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近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第四章 戦国大名への道

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第122話 竹中半兵衛

 永禄三年(えいろくさんねん)(1560年)、冬。

 伊勢国(いせのくに)、三重郡(みえぐん)、江野(えの)、江野城(えのじょう)。


 清須(きよす)へ返す書状に最後まで目を通すと、政基(まさもと)はそれを文机(ふづくえ)の上へ戻した。


 書状から顔を上げた政基が、俺に念を押した。

「お市(いち)殿をお迎えすること、初音(はつね)様と奇妙丸(きみょうまる)様の御縁組(ごえんぐみ)をお受けすること。この二つで、よろしゅうございますな」

「ああ、それでいい。又助(またすけ)に持たせて、上総介(かずさのすけ)殿には、二つとも受けると伝えてくれ」


 脇に控えていた牛一(ぎゅういち)が、そこで頭を下げた。

「では明朝、清須へ向かいます」

「頼む。向こうで何か聞かれても、こちらで決めていないことまで請け合うなよ」

「某は書状をお届けするだけにございます。勝手な約束などいたしませぬ」

「それなら、安心して任せられるな」

「そう仰られると、今まで信用されていなかったようで、少々引っ掛かりますな」


 政基が小さく笑いながら書状を差し出し、牛一がそれを受け取る。ちょうどその時、廊下から声が掛かった。

「御屋形様(おやかたさま)。九郎(くろう)殿がお戻りになりました」


 通すように命じると、光秀(みつひで)が旅装(りょそう)のまま入ってきた。


 光秀は俺の前まで進み、一礼した。

「田光(たびか)より戻りました」

「九郎、ご苦労だった。梅戸(うめど)は条件を受け入れたか」

「いえ、最後まで降りませなんだ。抗った者は、御命令どおり根切り(ねぎり)にいたしました」

「城はどうした」

「使える物を運び出させた上で、破却(はきゃく)に取りかからせております」


 降れば命までは取らないと、こちらは先に条件を示していた。それを退け、六角方(ろっかくがた)として抗う道を選んだのは梅戸の方だ。今さら条件を緩めてまで、命を助けてやる理由はない。


 梅戸が片付いた今、北伊勢でまだ橘の外にいる者を、光秀に確かめておきたかった。

「これで北伊勢(きたいせ)に残る独立勢力は、願証寺(がんしょうじ)だけか」

「はい。ほかに城へ兵を集め、橘の差配を受けずに動ける家は残っておりませぬ」

「分かった。兵は予定どおり戻してくれ」


 光秀が一礼して下がると、牛一も書状を懐へ収め、翌朝の出立に備えて下がっていった。


 * * *


 永禄四年の四月、近江(おうみ)から届いた書状には、観音寺(かんのんじ)を追われた承禎(じょうてい)と義治(よしはる)が、いまだ城へ戻れずにいると記されていた。


 読み終えて書状を脇へ置くと、向かいの政基が口を開いた。

「御屋形様。六角のことで、以前から伺いたかったことがございます」

「何だ、弦十郎(げんじゅうろう)」

「野良田(のらだ)の後、観音寺で、六角などいつでも潰せると仰いましたな。そのお考えは、今も変わりございませぬか」


 あの時に腹が立ったのは、義治の物言いだけではない。六角が大きくしてやった家なのだから、必要ならいつでも思いどおりに使える。義治が橘をそう見ていて、しかもそれを本気で信じていたことにも腹が立った。


 政秀(まさひで)も頼政(よりまさ)も六角に仕え、承禎とは長い付き合いがある。橘が六角に従ってきたのはその縁を重んじたからで、六角より弱かったからじゃない。義治は、橘が従う理由を履き違えていた。


 そこまで考えてから、俺は政基の問いに答えた。

「戦で勝つつもりは、今も変わらん。だが、六角を潰すとなると話は別だ」

「観音寺を落とすだけでは済まぬと?」

「ああ。右衛門督(うえもんのかみ)を討っても、蒲生(がもう)や三雲(みくも)は残る。当主を討っただけで、六角が消えるわけじゃない」

「では、残った家々まで従わせねばなりませぬな」

「そうなる。南近江(みなみおうみ)を押さえれば、その後の面倒もこっちで見ることになる。戦に勝って終わり、とはいかん」


 横で聞いていた忠治(ただはる)が、そこで顔を上げた。

「右衛門督を討たれるおつもりは、今も変わらぬのですね」

「ああ、変わらん。舅殿(しゅうとどの)の仇は取る」

「では、左京大夫(さきょうのだいぶ)殿はいかがなされます」

「左京大夫殿は仇じゃない。もう六角の下へ戻る気がないからといって、あの人まで討とうとは思わん」


 正利(まさとし)が、手にしていた湯呑み(ゆのみ)を置いた。

「では、右衛門督を討った後、六角の家は残すつもりか」

「残る分には構わん。ただ、また家中をまとめ直されるのは困る」


 俺の知っている歴史では、承禎と義治は観音寺を追われた後、蒲生や三雲の仲介で城へ戻っている。だが今回は、騒動が三年ほど早く起きたうえ、長政(ながまさ)も既に死んでいる。周りの事情がこれだけ違う以上、二人が戻るとしても、そこへ至る流れまで同じとは限らなかった。


 話が少し逸れたので、俺は政基の方へ向き直った。

「左京大夫殿と右衛門督は、そのうち観音寺へ戻るだろうな」

「何故でございます」

「蒲生も三雲も、六角そのものを潰したいわけじゃない。家中が割れたままでは、自分たちも困る。いずれ二人を戻そうと、間へ入るはずだ」

「では、その仲介を止めるのでございますか」

「いや、二人が戻ること自体は構わん。困るのは、二人を追い出した者たちまで手打ち(てうち)に応じて、また六角の下にまとまることだ」


 俺が畳の上へ地図を広げると、正利がそこへ目を落とした。

「ならば、六角へ戻りたくない者が、戻らずに済むよう支えてやればよいな」

「そういうことだ。橘に従えとまで迫る必要はない。六角の下へ戻らずにいてくれれば、それで十分だ」


 政基の目が、地図の愛智郡(えちぐん)で止まった。

「まずは、愛智郡からでございますか」

「ああ。六角と切れた以上、朝霧(あさぎり)から山を下りた先を、いつまでも向こうに任せてはおけない」


 朝霧は山に守られている反面、平地へ出る道は限られている。山を下りた先をすべて六角方に押さえられれば、外との行き来を妨げられ、村を守るにも支障が出る。


 俺は地図の朝霧から平地へ続く道を指した。

「橘に付く者は受け入れる。従う気がなくても、六角へ兵を出さないなら構わん」


 俺は忠治へ顔を向けた。

「三郎左衛門(さぶろうざえもん)、おりんを呼んでくれ」


 忠治は立ち上がり、廊下へ声を掛けた。ほどなく、おりんが座敷へ入ってきた。


 おりんは俺の前まで来ると、静かに膝をついた。

「御屋形様、お呼びでしょうか」

「愛智郡を回って、家々の話を聞いてきてくれ。家の大小は問わん。人を集めて槍を持たせられる家なら、一軒ずつ当たれ」

「聞くのは、橘へ従う気があるか、でございますか」

「それだけじゃない。六角へ兵を出すつもりか、どちらにも付かずにいたいのかも確かめろ。迷っている家には、何があれば動くのかも聞いてこい」


 おりんが地図へ目を落とした。

「鯰江(なまずえ)はいかがいたします」

「あそこは六角との縁が深い。無理に橘へ引き入れようとすれば、かえって警戒される。今までどおりの付き合いを続けておけ」


 俺は続けて、おりんに命じた。

「それと、蒲生郡の目賀田(めかた)には声を掛けろ。その気があるなら、どんな条件を望むかも聞いてこい」

「その場で約束はせず、伺った条件を御屋形様へお伝えいたします」

「そうしてくれ。もう一つ、目賀田には屋敷を移させる。目賀田山から、所領の光明寺野へ移るよう命じろ」

「承知いたしました」


 地図を辿っていたおりんの指が、小倉(おぐら)の辺りで止まった。

「小倉の東と西、それに青山(あおやま)にも声を掛けますか」

「ああ。そこまでは話を聞いてこい」

「宗家(そうけ)はいかがいたします」

「宗家は外しておけ」


 小倉の中がどう動くか、今はもう少し見ていればいい。こちらから宗家へ近づくのは、まだ早い。


 おりんが次の家を確かめた。

「後藤(ごとう)に縁のある方々には、どう伝えますか」

「どの家にも同じ条件を示せ。橘に従えとまでは言わん。ただ、六角との和睦(わぼく)には応じるなと伝えろ」

「和睦を拒んだために六角から兵を向けられた時は、橘が後ろを持つと伝えてよろしいのですね」

「ああ。ただし、助けを求められたら、その内容を俺へ上げろ。兵を出すか、米や鉄砲を送るかは、相手と状況を見て決める」


 おりんが地図を確かめ終えるのを待ち、俺はもう一つ言い添えた。

「高野瀬(たかのせ)から返事が届いたら、まず俺に知らせてくれ」

「承知いたしました」


 おりんは地図を畳んで懐へ収め、座敷を出ていった。続いて、千種から呼び寄せておいた秀吉(ひでよし)を中へ通させた。


 秀吉が一礼した。

「御屋形様、どのような御用でございますか」

「藤吉郎(とうきちろう)、お前には東円堂(とうえんどう)の叔父上(おじうえ)のところへ行ってもらう」


 春(はる)の実家である東円堂の浅見家(あさみけ)には、秀吉なら親類の顔で出入りできる。


 秀吉が用向きを尋ねた。

「承知しました。何を聞いてまいりましょう」

「六角へ戻りたがっているのは誰か、嫌がっているのは誰か。その辺りを聞いてこい。条件を詰める話になりそうなら、おりんに回せ」

「では、世間話のついでに聞いてまいります」

「酒を飲みに行くんじゃないぞ」

「世間話には酒も要りましょう」

「ほどほどにしろ」


 政基は呆れたような顔で、座敷を下がる秀吉の背を見送った。


 * * *


 その日の午後、可成(よしなり)を呼び、地図を広げた。可成は美濃(みの)へ抜ける道筋を目で辿った。


 可成が俺に尋ねた。

「美濃へ兵を出されますか」

「ああ。三左衛門(さんざえもん)、員弁(いなべ)から北へ進んで石津郡(いしづぐん)へ入れ。多良(たら)から関ヶ原(せきがはら)まで、道筋の斎藤方(さいとうがた)を掃除してくれ」

「落とした城は、どう扱いますか」

「玉城(たまじょう)は、近江の動きを見るために残す。兵を置き、街道の往来と西を見張らせろ」

「ほかの城にも兵を置きますか」

「いや。道を空けるのが目的だから、斎藤方が再び籠もれないようにしたら先へ進め。土地まで抱える必要はない」


 可成の指が菩提山(ぼだいさん)で止まった。

「竹中(たけなか)も斎藤方ですが、菩提山はいかがいたします」

「そこには俺が話をしに行く。まだ話はついていないが、三左衛門からは手を出すな。向こうが仕掛けてきた時だけ応じろ」

「承知しました。某は関ヶ原までの道を空けることを優先いたします」


 地図を畳みかけた可成が、手を止めた。

「斎藤へは、先に使者を出されますか」

「要らん。六角と組んで上総介殿と敵対した以上、こっちにとっても敵だ。わざわざ知らせて、備える時間を与える必要はない」


 可成は地図を畳み終え、それを手に一礼して下がっていった。


 俺の記憶では、義龍(よしたつ)の死はもう近い。だが、長政や観音寺騒動が既に史実から外れている以上、義龍だけが同じ時期に死ぬとは限らない。こちらが動くのに、その死を待つ必要はなかった。


 * * *


 数日後、高野瀬から返事が届いた。こちらの条件を受け入れ、橘へ従うという。浅井方(あざいがた)の先行きが定まらない以上、肥田(ひだ)一城で意地を張り続ける理由はないと踏んだらしい。


 成政(なりまさ)を呼んでその話を伝えると、少し考えてから俺を見た。

「御屋形様。某を肥田の城代(じょうだい)になされるので?」

「ああ。備前守(びぜんのかみ)はお前の下に付ける。土地も人も知っているから使え。ただし、城も兵も、もう自分のものではないと心得させろ」

「某の手の者も、連れていってよろしゅうございますか」

「構わん。これまでお前の下で動いていた者から選んで連れていけ」

「では、残る兵は誰に引き継ぎましょう」

「江野の大隊(だいたい)は、左近(さこん)に引き継げ」

「承知しました。引き継ぎを済ませ次第、肥田へ入ります」


 成政をその場に残し、引き継ぎの話をさせるために清興(きよおき)も呼んだ。


 清興が座敷へ入って一礼した。

「御屋形様、お呼びでしょうか」

「左近。内蔵助(くらのすけ)を肥田へ移すことにした。江野に残る大隊はお前に預ける」


 成政が清興へ顔を向けた。

「兵のことは今夜話す。帳面は先に渡すから、それまでに目を通しておけ」

「承知しました。よろしくお願いいたします、内蔵助殿」

「分からんことは聞け。やり方を勝手に変えるなよ」


 成政と清興を下がらせた。翌朝、可成が員弁から兵を出したとの報せを受け、俺も政基、忠治、正利を連れて江野を発った。


 * * *


 可成の軍勢とは別の道を取り、俺たちは少人数で多度から北へ抜けた。目指すのは菩提山だ。


 後ろを振り返った忠治が、馬を寄せてきた。

「御屋形様。本当に兵を連れずともよろしいので?」

「三郎左衛門、竹中とは話をしに行くんだ。城の下まで兵を連れていけば、初めから脅しになるだろう」

「ですが、別の道では三左衛門殿の兵が進んでおります。それだけでも、竹中には十分な圧になりましょう」

「それは三左衛門の仕事だ」

「その仕事を命じられたのは、御屋形様でございましょう」

「細かいことを言うな」


 前を歩いていた正利が振り返った。

「十兵衛(じゅうべえ)。半兵衛から土地も城も取り上げて、本人まで江野へ連れていくつもりか。それでは竹中に何も残らんぞ」

「竹中の家は残す。久作も菩提山に残すつもりだ」


 竹中久作重矩《たけなかきゅうさくしげのり》は、重治の弟だ。竹中家ごと迎えるなら、兄弟それぞれに何を任せるかも決めておかなければならない。


 正利は俺を見たまま、言葉を継いだ。

「家は残すと言っても、半兵衛は所領も城も手放すことになる。そう簡単には飲めまい」

「俺が見込んだとおりの男なら、土地にしがみつくより、手放した後に何ができるかを考える」

「随分と買っているな」

「だから、こうして直接会いに行くんだ。それでも迷うようなら、勘九郎(かんくろう)にも一言添えてもらう」


 正利が俺に問い返した。

「わしを連れてきたのは、そのためか」

「ああ。実際に土地を失っても生き残った奴の言葉なら、俺が言うより重いだろ」

「随分と都合よく使うものだな。……今から帰ってもよいか」

「駄目だ」


 正利は不満そうだったが、それ以上は言い返さなかった。菩提山が近づいたところで、先に出していた使いが戻り、城内へ通すとの返事を伝えてきた。


 * * *


 座敷へ通されると、細身の若い男が待っていた。新九郎(しんくろう)を通じて何度かやり取りしてきた相手だが、顔を合わせるのはこれが初めてだった。


 重治(しげはる)は俺に一礼すると、政基、忠治へと順に目を向けた。だが、正利を見たところで、その視線が止まった。


 重治が思わず声を漏らした。

「……山城守(やましろのかみ)様」

「今は、西村勘九郎だ」

「……失礼いたしました。勘九郎殿」


 名を言い直した後も、重治は正利を見ていた。

「新九郎殿から、生きておられるとは聞いておりましたが、こうしてお目にかかれるとは思っておりませんでした」

「わしが死んだことになっていた方が、都合のよい者もいる。それだけだ」


 正利に続いて、俺たちも座った。重治の少し後ろには、弟の重矩が控えていた。


 重治は俺へ向き直ると、まず用向きを確かめるように口を開いた。

「十兵衛殿が某を召し抱え(めしかかえ)たいとのお話は、新九郎殿から伺っております」

「ああ。あの時は半兵衛一人が欲しかった。だが今は、竹中家ごと迎えたい」


 重治の顔から、それまでの穏やかさが消えた。

「某一人ではなく、竹中家ごと斎藤に背けと仰るのですか」

「そういうことだ。遠回しに言っても仕方ないからな」


 重治は少し間を置き、それから話を変えた。

「先日、橘の兵が石津郡へ入ったとの報せがございました」

「三左衛門に、多良から関ヶ原までの斎藤方を掃除させている。ただし、菩提山には手を出すなと命じてある」

「某が断れば、次はここへ兵を向けられるので?」

「断るなら、今日はこのまま帰る。すぐに菩提山を攻める気はない。ただ、斎藤方としてこちらへ兵を向けてくるなら、その時は戦う」

「それでは、あまり違わぬようにも聞こえます」

「少なくとも、今日ここで決めろと迫っているわけじゃない。考えた上で斎藤に残ると言うなら、それは半兵衛が決めることだ」


 重治が正利へ目を向けた。

「勘九郎殿は、斎藤に残るのと橘へ従うのでは、どちらがよいとお考えですか」

「わしなら橘を選ぶ。この先を考えれば、その方がましだと思っている」

「この先、とは?」

「先をどう読むかも、自分で考えろ。誰に従うかまで、わしが決めてやることではない」


 正利らしい答えを聞き、俺は重治へ目を戻した。


 義龍の後には、斎藤喜太郎龍興《さいとうきたろうたつおき》が控えている。俺の知る歴史では、家督を継いだ龍興は重治を軽んじ、寵愛(ちょうあい)する家臣ばかりを近くに置くようになった。重治はその一人から散々侮辱され、ついには少人数で稲葉山城(いなばやまじょう)を乗っ取っている。


 話がどこまで本当かは分からないが、二人の相性がよかったとは思えなかった。


 俺は重治に忠告した。

「半兵衛。喜太郎には仕えない方がいい。お前が嫌な思いをするだけだ」

「若殿(わかとの)は、まだ家督を継いでおられませんが、先々は合わぬとお考えなので?」

「ああ。半兵衛は、違うと思ったことを黙って飲み込めないだろう」

「……否定はいたしませぬ」

「なら、喜太郎とは合わん。お前が正しいと思って言っても、あいつが聞き入れるとは限らんからな」


 正利が横から笑った。

「その点、十兵衛のところなら困らんぞ。わしが好きに物を申しても、弦十郎も三郎左衛門も止めはせん」

「止めたところで、勘九郎が聞かないだけだろ」

「まあ、それもそうだ」


 重治の口元も少し緩んだが、すぐに表情を改めた。

「では、条件を伺います。竹中が橘へ従った場合、所領は安堵(あんど)していただけますか」

「いや、安堵はしない。土地も菩提山も橘が預かり、兵は橘の兵として組み直す。年貢(ねんぐ)を取る権利も、竹中には残さない」


 後ろに控えていた重矩が、初めて口を開いた。

「それで、竹中の家は残ると仰るのですか」

「家は残す」

「土地も城も失って、何が残るというのです」

「人だろ」


 重矩が黙る一方、重治は俺から目を逸らさなかった。

「十兵衛殿にとって、家と土地は別のものなのでございますか」

「別だ。橘では家を残すと認めても、城や土地、兵までそのまま任せるとは限らない」

「橘に従うと誓った家でも、でございますか」

「誓った後も城や土地、兵を前と同じように使えるなら、口で従うと言っただけで何も変わらないからな」

「土地を離れても、家は絶えぬと。十兵衛殿も、朝霧から江野へ移られた時、そうお考えになったのでございますか」

「ああ。朝霧は生まれ育った土地だが、家を続けるためにそこへ住み続ける必要はない。江野へ移っても、俺たちは橘のままだ」


 黙って聞いていた正利が、そこで重治へ口を開いた。

「半兵衛。その話なら、わしを見ればよかろう。昔の所領も城もなく、名まで捨てた身だが、それでもこうして生きている」

「それで、よろしかったのですか」

「よいわけがあるか。失って嬉しい者などおらん。だが、土地を失ったからといって、人まで終わるわけではない」

「されど、城と土地を手放した竹中は、もう竹中ではなくなりましょう」

「そう思うなら、昔のものにしがみついて一緒に潰れればよい。そうでなければ、捨てるものを決めて先へ行くことだ」

「……それを決めるのは、竹中の者だと仰るのですね」


 重治はしばらく黙っていたが、やがて弟へ目を向けた。

「では、久作も某とともに江野へ移るのでございますか」

「いや、久作には菩提山に残ってもらう。城は橘のものとし、俺から久作を城代に任じるつもりだ」


 重矩がこちらへ向き直った。

「兵も、橘の兵として某が預かるのでございますか」

「ああ。今いる者を全部追い出すつもりはない。使える者は、そのまま残す」


 重治が弟へ向き直った。

「久作。お前はどう思う」

「兄上がお決めになることに、従います」

「それでは聞いた意味がない。お前の考えを申せ」

「では申し上げます。斎藤と橘が争えば、ここもいずれ巻き込まれ、竹中だけでは両方を相手にできませぬ。城より、一族(いちぞく)を失う方が怖うございます」

「簡単に申すな」

「簡単に申しているつもりは、ございませぬ」


 重治と重矩がしばらく黙って見合っていると、正利が声を落として俺に耳打ちした。

「弟の方が、腹を決めるのは早そうだぞ」


 重治は弟から目を外さないまま、それに答えた。

「聞こえております、勘九郎殿」


 重治の視線がこちらへ移ると、正利は何事もなかったような顔で口を閉じた。


 重治は改めて俺に尋ねた。

「もう一つ伺います。江野へ移った某に、何をさせるおつもりです」

「まずは善祥坊(ぜんしょうぼう)の下に付いてもらう。橘の軍の動かし方を覚えるまで、兵は預けない」

「某を欲しがっておられると聞き、すぐにでも兵を預けられるものと思っておりました」

「欲しいのと、会ったその日に何百人も預けるのは別だ。兵糧(ひょうろう)の回し方ひとつ、お前はまだ橘のやり方を知らん」

「帳面まで覚えろと?」

「当然だ。何人食わせるか分からないで、兵は動かせない。使番(つかいばん)を出せば、命令が届いたかまで確かめる。そこまでが軍の動かし方だ」


 重治は少し間を置いてから頷いた。

「橘のやり方を覚えさせ、その働きで某の使い道を決める、ということですな」

「そうだ。噂は聞いているが、お前がどこまで使えるかは、まだこの目で見ていない」


 座敷に短い沈黙が落ちたところで、正利が吹き出した。

「半兵衛、随分と買われておるぞ」

「今の話の、どこがでございますか」

「使えるか分からん男のために、十兵衛がわざわざ自分で菩提山まで来たのだ。それで十分だろう」


 俺は正利を横目で睨んだ。

「勘九郎、余計なことを言うな」


 重治が、初めてはっきりと笑った。その笑みを収めると、弟へ一度目をやってから、俺に向き直る。

「十兵衛殿。少し、久作と話してもよろしいでしょうか」

「ああ、いいぞ」


 兄弟を座敷に残し、俺たちは別の部屋へ移った。待つ間に、政基が声を落として言う。

「御屋形様。半兵衛殿ほど見込んでおられても、そこは特別扱い(とくべつあつかい)なさらぬのですな」

「竹中の当主だったからといって、橘でも最初から兵を好きに動かせると思われたら困る。俺だって善祥坊から教わったんだ。半兵衛だけ飛ばす理由はない」


 正利が壁にもたれたまま口を挟んだ。

「従えば、の話だがな」

「勘九郎があれだけ言ったんだ。従わなかったら責任を取れよ」

「何の責任だ」


 しばらくして、座敷へ呼び戻された。重治と重矩は並んで座っており、俺たちが腰を下ろすのを待ってから、重治が両手をついて頭を下げた。

「十兵衛殿。竹中家は、橘へ従います」

「分かった」


 一度顔を上げた重治は、呼び方を改めて、もう一度頭を下げる。

「御屋形様。以後、お仕えいたします」

「よろしく頼む、半兵衛」


 重矩も兄に続いた。

「御屋形様。菩提山の城代の件、謹んでお受けいたします」

「頼む、久作。まずは城の兵と蔵を改めてくれ。何人いて、何を持っているか、分かるようにしておいてくれればいい」


 話がまとまったところで、廊下が騒がしくなった。重矩が声を掛けると、戸口から返事がある。

「申し上げます。三左衛門殿より、御屋形様へ早馬(はやうま)にございます」

「入れ」


 土埃(つちぼこり)を被った男が入ってきて、俺の前に膝をついた。

「石津郡の斎藤方を退け、兵は牧田まで進んだとのことにございます」

「三左衛門には、予定どおり進めと返せ。菩提山が橘へ従ったことも伝えてくれ」


 使者が下がるのを待って、重治がこちらへ顔を向けた。

「某の返事を待たずに、牧田まで兵を進めておられたのですね」

「菩提山の話と軍道(ぐんどう)の確保は、別の話だからな」

「では、もし某がお断りしていたら、その後のことは、その時にお考えになるおつもりだったので?」

「ああ、そうだ」


 重治はしばらく黙り込み、それから正利へ目を向けた。

「勘九郎殿。御屋形様は、いつもこのような御方なのでしょうか」


 正利は考える振りをしてから答えた。

「半兵衛。もう従ったのだ。諦めろ」


 政基と忠治が声を上げて笑う中で、重治だけが、これから先を案じるような顔をしていた。

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