表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第一章 朝霧村のはじまり

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/26

第20話 茶の根と新しい命

小徳丸しょうとくまるたちが甲賀こうかで話を進めていたころ。


朝霧村あさぎりむらでは、別の支度が進んでいた。


山裾へ続く細道を、孫兵衛まごべえが歩いている。その後ろを、丸い腹の男が息を切らせながらついてきていた。


「いやあ……思っていたより坂がきついですな」


男は手拭いで額の汗を拭った。


年の頃は三十を少し越えたくらいか。丸い顔に、日に焼けた肌。人のよさそうな笑みを浮かべているが、歩くたびに肩で息をしている。


「まだ着かんのですか」

「もう少しだ」

「朝霧は山にある」

「そりゃ、歩けばよう分かります。昔から、孫兵衛さんはこういう道を平気で歩くから困るんですわ」

茂七もしちの腹が重いだけだ」

「ははは。それは言い返せませんな」


男の名は、茂七。


百済寺ひゃくさいじ郷の外れ、志野原村しのはらむらの百姓で、孫兵衛とは母方の従兄弟にあたる。幼い頃から顔を知る相手だけに、孫兵衛の口も普段より少し荒い。


小徳丸が茶を育てたいと話した折、孫兵衛が思い浮かべたのが、この茂七だった。土と水を嫌がらず、毎日畑を見ることを面倒がらない。茶を任せる相手として、半端な者を連れてくるわけにはいかなかった。


「しかし、本当に茶ですか」


坂の途中で、茂七が足を止めた。


「米でも麦でも豆でもなく、茶」

「若様のお考えだ」

「……孫兵衛さん」

「何だ」

「若様のお言葉とはいえ、茶をそこまで大きく見ますか」


孫兵衛の足が止まった。


振り返った孫兵衛は、怒鳴りはしなかった。ただ、その目で茂七の軽口を止めた。


「お前は、私が子供の思いつきで山を掘る男に見えるか」


茂七は口を閉じた。


「若様は、ただ茶を植えたいと言ったわけではない。山で何が育つか、誰に任せれば続くか。そこまで見ておられる」

「……そこまでですか」

「そこまでだ」


孫兵衛は再び歩き出した。


「それが分からんのなら、帰れ」

「いやあ、口が過ぎましたな」

「口が軽いのは昔からだ。だが、橘家の前で同じ口を利くな」

「それは、よう覚えておきます」

「分かればいい」


やがて、山裾の開けた場所へ着いた。


小徳丸が茶の畑にしたいと言った場所である。


草だけは刈られていた。孫兵衛が朝のうちに村の者を入れ、場所だけは分かるようにしていたのだ。


だが、石はまだ多い。


畑と呼ぶには、まだ早かった。


「ここだ」


茂七の顔から、先ほどまでの軽い笑みが消えた。


しゃがみ込み、土を一つまみ取る。指先で擦り、匂いを確かめる。次に立ち上がり、斜面の傾きを見た。さらに少し下へ歩き、水の流れに目を向ける。


孫兵衛は黙って待った。


「悪くないですな」


しばらくして、茂七が言った。


「水は近い。けど、根元に溜まりっぱなしにはならん。茶にはそこが大事ですわ」

「近ければよい、というものではないか」

「ええ。欲しい時に水があって、余った水は逃げる。そのくらいがよろしい。浸かりっぱなしでは根が弱りますからな」


茂七は斜面の下を指した。


「ただ、雨が続けば、こちらへ水が寄ります。浅い溝を一本切って、逃がしてやるのがよろしいですな」

「溝か」

「ええ。灰も入れすぎん方がよろしい。茶は、少し酸い土を好みます」

「灰を入れればよいというものではないか」

「米や野菜とは違います。茶には茶の好みがありますからな」


山から冷えた風が下りてくる。


「それと、春先の霜です。芽が出たところをやられると、せっかくの茶が傷みます」

「ここは冷える」

「ええ。冷えが溜まる底より、この辺りがええ。風も抜けます。木も少し残すのがよろしいですな。夏の日差しを和らげますし、風の当たりも少し変わります」

「手間がかかるな」

「茶は手間がかかります」


そこで茂七は、またにこりと笑った。


「急かしても育ちません。目を離すと、すぐ拗ねます」

「茂七が言うと、怠ける言い訳に聞こえる」

「ひどいですな。私は毎日怠けるために、毎日畑を見に行く男です」

「それでよい」


孫兵衛は短く言った。


「毎日見る者が要る」


茂七の笑みが少しだけ引っ込んだ。


「……私に任せるつもりですか」

「まだ決めてはいない」

「おや、身内に厳しい」

「身内だからだ」


茂七は山裾の土地を見回した。


「自分の村から、朝霧へ毎日通うとなると、少し目立ちますな」

「分かっている」

「向こうの者も、何をしに行くのか聞いてきましょうな」

「茶の畑を見に行く。それだけだ」

「……それだけで済みますかねえ」


茂七は笑っていたが、声の軽さは少し消えていた。


「余計なことは見なくていい。余計なことも言わなくていい」

「なるほど。茶だけを見ろ、と」

「そうだ」

「では、見たくないものが目に入った時は?」

「その時は、私に言え。自分で抱えるな」


茂七は困ったように笑った。


「いやあ、孫兵衛さん。やっぱり人使いが荒い」

「嫌なら断れ」

「断るなら、ここまで登っておりません」

「なら、まずは見ろ」

「ええ。見ます」


茂七は足元の土を軽く払った。


「まずは溝ですな。石をどけたら、水の逃げ道を切りましょう」


やがて、呼んでいた子供たちが山道を上がってきた。


「孫兵衛のおっちゃん!」


勘次かんじだった。後ろから、平助へいすけ虎松とらまつ、おはつ、おたまも続いてくる。


勘次は、孫兵衛の隣に立つ茂七を見た。


「誰だよ、このおっちゃん」

「こいつは茂七。志野原の者で、私の従兄弟だ。茶の畑を見てもらう」


茂七は自分の腹をぽんと叩いた。


「茂七だ。見ての通り、腹は重い。まあ、毎日歩くくらいはできる。よろしく頼むわ」

「本当に重そうだな」

「だろう。長年かけて育てた腹だ」

「育てたのか?」

「勝手に育った」


おたまが小さく笑った。おはつは口元を押さえたが、肩が少し揺れている。


孫兵衛が咳払いをした。


「遊びに来たわけではない。今日は石をどける」

「分かった!」


勘次が真っ先に走った。虎松も黙って後に続き、大きめの石へ手を伸ばす。


平助は、茂七のそばに残った。


「茶って、本当にここで育つの」

「育つ。だが、茶は放っておくとすぐねる」

「拗ねる?」

「水が多すぎても、少なすぎても駄目。草も虫も霜もある。目を離すと、すぐ弱る」


平助は地面を見た。


「面倒だな」

「だから、面白い」


茂七は枝で地面に線を引いた。


「水はこっちへ集まる。だから、あちらへ逃がす」

「溝を掘るのか」

「そうだ。浅くていい。水の道を作る」

「分かった」


虎松は短く答え、石を脇へ寄せた。


おはつが、腕を組んだまま山裾を見た。


「小徳丸が帰ってくるまでに、少しは畑らしくするんだよね」

「そうだ。若様が戻った時、何も進んでおらぬでは、話にならん」

「なら、早くやろう」


おはつは小さな根を拾い始めた。おたまも、その隣にしゃがむ。


「……これは、どこへ置けばいいですか」

「根はそちらへ集めろ。石とは分ける」

「はい」


平助は、茂七が引いた線を見ながら言った。


「若も、こういうこと考えてるのかな」


茂七は答えなかった。


「若様が考えておられるのは、茶だけではないだろうな」

「茶だけじゃない?」

「茶を植えるだけなら、誰でも言える。毎日見る者、水を逃がす者、石をどける者がいて、ようやく畑になる」


孫兵衛は続けた。


「若様は、そういう働く手を増やそうとしておられる」


平助は、まだ何もない山裾を見た。石と土と、刈られた草しかない場所である。それでも、さっきまでとは少し違って見えた。


「平助」

「うん?」

「考えるのはよい。だが、手も動かせ」

「あ、うん」


平助が慌てて石を拾った。


勘次は、すでに汗をかきながら石を運んでいた。虎松は大きな石を選び、黙々と動かしている。おはつとおたまは、小さな石や根を拾い集めていた。


その様子を眺めながら、茂七はぽつりと言った。


「不思議な村ですな」

「何がだ」

「子供まで、まだ茶の一本もない畑を作っている」

「若様が、作りたいと言って出かけたからな」

「では、言われたから仕方なく?」

「違う。若様が戻る前に、こちらで進められることを進めておる。それだけだ」


茂七は笑みを消し、もう一度、足元の土を見下ろした。


「……面白い村です」


山から風が下りてくる。


茶の木は、まだ一本も植わっていない。


それでも、石をどけ、土を見て、水の道を考える者たちはいる。


朝霧の山裾では、まだ見えない畑の支度が始まっていた。


---


そのころ、朝霧の屋敷では、別の緊張が広がっていた。


はるの腹は、もうはっきりと大きい。いつ産まれてもおかしくない頃合いではあったが、頼政よりまさと小徳丸が出立した朝には、まだ差し迫った様子はなかった。


だからこそ、留守を預かった政虎まさとらは、何度も頼政の言葉を思い返していた。


彦九郎ひこくろう。留守を預ける」


出立の朝、頼政はそう命じた。


「はっ」

「春のことは、家人けにんと女中に気を配らせよ」

「心得ました」

「村口の出入りも、いつも以上に見ておけ」

「はっ」


留守を預かる。


言葉にすれば短い。だが、その留守の中で春の出産が始まったとなれば、話は別である。


屋敷の中は、朝から落ち着かなかった。女中たちが湯を用意し、布を揃え、産婆さんばの指図を受けて動いている。男たちは庭や門の方へ下げられていた。


産屋うぶやの近くで、役に立つことはない。それでも、屋敷の外回りまで気を抜くわけにはいかなかった。


政虎は庭先に立ち、門の方へ目を向けた。


「村口は」


控えていた家人が答える。


「番を増やしております。見知らぬ者は通しておりませぬ」

「よい。騒ぎを聞いて寄る者があれば、屋敷には近づけるな」

「はっ」

「奥方様のことを、村中へ大きく触れ回る必要もない」

「心得ました」


頼政も小徳丸も不在。その時に、屋敷の内で大事が起きている。だからこそ、余計な人の出入りは避けねばならない。


廊下の奥から、女中の声が聞こえる。


「湯を」

「布をこちらへ」

「産婆様、こちらでよろしゅうございますか」


声は抑えられている。だが、足音は早い。


政虎は、産屋の方へ向かいかけた足を止めた。中に入れば邪魔になる。分かっていても、足がそちらへ向きそうになる。


「彦九郎様」


年かさの家人が声をかけた。


「奥へ参られますか」

「行かぬ。女たちの仕事だ。こちらは、こちらの仕事をする」


産屋の奥から、春の息を呑むような声が漏れた。


自分が浮き足立てば、下の者まで揺れる。


「彦九郎様」


別の家人が駆け寄ってきた。


「村口の方に、百姓が二人。屋敷の様子を聞きに来ております」

「中へは入れるな。奥方様はご無事。屋敷では支度が進んでいる。それだけ伝えよ」

「はっ」

「不安を広げるな。だが、隠しすぎても妙な噂になる。いつも通り働けと伝えよ。騒ぐことが、一番よくない」

「心得ました」


家人が走り去る。


女たちは産屋へ詰め、男たちは門と庭に下がった。政虎はその間に立ち、騒ぐ者が出ぬよう押さえた。


やがて、産屋の中がさらに慌ただしくなった。


「慌てるな。湯をこちらへ」


産婆の低い声が響いた。


「布は」

「足りております」

「では、次をすぐ取れるように」


女中が一人、湯を抱えて廊下を急ぐ。


政虎は一歩踏み出した。


すぐに止まる。


春の声が、一度だけ強く響いた。


その場にいた者たちが息を止める。門の外で話していた家人も、庭先の男たちも、動きを止めた。


次の瞬間。


細い泣き声が、産屋の奥から上がった。


政虎は目を閉じた。


泣き声は弱い。だが、確かに続いている。


女中たちの声が重なり、すぐに湯を運ぶ足音が動き出した。止まっていた足音が、一つ、二つと戻っていく。


政虎は、ようやく深く息を吐いた。


やがて、産屋の戸が開いた。出てきた産婆が、深く頭を下げる。


「お生まれにございます」


政虎は、すぐに問い返した。


「奥方様は」

「ご無事にございます。お疲れではありますが、しっかりしておられます」

「そうか」


そこで初めて、政虎の肩から力が抜けた。


「若様に続いて、男のお子でございます」


その言葉に、女中の一人が袖で目元を押さえた。家人が深く息を吐く。庭先にいた男たちも、顔を見合わせて小さく頭を下げた。


まだ、頼政も小徳丸も戻らない。


だが、朝霧の屋敷には、新しい声が増えた。


「殿がお戻りになれば、すぐにお伝えする」


「それまでは、余計な騒ぎを起こすな。奥方様とお子を休ませる」

「はっ」


家人たちが頭を下げる。


産屋の奥から、また赤子の泣き声が聞こえた。


預かった留守は、まだ終わっていない。


小徳丸たちが外で人を招こうとしている間にも、朝霧の内側では、新しい命が生まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
茶の栽培を本格的に始めたら、今度は永源寺が首突っ込んで来そうな……。寺社勢力は厄介ですから。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ