む」
俺はうなずき、それから少し声を落とした。
「それと、新九郎」
「はっ」
「甲賀から戻ったら、さっそく頼みたいことがある」
「移る者の支度とは、別のことでございますか」
「別だ。まだ詳しくは言わないが、新九郎にしか頼めないことになる」
新九郎は少し間を置いた。
「承知しました。戻りましたら、うかがいます」
その時、奥から弟の泣き声が聞こえた。
細く、頼りない声。だが、確かに屋敷の中へ響いている。
新九郎が、その声に耳を向けた。
「若様」
「何だ」
「朝霧は、今日はずいぶん人を迎える日でございますな」
弟が生まれた。
新九郎は、朝霧を見る値があると認めた。
これから甲賀へ戻って話が通れば、人を迎える支度も始まる。
人が増えれば、飯も住む場所も要る。揉め事も、噂も、欲も入ってくる。
それでも、朝霧は大きくならなければならない。小さいままでは、守れない。
庭の向こうから、勘次の声がした。
「若、石どけといた!」
平助が慌てて何かを言う。おはつとおたまの笑い声も混じる。
産屋からは、弟の泣き声。
庭からは、子供たちの声。
座敷には、甲賀へ戻る前の新九郎がいる。
朝霧はまだ小さい。住まいも、田畑も、人も、銭も足りない。
だが、声は増えている。
それは、悪いことではない。
翌朝、新九郎は甲賀へ戻った。
まずは見たことを伝えるために。
そして、朝霧へ根を下ろす者を選ぶために。
俺はその背を見送った。
弟よ。
生まれて早々で悪いが、兄はまた忙しくなるらしい。




