第2話 若様、領内を視察する・前
【第2話 若様、領内を視察する・前】
「小徳丸。今日は領内を見せてやる」
小徳丸。
それが、今の俺の名前らしい。
朝から、俺の父親らしい男は妙に機嫌が良かった。
名は、橘弥三郎頼政という。
頼政の「頼」は、六角定頼公から許された一字らしい。
本人が、俺を抱くたびに自慢げに話していたので、嫌でも覚えた。
名前だけ聞けば、ずいぶん立派な武家に生まれたようにも思える。
だが前世の感覚で言えば、武将というより町内会長に近い。
日に焼けた顔でよく笑い、声も大きく、村人にも気さくに声をかける。
村の者に親しまれているのは、見ていればすぐに分かった。
「殿、小徳丸はまだ幼うございます」
俺の母親らしい女が、静かにそう言った。
名は、春という。
頼政とは違い、物静かな人だ。
「案ずるな、春。これくらいで泣くようでは、橘の嫡男は務まらん」
頼政は、俺を片腕で抱き上げた。
視界が高くなる。
自力で移動できない今の俺にとって、頼政の腕は移動手段だった。
「彦九郎、行くぞ」
「はっ」
頼政の後ろに控えていた男が、低く答えた。
饗庭彦九郎政虎。
橘家に古くから仕える男で、譜代と呼んで差し支えない家臣だった。
家老と呼ぶには、橘家は小さすぎる。
それでも、屋敷の中でこの男を軽く見る者はいなかった。
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橘家の屋敷は、城ではなかった。
大きめの農家に、土塁と堀を足したもの。
それが、橘家の屋敷だった。
門はある。
塀もある。
物見らしきものもある。
威圧感はない。
広さも、前世で思い描いていた武家屋敷とは比べものにならない。
いざという時に籠もるための屋敷、という程度だ。
考えてみれば当然だった。
橘家は、近江国湖東の山間にある朝霧村を本拠とする小土豪にすぎない。
「どうだ、小徳丸。これが橘の屋敷よ」
頼政は、自慢げに言った。
俺は黙って見た。
屋敷の裏手に、小さな蔵があった。
戸口が、少しだけ開いている。
中にある米俵が見えた。
俺は、そこから目が離せなくなった。
思ったより少ない。
蔵の奥までは見えない。
だが、屋敷に出入りする人の数を思えば、備えに余裕があるようには見えなかった。
「おや」
春が、俺の視線に気づいた。
「小徳丸は、蔵が気になるのですか」
頼政が笑った。
「米俵が珍しいのだろう。さすが我が子よ。もう家の蓄えに目を向けるとはな」
違う。
珍しいのではない。
少ないことに気付いたのだ。
俺は米俵を見つめ続けた。
春は何も言わなかった。
ただ、蔵の奥を確かめるように、静かに目を向けていた。
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屋敷を出ると、朝霧村の景色が広がった。
村の名の通り、朝の谷には薄く霧が残っている。
白い霧が山裾を這い、畑の縁や草の上にまとわりついていた。
山は高く、空は近く見えた。
頼政は俺を抱いたまま、田の方へ歩いていく。
「見ろ、小徳丸。あれが我らの田よ」
川沿いに、細い田が並んでいた。
見渡す限りの水田。
ではなかった。
田は、川と山裾の間に残ったわずかな平地に、棚田のように並んでいるだけだった。
谷間だから、平地が少ない。
日当たりもよくない。
川の水は澄んでいる。
だが、上流の水は冷たそうだった。
これでは、米俵が少ないわけだ。
そんな俺の思いとは裏腹に、頼政が機嫌よく言う。
「米はそう多くは取れん。だが、粟も稗も豆もある。山もある。人はそう簡単には飢えん」
いや、飢える。
山の天気は変わりやすく、崩れれば荒れやすい。
もし山道で土砂崩れでも起きれば、塩も鉄も入ってこない。
現状、米だけでは足りない。
日々の飯は、頼政の言うように粟や稗や豆で埋めるしかない。
それに、量だけの問題というわけでもない。
「若様は、田をじっとご覧になりますな」
政虎が言った。
「頼もしいことにございます。いずれ年貢のこともお分かりになりましょう」
年貢?
だが、この田の狭さでは、取る米そのものが少ない。
百姓が食えなければ、領主も食えない。
飢饉が起きれば死活問題だ。
この村は、見た目以上に危うい。
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田の向こうには、山がそびえ立っていた。
朝霧村の背後に迫る、深い山である。
頼政によれば、あれは鈴鹿の山々らしい。
前世でいう、鈴鹿山脈か。
それで、大まかな位置はわかった。
山には、辺り一面に木々が生い茂っていた。
しかし、木の種類は分からない。
前世の俺でも、調べなければ杉か檜か雑木かなどは見分けられない。
この山はただの景色ではない。
米には向かない土地でも、別の使い道があるはずだ。
頼政は、その山を見上げて笑った。
「見ろ、小徳丸。朝霧の山は大きいぞ。春には山桜が咲き、夏には緑に染まる。秋には色づき、冬には雪をかぶる。あの山が、我らを守ってくれておる」
頼政の声は明るい。
村人を安心させるには、きっとこういう当主が必要なのだろう。
だが、俺には別のものが見えていた。
山があるだけでは銭にならない。
木を伐る。
運ぶ。
売れる形にする。
そこまでやって、ようやく木は銭になる。
この村の価値は、米ではない。
山だ。
それは分かった。
だが今の俺には、何もできない。
喋れない。
歩けない。
手を伸ばしても、子供の戯れと思われるだけだ。
前世の知識があっても、今はまだ早い。
「殿、少し冷えてまいりました。若様をお連れするには、このあたりが頃合いかと」
政虎が言った。
「む。そうだな。小徳丸も眠そうだ」
違う。
眠いのではない。
考えているのだ。
そう言いたかったが、まぶたが重くなってきた。
頼政の腕の中で揺られながら、俺はもう一度、朝霧村を見た。
手狭な田畑。
少ない蔵米。
手つかずの山林。
この村はまだ貧しい。
だが、何もないわけではない。
問題は、それをどう活かすかだ。
早く考えなければならない。
そう思いながら、俺は眠気に負けた。




