第15話 二人の若様
天文十六年、春。
山裾を開き、川辺に水車を据えてから、およそ一年が過ぎた。
最初の水車は何度も止まり、木樋は詰まり、羽根板も割れた。ただ杵を落とすだけだった一号機は、直し続けるうちに、種を潰せるようになった。
その後、作兵衛は二つ目の水車を組んだ。
潰した種を布で包み、木枠に入れる。そこへ楔を打ち込み、圧す。
二号機は、その圧す仕掛けを水の力で少しずつ動かすためのものだった。
まだ力は弱い。一度に取れる油も少ない。
それでも、二号機が動いてから、エゴマの油は細々と搾れるようになっていた。
変わったのは、川辺だけではない。
藪だった山裾には畝が並び、蕎麦と大豆が取れた。菜種も、次の油に向けて育っている。
食えるものがある。
次に蒔く種がある。
灯りに使える油がある。
それだけで、村の者は山裾をただの野山とは見なくなり、川辺をただの水場とも思わなくなった。
その変化は、木地師の出入りにも表れていた。
椀や器は、朝霧の稼ぎになる。そこへ水車と油搾りが加われば、軸、木樋、杵の受け、圧す木枠まで、木地師に頼む仕事は増える。
朝霧村に、人と材と道具が寄る理由が生まれていた。
そして、それを見過ごさぬ家があった。
「若様」
屋敷へ続く道から、弦十郎が足早にやってきた。
「何だ」
「殿がお呼びにございます」
「父上が?」
「はっ。小倉の殿がお見えにございます。若君様もご一緒とのこと」
小倉の殿。
俺は、水車場の方を見た。
木樋を流れる水が羽根を叩き、片方の杵が落ちている。
どん、と鈍い音が鳴った。
「分かった。すぐ戻る」
作兵衛がこちらを見る。
「では、わしは作業を続けます」
「頼む」
「へえ」
俺は弦十郎を連れて、屋敷へ戻った。
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客人は、すでに頼政と向かい合っていた。
奥に座るのは、小倉東家の当主である。その少し後ろに、若い男が控えていた。
供の一人というには、座り方が違う。
それに、目がよく動く。
頼政や俺だけではない。弦十郎の立つ位置、出された茶、廊下に控える家人の数まで見ている。
客として座っているのではない。
小倉の者として、朝霧の内を量っている目だった。
頼政が俺を見る。
「小徳丸。こちらは小倉殿だ」
俺は頭を下げた。
「お初にお目にかかります。小徳丸にございます」
小倉は静かに頷いた。
「噂は聞いております。橘殿の若様は、ずいぶんと利発であられるとか」
「まだ幼い子にございます」
頼政は短く答えた。
「されど、山裾を畑にし、川辺で妙なものを動かしているのは、その若様と聞きました」
小倉が、後ろの若い男を見る。
「右京」
「はっ」
「そなたも、よく見ておけ。橘殿が何を始められたのか、ただ珍しがるだけでは分からぬぞ」
「承知しております、父上」
小倉は、頼政へ向き直った。
「倅の右京亮にございます」
右京亮。
小倉東家のその名に、俺は少しだけ引っかかりを覚えた。
小倉が頼政を見る。
「橘殿。以前、木地師へ朝霧の仕事を出すと知らせを受けましたな」
「左様にございます。小倉殿へ納める分には手をつけず、空いた手で試し仕事を頼む、という話でございました」
「その試し仕事が、ずいぶん増えているように聞こえましてな」
頼政は表情を変えなかった。
「椀や器に加え、水車の部材も頼むようになりましたゆえ、小倉殿のお耳に入るのも当然かと存じます」
小倉は静かに頷いた。
「責めに来たわけではありませぬ。ただ、木地師の手が朝霧へ寄りすぎれば、こちらの山にも響きます」
そこで、小倉は少しだけ視線を俺へ向けた。
「水車に畑。橘殿が何を始められたのか、一度この目で見ておきたかったのです」
険のある言い方ではない。
だが、ただの挨拶でもなかった。
頼政は俺を見る。
「小徳丸。畑と水車のことを話せ」
「はい、父上」
俺は小倉に向き直った。
「山裾には、蕎麦、大豆、エゴマ、菜種を植えております。蕎麦は実を取り、大豆も来年の種を分けられました。エゴマからは、少しずつ油も取れるようになっております。菜種は、次の油に向けて増やすつもりにございます」
右京が口を開いた。
「その油と、水車がどう繋がる」
「水車で、まず種を潰します」
「潰すだけで油が出るのか」
「いいえ。潰した種を、さらに木枠で圧します。今は二つの水車を使っております。一つで種を潰し、もう一つで圧す仕掛けを動かします」
右京は黙った。
油が取れる、で終わらせない。
もう、二つ目を作っている。
そういう目だった。
小倉が頼政へ言った。
「橘殿。畑と川辺を拝見してもよろしいか」
「よろしゅうございます」
頼政は頷いた。
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まず山裾へ向かった。
小倉は畝と低い石垣を見た。右京は、作物より先に囲いの外を見ている。
土の浅い所。
石を積んだ所。
木を残した所。
獣道を外して囲いを置いた所。
右京は、それを一つずつ目で追っていた。
「そこは、なぜ開かぬ」
右京が、囲いの外に残した細い道のような場所を指した。
「獣道にございます」
「畑にせぬのか」
「囲いの内へ入れれば、猪を招きます」
右京は、少しだけ目を細めた。
「山を広げるのではなく、山との境を決めているのだな」
「はい。広げすぎれば、守れません」
山は、削れば畑になるわけではない。
畑にしたい場所と、残す場所を分ける。獣の道を避ける。水の流れを見る。木を残して、風除けと土留めにする。
広げることより、失わないことの方が先だった。
「蕎麦は、もう取った後か」
「はい。多くは実を取りました」
「大豆は」
「出来のよいものを種に回します。食う分を増やしすぎれば、来年が細りますので」
「エゴマと菜種は、食うためではないのだな」
「油にしたいと考えております」
「米の代わりにはならぬか」
「はい。米の代わりにはなりませぬ」
俺は素直に答えた。
「ですが、米だけでは村は細ります。蕎麦は腹を支え、大豆は食料になります。山で獲れた鹿や猪の肉も、我らは食しております。エゴマと菜種は、油になれば灯りにも使えます」
右京は少し黙った。
「そちは、米を増やす話だけをしておらぬのだな」
「はい」
米だけでは村は細る。
蕎麦、大豆、油、肉、木地師の仕事。
どれも一つでは小さい。
だが、重ねれば村を太らせる。
次に、川辺へ向かった。
水車は二つ並んで回っていた。
一つは、杵を落として種を潰す。もう一つは、潰した種を入れた木枠へ、ゆっくりと力をかける。
どちらも大きなものではない。
水車小屋と呼べるほど立派な建物もない。
だが、木樋から落ちた水が羽根を叩き、二つの軸がそれぞれ動いている。
どん、と杵が落ちた。
少し遅れて、ぎし、と木枠が鳴った。
小倉の供が足を止める。
「人が押しておらぬのか」
水車の脇にいた作兵衛が、濡れた手を膝で拭って前へ出た。
「へえ。人ではございませぬ。水でございます。こちらは種を潰す水車、あちらは圧す水車にございます」
小倉の視線が作兵衛へ移った。
「そなたが作兵衛か」
「へえ。作兵衛にございます」
作兵衛はその場で膝をついた。
小倉は、あらためて二つの水車を見た。
「見事なものだ」
「へえ。形にはなりました。ですが、水に当たり続ける道具にございます。よい材を選んでも傷みますゆえ、止めて直せるようにしてございます」
作兵衛は、ほめられても浮かれた顔をしなかった。
壊れることを知っている者の顔だった。
右京が俺を見る。
「ならば、もっと良きものに作ろうとは思わぬのか」
「思います。けれど、良すぎるものは村では扱いにくうございます」
「良すぎるものが、扱いにくいと」
「はい。作兵衛だけが作れるものでは困ります」
使うたびに作兵衛を呼ばねばならない道具では、村の道具にならない。
壊れた時、誰も触れないものでは続かない。
「少し粗くても、村の者が覚えられる形の方がよいです」
右京は水車ではなく、作兵衛と、その後ろに控える弟子を見た。
「この木樋を直せる者は、朝霧に何人いる」
「今は、作兵衛と弟子、それに木地師の手を借りております」
「ならば、水車が増えれば、その者らも増えるな」
「はい」
「道具が人を呼ぶ、か」
右京は低く言った。
水車を見ているようで、見ているのは水車だけではない。
誰が作るのか。
誰が直すのか。
誰が通うようになるのか。
右京は、そこを見ていた。
「誰でも作れるようにするのか」
「朝霧では、そうしたいです」
「ならば、誰にでも作らせるか」
「それは、危ういことにございます」
口にしてから、少し言葉が強かったかと思った。
俺は頭を下げた。
「失礼いたしました」
右京は咎めなかった。
「続けよ」
「作れることと、広めることは別にございます」
俺は二つの水車を見た。
「誰でも勝手に作れるとなれば、朝霧の値打ちは薄れます。水車を作れること。直せること。木地師に仕事を出せること。それらは、人と物を集めるための力にございます」
右京の目が、少しだけ鋭くなった。
「そちは、ずいぶんと厳しいことを申す」
「出過ぎたことを申しました。お許しくだされ」
俺は頭を下げた。
だが、考えは変わらない。
簡単に作れるようにするのは、朝霧で増やすためだ。
誰にでも好きに作らせるためではない。
右京は、しばらく水車を見ていた。
「道具は扱いやすく。されど、握る手は離さぬ、か」
「左様にございます」
右京は小さく頷いた。
その時、作兵衛が二号機のそばに立った。
「若様。圧す方をお見せしてもよろしゅうございますか」
「やれ」
潰したエゴマを布で包み、木枠に入れる。作兵衛の弟子が、楔を木枠へ合わせた。
作兵衛が合図を出す。
木樋の水が少し増え、二号機の軸が重そうに回った。仕掛けが楔を押し、ぎし、と木枠が鳴る。
下に置いた小さな器へ、薄く濁った油が落ちた。
一滴。
また一滴。
小倉の供が、思わず身を乗り出した。
「油か」
右京が呟いた。
「はい。エゴマの油にございます」
作兵衛は木枠を見ながら、弟子へ手を上げた。
「そこまでだ」
弟子が水を止める。二号機の動きがゆっくり弱まり、やがて止まった。
木枠は壊れていない。
油も出ている。
だが、器に溜まった量はまだ少ない。
俺は器の底を見た。
「まだ少ないな」
「へえ。二号機まで動かして、ようやくこの程度にございます」
「なら、次は数だ」
「へえ。潰す水車と、圧す水車。どちらも増やさねばなりませぬ」
作兵衛は、二号機の木枠を軽く叩いた。
「一つで多く取るより、同じ働きをするものを増やす方が早うございます。傷んだ時も、替えが利きます」
「それでいい」
俺は頷いた。
「名人だけが作れる一つでは困る。村の者が覚えられる形で増やす」
右京は、二つの水車を交互に見た。
「できぬ物を見せたのではないのだな」
「はい。少しなら取れます。次は、それを増やす段にございます」
「潰す水車を増やし、圧す水車も増やし、木地師の仕事も増やす」
右京の目が細くなった。
「なるほど。木地師が朝霧へ寄るわけだ」
「仕事があれば、寄りましょう」
「そして油が増えれば、また仕事が増える」
「左様にございます」
右京は小さく笑った。
「これは、椀や器の話では済まぬな」
そこから、木地師の話になった。
「そちは、木地師をどう使うつもりか」
「丸く削る所、軸を受ける所、木樋の継ぎ目。村の者だけでは難しい所を頼みます」
「それだけか」
「今は、それだけにございます」
今は、だ。
水車と油の仕事が増えれば、木地師の手はさらに要る。一度作って終わりではなく、使い続けるなら、朝霧に通う理由も増える。
俺が言葉を継ごうとした時、小倉が静かに口を挟んだ。
「木地師は、山の者にございます。仕事があるからといって、勝手に抱え込まれては困りますぞ」
場の空気が少し締まった。
やはり、そこを見るか。
俺は頭を下げた。
「心得ております」
頼政も小倉へ向き直る。
「こちらから木地師を奪うつもりはございませぬ。ただ、水車を続けるには、木を扱う者の手が要ります。材置き場と作業小屋を置くことは、お許しいただきとうございます」
小倉はすぐには答えなかった。
川辺を見ている。
二つの水車。
作兵衛。
木地師の手が入った軸と木樋。
それらを見て、朝霧へ仕事が寄る理由を計っているのだろう。
「橘殿」
「はっ」
「木地師へ大きな仕事を出す時は、先にこちらへ話を入れていただきたい」
「もちろんにございます。小倉殿の山の仕事を妨げるつもりはございませぬ」
「木地師を朝霧へ留め置く時も同じです。先に知らせていただく」
「承知いたしました」
「ならば、まずは材置き場と作業小屋までといたしましょう。移る者が出た時は、その時にあらためて話す」
頼政が頭を下げた。
「ありがたく存じます」
俺もそれに続いた。
小倉は、なおも水車を見ていた。
「木地師が潤うなら、小倉にも面目が立ちます。されど、こちらの手を空にされては困る」
「心得ております」
頼政が答える。
小倉は頷いた。
そこで、頼政は少し声を落とした。
「もう一つ。水車と油の仕掛けについては、しばらく外へ広めぬようお願いいたします」
小倉の目が細くなった。
「内密にせよ、と」
「はい。まだ形は粗く、量も少のうございます。今広まれば、騒ぎだけが先に立ちます」
小倉はしばらく黙った。
右京も口を挟まない。
水車は、ただ回っているだけではない。木地師の手を呼び、材を呼び、油を生む。今は小さいが、他の家が知れば、同じ物を欲しがる者も出る。
そうなれば、朝霧が先に積んだ分は薄れる。
「よろしい」
やがて、小倉が頷いた。
「小倉の内では、余計な口を開かせぬようにいたしましょう」
「かたじけなく存じます」
話は決まった。
材置き場と作業小屋は、まず朝霧に置く。
木地師へ大きな仕事を出す時は、小倉へ先に話を入れる。
木地師を留め置く時も、小倉へ先に知らせる。
水車と油の仕掛けは、しばらく外へ広めない。
同盟などという大げさなものではない。
だが、村にとってはそれで十分だった。
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帰り道、右京はしばらく黙っていた。
小倉が横目で見る。
「どう見た」
「敵に回すより、小倉を外さずに動かす形にした方がよろしいかと」
「小倉を外さずに、か」
「はい。橘が勝手に木地師を使えば、小倉の顔が立ちませぬ。されど、小倉を通して仕事を出す形なら、木地師も潤い、こちらにも利が残ります」
「されど」
右京は少し声を落とした。
「おそらく、木地師の足は朝霧へ向きましょう、父上」
小倉は黙った。
「止められると思うか」
「難しゅうございます。仕事があり、食うものがあり、腕を振るえる場所がある。無理に止めれば、木地師にも橘にも恨まれましょう」
「ならば、結ぶ方がよいか」
「はい。止めても利は薄く、敵に回すには惜しゅうございます」
小倉は、わずかに笑った。
「橘の倅を、そこまで見るか」
「はい。あの小僧、ただの思いつきでは動いておりませぬ」
「ほう」
「捨て置けば、後でこちらが慌てることになりましょう」
小倉はすぐには答えなかった。
右京はもう一度だけ、背後の山裾を振り返った。
藪だった山裾には畑があり、川辺では二つの水車が回っている。そこへ木地師が寄り、材が入り、油の仕事が増えようとしていた。
ただの子どもの思いつきではない。
朝霧村は、周りを動かし始めていた。




