第2話 朝霧村を見る
小徳丸。
それが、今の俺の名らしい。
はっきり覚えたのは、父の頼政が俺を抱くたび、何度もそう呼んだからだ。
「小徳丸。今日もよい顔をしておるな」
何がよい顔なのかは分からない。鏡もなければ、自分の顔へ手を伸ばすことさえできない。それでも頼政は、俺を抱き上げるたびに機嫌よく笑った。
橘弥三郎頼政。
屋敷の者がそう呼ぶのを聞いているうちに、名前も覚えた。
「わしの名の『頼』はな、御屋形様より賜った一字じゃ。よい名であろう」
また始まった。
頼政は、俺が目を開けていると、同じ話を何度でも聞かせた。手足を動かせば、なおさら喜ぶ。俺が話を理解していると思っているのか、ただ自分が話したいだけなのかは分からない。
母の春が頼政をたしなめた。
「殿、小徳丸が眠そうにしております」
「む。そうか」
「はい」
「では、小さな声で話そう」
「殿」
違う。そういう問題ではない。
「分かっておる、分かっておる」
頼政はそう言いながら、俺を抱く腕を揺らした。
「よいか、小徳丸。名は重い。家の名を軽う見るな」
言っていることは分かる。だが、返事はできない。口から出るのは泣き声だけだった。
俺が泣き出すと、春は頼政の腕から俺を取り上げた。
「やはり眠かったのですよ」
「うむ。だが、今の声は返事のようにも聞こえたぞ」
「聞こえませぬ」
こうして、嫌でも名前を覚えた。
俺は小徳丸。頼政は橘家の当主で、この家は六角に従っている。屋敷へ出入りする者が何度も口にする朝霧という名は、どうやらこの村を指していた。
屋敷は古かった。
梁には煤が残り、戸も器も長く使い込まれている。俺を寝かせる布も新しくはない。働いている者も多くなく、土間や廊下が一日中騒がしくなることはなかった。
若様と呼ばれてはいるが、大きな家の生まれではなさそうだった。
それでも、村の者が屋敷へ来れば、頼政は相手の顔を見て話した。日に焼けた顔で笑い、田や山の具合を聞く。村の者たちも頼政の姿を見ると、足を止めて頭を下げた。
* * *
それから幾月か過ぎた。
その朝、頼政はいつもより機嫌がよかった。
「小徳丸。今日は朝霧を少し見せてやる」
春は、俺を包む布を整えながら頼政を見た。
「殿、小徳丸はまだ幼うございます」
「陽も出ておる。川の手前までだ」
「殿の『手前』は、あまり信用できませぬ」
「彦九郎も連れていく。これくらいで泣くようでは、橘の嫡男は務まらん」
「では、泣かせずにお戻しくださいませ」
頼政は返事の代わりに、俺を受け取った。
「彦九郎、道はどうだ」
「屋敷の前は問題ございませぬ。ただ、田の先には、まだ霜が残っております」
「ならば、本当に川の手前までだな」
「それがよろしゅうございます」
頼政が彦九郎と呼んだ男は、饗庭彦九郎政虎という。頼政の近くに控え、屋敷の者へ指図する姿を何度も見ていた。
春は、俺の胸元まで布を引き上げた。
「戻るまで、これをお外しになりませぬよう」
「承知した」
頼政は明るく答え、俺を抱いたまま母屋を出た。
最初に見せられたのは、屋敷の門だった。
「どうだ、小徳丸。太い木で組んである。そう簡単には破れまい」
前世で見た城の大手門や櫓門とは比べものにならない。それでも、農家の門とは明らかに違っていた。
柱は太く、扉板も厚い。金具は多くないが、閉じた扉を内側から押さえる横木が置かれている。塀際には土塁が築かれ、その外側を浅い堀が巡っていた。
「門を閉じて土塁に人を置けば、野盗や小勢なら防げる。この館が、朝霧の砦になるのだ」
頼政が誇らしげに言うと、政虎は門ではなく、屋敷の奥にある蔵へ目を向けた。
「長く籠もれば、先に蔵が持ちませぬぞ」
「彦九郎。せっかく小徳丸に朝霧を見せておるのだ。景気の悪いことを申すな」
「いずれ若様がお考えになることでございましょう」
「分かっておる。だからこそ、普段から備えておかねばならん」
門を閉じれば、外から来る者の足は止められる。村の者を屋敷へ逃がすこともできるだろう。
だが、閉じこもっている間も米と薪は減る。門の厚さだけでは、人は守れない。
頼政に抱かれたまま蔵を見ると、少し開いた戸の隙間から米俵が覗いていた。
少ない。
奥までは見えない。それでも、屋敷に出入りする者の数を考えれば、十分な蓄えがあるようには見えなかった。籠城戦の話は、前世のゲームなら数字一つで済んだ。目の前にあるのは、数字ではなく、ただ心許ない俵の並びだった。
見送りに出ていた春が、俺の視線の先を確かめた。
「おや。小徳丸は、蔵が気になるのですか」
「米俵が珍しいのだろう。さすが我が子よ。もう家の蓄えに目を向けるとはな」
頼政は笑ったが、春は蔵の戸口を見たままだった。
「次の実りまで、これで足りましょうか」
「粟も稗もある。すぐに困るほどではない」
「すぐには、でございますね」
頼政は答えず、俺を抱き直して門へ向かった。
門を抜けると、山に挟まれた谷が開けた。
畑の縁の草には朝の湿りが残り、山裾は白く霞んでいる。陽は出ているのに、冷えた空気がまだ谷の底に沈んでいた。頬に触れる風は、屋敷の中で感じていたものより一段冷たい。
「小徳丸。朝になると、霧が谷に残る。それで朝霧よ。よい名であろう」
名としては悪くない。
だが、これだけ湿りと冷えが残る土地では、田畑を作る者は苦労するだろう。
頼政は細い道を進み、川沿いの田を指した。
「見ろ、小徳丸。あれが我らの田よ」
見渡す限りの水田ではなかった。川と山裾の間に残った平地を使い、細長い田が並んでいる。畦も狭く、一枚ごとの形も揃っていない。
近江と聞いて思い浮かべたのは、もっと広く平らな田だった。少なくとも朝霧は、そういう土地ではない。
畦にいた男が鍬を置き、頼政へ頭を下げた。頼政より少し年上に見える。足元には泥がつき、鍬を握っていた手は赤く荒れていた。
「殿、若様でございますか」
「うむ。小徳丸に朝霧を見せておる」
「それはようございますな。若様、ここが朝霧の田でございますぞ」
男は俺へ笑いかけた。
「今年の水はどうだ」
「今のところは足りております。ただ、上の雪が多うございましたで、水が冷とうございます」
「苗には堪えるか」
「少しばかり。水の具合を見ながら入れます」
「困る前に申せ」
「ありがたきことにございます」
男は、もう一度頭を下げた。
川と山裾に挟まれた田は狭く、陽が当たる時間も長くはなさそうだった。そこへ冷たい水が流れ込むなら、米がいくらでも取れる土地ではない。
「米は、そう多くは取れん」
頼政も、そのことは隠さなかった。
「だが、粟も稗も豆もある。山へ入れば、薪や山菜も得られる。そう簡単に飢える土地ではない」
「へえ。山には助けられております」
畦の男は頷いたが、すぐに道の方を見た。
「ただ、道が悪うなりますと、塩が入ってまいりませぬ。少のうなれば、貸す貸さぬで揉めますでな」
「また塩か」
「へえ。塩ばかりは山から取れませぬ」
「鉄も同じにございます」
政虎が口を挟むと、頼政の声が少し低くなった。
「うむ。道も見ておこう」
塩と鉄。この二つだけは、朝霧の山からも田からも出てこない。そう気づいた途端、目の前の田の狭さが、また違って見えてきた。
畦の男が、俺の視線を追った。
「若様は、田をようご覧になりますな。いずれ年貢のこともお分かりになりましょう」
年貢を納めるのは、この男たちだ。受け取る側になるのは、俺たちだ。
田の向こうには、山がそびえていた。
「向こうに見えるのが、鈴鹿の山よ。春には山桜が咲き、秋には色づき、冬は雪をかぶる。あの山が朝霧を守ってくれておる」
前世では地図でしか知らなかった鈴鹿の山が、目の前にある。想像していたより、ずっと大きい。屋敷も、田も、蔵に並んだ米俵さえも、この山の裾のほんのひと欠片でしかなかった。
今の俺の目には、山肌を覆う木々も色の重なりにしか見えない。杉なのか、檜なのか、雑木なのかまでは分からなかった。
「薪も取れる。炭も焼ける。朝霧は、あの山に食わせてもらっておるようなものだ」
「へえ。薪も山菜も、山から頂いております」
畦の男が応じると、政虎は頼政へ釘を刺した。
「されど、村の者が日々の薪を拾う山でもございます。屋敷から伐る者を増やされるなら、入る場所を分けねばなりませぬ」
「今すぐ山の木を伐り尽くすとは言っておらん。小徳丸に自慢しておるだけだ」
「若様は、ようお聞きになっておりますゆえ」
「水を差すでない」
頼政は笑ったが、政虎の言葉を退けはしなかった。
山は大きい。だが、今の朝霧が自由に使えるものは、そのほんの一部だけだった。
「殿、風が冷とうなってまいりました。若様をお連れするには、このあたりが頃合いでございましょう。そろそろお戻りなされませ」
「む。そうだな。小徳丸も眠そうだ」
考えているつもりだったが、まぶたはもう重かった。
赤ん坊の体は不便だ。蔵を見ても、田を見ても、塩や鉄の話を聞いても、誰かに詳しい数を尋ねることさえできない。
頼政が屋敷へ向かって歩き出すと、腕の中で体がゆっくりと揺れた。
小さな蔵。狭い田。買うしかない塩と鉄。分けて使うしかない山。
――この構えで、これから先の乱世を、どう乗り切るつもりだ。
まぶたの重さに負ける寸前、俺はそれだけを考えていた。
最後に目に残ったのは、頼政の肩越しに見える鈴鹿の山影と、その麓に細く並んだ朝霧の田だった。




