第119話 観音寺騒動
永禄三年(1560年)、九月。
近江国、蒲生郡、石寺、観音寺城。
野良田の一件のあと――六角義治
野良田の敗戦から、ひと月が過ぎた。長政は死に、鉄砲傷を負った久政も浅井勢を率いて小谷へ退いた。それでも、二万を超える兵を集めた六角が、その半分にも満たぬ浅井勢に押し崩された事実は消えない。
しかも、長政を討ったのは橘だった。その嫡男は家臣らの面前で承禎の差配を責め、わしのことまで無能だ何だと言い放った。わしも言い返しはしたが、それで屈辱が消えるわけではない。あの言葉を思い出すたびに、腹立ちがぶり返してくる。
そのせいか、こうして承禎の前に座っていても、話はろくに頭に入らず、庭先の向こうの普請場から響く槌音ばかりが耳についた。
やがて承禎が、わしの名を呼んだ。
「右衛門督。これからの家中の差配は、そなたに任せる」
「父上は、いかがなさるおつもりでございますか」
「儂の差配した野良田では負け、十兵衛との仲もあれほど拗らせた。これ以上儂が前に出たところで、同じことを繰り返すだけよ」
家督はすでにわしが継いでいるが、大事を決めるのは今も承禎だ。諸将も奉行も、最後には承禎の判断を仰ぐ。その差配を、本当にわしに任せるというのか。
その言葉に、わしは思わず承禎へ問い返した。
「では父上は、十兵衛の申したことを、お認めになるのでございますか」
「あやつを庇う気はない。ただ、的外れとも言い切れぬ。もはや、どちらが正しいかを論じる気も失せた」
「あの男は、六角などいつでも潰せると申したのでございますぞ。織田へ鞍替えするとまで、申しておりました」
「どちらも、聞いておった。それがどうした。好きにさせておけ」
「好きにさせよと仰せならば、何故わしに差配を任せるのでございますか」
「このままでよいとは思わぬ。だが、どうすればよいかも、もう分からぬ。この先の六角は、家督を継いだそなたが決めよ。儂は口を出さぬ」
承禎の声は、責めるでも諭すでもなく、ただ疲れ切っていた。わしの返事を待つその顔を見て、わしは頭を下げた。
「……承知いたしました」
ようやく、名ばかりでなく、家中を差配する当主になれる。まず手を付けるべきは浅井だ。今度こそ、六角の手で潰さねばならぬ。
長政は死んだが、浅井はまだ健在だ。重傷の久政が小谷へ戻り、家督は長政の弟の政元が継いだ。その政元を義景が後見し、兵や兵糧を送って立て直しを図っているという。長政を失って間もない今を逃せば、浅井に再び兵を整える暇を与えてしまう。
そこでわしは、美濃の斎藤へ使者を送り、義龍と手を結ぶことにした。六角が南から浅井を攻める間、美濃からも圧力を掛けてもらう。朝倉が兵を出してくるなら、その動きも見込んで備えればよい。
ところが、話を聞いた承禎は、すぐさま反対した。
「治部大輔と結ぶなど、ならぬ。土岐を追って美濃を奪い、父まで討ったと言われる男ぞ。出自も怪しい相手と、軽々しく手を結ぶものではない」
「浅井には、朝倉がついております。こちらにも、味方が要りましょう」
「それで、治部大輔を頼ると申すか」
「頼るのではございませぬ。敵の敵を、使うだけにございます」
承禎の眉間に、皺が寄った。いつもなら言葉を選び直すところだが、今度ばかりは引く気になれない。わしは、そのまま言い返した。
「これからの差配は、わしに任せると仰せになったではございませぬか。ならば、この件もわしに決めさせてくだされ」
「……好きにせよ」
承禎の反対を押し切ったのは初めてで、本当にこれでよかったのかという戸惑いも残った。だが、斎藤と結ぶと決めた以上、織田との関係もこのままにはしておけぬ。
六角は賢政の仲立ちで信長と盟約を結んでいるが、その織田と斎藤は敵対している。しかも賢政は、橘と織田の親しさをひけらかし、鞍替えするとまで言い放った男だ。その賢政が取り持った盟約に、この先も頼るつもりはない。
わしは使者を呼び、尾張へ向かわせた。
「上総介に伝えよ。織田との盟約は破棄する」
「よろしいのでございますか」
「治部大輔と結ぶのだ。織田との盟約は、もう要らぬ。わしの決定として、そのまま上総介へ伝えよ」
使者は、その日のうちに観音寺を発った。橘が織田とどれほど親しくしようと、六角が誰と結ぶかは、わしが決める。
次に考えねばならぬのは、家中のことだった。中でも宿老の賢豊は長く政務を担い、承禎の信任も厚い。諸将も何かあれば、まず賢豊のもとへ相談に行く。おまけに、その賢豊は賢政の舅なのだ。
わしは、賢豊と嫡男の壱岐守を観音寺へ呼び出した。座敷に通された二人は落ち着き払い、わしが口を開くのを待っている。その顔を見ていると、こちらの出方を見定められているようで、面白くなかった。
わしは賢豊に問いかけた。
「但馬守。先日の十兵衛の無礼は、そなたも見ておったな。舅として、どう考えておる」
「婿殿の物言いが過ぎたことは認めます」
「ならば、何故その場で止めなんだ」
「右衛門督様とお言葉を交わしておられるところへ、某が口を挟むべきではないと存じました」
わしは、賢豊にさらに詰め寄った。
「そなたの娘婿であろう。止めることもできなんだのか」
「娘婿であると同時に、橘家の嫡男でもございます。某の言葉に、軽々しく従う立場ではございませぬ」
「ならば、あれほどの無礼も、そなたには関わりがないと申すのか」
「関わりがないとは申しませぬ。ただ、婿というだけで、十兵衛殿に命じる権限は、某にはございませぬ」
賢豊は目を伏せることもなく、まっすぐにわしを見返していた。賢政と、同じことを言う。舅までもが、あの男の言い分をわしに押し通そうとするのか。
わしは、斎藤との盟約へ話を移した。
「治部大輔と結ぶことにも、そなたは反対しておるそうだな」
「慎重になさるべきだと、申し上げたまでにございます」
「織田との盟約を切ることにもか」
「はい。浅井は朝倉の支えで立て直しを図っております。今、織田との盟約を切って橘との仲まで損ねれば、浅井のほかにも敵を抱えかねませぬ」
「橘を、敵と申すか」
「敵に回してはならぬ、と申し上げております」
堪えきれなくなったように、壱岐守が口を挟んだ。
「十兵衛殿は、いずれ家中の中心となる若手にございます。意にそぐわぬからといって、邪険になさるべきではございませぬ」
「何だと! 主君の意に沿うてこその家臣であろう」
賢豊が、壱岐守の言葉を引き取った。
「一時の直言を聞き流し、お許しになるのもまた、主君の役目にございます」
賢豊は言葉を濁さず、落ち着いた口調も崩さなかった。それがかえって癇に障り、わしは声を荒らげた。
「わしに、十兵衛へ頭を下げよと申すのか」
「そのようなことは、申しておりませぬ」
「ならば、黙って従え。当主は、わしだ」
「当主であられるからこそ、申し上げております」
賢豊は、わしの決めたことを一つずつ覆すつもりなのか。承禎の下で家中を差配していた頃と、何も変わっておらぬ。わしは、賢豊を問い詰めた。
「父上の代から家中を預かってきたからといって、わしの差配にまで口を出すつもりか」
「某は、六角のために申し上げております。耳に痛いことを申す者まで遠ざけては、家中はまとまりませぬ」
脳裏に、賢政の顔が浮かんだ。あの時わしは、承禎が甘いから橘が増長したのだと言った。そして今度は賢豊までもが、わしを当主と呼びながら、その差配に従おうとせぬ。
わしは賢豊の言葉を遮った。
「もうよい」
「右衛門督様、どうかお聞きくだされ」
「黙れ!」
わしは座敷に控えていた種村三河守道成と、建部日向守へ顔を向けた。
「三河守、日向守。但馬守と壱岐守を討て」
「……は?」
「聞こえなんだか。二人とも、わしに無礼を働いた。討てと申しておる」
道成と日向守は顔を見合わせたものの、わしの顔を見ると、それ以上は問い返さなかった。賢豊が身を乗り出して制止した。
「右衛門督様、お待ちくだされ」
「二人とも連れていけ」
「某を討っても、これで済むことではございませぬぞ!」
「黙れ!」
賢豊と壱岐守は座敷から引き立てられ、その日のうちに討たれた。わしは家中に、当主に無礼を働いたゆえ討ったと触れさせた。それで皆も納得すると、本気で思っていたのだ。
だが翌日から、廊下で話していた者たちは、わしの姿を見ると口を閉ざすようになった。使番を出しても、なかなか返事が来ない。永田、三上、池田、進藤、平井の諸家まで、賢豊父子を討ったことに不満を抱いているという。
当主が、無礼を働いた家臣を討っただけではないか。それが何故、ほかの者まで従わなくなる理由になるのだ。北では、政元が朝倉の支えを受けて兵を整え始めているという。家中には、橘や浅井へ使いを出した家まであると聞かされた。
十月に入る頃には観音寺を離れる家臣が増え、七日には、永田や三上をはじめとする諸家がついに兵を動かした。
座敷へ駆け込んできた者が、息を切らして報せた。
「右衛門督様! 城下へ兵が入っております!」
「門を閉めよ!」
「城内にも、それに呼応する者が出ております!」
「何をしておる! その者らを斬れ!」
命じても、兵は思うように動かない。外から攻められるだけでなく、城内にもわしに従わぬ者がいる。唾を飲み込んだが、喉は渇いたままだった。
具足を着けた承禎が座敷へ入ってきた。
「右衛門督、城を出るぞ」
「父上、まだ兵はおります!」
「そのうちの誰が味方かも、分からぬではないか」
「ここは観音寺にございます! 六角の城を捨てるのですか!」
「では、死ぬまで籠もるつもりか!」
外から、鬨の声が上がった。ようやくわしが差配を預かり、義龍とも手を結んだというのに。浅井を潰し、六角を立て直すはずだったわしが、何故城を捨てて逃げねばならぬのだ。
承禎がもう一度、わしを急かした。
「早う参れ!」
わしは立ち上がり、承禎とともに座敷を出た。本当に観音寺を捨てるのか。その意味を考える余裕もないまま城外へ逃れ、振り返ると、山の上にはまだ灯が見えた。あそこに残った者のうち、誰がわしの帰りを待っているのか、もう分からなかった。
* * *
十月に入り、江野へ戻っていた俺のもとへ、新九郎が駆け込んできた。息を切らし、普段の報告では見せない顔で口を開いた。
「十兵衛様、観音寺から急ぎの報せにございます。後藤但馬守殿と壱岐守殿が、お討たれになりました」
「……誰に」
「右衛門督様が命じられ、種村三河守と建部日向守の両名が手を下したとのことにございます」
賢豊が、死んだ。その言葉は確かに耳に入ったのに、何から確かめればいいのか、すぐには頭が回らなかった。
しばらく間を置いて、俺はようやく新九郎に問いかけた。
「何があった」
「無礼を働いたためと触れられております」
「何を言ったんだ」
「但馬守殿は、治部大輔との盟約、織田との盟約破棄、それに十兵衛様のことで諫言なさったとのことにございます。その後、討つよう命じられたと聞いております」
俺の頭に、すぐ後藤喜三郎高治のことが浮かんだ。賢豊の次男で、壱岐守まで討たれた今、後藤の家を継ぐのはあいつしかいない。
俺は、新九郎に問いただした。
「喜三郎は、どこにいる」
「後藤領におります」
「すぐに瑞鳳衆を出せ。護衛も付けて、喜三郎を朝霧へ逃がせ」
「手の空いている者を、直ちに向かわせます」
「屋敷の者も、逃がした方がいい者は一緒に連れていけ。荷造りは後回しでいい。まず人を逃がせ」
新九郎が出ていった後も、俺はしばらく動けなかった。高治まで殺されれば、後藤家は本当に終わる。この先への不安は尽きないが、今は何より、綾に知らせなければならない。ほかの誰かに任せず、俺の口から伝えたかった。
部屋へ入ると、綾は俺の顔を見て縫い物の手を止めた。そのまま縫い物を膝に置き、俺に尋ねる。
「何か、ございましたか」
「綾。舅殿と壱岐守殿が討たれた」
「……父上と、兄上が」
「ああ。右衛門督の命だ」
綾の顔から血の気が引き、膝の上の縫い物が畳へ滑り落ちた。傾いた体を支えようと手をついたが、顔は俯いたままで、やがて背中が震え始める。
「父上……兄上……」
綾の声は途切れ、その合間に何度も息が漏れた。俺は隣に座り、声を掛けようとしたが、どんな言葉も軽い慰めにしかならない気がして、口を開けなかった。障子の外では風が鳴っている。
俺は綾の肩に手を置き、言葉をためらいながらも口を開いた。
「綾。俺が右衛門督を怒らせたばかりに、こんなことになった」
綾は両手で袖を握りしめ、俯いたままだった。俺はその横顔を見つめながら、言葉を続けた。
「俺を許せとは言わない。だが、仇は取る」
綾は何も答えず、俺の袖をつかんで泣き続けた。俺はその肩を抱き、隣に座っていた。今は言葉を重ねるより、こうしてそばにいたかった。
今の綾を一人にはしておけなかった。俺はその日のうちに朝霧へ使いを出し、春を江野へ呼んだ。
* * *
数日後、新九郎が観音寺の続報を持って訪れた。
「十兵衛様。永田、三上、池田、進藤、平井らが兵を挙げ、右衛門督様と大殿は観音寺城を出られたとのことにございます」
「観音寺を追い出されたのか」
「はい。兵を挙げた者の中には、浅井方へ通じている者もおります。玄蕃頭は朝倉の支援を受け、北から兵を動かす備えを整えつつあるようです」
そこまで聞いて、俺の知っている歴史と繋がった。義治が賢豊父子を殺し、反発した家臣たちに観音寺を追われる――観音寺騒動だ。ただ、俺の記憶より三年ほど早い。
俺が長政を殺したことで、浅井では政元が家督を継ぎ、その後ろに朝倉がついた。観音寺でも、俺が義治を散々煽った末に、その怒りが賢豊へ向けられた。本来ならいずれ起きる出来事だったとしても、俺の行動が時期を早めたことは否定できない。
俺が黙り込んでいると、新九郎が声を掛けた。
「十兵衛様」
「ああ。これで六角とは終わりだ」
「よろしいのでございますか」
「舅殿を殺されて、それでも主家だからと従い続けるつもりはない」
まだ数年は猶予があり、承禎とも話ができると思っていた。だが、義治が賢豊を殺し、反発した家臣たちが義治を城から追い出した今、六角家はすでに割れている。これ以上、従い続ける理由はなかった。
俺は新九郎に告げた。
「九郎を呼んでくれ」
ほどなくして、光秀が旅装のまま現れた。袴の裾に土を付けたまま、俺の前に座る。
「お呼びにございますか」
「ああ。北伊勢から六角の勢力を一掃する」
「梅戸でございますか」
「そうだ」
俺は地図を広げ、梅戸城を指した。
「まずは使者を出せ。城を明け渡し、六角と手を切って橘に従うなら受け入れる。土地も兵も武器もこちらで預かるが、命は保証する」
「拒んだ場合は、いかがいたします」
「攻め潰せ。梅戸の者は、女子供に至るまで一人残らず根切りだ」
「よろしいのでございますか」
「降る道は先に示す。それでも六角方に残ると決めるなら、二度と北伊勢で旗を上げられないようにする」
生き残った六角の血筋が、この北伊勢に再び足場を築く。それだけは、許すわけにいかなかった。
俺は地図から顔を上げた。
「返答には期限を切れ。待つ間に兵を整え、降れば城を受け取れ。断れば攻めろ」
「明朝、使者を発たせます。直轄連隊も、返答が届き次第出立できるよう、準備を整えておきます」
「総大将は九郎だ。三河勢も加えて、直轄連隊を全部使え。梅戸の後は、北伊勢に残るほかの六角方だ。降る者は受け入れるが、逆らうなら潰せ」
「では、そちらも返答を待つ間に調べておきます」
光秀が一礼して部屋を出ていくのを見送った。これまでは六角の国衆として領地を広げてきた。だが、これから先、六角のために戦うつもりはない。
翌朝、梅戸へ向けて使者が走った。その後を追って、光秀率いる直轄連隊が三河勢とともに江野を発つ。俺は出立する光秀を見送り、次の支度に取りかかった。
* * *
数日後、春が朝霧から江野へ来た。高治も無事に朝霧へ入ったとの報せが届いている。後藤家の先行きはまだ決められないが、今はまず、生き残ってもらうことが先だった。
俺は春に綾のことを託した。
「しばらく、そばにいてやってください」
「言われずとも、そのつもりです」
俺と義治の諍いも、賢豊が殺されたことも、春はすでに聞いているようだった。詳しい事情を尋ねることはせず、俺の旅支度に目を向ける。
「十兵衛は、どうするのです」
「尾張へ行きます」
「織田へ、ですか」
「はい。盟を結んできます」
義治には、高野瀬でさえ寝返ったのだから、橘が織田へ鞍替えしてもおかしくないと言い放った。だが、信長の家臣になる気はない。六角が織田との盟約を破って義龍と結んだ今、こちらも遠慮なく、織田と対等に盟約を結べる。
春が念を押すように尋ねた。
「六角を通さずに、ですか」
「もう六角に従う理由はありませんから」
春はしばらく俺を見つめていたが、やがて頷いた。
「綾のことは任せなさい」
「お願いします」
春と別れて支度へ戻る途中、綾の部屋の前を通りかかった。障子越しに、春の柔らかな声が聞こえてくる。あの後、綾のもとへ寄ってくれたらしい。俺は足を止め、しばらくその語りかけに耳を傾けた。
仇は取る。だが、今すぐ観音寺へ兵を向けるわけにはいかない。まずは北伊勢から六角方を追い出し、橘の名で織田と盟を結ぶ。
支度を終えた俺は、政基たちを連れて江野を発った。色付き始めた街道沿いの木々の間を抜け、尾張へ向けて馬を進めていく。




