第19話 甲賀のやり方
昼を少し過ぎたころ、俺たちは甲賀の山間にある屋敷の門前に立っていた。
油日大明神に近いあたりだと聞いている。道は細く、馬を進めるにも気を遣った。山の斜面には畑があり、畦の向こうでは男が鍬を手にしている。
木陰には柴を背負った女がいた。少し離れた道の曲がり角には、子供の姿もある。
畑の男が、鍬を止めた。女も、子供も、こちらを見ている。
弦十郎が、わずかに俺の前へ出た。
「若様。離れませぬよう」
「もう見られているな」
「はい」
歓迎ではない。
観音寺を下りてからは、定頼から賜った太刀を弦十郎が包み直して抱えていた。
門前に立つ男は、百姓にも家人にも見えた。腰には山刀。手には棒。こちらを見ても、慌てて頭を下げる様子はない。
「どちらより」
短い問いだった。
頼政が一歩前へ出る。
「愛智郡朝霧村を預かる、橘弥三郎。弾正少弼殿より一筆を賜っている。この屋敷の主へ取り次ぎ願いたい」
男の目が、頼政から俺へ移る。それから、弦十郎の抱える太刀へ落ちた。
「しばし、お待ちを」
男はそう言うと、門の内側へ消えた。
通されない。追い返されもしない。
頼政は門を見たまま、弦十郎に言った。
「どう見る」
「客として招く構えではございませぬ」
「敵として囲むほどでもないか」
「はい。道を塞いではおりませぬ。ただ、こちらの人数と荷は見られております」
頼政は小さく頷いた。
「六角の文で、門前払いは避けた。だが、それだけだな」
「文で従う相手ではございませぬ」
弦十郎の声は低かった。
「銭で呼んで、危ない役だけ負わせる。そう見られれば、話にもなりますまい」
頼政が、俺を見る。
「では、何を出す」
「秘策があります」
「それで通すつもりか」
「はい」
「ならば、それで話せ。余計なことは言うな」
「心得ております」
畑の男は、もうこちらを見ていなかった。だが、鍬は動いていない。
しばらくして、先ほどの男が戻ってきた。
「お入りくだされ」
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門が開いた。
屋敷は、思ったより大きくはなかった。ただ、土塀も門も手入れされている。庭には薪が積まれ、軒先には山道具が置かれていた。
山の土豪の屋敷と言えば、それまでだ。
だが、朝霧とは違う。人の声がしない。それなのに、人がいないとは思えない。
通された座敷は広くない。床は磨かれているが、飾り立てられてはいなかった。
奥には年配の男が座っている。髪には白いものが混じり、顔には皺も多い。だが、こちらを見る目に、年寄りくささはなかった。
「橘殿か」
「橘弥三郎にございます」
「伴彦右衛門じゃ。伴の端に連なる者、とでも思うてくだされ」
本家ではないらしい。
それでも、この屋敷で俺たちを迎えている。少なくとも、話を聞く立場にはいる男だ。
頼政が書状を差し出すと、彦右衛門は両手で受け取った。封を確かめ、紙を開く。
誰も口を開かなかった。
弦十郎は、包んだ太刀を俺の少し後ろへ置いている。
彦右衛門の目が、書状からその包みへ移った。
「そちらは」
「弾正少弼殿より、倅が賜った太刀にございます」
「文だけではない、ということか」
彦右衛門はそう言って、書状を畳んだ。
「弾正少弼殿の花押、たしかに」
頼政は黙って頭を下げる。
彦右衛門は、そこで俺を見た。
「だが、勘違いなさるな」
頼政の背が、わずかに伸びた。
「弾正少弼殿の書状があるからとて、こちらの者がそのまま橘殿の手足になるわけではござらぬ。太刀を賜っておっても同じことじゃ」
「承知しております」
頼政が答えた。
彦右衛門の目が、俺へ向く。
「そちらの若君も、同じか」
俺は頭を下げた。
「小徳丸にございます。命ではなく、口添えと心得ております」
「ならば聞こう」
彦右衛門の声が低くなる。
「何を望む」
俺は顔を上げた。
「朝霧へ根を下ろしてくださる方を迎えたく存じます」
彦右衛門の眉が、わずかに動いた。
「甲賀の者を、朝霧へ移したいと」
「はい。一人二人を銭で抱える話ではございません。甲賀の技を持つ家として、朝霧に根を下ろしていただきたいのです」
「……移すのか」
頼政が俺を見た。
「秘策とは、そういうことか」
「はい」
彦右衛門は、頼政へ目を移した。
「若君の考えか。橘殿の考えか」
頼政は、少しだけ間を置いた。
「言い出したのは、倅にございます」
そこで一度、俺を見る。
「されど、朝霧に置く以上、最後に背負うのは私です」
「橘殿が背負うと」
「話を聞いた上で、背負える話か見極めます」
「では、まだ決まってはおらぬと」
「はい」
頼政は静かに答えた。
「まずは、倅の話をお聞きくだされ」
「よかろう」
彦右衛門の声が落ちた。
「では、若君。甲賀の者を移すとして、朝霧では何を用意なさる」
「住む場所を用意します。耕す畑も出します。最初の扶持も出します」
「飯と寝床か」
「それだけでは根づきません」
「ほう」
「山仕事、炭焼き、荷運び、番役。朝霧で暮らし、働ける役目を用意します」
「甲賀の技はどうする」
「必要です」
俺は答えた。
「隠しても意味がありません。探る者を防ぎ、素性を改め、噂を聞き、文を運ぶ。そういう働きが朝霧には要ります」
「忍び働きを求めるか」
「求めます」
頼政は止めなかった。
「だが、それだけを求めるのではありません。朝霧で暮らす以上、まずは朝霧の働き手です」
「聞こえはよい」
「聞こえだけでは、人は来ませぬ」
彦右衛門が、小さく鼻で息を抜いた。
「何人欲しい」
「すぐにとは申しません。いずれ、家内や若衆も含めて五十ほど迎えたいと考えております」
「五十か」
「はい。ただし、初めからその数を望むのではありません。まずは朝霧を見ていただき、移る者があるかは、そちらで決めていただければよいと存じます」
「忍び五十ではないのだな」
「違います」
俺は首を振った。
「忍びとして働ける者は、十から十五もいれば十分です。五十というのは、暮らす人数です」
「家ごとか」
「はい。根を下ろしてもらうなら、その方がよいと思っております」
彦右衛門は、すぐには答えなかった。
「このあたりにも、家を継げぬ若い者はおります」
静かな声だった。
「腕はあっても、田畑は増えませぬ。山も、勝手には使えぬ。若い者が一人外へ出れば、家の者、縁の者も動くことがある。外へ道を求める者もおる」
「はい」
「だが、銭で呼ばれ、危ない役だけ負わされる先へは出せませぬ」
「承知しております」
「家として置く、か」
「はい」
「ならば、この場で退ける話でもござらぬ」
彦右衛門は、頼政を見た。
「されど、五十をすぐに出す話ではござらぬ」
「承知しております」
頼政が答えた。
「朝霧を見ぬうちは、人は出せませぬ」
「橘殿。朝霧は、それだけ食わせられるのか」
「今すぐ豊かとは申せませぬ」
頼政は静かに答えた。
「されど、油搾り、開墾、水路、山仕事を進めております。人を入れるなら、入れた者を飢えさせぬ備えもいたします」
彦右衛門は、なお頼政を見ていた。
「では、橘殿。この話、引き受けなさるか」
頼政は、一度だけ俺を見た。
「引き受けます。朝霧を見て、なお入る者があれば、橘の内で預かります。扶持も役目も、こちらで見ます」
彦右衛門は小さく頷いた。
「若君だけの思いつきではない、ということか」
「思いつきだけなら、ここへは連れて参りませぬ」
彦右衛門は、俺へ向き直った。
「朝霧の村人は、今どれほどじゃ」
「およそ二百です」
「いずれ、甲賀に連なる者を五十ほど朝霧へ迎える」
「はい」
「それで足りるか」
「足りません」
「では、どこまで増やす」
「まずは五百ほどにしたいと考えております」
「二百の村を、五百にするか」
「はい。畑を増やし、山仕事を増やし、油場も回すなら、それくらいは要ります」
「まずは、か」
彦右衛門の声が少し低くなった。
「その先も考えておるな」
「はい」
「申してみよ」
俺は、彦右衛門を見返した。
「まだ来るとも来ぬとも分からぬ方々に、そこまで申す必要がございますか」
彦右衛門は、すぐには返さなかった。頼政が俺を見る。弦十郎も、わずかに身じろぎした。
「こちらも見られておりますかな」
「迎える以上、見ずには済みませぬ」
「言わぬこともある、か」
彦右衛門は、ようやく頼政へ顔を向けた。
「橘殿」
「はい」
「これは、ただ口の立つ若君ではござらぬな」
頼政は、すぐには答えなかった。
「承知しております」
その声は静かだった。
「ゆえに、私が見ております」
彦右衛門は、しばらく頼政を見ていた。それから、俺へ目を戻す。
「では、若君」
「はい」
「甲賀の者を根づかせて、まず何を任せる」
「草の役です」
「草か」
「はい。村に混じり、人の出入り、荷の流れ、噂の出どころを探る者です」
「朝霧の内だけか」
「まずは朝霧です」
「まずは、か」
「外へ目を向けるとしても、朝霧が持たねば始まりません」
彦右衛門は、ゆっくりと息を吐いた。
「また大きな話になりましたな」
「一人や二人に背負わせる話ではありません」
俺は答えた。
「番役、油場の者、荷を運ぶ者、寺社へ出入りする者。その中に紛れれば、朝霧の外から入るものも見えます」
「それを甲賀の者に担わせたいと」
「はい」
「銭で雇った者ではなく、朝霧に根を張った者に」
「はい」
彦右衛門は黙った。
ここで言葉を足すと、かえって安くなる。俺も黙って待った。
「確かめる者が要るな」
彦右衛門は障子の方へ声をかけた。
「新九郎」
障子の外で、人影が動いた。
いたのか。
いや、最初からいたのだろう。
障子が静かに開いた。
入ってきたのは、二十歳前後の若者だった。背は高すぎず、体つきも目立たない。道で会えば、山仕事の若衆か、荷を運ぶ者に見える。
だが、歩き方が静かだった。座敷へ入る動きにも、無駄がない。
「伴新九郎にございます」
新九郎は頼政に頭を下げ、それから俺を見た。
「橘の若君、小徳丸様でございますか」
「はい」
「飯と住む所と役目は出す。そこまでは聞きました」
「はい」
「楽な村ではなさそうですな」
「楽ではありません」
「では、しくじった者は」
「何をしくじったかによります。役目を替えることもあります」
「裏切った者は」
頼政も、弦十郎も、何も言わなかった。
俺は新九郎を見返した。
「橘の内で裁きます」
新九郎の目が、少しだけ動いた。
「甘くはない」
「預かる以上、甘くはできません」
「若君が欲しいのは、人ですか。それとも、目と耳ですか」
「どちらもです」
「欲張りですな」
「はい」
「隠さぬのですな」
「隠して通る相手ではないと思いました」
新九郎は、そこで初めて笑った。彦右衛門の口元も、ほんのわずかに緩む。
「彦右衛門様」
新九郎が、年長者を見る。
「朝霧を一度、見てみとうございます」
彦右衛門は、しばらく新九郎を見ていた。
「見て参れ。ただし、決めるのは戻ってからじゃ」
「承知いたしました」
これで、話が決まったわけではない。
ただ、甲賀が朝霧を見る。そこまでは進んだ。
弾正少弼殿の書状で、門は開いた。
だが、甲賀が応じるかどうかは別の話だった。
こちらが甲賀を選ぶのではない。
甲賀もまた、こちらを選ぶ。
そのことを、俺はこの座敷で思い知った。




