第20話 茶畑と産声
天文十六年(1547年)、十月。
近江国、愛智郡、朝霧村。
小徳丸たちが甲賀で話を進めていた頃――孫兵衛
わしは一人の男を連れ、朝霧村の山裾を歩いていた。
「まだ着かんのですか」
後ろから声が飛んできた。振り返ると、志野原村の百姓・茂七が、細道の途中で足を止め、手拭いで額を拭っている。母方の従兄弟で、子供の頃から山へはよく二人で入った。
「もう少しだ」
「さっきも、そう言いませんでしたか」
「茂七が遅い」
言い返すと、茂七は手拭いを腰へ戻しながら苦笑いを浮かべた。
「孫兵衛さんが早すぎるんですわ。昔から、山へ入ると人に合わせませんな」
「その腹が重いだけだ」
「それは言い返せませんな」
二人は再び坂を上った。しばらく無言で歩き、息の上がった頃になって、茂七がようやく口を開いた。
「しかし、本当に茶ですか」
茂七は念を押すように続けた。
「米でも麦でも豆でもなく、朝霧で茶を育てると」
「若様のお考えだ」
「疑っているわけではありません。ただ、わしにも畑がありますでな。毎日こちらへ通えと言われても、すぐには返事できませんわ」
その言い分は分かる。わしは歩みを緩めた。
「だから先に土地を見せる。無理なら無理と言え」
「できると言えば、そのまま任されそうですな」
「返事だけいい者なら、お前を呼ばん」
茂七は前を向いたまま、少し声を落とした。
「身内を連れてきたと、殿に思われるのも困りますか」
「お前が半端な仕事をすれば、そう思われる」
茂七は坂道の先を見上げ、しばらく黙ってから答えた。
「わしも、孫兵衛さんの顔で仕事をもろうたとは言われたくありませんな」
「なら、自分の目で見て決めろ」
「初めから、そのつもりですわ」
やがて二人は、山裾の開けた斜面へ出た。草は刈られていたが、大小の石が転がり、ところどころで木の根が土から出ている。畑にするには狭く、木を伐って広げるにも半端な場所だった。
「ここだ」
言葉を向けても、茂七は返事をしなかった。そのまま斜面へしゃがみ込み、土を一つまみ取っては指先で崩し、表の乾いた土の下に眠る湿り気を確かめている。それから何も言わずに斜面を下り、草の根元を踏んで窪みに溜まった湿りを指で確かめると、周囲の木を見比べながら戻ってきた。
「悪くはありませんな」
「育つか」
「育つ見込みはあります。ただ、下は水が寄りそうです。植えるなら、もう少し上でしょうな」
乾いた表と、指で崩した下の湿りの違いは、わしの目にはよく分からない。分からぬまま口を挟むより、茂七の見立てを先に聞いた方がいい。
「溝も要るか」
「要ります。ただ、今日は掘らん方がいいですわ」
「なぜだ」
「雨の後を見たいんです。先に溝を切ったら、元はどこへ水が流れていたのか分かりませんからな」
茂七は斜面を横切るように手を動かした。
「次に雨が降ったら、土の削れた所を見ます。それから、水をどこへ逃がすか決めましょう」
「雨の日も来られるか」
「雨の中を登ったら、水の跡を踏み荒らしますわ。翌朝には来ます」
急がず、順を守って見る。山のことは急いだ分だけやり直しになると、亡くなった父からも言われてきた。茂七の返事は、その通りだった。
わしは話を先へ進めた。
「志野原の畑はどうする」
「倅に見させます。わしがおらんと何もできんようでは、あちらも困りますでな」
「倅は承知しているのか」
「茶を見に行くとは話しました。毎日とは、まだ言うてません」
「先に話しておけ」
茂七はわしへ目を向けた。
「孫兵衛さんが任せるかも分からんうちから言えば、また余計な仕事を引き受けてきたと叱られますわ」
「いつも引き受けてくるからだ」
「今回、仕事を引き受けてきたのは孫兵衛さんの方でしょうに」
わしは周囲の木を見上げた。
「木は伐るか」
「全部は伐らん方がいいですな。残しすぎれば日が入りませんが、夏の日差しを和らげる木はあった方がいい」
「春先は冷えるぞ」
「斜面の底よりはましでしょう。芽が出る頃は、霜を見ねばなりませんな」
茂七は膝についた土を払った。
「志野原の畑と同じようには扱えません」
「それでも見られるか」
「朝の仕事を済ませてからなら通えます。ただ、田植えや刈り入れの時まで毎日とは約束できませんわ」
「先に言えばいい。黙って来なくなるのが一番困る」
その一言に、茂七は少し肩をすくめた。
「孫兵衛さんは、昔のことをよう覚えておりますな」
「お前が忘れておるだけだ」
「山仕事を一度すっぽかしただけでしょう」
「一度で十分だ」
茂七は苦笑した。
「では、苗が来るまで何度か通います。雨の後も見て、それから返事をしますわ」
「続けられると分かれば、殿へ話を上げる」
茂七はわしの顔を覗き込むようにした。
「まだ試されておりますか」
「当たり前だ」
「身内は損ですな」
「断っても構わんぞ」
茂七は斜面の土へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「ここまで登って、土まで触ってから断るのも癪ですわ」
そう言うと枝を一本拾い、石の間へ目印を付けた。
「今日は、この辺りの石と根だけ除けましょう。水が通りそうな所は、触らん方がいいですな」
山道の下から、子供たちの声が聞こえてきた。朝のうちに呼んでおいた勘次たちだった。
「孫兵衛のおっちゃん!」
勘次が先頭を走り、その後ろから平助、虎松、おはつ、おたまが登ってくる。勘次は茂七の前で足を止めた。
「誰だよ、このおっちゃん」
わしが答えた。
「志野原の茂七だ。わしの従兄弟で、茶を植える場所を見てもらっている」
茂七は子供たちを見回した。
「茂七や。しばらく、こっちへ通うことになるかもしれんな。よろしく頼むわ」
「まだ決まってないのか」
「まだや。何度か見て、それから決める」
勘次は納得できない顔で食い下がった。
「孫兵衛のおっちゃんが決めるんじゃないの?」
「わしが続けられるかも決めなあかんからな」
勘次はなおも茂七を見上げた。
「嫌なら断るのか」
「嫌やから断るんやない。できんのに引き受けたら、あとで皆が困るやろ」
勘次は少し考え、斜面に転がる石を見た。
「今日は何をするんだ」
わしが答えた。
「石と根をどける」
勘次は目を輝かせた。
「大きな石は一人で持つな。斜面の下へも転がすな」
「分かった!」
勘次と虎松は、土から半分ほど出た石へ走っていった。おはつは、茂七が付けた目印を見つけて指さした。
「ここは掘らないの?」
「そこは小石だけ拾ってくれたらええ。雨が降った後に、水がどこを通ったか見るんや」
「先に溝を掘った方が早くない?」
茂七は目印の枝を軽く指で弾いた。
「違う所へ掘ったら、やり直しになるやろ」
「それは面倒だね」
「せやから、今は待つんや。待つ間に、ほかを片づけたらええ」
平助が目印の横へしゃがみ、小石を拾い始めた。おはつとおたまは、石と根を分けて斜面の端へ運んでいく。おたまが土から出た根を指した。
「これは抜いてもいいですか」
「それは残す木の根やな。無理に引かん方がええ」
「畑にするのに、木を残すんですか」
「全部伐ってしもうてから、やっぱり要ったでは戻せへんからな」
「では、小さい根だけにします」
「それでええ」
斜面の下では、勘次と虎松が大きな石の周りを掘っていた。
「動いた!」
勘次が声を上げた直後、石が下へ傾いた。
「離れろ」
わしの声に、二人が石から手を引いて後ろへ下がる。石は少し滑り、土の窪みで止まった。
「もう危なくない?」
少し離れた所からおはつが尋ねた。茂七は石の下側へ回り、両手をかけながら答えた。
「一人で動かせる重さやない。ここからは、わしと二人で運ぶ」
茂七は石の縁に手を掛け直しながら続けた。
「下へ押したらあかん。横へ向けるで」
勘次と虎松が近くへ寄り、石の上側に手をかけた。
「おっちゃん一人で止められるのか」
「止められへんから、二人も早う押してくれ」
勘次と虎松が上から押し、茂七が下から石の向きを変えた。三人で斜面の端まで運ぶと、勘次が袖で額を拭った。
「重かったな」
「土に埋まってた分だけ、見た目より重いんや」
「最初から分かってたのか」
「分かってたら、もう少し小さい石を選ばせてるわ」
虎松は返事もせず、次の石へ向かった。おはつが茂七を見た。
「茂七のおっちゃんは、茶を見てくれるの?」
「まだ決めてへん。何度かここへ通って、それからやな」
「嫌なの?」
「嫌やない。ただ、わしにも志野原の畑がある。こっちを引き受けて、あっちを駄目にしたら何をしてるか分からんやろ」
おはつは根を抱えたまま、しばらく茂七を見上げていた。
「誰かに任せればいいじゃん」
「任せる相手にも、その人の仕事があるんや。頼んだら終わりとはいかへん」
「小徳丸も、同じようなことを言いそう」
茂七はわしの方をちらと見た。
「若様が?」
「誰が見るんだって、すぐ聞くよ」
「それは逃げにくい若様やな」
「逃げなきゃいいんだよ」
おはつは根を抱え、斜面の端へ歩いていった。茂七はその背を見送り、わしへ言った。
「若様の周りには、なかなか手厳しい子がおりますな」
「口を動かす暇があるなら、石を拾え」
「今のは孫兵衛さんへの話ですわ」
「わしは聞いた。次は手を動かせ」
「へえへえ」
茂七は平助の隣へしゃがみ、土に埋まった小石を指で掻き出した。わしは斜面を見渡し、石の並びと目印の位置を目に留めてから、二人の傍へ腰を下ろした。
* * *
同じ頃――饗庭政虎
朝霧の屋敷では、春の出産が始まっていた。産屋の近くでは、女中たちが湯と布を運んでいる。廊下を急ぐ足音に交じり、産婆の声が聞こえてきた。私は庭先に立ち、産屋の戸が開くたびに奥を見ていた。
門から戻った家人が、庭の端で頭を下げる。
「彦九郎様。村口の番は増やしております。朝から来ていた者どもは、村の外へ戻しました」
「今日は中へ入れるな。殿がお戻りになってから、改めて話を聞く」
「はっ」
家人は下がりかけたが、産屋から春殿の声が漏れると足を止めた。私も戸口へ目を向ける。
「彦九郎様。奥へは」
「呼ばれてもおらぬ男が入れば、女たちの邪魔になる。門へ戻れ」
「はっ」
家人が門へ戻ると、薪を抱えた男が庭を横切った。
「彦九郎様。薪はこちらへ置いてよろしゅうございますか」
「廊下を塞がぬ所へ置け。女中に呼ばれるまでは、奥へ入るな」
「承知しました」
男は薪を下ろしたものの、産屋の方を見たまま動かなかった。
「まだ何かあるか」
「いえ……殿も若様もおられぬ時に始まりましたので」
「お二人がおられても、男にできることはない。湯が切れぬよう見ておけ」
「はっ」
男は薪場へ戻っていった。入れ替わりに、女中が空の桶を抱えて産屋から出てくる。私は一歩近づいた。
「奥方様のご様子は」
「産婆様が付いております。まだ少しかかるとのことにございます」
「足りぬ物はないか」
女中は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「今のところはございません」
「要る物があれば、すぐに申せ」
「はい」
女中は井戸の方へ急いだ。私は庭へ戻ったが、産屋から声が聞こえるたびに奥を振り返った。
やがて、別の家人が門から駆けてきた。
「彦九郎様。村の者が二人、様子を聞きに来ております」
「誰だ」
「油場の男と、その女房にございます」
「奥方様には産婆が付いておる。今はそれだけ伝えろ」
家人は少し言いよどんでから続けた。
「ご無事と申してもよろしゅうございますか」
「まだ生まれてはおらぬ。分からぬことまで申すな」
「はっ」
「騒ぐ必要はない。いつも通り働けとも伝えろ」
「心得ました」
家人が門へ戻る。庭にいた男たちは手を動かしながらも、何度も産屋を見ていた。薪を運ぶ足が遅くなり、桶を洗う男も手を止めかける。
「持ち場を離れるな」
産屋の戸を見たまま声を掛けると、男たちは小さく頭を下げ、再び手を動かした。
年かさの家人が、声を落として近づいてきた。
「彦九郎様。殿へ使いを出さずとも、よろしいのでございますか」
「今から出しても、道のどこにおられるか分からぬ。殿がお戻りになれば、すぐに申し上げる」
「承知しました」
「留守の間に村口を空ける方がまずい。門へ戻れ」
「はっ」
家人は門へ戻った。間もなく、産屋の中が慌ただしくなった。
「湯を」
「こちらにございます」
「布をもう一枚」
「すぐに」
産婆と女中の声が重なる。春殿の声が強く響き、庭にいた者たちの手が止まった。私は何も言わず、産屋の戸を見ていた。
しばらくして、細い泣き声が奥から聞こえた。一度途切れ、すぐにまた響く。薪を抱えていた男が、その場で息を吐いた。門の家人も、今度は屋敷の奥を振り返った。赤子の泣き声は、次第に強くなっていく。
やがて産屋の戸が開き、産婆が廊下へ姿を見せた。
「お生まれにございます」
私は戸口の手前まで進んだ。
「奥方様はいかがだ」
「ご無事にございます。お疲れではありますが、受け答えもしっかりしておられます」
「そうか。お子は」
「男のお子にございます」
庭の家人たちから、押し殺していた息が漏れた。私は産屋の前で頭を下げた。
「奥方様には、ゆっくりお休みになるようお伝えくだされ」
「承知いたしました」
産婆が奥へ戻ると、門にいた家人が近づいてきた。
「村の者へ知らせますか」
「母子ともにご無事とだけ伝えろ。祝いは、殿がお戻りになってからでいい」
「はっ」
「今日は屋敷へ人を集めるな。奥方様とお子を休ませろ」
家人が門へ戻っていく。私も庭を離れかけたが、産屋の奥から赤子の声が上がると、一度だけ足を止めた。泣き声が続いているのを確かめてから、門へ向かって歩き出した。




