第20話 茶の根と新しい命
小徳丸たちが甲賀で話を進めていたころ。
朝霧村では、別の支度が進んでいた。
山裾へ続く細道を、孫兵衛が歩いている。その後ろを、丸い腹の男が息を切らせながらついてきていた。
「いやあ……思っていたより坂がきついですな」
男は手拭いで額の汗を拭った。
年の頃は三十を少し越えたくらいか。丸い顔に、日に焼けた肌。人のよさそうな笑みを浮かべているが、歩くたびに肩で息をしている。
「まだ着かんのですか」
「もう少しだ」
「朝霧は山にある」
「そりゃ、歩けばよう分かります。昔から、孫兵衛さんはこういう道を平気で歩くから困るんですわ」
「茂七の腹が重いだけだ」
「ははは。それは言い返せませんな」
男の名は、茂七。
百済寺郷の外れ、志野原村の百姓で、孫兵衛とは母方の従兄弟にあたる。幼い頃から顔を知る相手だけに、孫兵衛の口も普段より少し荒い。
小徳丸が茶を育てたいと話した折、孫兵衛が思い浮かべたのが、この茂七だった。土と水を嫌がらず、毎日畑を見ることを面倒がらない。茶を任せる相手として、半端な者を連れてくるわけにはいかなかった。
「しかし、本当に茶ですか」
坂の途中で、茂七が足を止めた。
「米でも麦でも豆でもなく、茶」
「若様のお考えだ」
「……孫兵衛さん」
「何だ」
「若様のお言葉とはいえ、茶をそこまで大きく見ますか」
孫兵衛の足が止まった。
振り返った孫兵衛は、怒鳴りはしなかった。ただ、その目で茂七の軽口を止めた。
「お前は、私が子供の思いつきで山を掘る男に見えるか」
茂七は口を閉じた。
「若様は、ただ茶を植えたいと言ったわけではない。山で何が育つか、誰に任せれば続くか。そこまで見ておられる」
「……そこまでですか」
「そこまでだ」
孫兵衛は再び歩き出した。
「それが分からんのなら、帰れ」
「いやあ、口が過ぎましたな」
「口が軽いのは昔からだ。だが、橘家の前で同じ口を利くな」
「それは、よう覚えておきます」
「分かればいい」
やがて、山裾の開けた場所へ着いた。
小徳丸が茶の畑にしたいと言った場所である。
草だけは刈られていた。孫兵衛が朝のうちに村の者を入れ、場所だけは分かるようにしていたのだ。
だが、石はまだ多い。
畑と呼ぶには、まだ早かった。
「ここだ」
茂七の顔から、先ほどまでの軽い笑みが消えた。
しゃがみ込み、土を一つまみ取る。指先で擦り、匂いを確かめる。次に立ち上がり、斜面の傾きを見た。さらに少し下へ歩き、水の流れに目を向ける。
孫兵衛は黙って待った。
「悪くないですな」
しばらくして、茂七が言った。
「水は近い。けど、根元に溜まりっぱなしにはならん。茶にはそこが大事ですわ」
「近ければよい、というものではないか」
「ええ。欲しい時に水があって、余った水は逃げる。そのくらいがよろしい。浸かりっぱなしでは根が弱りますからな」
茂七は斜面の下を指した。
「ただ、雨が続けば、こちらへ水が寄ります。浅い溝を一本切って、逃がしてやるのがよろしいですな」
「溝か」
「ええ。灰も入れすぎん方がよろしい。茶は、少し酸い土を好みます」
「灰を入れればよいというものではないか」
「米や野菜とは違います。茶には茶の好みがありますからな」
山から冷えた風が下りてくる。
「それと、春先の霜です。芽が出たところをやられると、せっかくの茶が傷みます」
「ここは冷える」
「ええ。冷えが溜まる底より、この辺りがええ。風も抜けます。木も少し残すのがよろしいですな。夏の日差しを和らげますし、風の当たりも少し変わります」
「手間がかかるな」
「茶は手間がかかります」
そこで茂七は、またにこりと笑った。
「急かしても育ちません。目を離すと、すぐ拗ねます」
「茂七が言うと、怠ける言い訳に聞こえる」
「ひどいですな。私は毎日怠けるために、毎日畑を見に行く男です」
「それでよい」
孫兵衛は短く言った。
「毎日見る者が要る」
茂七の笑みが少しだけ引っ込んだ。
「……私に任せるつもりですか」
「まだ決めてはいない」
「おや、身内に厳しい」
「身内だからだ」
茂七は山裾の土地を見回した。
「自分の村から、朝霧へ毎日通うとなると、少し目立ちますな」
「分かっている」
「向こうの者も、何をしに行くのか聞いてきましょうな」
「茶の畑を見に行く。それだけだ」
「……それだけで済みますかねえ」
茂七は笑っていたが、声の軽さは少し消えていた。
「余計なことは見なくていい。余計なことも言わなくていい」
「なるほど。茶だけを見ろ、と」
「そうだ」
「では、見たくないものが目に入った時は?」
「その時は、私に言え。自分で抱えるな」
茂七は困ったように笑った。
「いやあ、孫兵衛さん。やっぱり人使いが荒い」
「嫌なら断れ」
「断るなら、ここまで登っておりません」
「なら、まずは見ろ」
「ええ。見ます」
茂七は足元の土を軽く払った。
「まずは溝ですな。石をどけたら、水の逃げ道を切りましょう」
やがて、呼んでいた子供たちが山道を上がってきた。
「孫兵衛のおっちゃん!」
勘次だった。後ろから、平助、虎松、おはつ、おたまも続いてくる。
勘次は、孫兵衛の隣に立つ茂七を見た。
「誰だよ、このおっちゃん」
「こいつは茂七。志野原の者で、私の従兄弟だ。茶の畑を見てもらう」
茂七は自分の腹をぽんと叩いた。
「茂七だ。見ての通り、腹は重い。まあ、毎日歩くくらいはできる。よろしく頼むわ」
「本当に重そうだな」
「だろう。長年かけて育てた腹だ」
「育てたのか?」
「勝手に育った」
おたまが小さく笑った。おはつは口元を押さえたが、肩が少し揺れている。
孫兵衛が咳払いをした。
「遊びに来たわけではない。今日は石をどける」
「分かった!」
勘次が真っ先に走った。虎松も黙って後に続き、大きめの石へ手を伸ばす。
平助は、茂七のそばに残った。
「茶って、本当にここで育つの」
「育つ。だが、茶は放っておくとすぐ拗ねる」
「拗ねる?」
「水が多すぎても、少なすぎても駄目。草も虫も霜もある。目を離すと、すぐ弱る」
平助は地面を見た。
「面倒だな」
「だから、面白い」
茂七は枝で地面に線を引いた。
「水はこっちへ集まる。だから、あちらへ逃がす」
「溝を掘るのか」
「そうだ。浅くていい。水の道を作る」
「分かった」
虎松は短く答え、石を脇へ寄せた。
おはつが、腕を組んだまま山裾を見た。
「小徳丸が帰ってくるまでに、少しは畑らしくするんだよね」
「そうだ。若様が戻った時、何も進んでおらぬでは、話にならん」
「なら、早くやろう」
おはつは小さな根を拾い始めた。おたまも、その隣にしゃがむ。
「……これは、どこへ置けばいいですか」
「根はそちらへ集めろ。石とは分ける」
「はい」
平助は、茂七が引いた線を見ながら言った。
「若も、こういうこと考えてるのかな」
茂七は答えなかった。
「若様が考えておられるのは、茶だけではないだろうな」
「茶だけじゃない?」
「茶を植えるだけなら、誰でも言える。毎日見る者、水を逃がす者、石をどける者がいて、ようやく畑になる」
孫兵衛は続けた。
「若様は、そういう働く手を増やそうとしておられる」
平助は、まだ何もない山裾を見た。石と土と、刈られた草しかない場所である。それでも、さっきまでとは少し違って見えた。
「平助」
「うん?」
「考えるのはよい。だが、手も動かせ」
「あ、うん」
平助が慌てて石を拾った。
勘次は、すでに汗をかきながら石を運んでいた。虎松は大きな石を選び、黙々と動かしている。おはつとおたまは、小さな石や根を拾い集めていた。
その様子を眺めながら、茂七はぽつりと言った。
「不思議な村ですな」
「何がだ」
「子供まで、まだ茶の一本もない畑を作っている」
「若様が、作りたいと言って出かけたからな」
「では、言われたから仕方なく?」
「違う。若様が戻る前に、こちらで進められることを進めておる。それだけだ」
茂七は笑みを消し、もう一度、足元の土を見下ろした。
「……面白い村です」
山から風が下りてくる。
茶の木は、まだ一本も植わっていない。
それでも、石をどけ、土を見て、水の道を考える者たちはいる。
朝霧の山裾では、まだ見えない畑の支度が始まっていた。
---
そのころ、朝霧の屋敷では、別の緊張が広がっていた。
春の腹は、もうはっきりと大きい。いつ産まれてもおかしくない頃合いではあったが、頼政と小徳丸が出立した朝には、まだ差し迫った様子はなかった。
だからこそ、留守を預かった政虎は、何度も頼政の言葉を思い返していた。
「彦九郎。留守を預ける」
出立の朝、頼政はそう命じた。
「はっ」
「春のことは、家人と女中に気を配らせよ」
「心得ました」
「村口の出入りも、いつも以上に見ておけ」
「はっ」
留守を預かる。
言葉にすれば短い。だが、その留守の中で春の出産が始まったとなれば、話は別である。
屋敷の中は、朝から落ち着かなかった。女中たちが湯を用意し、布を揃え、産婆の指図を受けて動いている。男たちは庭や門の方へ下げられていた。
産屋の近くで、役に立つことはない。それでも、屋敷の外回りまで気を抜くわけにはいかなかった。
政虎は庭先に立ち、門の方へ目を向けた。
「村口は」
控えていた家人が答える。
「番を増やしております。見知らぬ者は通しておりませぬ」
「よい。騒ぎを聞いて寄る者があれば、屋敷には近づけるな」
「はっ」
「奥方様のことを、村中へ大きく触れ回る必要もない」
「心得ました」
頼政も小徳丸も不在。その時に、屋敷の内で大事が起きている。だからこそ、余計な人の出入りは避けねばならない。
廊下の奥から、女中の声が聞こえる。
「湯を」
「布をこちらへ」
「産婆様、こちらでよろしゅうございますか」
声は抑えられている。だが、足音は早い。
政虎は、産屋の方へ向かいかけた足を止めた。中に入れば邪魔になる。分かっていても、足がそちらへ向きそうになる。
「彦九郎様」
年かさの家人が声をかけた。
「奥へ参られますか」
「行かぬ。女たちの仕事だ。こちらは、こちらの仕事をする」
産屋の奥から、春の息を呑むような声が漏れた。
自分が浮き足立てば、下の者まで揺れる。
「彦九郎様」
別の家人が駆け寄ってきた。
「村口の方に、百姓が二人。屋敷の様子を聞きに来ております」
「中へは入れるな。奥方様はご無事。屋敷では支度が進んでいる。それだけ伝えよ」
「はっ」
「不安を広げるな。だが、隠しすぎても妙な噂になる。いつも通り働けと伝えよ。騒ぐことが、一番よくない」
「心得ました」
家人が走り去る。
女たちは産屋へ詰め、男たちは門と庭に下がった。政虎はその間に立ち、騒ぐ者が出ぬよう押さえた。
やがて、産屋の中がさらに慌ただしくなった。
「慌てるな。湯をこちらへ」
産婆の低い声が響いた。
「布は」
「足りております」
「では、次をすぐ取れるように」
女中が一人、湯を抱えて廊下を急ぐ。
政虎は一歩踏み出した。
すぐに止まる。
春の声が、一度だけ強く響いた。
その場にいた者たちが息を止める。門の外で話していた家人も、庭先の男たちも、動きを止めた。
次の瞬間。
細い泣き声が、産屋の奥から上がった。
政虎は目を閉じた。
泣き声は弱い。だが、確かに続いている。
女中たちの声が重なり、すぐに湯を運ぶ足音が動き出した。止まっていた足音が、一つ、二つと戻っていく。
政虎は、ようやく深く息を吐いた。
やがて、産屋の戸が開いた。出てきた産婆が、深く頭を下げる。
「お生まれにございます」
政虎は、すぐに問い返した。
「奥方様は」
「ご無事にございます。お疲れではありますが、しっかりしておられます」
「そうか」
そこで初めて、政虎の肩から力が抜けた。
「若様に続いて、男のお子でございます」
その言葉に、女中の一人が袖で目元を押さえた。家人が深く息を吐く。庭先にいた男たちも、顔を見合わせて小さく頭を下げた。
まだ、頼政も小徳丸も戻らない。
だが、朝霧の屋敷には、新しい声が増えた。
「殿がお戻りになれば、すぐにお伝えする」
「それまでは、余計な騒ぎを起こすな。奥方様とお子を休ませる」
「はっ」
家人たちが頭を下げる。
産屋の奥から、また赤子の泣き声が聞こえた。
預かった留守は、まだ終わっていない。
小徳丸たちが外で人を招こうとしている間にも、朝霧の内側では、新しい命が生まれていた。




