第20.5話 閑話 閑話 帰り道の一泊
油日を出る朝は、思ったより静かだった。
甲賀との話が、すべて決まったわけではない。伴新九郎が朝霧を確かめに来る。決まったのは、まずそれだけだ。
新九郎は、伴彦右衛門に言われた通り、頼政の少し後ろに控えていた。橘の家臣ではない。だが、朝霧へ着くまでの道中は、頼政の差配に入っている。
昨日までこちらを値踏みしていた男が、今日は同じ道を進む。それだけで、道中の空気は少し変わる。
「今日は日野で泊まる」
出立の支度を終えたところで、頼政が言った。新九郎は黙って頭を下げた。
「日野ですか」
「蒲生の城下だ。近くを通る。今日はそこで泊まり、明日朝霧へ戻る」
「はい」
「せっかく近くを通る。宿に荷を置いたら町を歩くぞ」
それはありがたい。
荷を下ろせる場所が決まっているだけで、旅はずいぶん楽になる。
「日野には何があるのですか」
俺が聞くと、頼政はすぐには答えなかった。
「着けば分かる」
「父上がそう言うのは珍しい」
「たまにはよい」
「では、楽しみにします」
「勝手に大きく考えるなよ」
そう言われると、かえって日野が気になった。
弦十郎は荷の紐を確かめ、道の先へ目を向けた。
「人の多い道へ出ます」
「分かっている」
弦十郎は短く頭を下げ、俺の半歩後ろへ下がった。
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油日の里を離れると、道は低い山のあいだを抜けた。
朝の湿った匂いが、山肌から下りてくる。谷ごとに田と家のまとまりがあり、道を曲がるたびに人の気配が変わった。
「このあたりは、谷ごとに里があるのか」
俺が言うと、新九郎が道の先を示した。
「左様にございます。谷が変われば、水も道も変わります」
「道を一つ越えるだけで、別の里になる」
「その通りにございます」
朝霧も山の村だが、ここは谷ごとに暮らしが切れている。
水口の方へ近づくと、人通りが増えた。荷を背負った男が横を通り、馬を引く者が道端で足を止める。草鞋を直す旅人もいた。
朝霧の道では、これほど人が重なることは少ない。
「通る者が増えました」
「ああ。水口へ抜ける道だ。荷も人も通る」
「眺めているだけでも面白いです」
「人に気を取られるな。足元も悪い」
「はい」
俺は道の端へ寄った。弦十郎は横を抜ける荷馬に道を譲り、何も言わずについてくる。
昼は、道の脇で済ませた。
油日で用意してもらった包み飯である。飯に味噌をつけ、漬物を挟んで食う。歩いた後には、こういう飯がちょうどいい。
頼政も腰を下ろし、普通に包みを開いた。新九郎は手早く飯を済ませ、弦十郎は道の方に気を配りながら食べている。
「父上。日野の宿では、飯も出ますか」
「出るだろう」
「それなら、町を落ち着いて歩けます」
「宿を取るとは、そういうことだ」
頼政は湯を飲み、竹筒を置いた。
「泊まる場所を決めずに町を歩けば、最後に困る。困るだけで済めばよい方だ」
「覚えておきます」
旅慣れた言い方だった。
俺は残りの飯を食べ、包みを畳んだ。
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日野へ近づくにつれ、道の脇の家が増えた。
畑の向こうに塀が続き、荷を担いだ者が町の方へ入っていく。町の奥、少し高くなった場所に、屋敷地らしい影が重なっていた。
あれが、蒲生の城だろう。
町へ入る前から、人と荷の流れが濃くなっていた。
日野へ入ると、頼政はまず宿へ向かった。
大きな宿ではない。だが土間は広く、馬を繋ぐ場所もある。すでに旅の者らしい男たちが腰を下ろし、壁際では湯気の立つ椀を抱えている者もいた。
宿の者は頼政を見ると、すぐに頭を下げた。
「今宵はここだ」
頼政が話を済ませてから言った。
「はい」
荷を下ろし、馬を預ける。それだけで、身体が軽くなる。
新九郎は土間の奥と裏手の戸を確かめ、弦十郎も入口と通りの方へ気を配っていた。旅の者が荷に背を預け、奥からは馬の鼻息が聞こえる。
宿を出ると、通りは思ったより賑やかだった。
店先では男が声を張っている。
「寄っていきなされ。今朝入ったばかりでございます」
子供を連れた女が足を止め、値を聞いた。一つならいくらか。二つならどうか。
女は少し迷い、首を振って歩いていった。店の男は追わない。すぐに次の客へ別の品を出す。
前世で商いをしていた頃も、買う者だけが客ではなかった。足を止め、迷い、何度目かでようやく買う者もいる。
ここにも、それに似た流れがある。
「よく眺めるな」
頼政が言った。
「見慣れぬので」
「こういう通りは、朝霧にはないからな。よく覚えておけ」
「はい」
少し先に、椀を並べている男がいた。
黒く塗られたものもあれば、木地の色を残したものもある。縁の厚さも少しずつ違う。きれいに揃っているわけではない。
だが、同じような椀がいくつも並んでいる。
「父上、少し寄っても?」
「行ってこい」
店の男が、すぐに椀を一つ差し出してきた。
「日野の椀にございます」
俺は受け取って、重さを確かめた。軽い。塗りにはむらがあるが、普段使いなら十分だ。
一つの出来より、同じような品がこうして並んでいることの方が気になった。
「朝霧の木地師にも見せたいです」
「なら、一つ買えばよい。見本にするのだろう」
「はい」
「なら、無駄ではない」
俺は椀を一つ求めた。弦十郎が店の者から受け取り、布で包む。
特別な品ではない。だが、特別でない品が並んでいることが、少し羨ましかった。
市にも出た。
草鞋の束の隣に干した魚が吊られ、筵の上には野菜が置かれている。その向こうでは、布と小さな器を並べた者が客を呼んでいた。
大きな市ではない。それでも、人の足は自然と遅くなる。
端の方では、焼いた餅も売っていた。味噌の焦げる匂いが、通りに混じって流れてくる。歩いていると、その匂いが腹に来た。
「父上、皆で一つずつ買いませんか」
「構わぬ」
餅は人数分求めた。供回りにも行き渡り、俺の手にも一つ渡される。
道の端へ寄り、熱い餅をかじる。表面は少し硬く、歯を立てると中はやわらかい。焦げた味噌が舌に残った。
甘辛い。
歩いた後には、ちょうどよかった。
「うまい」
「ああ」
頼政は短く答えた。弦十郎も黙って食べている。新九郎は少し餅を眺めてから、口へ運んだ。
「油日のあたりでは、こうして町中で買って食うことは少ないのか」
「少のうございます」
「そうか」
食うものは同じでも、食う場所が違えば味も変わる。
餅を食べ終え、手を払う。市の声は、まだ続いていた。
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綿向の社にも寄った。
馬見岡綿向神社。
鳥居の前に立つと、通りの声が少し遠くなった。さっきまでの店の声や荷車の音が、木々の向こうで薄くなる。
「ここも寄るのですか」
俺が聞くと、頼政は鳥居を見上げた。
「日野へ来て、ここを素通りはせぬ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
「父上も、前に?」
「ああ。若い頃にな」
「どんな用で」
「聞かぬ方がよい話もある」
それは気になる。
だが、頼政はそれ以上言わず、鳥居をくぐった。俺も後に続く。
頼政が頭を下げたので、俺もそれに倣った。
参拝を終えて鳥居を出ると、通りの声がまた近くなる。俺はもう一度だけ社を振り返った。
頼政が寄ると言った意味は、少し分かった気がした。
社を出た後、中野の城の方も遠目に眺めた。
日野城。
中野城とも呼ばれる蒲生の城だ。
丘の上に、屋敷地が重なるように建っている。朝霧の屋敷とは、まるで違う。
比べるものではない。それでも、朝霧との違いは嫌でも分かった。
「あれが蒲生の城ですか」
「そうだ」
「近くまでは行かないのですか」
「招かれておらぬ」
「見るだけですか」
「遠目でも、知らぬよりはよい」
頼政は城の方を向いたまま言った。
「今すべて分からずともよい。後で思い出すこともある」
その場では分からなくても、後になって引っかかるものはある。
俺は丘の上をもう一度眺めた。
今日は、まず覚えておけばいい。考えるのは、朝霧へ戻ってからでも遅くない。
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宿へ戻る頃には、空が赤くなり始めていた。
土間には昼より荷が増え、宿の者が飯の支度を急いでいる。外から戻ると、湯気と煮炊きの匂いが一度に来た。
日野は夕方になっても、すぐには静かにならない。
「泊まりでよかったです」
俺が言うと、頼政は短く笑った。
「今から朝霧へ戻る気だったか」
「無理です」
「分かればよい」
町を歩き、椀を買い、市で餅を食い、社へ寄り、城を遠目に眺めた。それだけで一日が終わる。
弦十郎が包んだ椀を荷の奥へ入れ直していた。
「割れそうか」
「無理に扱わねば、大丈夫にございます」
「助かる」
弦十郎は荷の紐を締めた。
夕飯は宿で出た。
麦飯、汁、焼いた魚、日野菜漬。特別な膳ではないが、歩き回った後には十分だった。
俺は飯を食いながら、土間の方を眺めた。荷が並び、旅人が壁際で湯を飲んでいる。宿の者に聞けば、今日はまだ空いている方だという。
これで空いている方なのか。
「小徳丸」
頼政が言った。
「はい」
「日野はどうだった」
「足を止めるものが多い町でした。店先で人が止まり、宿に荷が入る。それだけでも、町らしく思えました」
「なるほどな」
頼政は汁を飲んだ。
「面白かったか」
「はい」
「買った椀は、どうする」
「木地師に見せます」
「土産ではないのか」
「土産でもあります」
「正直でよい」
頼政は少し笑った。
食後、少しだけ外へ出た。
通りには、まだ人の声が残っている。店を片づける声と、荷を運び込む音が夜の通りに混じっていた。
昼とは違う。同じ通りなのに、暮らす者と泊まる者の声だけが残っている。
新九郎が隣に立った。
「油日のあたりとは、ずいぶん違うな」
俺が言うと、新九郎は通りを眺めたまま答えた。
「だいぶ違いますな」
「どう違う」
「油日のあたりでは、表に出さぬものもございます」
「日野は?」
「ここは、見えるところに人が多うございますな」
表に出さぬ里。
人の見える町。
どちらが上という話でもない。ただ、人の動き方が違う。
「朝霧は、どちらへ向かうのでございましょうな」
新九郎が言った。
俺はすぐには答えなかった。
朝霧は、まだ小さい。隠すほど大きくもない。見せるほど賑やかでもない。
「これからだな」
俺は答えた。
「左様でございますか」
新九郎は小さく頷いた。
初日から、妙なことを聞く男である。だが、悪くない。
部屋へ戻ると、頼政が座っていた。
弦十郎は入口に近い場所で、明日の支度を確かめている。新九郎は窓の位置を確かめてから腰を下ろした。
俺は薄い布団の上に座る。
屋根の下で荷を置ける。それだけで、旅の夜はずいぶん違う。
「父上」
「何だ」
「日野へ寄ってよかったです」
「そうか」
頼政は湯を飲んだ。
「明日は朝霧だ。帰ったら、また騒がしいぞ」
「分かっています」
朝霧に戻れば、また考えることは増える。
だが、今夜はまだ宿の中に、味噌の焦げた匂いが残っている気がした。
荷の奥には、布に包んだ椀がある。今すぐ何かに使えるわけではない。それでも、椀の軽さは手に残っていた。
夜が深くなると、土間の声も少しずつ静まった。
俺は布団に横になる。
明日、朝霧へ帰る。
帰ったら、まず椀を出そう。
餅の味は、たぶん忘れない。




