第118話 牙を見せ、帆を上げる
永禄三年(1560年)、八月。
近江国、愛知郡、愛知川、河原。
野良田を離れた俺たちは、観音寺へ向かう途中、愛知川の河原で一夜を明かすことにした。橘の六百は隊を崩さずに退いてきており、陣を敷くのにも手間はかからなかった。
使った火薬と弾丸の分を補充させ、火皿や火縄の状態も検めさせた。手入れを済ませた者から具足を外し、休むよう命じた。
日が暮れても、南へ退く六角勢の列は途切れず、声もなく歩く兵たちの足音が川音に紛れていた。俺はその列を横目に具足を外し、焚き火の傍らに腰を下ろした。
狙い通り、長政は仕留めた。あとは承禎へ報告すれば、江野へ帰れる。そう考え、兵たちに寝る前の火の始末を命じてから、俺も休むことにした。
翌朝、川霧が残るうちに陣を畳み、出立した。兵たちにはまだ疲れが見えたが、具足を外して一晩眠れたせいか、足並みは揃っていた。
出立の支度が整うと、政基が行き先を確かめた。
「十兵衛様、このまま観音寺へ向かわれますか」
「参陣した以上、報告くらいはしておかないとな」
「昨日の敗戦の後では、大殿の御機嫌もよくはありますまい」
「俺が負けさせたわけじゃないだろ」
政基は何か言いかけて、口を閉じた。報告だけでは済まないと思っているのだろう。俺は六百を率い、六角勢が退いた道を通って観音寺へ向かった。
* * *
観音寺では、まだ敗戦の後始末が続いていた。門をくぐる兵の中には負傷者もおり、庭先には泥まみれの具足や槍が並んでいる。廊下を行き交う使番は、戻っていない兵や諸将の所在を確かめていた。
案内された座敷には、承禎や義治をはじめ、六角の諸将が集まっていた。俺が入ると一斉に顔を向けたが、誰も声を掛けてはこなかった。
賢豊の姿を見つけ、無事に戻ったことを確かめてから座に着いた。承禎が俺へ声を掛けた。
「十兵衛、橘勢は無事か」
「はい、無事に戻っております。戦果についても、御報告がございます」
「申してみよ」
「敵の総大将、浅井備前守を討ち取りました」
承禎は俺を見たまま、言葉を失った。諸将の顔が一斉にこちらへ向く中、義治が身を乗り出した。
「戯言を申すな」
「事実にございます」
「昨日、我らは総崩れとなったのだぞ。その最中に備前守を討ったと申すのか」
「はい」
「どうやって討った」
「鉄砲で撃ちました」
義治は顔を赤くし、声を荒らげた。
「そういうことを聞いておるのではない!」
どうやって討ったかと聞いたから、答えたんだろうが。ほかに何を聞きたいんだ。
承禎が手を上げて義治を制し、俺に確かめた。
「十兵衛。討ったのは、確かに備前守なのだな」
「はい。瑞鳳衆に確かめさせ、浅井方が遺骸を収めるところまで見届けております」
「では、下野守はどうなった」
「鉄砲で重傷を負い、小谷へ運ばれたとのことにございます」
「……備前守が死に、下野守までか」
そこへ廊下を駆けてくる足音が響き、使番が座敷の前に膝をついた。
「申し上げます。浅井備前守が討死し、下野守も重傷を負って小谷へ運ばれたとの報せにございます」
「まことか!」
「はっ。浅井勢も既に兵を引き揚げております」
座敷がざわめいた。昨日は勝ったと思った矢先に総崩れとなり、肥田城も落とせずに戻ってきた。その六角を破った浅井も、当主を失って退いたという。諸将が隣と囁き合い、使番に詳しい話を求める中、義治だけは黙ったまま俺を見ていた。
承禎は使番を下がらせ、改めて俺に尋ねた。
「十兵衛、退く途中、橘勢が合流してこぬのを気にしておった。備前守を討つために残っていたのか」
「はい。初めから、備前守ただ一人を狙っておりました」
「初めから、か……」
何人かが顔を見合わせた。六百丁もの鉄砲を、一人を討つために揃えたと知れば、驚きもするだろう。
承禎はしばらく黙ってから、問いを続けた。
「ならば、味方が崩れ始めた時、何故支えに回らなんだ」
「その時はまだ、備前守が射程に入るのを待っておりました」
「味方を支えるより、備前守を待つ方を選んだというのか」
「はい。あそこで撃てば、こちらに気づかれます。討つ機会を逃すわけにはまいりませんでした」
「そなたも六角の家臣であろう。備前守を討つにしても、まずは崩れた味方を支えるべきではなかったか」
承禎の声には、戸惑いが滲んでいた。俺の判断が、どうにも腑に落ちないらしい。
「六角勢が崩れたのは、某のせいではございません」
「それは分かっておる。だが、六百丁もあったのだ。備前守を狙うほかにも、使いようはあったであろう」
要するに、長政を討つより、崩れた味方を立て直せと言いたいのだろう。だが、六角は浅井の倍以上の兵を揃え、先陣も二陣も、その後ろの本陣まで置いていた。それで総崩れになっておいて、俺の兵でどうにかしろと言われても困る。
俺は、承禎を正面から見据えた。
「総崩れを招いたのは大殿の差配であって、某ではございません。某がいなければ、六角はただ逃げ帰っただけでございます」
座敷が静まり返った。承禎が顔を強張らせる中、義治が立ち上がった。
「父上の差配のせいだと申すか! わしの家臣ならば、主家のために兵を働かせるのが筋であろう!」
「わしの家臣と仰いますが、某は右衛門督殿の直臣ではなく、国衆にございます。それに、備前守を討ち取った以上、働きがなかったとは言わせません」
「それだけで、味方を支えなんだことまで済ませるつもりか!」
「では、あの総崩れを立て直せなかった責まで、某に負えと仰せですか」
「誰がそこまで申した!」
「先ほどから、そう仰っているように聞こえますが」
義治がなおも言い返そうとすると、承禎が手を上げて制した。
「右衛門督、もうよい」
義治が不満そうに座り直すと、承禎は俺へ向き直った。
「十兵衛、父上が橘について申されたことを、覚えておるか」
昔、そんなことを言っていたな。確か、橘を太らせれば噛みつくと言った承禎に、定頼が、ならば六角の内で太らせよと答えていたはずだ。勝手に太れば咎め、役に立つうちは使えばいい、とか何とか。
承禎は、あの時と同じ考えを口にした。
「父上は、橘を六角の内で太らせ、役に立つなら使えばよいと申された。今も、その考えは変わっておらぬ」
「では伺いますが、橘を太らせるために、六角は何をしてくださいましたか」
「北伊勢の一件を忘れたわけではあるまい」
「あれは橘が自ら切り取り、治めた土地にございます。頂いたのは切取次第の御許しだけで、兵も銭も兵糧も橘で賄えと仰せになったのは、大殿ではございませぬか」
承禎が口を開きかけたが、俺は構わず言葉を継いだ。
「六角が橘を太らせたと仰るなら、昨日の戦で、橘を守るために何をしてくださいましたか」
承禎は答えず、俺はさらに続けた。
「六角勢が崩れる中、橘は備前守を討ち、自力で退きました。その働きを認めるより先に、味方を支えなかったことを咎められるのであれば、こちらにも申し上げたいことがございます」
承禎はしばらく俺を見つめた後、声を抑えて答えた。
「十兵衛。切取次第の許しを、ただの紙一枚と思われては困る。あれがあったからこそ、橘も北伊勢へ大手を振って兵を出せたのであろう」
「名分を頂いたことは承知しております。ですが、実際に兵と銭を出し、戦って土地を取ったのは橘にございます」
義治が再び身を乗り出した。
「六角の内にありながら、父上によくもそのような口を利けるな!」
「右衛門督、もうよい」
「よくありませぬ。橘が領地を広げ、兵を増やせたのも、父上と祖父上がお許しになってこられたからではございませぬか」
「そのことは、今、儂からも申した」
「ならば、六角の力など借りておらぬと言わんばかりの物言いを、なぜお許しになるのです!」
思わず、笑いが漏れた。昨日は総崩れになった上、自分はさっさと逃げ帰ったくせに、今日になって、橘が大きくなれたのは六角が許したおかげだと言うのか。
俺は、義治の方へ顔を向けた。
「お前は昨日、本陣で何をしてたんだ。ただ座ってただけの奴が、俺に家中の道理を説くのかよ」
「戦の巧拙と、家中の道理は別だ! 橘が領地を広げられたのも、六角の許しがあればこそであろう!」
「許しを出してやったと威張る前に、昨日の自分たちの差配を振り返ってみろよ」
「その物言いが不遜だと申しておる! 戦には、負けることもあるのだ」
「負けることもある、か。この前も佐和山で負けてたじゃねぇか。何回負けりゃ気が済むんだ」
「何だと、貴様!」
承禎が低い声で義治を制した。
「右衛門督、黙っておれ」
「ですが、父上――」
「黙れと申した」
義治が口を閉じると、承禎は俺へ向き直った。
「十兵衛、昨日の敗戦の責を橘に負わせるつもりはない。備前守を討った働きも認めておる。ただ、共に戦う以上、独断で動かれては困る。それを申しておるのだ」
「それならば分かります。某も、何もかも勝手にすると申しているわけではございません」
これで話は収まるはずだった。だが、義治がまた口を挟んだ。
「父上、それでは甘すぎます。こやつは先ほどから六角を軽んじておりますぞ。このまま許しておけば、いずれ我らに刃を向けます!」
「もうよいと申した」
「そうしてお許しになるから、橘がここまで増長したのでございます!」
そこで、我慢する気が失せた。
「無能は黙ってろ! 殺すぞ、クソガキが!」
義治が、目を見開いた。諸将の視線が集まる中、俺も腰を上げる。
「さっきから何なんだ、お前は。ごちゃごちゃ抜かすだけなら、馬鹿でもできるんだよ!」
「貴様――」
「昨日負けたのは、お前らのせいだろうが。二万以上も兵を集めて、半分もいない浅井にボロ負けしておいて、まだ橘より上だと思ってるのか。呆れるわ」
「身の程を知れ! 六角に仕える身で――」
「大体お前な、大殿の息子ってだけで、いつまでも偉そうにしてんじゃねえぞ!」
義治も立ち上がって俺を睨み返したところへ、承禎の一喝が飛んだ。
「十兵衛!」
俺は承禎へ向き直った。
「大殿のお考えは承りました。共に戦う以上、独断は控えよとのお話であれば、某からこれ以上申し上げることはございません」
俺は再び義治へ目を向けた。
「だが、お前にまで偉そうに言われる筋合いはねえ」
「何だと!」
「潰す気になれば、六角なんぞいつでも潰せるんだぞ」
義治が言葉を失ったところへ、俺はさらに畳みかけた。
「それでも手を出さないのは、橘が代々、六角に従ってきたからだ。その縁を立ててやってるんだよ。橘が弱いから従ってるなんて、勘違いするな」
「そのような脅しが――」
「あの高野瀬でさえ、浅井に寝返ったんだ。橘がいつ織田へ鞍替えしたって、おかしくはないだろうが」
「貴様!」
承禎が義治を一喝した。
「右衛門督!」
承禎に一喝され、義治は口を閉じた。俺もこれ以上言い合う気はなく、話を切り替えた。
「浅井は退きましたが、高野瀬備前守は、いかがなさいます」
「……追って考える」
「承知いたしました。では、某は江野へ引き上げます」
一礼して座敷を出た。賢豊には声を掛けずに済ませたが、無事な姿は確かめられた。今はそれでよかった。
廊下へ出ると、追いついてきた政基が声を落とした。
「十兵衛様、いくら何でも、大殿の御前で織田へ鞍替えするなどと仰っては」
「今すぐするつもりはない」
「では、脅しただけでございますか」
「脅しだけでもない。六角との付き合いも、あと数年だと思っておけ」
政基の足が止まりかけたが、俺は歩みを緩めずに続けた。
「お前たちも、そのつもりでいろ。代々六角に従ってきたからといって、いつまでも付き合うとは限らない」
そこでふと思い出し、懐へ手を入れると、政基が訝しげに俺を見た。
「十兵衛様?」
「一人、書き足しておく」
標的リストを取り出した。既に線を引いた徳川家康と、昨夜消した浅井長政の名。その下に、新たな名を書き加えた。
六角義治。
書き加えた名を見て、政基が顔を引きつらせた。
「十兵衛様……」
「今すぐ始末するつもりはない」
「そういう問題ではございませぬ」
「今日の一件で、候補に加えただけだ」
紙を畳んで懐へ戻した。実際に始末するかどうかは、あいつの今後の出方を見て決めればいい。
* * *
観音寺を出ると、江野へ戻る前に朝霧へ立ち寄った。六角との関係が切れてから備えたのでは遅い。旅装も解かずに頼政、政澄、惟丸を集め、絵図を広げた。
三人が座に着くと、俺は絵図の上で、観音寺へ通じる道を指した。
「ここの見張りを増やします。愛知川沿いも、今までより細かく見てください」
「何があった」
「大殿と、少し揉めました」
「少し揉めた程度で、見張りを増やすのか」
「右衛門督とも揉めました」
「……何をした」
「口で、少しばかり」
頼政は黙って俺を見ていた。何があったか話すのを待っているのだろうが、今は先に手配を済ませたかった。
俺はそのまま説明を続けた。
「今すぐ六角と戦うわけではありません。ただ、急に兵を向けてくることがあっても、朝霧で持ちこたえられるよう、備えておきます」
政澄が絵図へ目を落とした。
「八風の向こうから兵を戻すまで、持たせるということか」
「はい。火薬と鉛も近江へ回します。兵糧は幾つかの蔵に分けてください。一か所を取られて、全て失わないようにしておきます」
「山砦はどうする」
「柵と空堀を点検して、必要な所は直します。道を塞ぐ場所と、村人を逃がす先も、改めて確かめてください」
頼政は絵図に目を向けず、俺を見据えていた。
「それで、大殿と何を言い合った」
「父上、先に備えの話を――」
「何を申したのか、聞いておる」
「織田に鞍替えするぞ、とは言いました」
頼政が額を押さえ、絵図を見ていた政澄も顔を上げた。二人が黙り込んだので、俺は付け加えた。
「今すぐ鞍替えするわけではありませんよ」
「そういう問題ではないわ!」
まあ、そうなるか。それでも備えは要る。観音寺から兵が出ればすぐに分かるよう、朝霧へ通じる道の見張りを増やした。あわせて瑞鳳衆には六角家中を探らせ、特に義治の動きに目を配るよう命じた。
砦の手直しと物資の移送には日数がかかる。伊勢から援軍が戻るまで六角勢を防げるよう、必要な手配を済ませ、備えを進めさせた。
* * *
近江側の手配を済ませ、江野へ戻ったのは夕暮れだった。屋敷では普請の音も収まり、奥に灯りがともっている。旅装を解いているところへ、新九郎が報告に来た。
新九郎は俺の前に座ると、留守中に届いた報せを伝えた。
「十兵衛様、御出陣の間に、九鬼宮内少輔殿が討死されたとの報せが参りました」
「北畠が動いたか」
「攻めたのは、北畠の援助を受けた志摩七島党にございます。田城城が落ち、宮内少輔殿もその折に討たれたとのことです」
詳しい経緯はまだ分からないらしいが、田城が落ちて浄隆が死んだと分かれば、ひとまず十分だった。
俺は新九郎に頷いた。
「なるほどな。それなら、そろそろあいつが来る頃だ」
「誰のことでございますか」
答えようとしたところへ、近習が取り次ぎに来た。
「久助様がお二方を連れてお越しです」
「通せ」
やっぱり来た。しばらくして入ってきた一益の後ろには、九鬼右馬允嘉隆と九鬼弥五郎がいた。二人とも旅で衣が汚れ、顔にも疲れが滲んでいた。
一益が膝をつき、二人を連れてきた経緯を説明した。
「お二方が四日市へ参られ、橘の庇護を願いたいとのことでしたので、お連れいたしました」
「分かった。久助も一緒に座れ」
二人にも座るよう促してから、嘉隆へ向き直った。
「右馬允、田城が落ちて宮内少輔殿が亡くなったことは聞いている。その後、どうしてここまで来た」
嘉隆の話では、弥五郎は落城後、波切まで逃れたという。だが、そこに籠もっても、北畠の援助を受けた七島党には対抗できないと判断し、嘉隆は船と手勢を連れて志摩を離れた。
嘉隆は、船を連れて逃れた経緯を説明した。
「籠もっていては、いずれ船まで奪われます。敵に渡すくらいならと、波切にあった船は全て出しました」
「弥五郎や手勢も乗せてきたのか」
「はい。皆を乗せ、そのまま四日市へ参りました」
「土地より船を残したか。いい判断だ。籠もって船まで失っていたら、こっちでも使いようがなかった」
「兄の宮内少輔は、長く橘殿と船の行き来を重ね、桑名の戦でも御一緒しております。その御縁を頼り、まずは橘殿に庇護を願おうと考えた次第にございます」
船を残し、それを必要とする相手を頼ってきた。逃れる先としても悪くない。俺は嘉隆に受け入れる条件を告げた。
「宮内少輔殿には世話になった。お前たちを追い返すつもりはない。ただ、昔の付き合いだけで面倒を見るわけにもいかないぞ」
「心得ております」
「今は桑名も四日市も橘が押さえている。荷を運ぶにも兵を動かすにも船が要る。九鬼が本拠を失ったからといって、こっちの荷まで止まっては困るんだ」
「では、これまでと同じく同盟を結び、船を――」
俺は「同盟」という言葉を聞き咎め、嘉隆を遮った。
「同盟だと」
嘉隆が口をつぐんだところで、俺は続けた。
「本拠も土地も失って、残ったのは船と手勢だけだ。その立場で俺と同盟を結ぶつもりなら、話にならない。助けを求めるなら、九鬼が橘に従え」
嘉隆が隣の弥五郎を見ると、弥五郎も黙って見返した。しばらくして、嘉隆が頭を下げた。
「承知いたしました。九鬼は橘殿に従います」
「ただし、従えば本領を取り戻してもらえると思うなよ」
「すぐに田城を取り戻していただきたいとは申しませぬ。ただ、いずれ機会がございましたら、志摩へ戻る道を――」
「そこも間違えるな。橘が兵を出し、銭と兵糧を使って取った土地は、橘の領地だ。元は九鬼の土地だからと、そのまま返すつもりはない」
嘉隆は少し間を置いてから、改めて頭を下げた。
「まずは橘殿の下で働きます。その働きを認めていただき、いずれ志摩へ戻る役目を賜れれば、それで構いませぬ」
「それならいい」
俺は弥五郎へ向き直った。
「弥五郎、宮内少輔殿の息子だからといって、特別扱いはしない。九鬼の当主として認めるかどうかも、俺が決める。父の跡を、そのまま継げると思うなよ」
「承知いたしました。父に恥じぬよう、働きます」
弥五郎が深く頭を下げると、俺は嘉隆へ向き直った。
「右馬允、お前も同じだ。宮内少輔殿の弟だからと使うわけじゃない。兄の頃より多くの船を動かし、荷を運んで、働きを示せ」
「承知いたしました。そのつもりで働きます」
「なら、使う」
嘉隆も、弥五郎と並んで頭を下げた。
* * *
翌日、一益と嘉隆を連れて四日市へ向かった。嘉隆を一益の下に置く命令だけなら、江野で済ませられる。だが、九鬼が本拠を失った今、海運にどれほど影響が出ているのか、一益がどう対処しているのかを、自分の目で確かめておきたかった。
港では船頭の声が飛び交い、人足が俵を積み込む隣で、別の船から木箱や樽が下ろされていた。沖には荷下ろしを待つ船も見える。荷の出入りが滞っていない様子に、ひとまず安心した。
岸へ向かう途中、一益に志摩の影響を尋ねた。
「久助、志摩の一件で、こっちにはどれくらい影響が出てる」
「船を出すのを渋る船頭はおりますが、行き先と海の様子を確かめ、出せる船は出しております。桑名からの便も、今のところ滞りはございません」
「分かった。帳面を見せてくれ」
一益から受け取った帳面には、船ごとの出港日、積荷、行き先、帰港予定が記されていた。桑名から四日市を経て向かう便も、ここから各地へ出る便もあり、志摩に近い航路に遅れは出ているものの、荷が滞るほどではなかった。
一益はよく対処している。俺は帳面から顔を上げ、今後の護衛について指示した。
「護衛は今までより増やせ。特に志摩に近い海へ出す船には、必ず付けろ。危ない便は待たせてもいいが、ほかの船まで止めるな」
「承知いたしました。船頭にも申し伝えます」
戦のたびに全ての船を止めていては、商いが続かない。安全に通れる航路を確かめ、出せる船は出していく。
俺は、沖を見ていた嘉隆にも意見を求めた。
「右馬允、お前ならどうする」
「行き先の近い荷船をまとめて出せば、護衛の人も船も少なく済みます。護衛船は外側に置き、怪しい船が荷船へ近づく前に止めます」
「久助、それでいいか」
「某も、同じ考えにございます」
「なら、二人で手配しろ」
嘉隆の答えに迷いはなかった。本拠を失っても、船の扱いまで忘れたわけではないらしい。俺は当面の役目を告げた。
「右馬允、しばらくは久助の下で働け。連れてきた船と人は全て報告しろ。船頭、水夫、船侍が、それぞれ何をできるかまでだ」
「承知いたしました」
「船も今後は橘で管理する。九鬼の船だからと勝手に出すな。後から九鬼の者が来た時も、召し抱える前に久助を通せ」
「そのようにいたします」
船も人も引き受ける以上、九鬼だけの判断で動かされては困る。橘の指図で荷を運び、護衛に就けるようにしてもらう。
俺は一益へ向き直り、必要な物の手配も任せた。
「久助、右馬允たちに必要な材や縄、武具は、お前が確かめて手配しろ。揃わないものは俺に知らせてくれ」
「承知いたしました」
「右馬允、要るものがあれば、まず久助に申し出ろ。出すかどうかも久助に判断してもらう」
「心得ました」
蔵の前では、人足が俵を運ぶ傍ら、荷の数や送り先の確認が進んでいた。俺は並んだ荷を帳面と見比べ、積み残しや帰港の遅れがないか、一益に尋ねた。
俺は帳面の一行を指し、一益に尋ねた。
「この船、昨日戻る予定じゃなかったか」
「風待ちで一日遅れましたが、既に戻っております。隣の船は、明朝、護衛を付けて出す予定です」
「分かった」
俺は、帳面と港を見比べていた嘉隆に声を掛けた。
「右馬允、田城を取り戻したいのは分かるが、今はこっちが先だ。志摩へ攻め込めば北畠とも戦になる。すぐに片付く話じゃない」
「承知しております。それまで養っていただくだけのつもりもございませぬ」
「なら、連れてきた船と人を使って、桑名と四日市から出る荷を守れ」
「久助殿の御指図を受け、護衛に出す船と人を組み直します」
嘉隆が港へ目を戻すと、荷を積み終えた船が岸を離れた。空いた所には次の船が着き、人足たちが荷を運び始める。嘉隆の働きも、明日からこの荷の行き来をどれだけ支えられるかで見ていけばいい。
九鬼は本拠を失い、浄隆も死んだ。志摩の先行きも分からないが、港には運ぶ荷があり、その到着を待つ者がいる。船を止めるわけにはいかなかった。
沖へ出ていく船を見送り、俺は二人に命じた。
「久助、明日も予定通り船を出せ。右馬允は護衛の手配を手伝え」
「承知いたしました。明朝の出船までに整えます」
「では、私は護衛に出せる船と人を確かめて参ります」
一益に続いて嘉隆も頭を下げると、俺は念を押した。
「九鬼が本拠を失おうが、志摩が荒れようが、桑名と四日市から出る荷は止めるな」
二人を送り出して岸へ目を戻すと、次の船への積み込みが始まっていた。まずは、この荷の行き来を絶やさずにおく。




