第13話 山を畑に、水を力に
善右衛門が去った翌朝、蔵の隅には鉄と釘、それに種袋が分けて置かれていた。
鉄と釘の行き先は早い。作兵衛へ回す分、農具を直す分、小荷車に使う分、箱罠へ回す分。足りるかどうかは別として、迷う物ではなかった。
政虎が、控えを見ながら種袋を数えた。
「油に回す分は、これでございますか」
「全部ではない。エゴマは今年試す。菜種は秋だ」
「大豆も搾りますか」
「まずは食わせる。腹を削ってまで油は搾らない」
「蕎麦は、畑を選びませぬか」
「痩せた場所に蒔く。畑にしにくい土で試す」
弦十郎が、種袋を見た。
「種は勝手に蒔かれてはくれませぬぞ」
「だから山裾を見る」
「また人を取られますな」
「余っている者などいない。少しずつやる」
蔵の隅は少し重くなった。次は、外で動かす番だった。
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頼政に呼ばれたのは、その後だった。
弦十郎を伴って座敷へ向かうと、家人や女中たちが声を潜めながらも、どこか足取りを軽くしている。
弦十郎は廊下際に控え、俺は座敷へ入った。
頼政は俺を座らせると、少し間を置いた。
「母上のことだ」
「母上が、いかがなされました」
「案ずることではない。めでたい話だ」
頼政の表情が、わずかに緩んだ。
「そなたに、弟か妹ができるやもしれぬ」
「まことですか」
思わず身を乗り出していた。
「うむ。春に、子が宿った。そなたは兄になるのだぞ」
「兄に……」
すぐには実感が湧かなかった。
弟か、妹かはまだ分からない。それでも、橘の家に新しい命が増えることだけは分かる。
「母上のお体は」
「無理はさせぬ。しばらくは奥で休ませる」
「はい。母上には無理をさせぬ方がよいかと」
座敷を出る頃には、屋敷の者たちが浮き足立っていた理由も分かった。
座敷を出ると、弦十郎が待っていた。
「若様」
「何だ」
「ずいぶん、落ち着かぬお顔をなさっております」
「そうか」
「はい。善右衛門から戦の噂を聞いた時より、よほど」
「比べるものが違うだろう」
弦十郎は少しだけ笑った。
「兄になるというのは、難しゅうございますな」
「……まだ分からん」
「それでよろしいかと」
「何がだ」
「今から分かった顔をなされる方が、かえって心配でございます」
失礼なことを言う。だが、反論はしなかった。
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祝いの声が落ち着けば、朝霧の一日はまた動く。
蔵へ向かうと、作兵衛が鉄と釘を見ていた。小屋の脇には、板や丸太、箱罠に使う材も並んでいる。
作兵衛は俺を見るなり、眉を寄せた。
「若様。今度は何をお作りに」
「まだ何も言っていない」
「へえ。ですが、お顔で分かります」
弦十郎と同じことを言う。
俺は蔵の外へ出て、村を半分に分ける川を指した。
「水を使う」
「水汲み桶を増やす話ではございませぬな」
「違う。水で回す」
「水で、何を回すので」
「車だ」
俺は地面に枝で丸を描いた。
「羽根を付ける。水が当たれば回る」
「回るだけでは、仕事になりませぬぞ」
「軸を通す。軸で杵を上げる」
「……人の代わりに、水へ搗かせるので」
「まずはそこまでだ。油はまだ触らない」
作兵衛は、地面の円を見た。
「種を潰すのは、その後でございますか」
「回らぬ物で、種は潰せん」
「では、杵を動かすところまで」
「そこまででいい」
作兵衛は川の方へ目をやった。
「川に置くのでございますか」
「川の真ん中には置かない。脇へ少し水を引く。そこで試す」
「それでも、水は思うようには流れませぬぞ」
「何が難しい」
「強ければ押され、弱ければ回りませぬ。砂を噛めば軸が傷みます。枝が掛かれば羽根も止まります」
「水だけ来るわけではない、か」
「へえ。左様でございます」
作兵衛は円の中心を指した。
「それに軸でございます。太ければ重く、細ければ折れます」
「ちょうどよく作れ」
「その、ちょうどよくが難しゅうございます」
「なら、最初は小さく作れ。壊れても直せる形でいい」
作兵衛はしばらく黙った。
「丸く削る物や、軸の受けは、私だけでは手間がかかります。木地師どもにも声をかけましょう」
「任せる。難しい所だけでいい」
「若様は、簡単に申されますな」
「簡単なら、作兵衛に相談していない」
「それがなお悪うございます」
作兵衛は息を吐いた。
「へえ。まずは、形にしてみます」
「できるか」
「できる、とは申せませぬ。ですが、試さねば分からぬ物ではございます」
「それでいい」
「二日三日で済むかも分かりませぬぞ」
「その間に、俺は山裾を見る」
「若様は、こちらに無茶を置いて、あちらにも無茶をなさるおつもりで」
「順番を待っていたら、春が終わる」
作兵衛は近くの若い者を呼び、木材置き場へ向かわせた。もう断る顔ではなかった。
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俺は山裾へ向かった。
村にも畑はある。だが、今ある畑は村の食料をまかなうだけで手一杯だ。そこへエゴマや菜種を少し蒔くことはできても、油を商いにするほどの量は望めない。
かといって、今の畑を削れば食う物が減る。
なら、新しく拓くしかない。
山裾には雑木と藪が広がっていた。日当たりは悪くない。川からも遠すぎず、村からも近い。一見すれば、畑にしやすそうに見える。
「ここを使えないか」
後ろから低い声がした。
「伐れば、ただ明るい山になりますな」
振り返ると、孫兵衛が立っていた。
「孫兵衛」
「若様。お呼びと聞きまして」
弦十郎が言う。
「山を削るなら、山に詳しい者も要ると思いまして」
悪くない判断だ。
「ここを畑にしたい」
孫兵衛は山裾を見た。すぐには頷かない。
「日当たりはよろしゅうございます」
「なら、畑に向くか」
「猪にも向きます」
弦十郎が顔をしかめた。
「畑に向くなら、獣にも向くということか」
「山では、どちらも同じにございます。人が良いと思う場所は、獣にも良う見えます」
「その獣を減らすために、罠だの鹿狩りだのを増やしているのだがな」
「減らすのと、寄せるのは別にございます」
「畑を作れば、寄せるか」
「はい。食い物を並べるようなものです」
「なら、猟の手を増やしても足りないか」
「足りませぬ。獣は、こちらの都合を見て遠慮などしませぬゆえ」
孫兵衛は地面を見て、折れた枝を拾い、柔らかい土を足で押した。
「このあたり、猪が通っております。こちらの細い道は鹿でしょうな」
俺には、ただ草が薄い場所にしか見えない。
「つまり、獣を減らすだけでは足りないか」
「はい。入らせぬ形にせねばなりませぬ」
「なら、畑を作る前に、囲いをどこに置くか決める」
「後から囲えば、獣道まで囲いの内に入れてしまうことがございます」
「先に道を見るわけか」
「左様でございます。獣の道を外し、その外へ罠を置くのがよろしいかと」
孫兵衛は山側を指した。
「それと、木を全部抜くのはおやめなされ。根を抜きすぎれば、雨で土が流れます」
「では、どうする」
「広く平らにしようとなさらぬことです。小さく切って、石を積み、段にします。木も全部は伐りませぬ。風を避け、土を止め、獣の目も切れます」
「なら、段畑か」
「その方がよろしいかと」
弦十郎が山裾を見渡した。
「若様、広げるほど番が要ります」
「畑なのにか」
「畑だからでございます。囲いを置けば、壊す者も見ねばなりませぬ。獣が寄れば、罠も見ねばなりませぬ」
「広すぎれば守れないか」
「はい。作った端から食われます」
一気に広げるのは無理だ。守れない畑を作っても、獣の餌場にするだけだ。
「分かった。孫兵衛の言うようにしよう」
孫兵衛は、わずかに頭を下げた。
「畑にする場所を小さく分ける。獣道は外す。囲いを置く場所を先に見る」
「承知いたしました」
「箱罠は囲いの外だ。残す木も、伐る木もお前が選べ」
「私が、でございますか」
「山のことは、お前の方が見えている」
「承知いたしました」
山を丸裸にはしない。崩れぬ所から、小さく使う。
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作業は、その日から始まった。
まず、人足たちが藪を払った。鎌を入れ、枝を落とし、細い木を伐る。それだけなら、見た目には進んだように見える。
だが、倒した木は勝手に消えない。枝を払わなければ運べない。乾いていない幹は重く、二人で動かせると思った丸太が、三人でも動かない。
人足たちは太い縄をかけ、声を合わせて丸太を引いた。丸太は地面に食い込み、ようやく動いたと思えば、枝が足に絡む。
俺も足元の小枝を拾おうとしたが、すぐに弦十郎に止められた。
「若様は、そこまでにございます」
「これでも鍛えている」
「鍛えておられても、転ばれては困ります」
正論だった。草の下には泥があり、泥の下には根がある。少し足を踏み入れただけで、草履に土がまとわりついた。
見ているだけでも、山を畑にするのが簡単ではないことは分かった。
昼を少し過ぎた頃、山裾へ女衆が飯を運んできた。
握り飯と、味噌を溶いた汁。それに、漬けた菜が少し。
女衆の一人が、俺の足元を見た。
「若様まで、そのように泥をつけておいでで」
「少し入っただけだ」
「山は、少し入るだけでも泥をつけますからな」
あっさり返されて、言葉に詰まった。弦十郎が横で笑いを噛み殺している。
握り飯は、まだ温かかった。
女衆が汁の桶を置いた。
「先に食べてもらわんと、昼から動けませぬ」
「まだ半分も片付いていないぞ」
「腹が空けば、その半分も残ります」
「飯も仕事のうちか」
「若様、山へ入る者だけが働いておるわけではございませぬ」
俺は握り飯を一口食った。塩気が、思ったよりうまかった。
弦十郎が、山裾に残った丸太へ目をやった。
「畑を作る前に、木の片付けで日が暮れますな」
「土を起こす前に、人が倒れそうだ」
「明日は根でございますぞ」
「ますます悪い」
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次の日、切り株にかかった。
ここからが本当の苦労だった。
人足たちが鍬を入れようとしても、根に弾かれる。土を掘ると石が出る。石をどけると、その下からまた根が出る。
斧で太い根を切る。鉈で細い根を払う。鋤で土を起こす。
それでも切り株は動かない。
人足たちが切り株に太い縄をかけ、声を合わせて引いた。切り株は少し傾いたが、すぐに土へ戻った。
孫兵衛が根元を指す。
「そちらに、まだ太い根が残っております」
「俺には見えないぞ」
「土の下でございます」
言われた場所を掘ると、太い根が顔を出した。人足の一人が斧を入れる。一度では切れない。二度、三度と打ち込んで、ようやく根が割れた。
丸太を梃子にして差し込む。
「引け」
弦十郎の声で、人足たちが縄を引いた。
切り株が傾いた。土が割れ、細い根がぶちぶちと音を立てる。最後に、湿った土を抱えたまま、根が持ち上がった。
誰かが歓声を上げた。
だが、抜けた切り株は一つだけだった。見渡せば、まだいくつも残っている。切り株一つを抜くだけで、半日が潰れていた。
前の世なら、機械で一息だったかもしれない。だが、ここにあるのは、人の手と、鍬と鋤と斧と縄と丸太だけだ。
木は倒れても、根はまだ土を掴んでいる。
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三日目には、掘る場所と残す場所を分け始めた。
全部を掘り返していては、何日あっても足りない。
俺は孫兵衛と弦十郎を連れて、山裾を歩いた。
孫兵衛は一本の木に手を置いた。
「これは残しましょう。根が張っております。抜けば、雨で土が流れます」
「では、こちらは」
「切ってもよろしいかと。日が入ります」
孫兵衛は足元の石も見た。
「石は捨てずに積むのがよろしゅうございます。掘れば、まだ出ましょう」
「石垣にするのか」
「はい。形の違う石を、そのまま積む野面積みにございます。高くせず、土を受けるだけなら使えましょう」
「石は捨てるなと言ったな」
「はい。土を受けるのに使えます」
「根は」
「抜く根と残す根がございます」
「全部抜けば早い」
「早う見えるだけにございます。雨が来れば、土ごと下へ落ちます」
掘れば石が出る。根も出る。だが、どちらも捨てればよいわけではなかった。
「この段は、エゴマにする」
俺は一つ目の小さな区画を指した。
「油の種でございますな」
「今年はここだけだ。広げるのは、芽が出てからでいい」
「こちらは」
「大豆だ。屋敷と村で食わせる」
「若様は、油だけを見ておられるのではございませぬか」
「油は銭になる。だが、大豆は食わせる。飯を削ってまで油は搾らん」
蕎麦は、さらに痩せた場所で試すことにした。土が浅く、石も多い。だからこそ試す意味がある。
菜種は、秋まで残す。同じ油の種でも、同じ時に蒔けばよいとは限らない。
「種を余らせる気はない。だが、獣に食わせるために蒔く気もない」
俺は山裾を見渡した。
「広い一枚ではなく、守れる広さをいくつも作る」
「手間は増えますぞ」
「一度に全部を失うよりましだ」
孫兵衛が頷いた。
「小さく分ければ、見回りもできます。囲いも継ぎ足せます。箱罠も外へ置けます」
その日、山裾には畑と呼ぶにはまだ早い場所ができた。
木はところどころ残っている。抜けていない根も多い。掘り出した石を積んだだけの低い石垣も、まだ頼りない。
だが、最初に見た藪ではない。
人が通れる道がつき、土を起こした場所がいくつかできた。どこに種を蒔き、どこに囲いを置き、どこへ箱罠を仕掛けるかも、ようやく見え始めている。
人足たちは疲れ切っていた。腰を叩く者もいれば、手の皮を見て顔をしかめる者もいる。それでも、誰も「無駄だ」とは言わなかった。
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「若様」
弦十郎が隣へ来た。
「何だ」
「春様のことを聞いた日に、山裾を掘ることになるとは思いませなんだ」
「俺もだ」
「ですが、悪くはございませぬな」
「家に口が増えるなら、村の飯も要る」
「それだけ、と仰せになるには、皆、ずいぶん腰をさすっております」
「なら、蕎麦が育つまで我慢してもらう」
「まだ蒔いてもおりませぬ」
「だから、蒔く場所を作っている」
弦十郎は呆れたように息を吐いた。
その時、下の道から作兵衛の弟子が駆けてきた。
「若様」
「どうした」
「親方が、早う見に来てくだされ、と申しております」
「例の仕掛けか」
「へえ。例のもん、形にはなりました、と」
完成したとは言わない。ただ、形にはなった。いかにも作兵衛らしい。
俺は山裾を振り返った。
まだ畑とは呼べない段が、夕暮れの中に残っている。
その土に種を蒔く前に、もう一つ見に行く物ができた。
水を働かせる木組み。
次は、川だ。




