第17話 観音寺への道
天文十六年の秋も深まる頃。
朝霧の山には、冷えた風が混じり始めていた。
油場に人が出るより早く、村口から戻った家人が、土間の端で膝をついた。
「見慣れぬ者が来ております」
「商人か」
「一人は商人でございます。油を買いたいと」
「ほかは」
「荷運びをしたいという男が一人。畑でも山でも働くから置いてくれという者が二人」
「誰の口添えだ」
「ございませぬ」
「なら、村へは入れるな。名と来た先だけ聞いておけ」
「はっ」
土間の端に控えていた弦十郎が口を挟んだ。
「昨日も似たような者が来ております。名は違いますが、同じ在所を申しておりました」
「同じ在所か」
「はい」
「村口に長く置くな。顔を覚えろ。油のことをどこまで聞くかも見ておけ」
「承知いたしました」
水車場を探られた後である。村へ入れなければ済む、とは言えない。
村口に立たせておくだけでも、荷の出入りは分かる。油を買いに来た商人なら、値だけ聞いて帰るはずがない。
俺でも、商売ならそうする。
家人が下がっても、弦十郎は土間の端に残っていた。
「口添えのない者を入れるわけには参りませぬ」
「だが、追い返せば終わりでもない」
「はい。商人ほど、見ます」
油ばかりが太れば、そこばかり探られる。
山裾には、畑にしにくい斜面がまだ残っていた。木を伐って畑にするには狭い。捨てておくには惜しい。
木地師の里で見た茶の木が、頭に残っていた。
「茶だ」
「茶、でございますか」
「ああ。朝霧でも試したい」
弦十郎はすぐには頷かなかった。
「山裾に植えるおつもりで」
「ああ」
「若様も見に行かれるので」
「確かめてからだ」
「なら、私も参ります」
「止めても来るだろう」
「止めるために参るのではございませぬ」
弦十郎は茶の値ではなく、俺が山裾へ出ることを案じている。
「広くはやらない。根づくか少し確かめるだけだ」
「少しでも、苗を運ぶ者、世話に通う者が出ます」
「まず木地師に聞く。無理なら、そこで終わりだ」
「承知いたしました」
木地師に茶の話を出すと、男は山裾の斜面を確かめた。
斜面に膝をつき、土を指で崩す。しばらく土を揉んでから、風の当たる方を見た。
「茶、でございますか」
「木地師の里で見た。あれを朝霧でも試したい」
「すぐ広く植えるのは難しゅうございましょう。苗も要ります。世話も要ります」
「広くはやらない。まずは少しだ」
「少しならば、いくらかは融通できましょう。里とは一つ谷を越えただけ。土も風も、そう大きくは変わりますまい」
木地師は、山裾の一角を指した。
そこは、畑にするには狭い。木を伐って広げるには半端だ。だが、斜面は緩く、日も入る。
「ここなら試せましょう。ただ、春先の霜は怖うございます」
「霜か」
「はい。夜の冷えもございます。水が溜まる所も避けねばなりませぬ」
「手間だな」
「手間でございます」
木地師は少しも遠慮しなかった。
「手間なら、手間として扱う」
「それならば、やりようはございます。ただ、本仕事を止めてまで広げるのは難しゅうございます」
「分かっている」
「それと、枯れた時に、こちらの落ち度とされては困ります」
「責めるために試すのではない。合うかどうかを試す」
「それならば」
その足で屋敷へ戻ると、頼政が帳面を見ていた。
村口の報せも、油場の人の割り振りも、すでに耳に入っている。
「茶か」
「はい。木地師から、少し苗を融通してもらえそうです」
「誰が見る」
「孫兵衛に聞こうと思います」
「孫兵衛に抱えさせるのか」
返事に詰まった。
「無理なら、別の者を立てます」
「その者はどこから出す」
山、畑、油場、水車場。どこも手は塞がっている。
「探します」
「探してから植えるのか。植えてから探すのか」
「……まずは少しだけ試します」
「少しなら人は要らぬ、とはならぬぞ」
頼政の声は荒くない。だが、逃げる場所もなかった。
「茶だけなら小さい。だが、畑もある。油もある。水車場もある。山の見回りもある」
頼政は帳面を閉じた。
「銭口を増やすのは悪くない。だが、仕事を増やすなら、見る者も要る。朝から来ていた者どもも同じだ。入れぬだけでは人は増えぬ。入れれば揉める」
「まだ、受ける手立てが足りておりません」
「なら、そこからだ」
頼政は短く言った。
「孫兵衛を呼べ」
孫兵衛は、山から戻ったばかりだった。腰に山刀を差し、肩には獲物を括った縄をかけている。
「茶でございますか」
「ああ。木地師は、あの斜面なら試せると言っていた」
「若様。私に抱えろと仰せなら、難しゅうございます」
「無理か」
「猟もあります。油の種もあります。山裾の畑も見ねばなりませぬ。茶まで抱えれば、どれも半端になります」
「猟のついでには回れないか」
「日によります。猟は獣の都合で動きます。山の見回りは、跡が消える前に見ねばなりませぬ」
「跡か」
「獣道も、人の通った跡も、毎日変わります。二日空けば、分からぬ跡もございます」
弦十郎が言った。
「山の目が薄くなれば、村口だけ固めても足りませぬ」
「山から入る者か」
「はい。若様が茶を見に山裾へ出るなら、なおのこと」
頼政は、話を孫兵衛へ戻した。
「茶を任せるなら、別に人を立てた方がよいか」
「その方がよろしいかと。土と水を嫌がらず、毎日通える者でなければ続きませぬ」
「心当たりはあるか」
「探してみます。ただ、山の見回りとは別にしてくださいませ」
「頼む」
銭の匂いは、山の外まで漏れる。
来た者をどう止め、どう使うか。朝霧には、その手順がまだない。
その時、表の方がにわかに騒がしくなった。
---
ほどなくして、家人が土間へ駆け込んでくる。
「若様! 火急の知らせにございます!」
頼政が立った。
俺たちも屋敷前へ出る。
西の道から来たらしい使者が、土埃を浴びたまま馬から降りるところだった。
「観音寺より急使にございます」
頼政の顔が硬くなった。
観音寺。六角の本拠。
使者は、土埃を払う間も惜しむように膝をついた。
「六角弾正少弼殿の御意により、橘殿のご嫡男様に、観音寺へのご出仕を仰せつかりました」
橘殿のご嫡男様。
名を呼ばれたわけではない。だが、それが俺を指していることは、この場の誰にも明らかだった。
弦十郎が、半歩だけ俺のそばへ寄った。
「小徳丸を、か」
「はっ」
使者は頭を下げたまま動かない。
六角定頼。近江の巨人の手が、朝霧の山裾まで伸びていた。
背に、冷たいものが走った。
油か。水車か。木地師か。百済寺周りの村のことか。あるいは、そのすべてか。
定頼がどこまで掴んでいるのかは分からない。ただ、朝霧まで届いている。
「父上」
俺がそう呼ぶより早く、頼政が口を開いた。
「支度をせよ。わしも行く」
「はい」
頼政は、弦十郎へ命じた。
「弦十郎」
「はっ」
「観音寺へ行く。小徳丸の供をせよ」
「承知いたしました」
留守は政虎に任せることになった。
「彦九郎。留守を預ける」
「はっ」
「春のことは、家人と女中に気を配らせよ」
「心得ました」
「村口の出入りも、いつも以上に見ておけ」
「はっ」
春は、腹が目に見えて大きくなっている。産み月も近い。
そのことが気にかかった。それでも、六角からの呼び出しを前に、留まるという選択はなかった。
---
出立の前、頼政と俺は春のもとへ向かった。
春は身を起こそうとしたが、頼政が手で制した。
「そのままでよい」
「殿……観音寺へ向かわれるとか」
「うむ。すぐ戻る」
春は頼政を見、それから俺を見た。
「小徳丸も」
「はい。父上と参ります」
「気をつけてお行きなさい」
それだけだった。
長く言葉を交わす暇はない。春も、それを分かっていた。
「母上。お体を大事に」
「小徳丸こそ、父上のそばを離れぬように」
「はい」
「朝霧のことは、彦九郎や家人、女中もおります。案じすぎてはなりません」
案じるなと言われても、屋敷の中には残るものが多すぎた。
屋敷前では、勘次たちが待っていた。
水車場の一件から、子供たちは前より俺の周りへ寄ってくるようになった。
知らぬ顔を見たと報せに来る者。稽古をつけろと言う者。ただ様子を見に来る者。役に立ちたいのか、褒められたいのか、まだよく分からない。
「若、観音寺へ行くんだって?」
「ああ。父上と行く」
「じゃあ、変なやつを見たら、彦九郎に言えばいいんだよな」
「そうだ。追うな。問い詰めるな。近づくな」
「分かってるよ。見たら言う。それだけだろ。勝手にやらねえよ」
勘次は口を曲げた。平助と虎松も頷く。おはつは腕を組んだまま、こちらを見ていた。
「小徳丸が帰ってくるまで、変な人がいないか気にしておく」
「気にするだけだ。何かあれば彦九郎に言え」
「うん」
おたまも小さく頭を下げた。
「……行ってらっしゃいませ、若様」
茶を任せる者は、孫兵衛が探すことになった。外から来る者をどう見分け、どう入れるかは、まだ整っていない。
だが、観音寺へ行く。
---
俺は弦十郎を伴い、頼政、わずかな供回りとともに朝霧を出た。
水車の音が、背後で遠ざかっていく。
しばらくは、見慣れた山裾の道だった。百済寺へ通う者や、薪を負う村人とすれ違ううちは、まだ朝霧の延長である。
だが、山を離れるにつれ、道幅は少しずつ広がった。
荷を積んだ馬が行き、商人が行き、旅人が行く。笠を深くかぶった男も、荷を背負った女もいる。
朝霧の道より、足音が多かった。
「朝霧とは、まるで違いますな」
「人の数が違う」
頼政も前を向いたまま頷いた。
「これが近江じゃ。朝霧の中だけ見ておっては分からぬ」
行き交う者は、誰もがどこかへ向かい、どこかから来ている。
「父上」
「なんじゃ」
「この道を行く者のことも、弾正少弼殿の耳に入るのですか」
頼政はすぐには答えなかった。
「入るものもあろう。入らぬものもあろう。だが、そう思って歩け。観音寺へ向かう道で、何も見られておらぬと思う方が危うい」
弦十郎が少し声を落とした。
「若様。道中も、口にはお気をつけください。商人も旅人も、ただ道を行く者ばかりとは限りませぬ」
「分かった」
朝霧を出た時から、もう観音寺へ向かう者として数えられている。
---
日が傾き始める頃、一行は愛知川のほとりに着いた。その日のうちに観音寺へ入ることは叶わなかった。
頼政は宿を取るよう命じ、弦十郎が先に立って、人馬の置き場を確かめた。
土間には旅人の草鞋が並び、軒先では荷を下ろした馬が鼻を鳴らしている。馬子の声、宿の者の声、酒を求める男の声が重なっていた。
「川越えは明日に回すそうで」
「日が落ちる。無理に渡っても損だ」
「観音寺へ向かうなら、明日の朝にしろ。今から行っても門前で夜になる」
「なら、酒は出るか」
「先に馬を見ろ」
奥では商人らしき男たちが銭を数え、別の隅では旅人が椀を抱えて湯をすすっていた。煮炊きの匂い。川風に湿った土の匂い。馬の汗の匂い。
「若様、こちらへ」
「表では駄目か」
「人の出入りが多うございます。荷も人も入り乱れておりますゆえ、奥で殿とお休みください」
「誰が何者か、分からないな」
「はい。ここでは、知らぬ顔の方が多うございます」
朝霧なら、知らぬ顔はすぐ浮く。ここでは、隣の男がどこから来たかも分からない。
一行は奥の一間へ通された。板戸で仕切られているだけで、隣の声も土間のざわめきもよく聞こえる。荷を下ろしても、気は緩まなかった。
夜の食事は、麦の混じった飯に干魚、菜を入れた味噌の汁だった。
贅沢ではない。だが、朝霧の家で食う飯とも違う。土間では膳がいくつも運ばれ、湯気の向こうで知らぬ声が重なっていた。
土間の方で、若い男の声がした。
「その包み、土間には置かんでくれ。明日の朝には出る」
声は低く、短い。
宿の者が、包みを抱え直しながら聞き返す。
「滝川の久助殿、こちらでよろしいか」
「そこでいい」
箸が止まった。
滝川。
その名だけが耳に残った。だが、明日は観音寺である。今、気にすべきことは別にあった。
「箸が止まっておるぞ」
向かいの頼政が言った。
「明日は観音寺じゃ。腹が空いていては、余計なことまで考える」
「はい、父上」
飯を口に運ぶ。
熱い。
それでようやく、自分が飯を食っていることに気づいた。
夜更け、愛知川の川音が闇に混じっていた。
茶の苗のこと。春のこと。留守を預けた政虎のこと。そして何より、明日会うことになる、六角定頼という男のこと。
朝霧を離れて過ごす、初めての夜だった。
※水車場は搾る場所、油場は搾った油を整えて扱う場所、という作中整理です。




