第18話 近江の巨星
翌朝、夜が明けきらぬうち、宿の板戸が外された。
冷えた空気が土間へ流れ込み、壁際の荷が外へ運ばれていく。草鞋を締め直す客。馬の腹帯を確かめる馬子。水を汲みに走る宿の者。朝になると、人も荷も一斉に動いた。
「川へ出るなら、荷をお忘れなされるな」
戸口へ向かっていた男が、慌てて戻った。
朝霧なら、知らぬ顔はすぐに目立つ。だが、ここでは違う。商人も、馬子も、旅人も、荷運びの男も、同じ土間から出ていく。誰がどこから来て、どこへ向かうのか。宿の者でも、すべてを見分けてはいまい。
「小徳丸、行くぞ」
頼政に呼ばれ、俺も宿を出た。
愛知川の岸では、川越人足たちが水際を見ていた。裾を膝まで端折った男が流れに足を入れ、底を探る。少し下流へ顎をしゃくる。
「馬は後だ。先に小荷を渡す」
荷を押さえていた商人が声を上げた。
「昨日から待っておる。馬ごと先に渡せぬのか」
「水が増えている。馬が暴れれば、荷ごと持っていかれるぞ」
「今なら渡れるのだろう」
「渡れるうちに、言う通りにしろ」
商人は口を曲げたが、それ以上は押さなかった。
川を越えられなければ、荷は動かない。荷が動かなければ、銭も動かない。だが、無理に渡して荷を失えば、銭どころではない。誰を先に渡し、何を後に回すか。川一つにも順があった。
「道と川の交わる所だ」
「はい」
「人も荷も、ここで一度止まる。こうした要を押さえるのが、弾正少弼殿の強さよ」
頼政が先に川へ入る。弦十郎が俺の横へ寄った。
「若様、水ばかり見てはなりませぬ」
「どこを見る」
「前を行く者の足でございます。石を避ける時、流れに逆らう時、身体が先に動きます」
「あれを追えばよいか」
「左様にございます。川では、知った者の動きが一番頼りになります」
浅瀬に足を入れた。
水は膝より下だが、流れは冷たい。砂がずれ、石に乗せた足が次には泥へ沈む。頼政の背と、人足の足元を追い、一歩ずつ進んだ。
水際では、馬が首を振っていた。人足が手綱を押さえ、馬子が荷を直す。怒鳴り声は飛ぶ。それでも流れは止まらない。慣れた者が見て、止めて、通している。
朝霧の村口も、いずれこうなる。
油を買いたい者。働きたい者。道を聞くふりをして中を覗く者。来る者が増えれば、追い返すだけでは足りなくなる。止める者、通す者、顔を覚える者。川越の人足が流れを見ているように、朝霧にも人を見る目が要る。
岸へ上がると、足袋の中まで冷えていた。弦十郎が替えを出す。俺は泥と水を拭い、足元を整えた。背後では、次の荷を寄せる声がもう飛んでいる。
「身なりを整えよ。御前に出る」
「すぐに整えます」
頼政は裾を直し、川を振り返らずに歩き出した。
観音寺へ向かう道に入ると、人と荷の流れはさらに濃くなった。車の轍が乾いた土を削り、道端では荷を下ろした男が布を広げている。
「見ていかぬか。観音寺へ上がる前なら、まだ安くしておくぞ」
旅人が足を止めかけると、連れが袖を引いた。
「先に用を済ませろ。帰りでよい」
その横を、塩の俵を積んだ馬が通り過ぎた。馬子の後ろには、小さな包みを背負った男たちが続いている。誰かの家へ向かう荷もあれば、市へ向かう荷もある。歩くだけに見えて、話を運ぶ者も混じっているのだろう。
「このあたりは、商いの者が多いのですか」
「石寺の市に寄る荷だ」
「ここで売る物もあれば、観音寺へ上がる物もある」
「観音寺へ」
「六角の本城だ。人が集まれば、物も集まる。物が集まれば、銭も話も集まる」
話も集まる。
頼政は何気なく言ったのだろう。だが、その言葉は耳に残った。
朝霧で油を搾り、水車を回し、木地師を使い、人を受ければ、それだけで話になる。商人は値だけ見て帰るものではない。どれだけ出せるか。誰が決めているか。どこを押せば値が下がるか。嫌な話だが、前世の商売でも見るところは同じだった。
その先に、山が見えた。
繖山。
木々の間に道が走り、斜面のところどころに平場がある。ただ山の上に城があるのではない。道があり、屋敷があり、番があり、荷を上げる人がいる。
「あれが、観音寺城ですか」
思わず声が漏れた。
「左様にございます」
弦十郎が答える。
「山中に、いくつも曲輪がございます。平井丸、池田丸、落合丸。その奥に本丸がございます」
「屋敷もあるのか」
「家臣衆の屋敷も、その中にございます」
見上げた山には、六角の仕組みが形になっていた。道を押さえ、人と荷を集め、家臣を山中へ抱え込む。戦の時だけ呼ぶのではない。平時から、六角の目が届く場所に置いている。
「……山ごと城か」
「そのように見てよろしいかと」
一つ破っても、まだ次がある。道を曲がれば、また石垣があり、屋敷があり、番がいる。攻める側からすれば、たまったものではない。
朝霧で俺が見ているのは、村口、油場、水車場、山裾、畑、木地師の仕事。その程度でも、人が少し増えれば見る目が足りなくなる。ここでは、その何倍もの人と荷が、六角の名の下で動いている。
「小徳丸」
「はい」
「口を閉じて見ておけ。ここは朝霧ではない」
「心得ました、父上」
城に近づくにつれ、武士や家人の姿が増えた。番の者が道端に立ち、文を抱えた家人が坂を上がっていく。荷を運ぶ男たちは、案内役に従って脇道へ折れた。
取次ぎの者が現れると、頼政は一歩進んで名乗った。
「橘弥三郎。弾正少弼殿の御意により、嫡男小徳丸を伴い参上した」
取次ぎの男が頭を下げる。
「橘殿、ならびにご嫡男様。しばしお待ちを」
ほどなく、奥から別の者が現れた。
「橘弥三郎殿、ならびにご嫡男、小徳丸殿。御前へ」
頼政が姿勢を正す。俺も背を伸ばした。
油か。水車か。木地師か。百済寺周りの村か。外から来る者のことか。定頼がどこまで掴んでいるのかは分からない。
ただ、朝霧まで目が届いている。
それだけは分かった。
俺は頼政の後に続き、観音寺の奥へ進んだ。
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通された座敷には、すでに人が並んでいた。
上座に座る人物は、思っていたよりも小柄に見えた。だが、そこにいるだけで座敷の中心が決まる。老いて衰えた男ではない。長く近江を動かしてきた武将の顔だった。
六角定頼。
近江を押さえ、将軍家をも支えてきた男。
その少し脇には、若い男が座っていた。顔立ちは整っているが、こちらを見る目は柔らかくない。
六角義賢。
定頼の嫡男だ。
左右には、名のある重臣たちが膝先を揃えていた。
頼政に続き、膝をついて額を下げる。座敷の静けさの中で、自分の呼吸だけが妙に大きく聞こえた。
「面を上げよ」
低い声だった。
顔を上げた先に、定頼がいた。
「そなたが、小徳丸か」
「はい。小徳丸にございます」
「油を搾らせておるな。村で使うだけではあるまい」
「使います。余らせ、売ります」
「何を買う」
「米にございます」
定頼の扇が膝の上で止まった。
「銭で米を買うか」
「朝霧は田が少のうございます。田を拓くには年が要ります。油なら、今年のうちに米や塩を買う銭になります」
脇から義賢の声が入った。
「米が足りぬなら、六角へ願えばよい。なぜ童が勝手に商いを立てる」
頼政が受けた。
「恐れながら、油はまず朝霧の用として始めたものにございます。余りを売り、米を買うことも、私の承知の上にございます」
「弥三郎。そなたも認めておるのか」
「はい。境目の備えを厚くするには、朝霧にも銭が要ります」
「童の思いつきではない、と」
「思いつきで終わらせぬため、私が見ております」
頼政が、この場で背負った。
「小徳丸。そなたはどう見る」
「一度願えば、一度は凌げます」
頭を下げたまま答えた。
「来年も、その次も、米が足りぬなら同じことにございます」
「ならば、銭を作って己で買うか。橘が六角を頼らず立つということではないのか」
「違います。六角に仕えるためにも、橘が潰れぬことが先にございます」
頼政の肩がわずかに止まった。
ここを曖昧にすれば、油も、米も、朝霧の人手も、童の小細工になる。だが、強く言いすぎれば、橘が六角から離れようとしているように聞こえる。
「言い方を変えただけだな」
「はい。ですが、言い方だけではございませぬ」
「申せ」
額を下げる。
「朝霧は、山を隔てて伊勢に接しております。伊勢との境目を支えるのは、小倉様、ならびに我ら橘にございます」
「橘が小倉と並ぶか」
「並びませぬ。今の橘は小倉様には及びませぬ。人も、兵も、銭も足りませぬ」
「ならば」
「足りるようにするしかございませぬ」
義賢はすぐには返さなかった。
「できなんだ時は」
「生き残る道を探す者が出ましょう」
左右の重臣たちの手が、膝の上でわずかに沈んだ。
言ってしまった。
「それは、六角が家臣を繋ぎ止められぬと言うのか」
「落ち度とは申しませぬ」
「小徳丸」
頼政の声だった。
強くはない。だが、それ以上踏み込むなという声だった。
俺は口を閉じた。
「続けよ」
定頼だった。
「弾正少弼殿」
頼政の額がさらに下がる。
「よい。童に申させよ」
逃げ道はなくなった。
いや、自分でなくした。
「されど、我ら国衆というものは、家を残す道を探します。御家の内に道がなければ、外へ目を向ける者も出ましょう」
「脅しか」
「違います」
「ならば、何だ」
「境目にいる小さき家が、口には出さぬだけのことにございます」
頼政が、短く息を吐いた。
もう止めなかった。
「家を残すために力をつける。そのたびに、ことごとく召し上げられては、忠義は保てませぬ。御家の内で生き残れる道を示していただきとうございます」
座敷を押さえていたのは、定頼だった。
「危ういことを申す」
「申し訳ございませぬ」
頼政の頭がさらに下がる。
「叱るには及ばぬ」
定頼の扇が、膝の上で動いた。
「聞き捨てならぬ。だが、境目にいる国衆の腹としては、耳を塞ぐ話でもない」
「ありがたき御言葉にございます」
「弥三郎」
「はっ」
「この童の口は危うい。だが、目は悪くない」
「心得ております」
「ならば、そなたが押さえよ」
「はっ。不始末あらば、私が責めを負います」
義賢が、そこで刺した。
「父上。橘を太らせるのですか」
「痩せたままでは、境目で使えぬ」
「太れば、噛みつきます」
「ならば、六角の内で太らせる」
義賢は返さなかった。
「勝手に太れば咎める。役に立つなら使う。それだけよ」
許しではなかった。
定頼は続けた。
「油は軽く扱える品ではない。寺社の灯明にも使う。町へ出れば銭になる。銭になる物には、先に手を置く者がいる」
「承知しております」
「知らぬふりで広げれば、朝霧の方が潰される」
「心得ます」
「だが、禁じれば弱いままだ」
扇がわずかに伏せられた。
「売ることは、今は咎めぬ。朝霧で使う分は作れ。余った分は売れ」
「ありがたきことにございます」
頼政が先に受け、俺も続いた。
「ただし、広げ方を誤るな。近江の外へ出す時、寺社や座の商いに触れる時は、弥三郎を通して申せ」
「はっ。必ず、私を通します」
「小徳丸」
「はい」
「そなたもだ。六角を飛ばして商いを広げれば、朝霧だけでは済まぬ」
「御家を飛ばすことはいたしませぬ」
「六角のためと言ったのは、そなたぞ」
「忘れませぬ」
「ならば、役に立て」
「必ず」
義賢は口を挟まなかった。だが、こちらを見る目は緩まない。
「油を売れば、商人が来る。値だけ見て帰ると思うか」
「思いませぬ。搾る場、荷の量、人の顔を見ます」
「村口で止めても、道と荷の出入りは見られる」
「心得ております。商人を名乗る者が一人、朝霧の内を探っておりました」
「油を買いに来たのではないのか」
「そう申しておりました。ですが、見ていたのは水車場と人の出入りにございます」
「どうした」
頼政が、そこで引き取った。
「弦十郎に任せ、内々に収めております」
弦十郎は静かに頭を下げた。
「小徳丸。村口ばかり固めても足りぬ。道と山にも目を置け。荷を運ぶ者の顔も覚えさせよ」
「朝霧の者だけでは、手が足りませぬ」
「ならば、甲賀に会え」
「甲賀にございますか」
「近江の山に根を張る者どもだ。家ごとの付き合いも、郡中の面目もある。銭だけで動く者ではない」
「心得ます」
「雇えと言うておるのではない。まず会え。こちらから、先に話を入れておく」
「ありがたきことにございます」
「筆と硯を」
定頼の一言で、文の支度が整えられた。短い文が認められ、最後に花押が据えられる。
「命じる文ではない。門前で追い返されぬための文だ」
頼政が受ける。
「ありがたく頂戴いたします」
「太刀を一腰」
控えていた者が、太刀を捧げ持って進み出た。黒漆の鞘に、磨かれた金具が光っている。飾り立てた太刀ではない。だが、鞘も金具もよく整っている。俺のような小領主の子が、簡単に手にできるものではなかった。
「小徳丸に取らせる」
頼政が深く頭を下げた。
「過分なる御配慮、恐れ入ります」
それから、俺へ声を落とす。
「小徳丸、前へ」
「はい」
「両手で受けよ。弾正少弼殿より賜る太刀だ」
畳に手をつき、太刀の前へにじり出る。両手で受けると、思っていたよりずっと重かった。
「ありがたく頂戴いたします」
額を下げたまま言う。
「粗相なく持て」
「はっ」
定頼の声が落ちた。
「その文を持てば、甲賀の者も門前では追い返すまい。だが、文だけで腹を開く者ではない」
太刀の重みが、腕にかかる。
「この太刀は、童の戯れではないと示すためのものだ。同時に、そなたが六角の目に入った証でもある」
俺は、太刀を抱えたまま頭を下げた。
「ありがたきことにございます」
「朝霧が力をつけること、今は咎めぬ」
「心得ました」
「今は、だ」
「肝に銘じます」
「よい。下がれ」
太刀を抱え、もう一度深く頭を下げた。
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その時の俺は、まだ知らなかった。
六角定頼と、こうして言葉を交わすのは、これが最初で最後になる。
それから四年余り後。
天文二十一年(一五五二年)正月二日。
近江の巨星は、この世を去る。
そして、近江を押さえていた重しが、静かに外れる。
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観音寺を出るころ、日はすでに高くなっていた。
坂を下りるあいだ、頼政は口を開かなかった。俺も太刀を抱えたまま歩く。このまま甲賀まで持つわけではない。それでも、観音寺を下りる間だけは、俺が持った。
重い。
落とすわけにはいかない。
「小徳丸」
「はい」
「重いか」
「……重うございます」
「ならば、落とすな」
「落としませぬ」
「太刀のことだけではない」
「文は入口を開けるだけだ。御前で通った言葉が、甲賀でそのまま通るとは限らぬ」
「相手を見ます」
「朝霧へ戻るのは、その後だ」
「承知しました」
門は開いた。
そこから先は、こちらが見られる番だ。
俺たちは、甲賀へ向かった。




