第117話 史実の長政はここで死なない
天文十四年(1545年)、正月。
近江国、浅井郡、郡上村、浅井屋敷。
前世の俺は、ごく普通の高校生だった。歴史は嫌いではなかったが、戦国時代に詳しいわけでもなく、知識の大半はゲームや動画で覚えたものだ。そんな俺が下校中にトラックに撥ねられて死に、次に気づいた時には、この時代の赤ん坊になっていた。
まだ言葉も話せない頃、周囲の会話から父の名が久政で、ここが小谷城だと知った。近江の浅井家に生まれた嫡男なら、俺は「浅井長政」だ。自分の素性が分かったことで、この先どう生きるかも分かると思い、転生への戸惑いより安心が勝った。
長政は六角から独立して野良田で勝ち、やがて信長と同盟を結んで、その妹のお市を娶る。だが、最後には朝倉を選んで信長に背き、小谷で滅びることになる。
それなら、最後に信長を裏切らなければいい。そこまでは知っている通りに進み、滅びる原因だけ避ければ生き残れる。そう考えると、悪くない転生先に思えた。
覚えている歴史を頼りにすれば、この先の人生も何とかなると思っていた。
* * *
まだ猿夜叉丸、と呼ばれていた頃、六角へ預けられる話が持ち上がった。
久政は俺を前に座らせ、六角への返答について切り出した。
「猿夜叉丸、六角殿がお前をそばに置きたいと申されておる。そろそろ返事をせねばなるまい」
そばに置くと言っても、要は人質だ。いずれ六角から独立する身だと分かっているのに、その城へ入る気にはなれなかった。
俺は久政に断ってもらえないか頼んだ。
「できれば、お断りいただけませんか」
「六角殿と事を構えるつもりか」
「争いたいわけではありません。ただ、俺が人質になれば、浅井が何かを決めるたびに六角の顔色を窺わなければならなくなります」
「先のことばかり申すな。今の浅井が家を保つには、六角殿との縁も要るのだ」
「それなら、米や兵を出すことで収められませんか。縁は保っても、俺を預けずに済む方法を探してほしいんです」
久政は納得しなかった。俺は六角から独立することを当然のように考えていたが、それは史実を知っているからに過ぎない。その知識を明かせない以上、久政を説得する根拠も示せなかった。
久政は俺を見据え、問い詰めた。
「六角殿の力が衰えるとでも思うておるのか」
「そこまでは言いません。ただ、いつまでも今と同じとは限らないでしょう」
「では、変わると思う根拠を申せ」
「……そこを聞かれると困ります」
傍らに控えていた赤尾美作守清綱の口元が緩んだ。俺が顔を向けた途端に澄ました顔へ戻ったが、見逃さなかった。
「今、笑いましたよね」
「笑ってはおりませぬ。ただ、若殿が言葉に詰まられるのは珍しいと思いまして」
「俺だって、答えに困ることくらいありますよ」
久政が俺たちを呆れた顔で見る中、清綱が膝を進めた。
「殿、若殿をお預けすれば、元服や婚姻にも六角殿の意向が入りましょう。ほかの条件で収まらぬか、お尋ねになってはいかがでしょう」
「お前まで猿夜叉丸の肩を持つか」
「若殿の仰せになる先々の話を信じたわけではございませぬ。ただ、ほかに手立てがあるなら、若殿を手元に置いておく方がよろしいかと」
海北善右衛門綱親も清綱に賛同し、久政は返答を保留した。その後、俺を六角へ送る話は立ち消えになった。
知らせを聞き、部屋へ戻ってから一人で拳を握った。清綱たちが口を添えてくれたおかげであって、俺だけの力ではない。それでも、知っている歴史を変えられたことが嬉しかった。
歴史を変えられるなら、失敗するところだけ避ければいい。人質に行かずに済んだことで、その考えにますます自信を持つようになった。
* * *
前世の知識を役立てようと、空いた時間に領内の道や市を見て歩いた。だが、実際に目を向けてみると、俺にできることは思ったほど多くなかった。
火縄銃の作り方は知らないし、火薬も材料の名を覚えているだけで、正確な配合までは分からない。農業にしても、肥料や品種改良という言葉は知っていたが、目の前の田に何をどれだけ施せばよいのか、判断できる知識はなかった。
生まれ変わったところで、ただの高校生に技術者や農業の専門家の仕事ができるわけではない。
普請役の件で、遠藤喜右衛門直経が俺を訪ねてきた。
「若殿、役を出すよう申し付けた村から、まだ返事が参りませぬ」
「返事ができない事情でもあるんでしょう。急がせる前に、村で何があったのか聞いてきてもらえますか」
「ただ、急ぎの普請にございます」
「急ぐなら、なおさら先に事情を聞いた方がいいです。無理に人を出させて揉めれば、かえって遅れるでしょう」
直経が村々を回って確かめると、二つの村が普請役を出す順番でもめているという。双方の事情を聞いて順番を決め直すと、どちらの村も人を出してくれた。前世の知識で物は作れなくても、話を聞いて問題を解くことなら、俺にもできそうだった。
市へ商人を集める案を相談すると、雨森弥兵衛尉清貞からも難色を示された。
「ほかの場所で商ってきた者を、一度に移すのは難しゅうございます」
「なら、無理には移さなくていいです。新しく来る商人と、移りたい人だけに場所を用意しましょう」
「場所代はいかがなさいます」
「最初は取らずに、人が集まるか試してみませんか。細かい条件は、商人の事情を知っている弥兵衛尉に任せたいです」
「また私に丸投げなさるのでございますか」
「任せるんです。よく知らない俺が全部決めるより、その方がいいでしょう」
清貞は呆れながらも、商人たちと話を進めてくれた。失敗もあったが、市が前より賑わい、商人も増えたと報告を受けるうちに、史実の長政より俺の方がうまくやれるのではないかと思うようになった。
その頃から、朝倉との縁を重んじる久政と、その付き合いをどう続けるかで意見が合わなくなった。
久政は俺に言い聞かせた。
「浅井が六角に対抗できるのも、越前の朝倉殿との縁があればこそだ。その付き合いを軽んじるでない」
「軽く見ているわけではありません。ただ、朝倉だけを頼るのではなく、尾張の織田とも話ができるようにしておきたいんです」
「また織田か。尾張さえまとめられぬ織田上総介に、何を期待しておる」
「今はまとまっていなくても、いずれ尾張をまとめて強くなると思っています」
「なぜそう思う。その根拠を申せ」
「……またそこですか」
信長は強くなり、朝倉は滅びる。俺には分かっていても、その根拠を久政に説明することはできない。理由も示さずに言い張るだけでは、朝倉を遠ざけて織田を持ち上げているようにしか見えないのだろう。何度話しても、そこで行き詰まった。
一方、家中では俺を支持する者が少しずつ増えていた。久政が朝倉を頼り続けることへの不満だけでなく、領内で俺がしてきたことを評価してくれる声もあった。
元服からしばらく経った頃、久政は評定の場で、当面の差配を俺に任せると告げた。家を離れるつもりはないと言っていたが、それ以降、文に判を押すことも家臣の配置を決めることも、ほとんど俺が引き受けるようになった。
清綱や綱親が支えてくれても、最後に決めるのは俺だった。前世では会社勤めさえしたことがなく、人を使って仕事を進めた経験もない。分からないことは尋ね、任せられる仕事は家臣に頼みながら、持ち込まれる用件を一つずつ片付けていった。
俺が書付を読み返している間に、直経が次の文を並べた。
「若殿、今日はこちらの三件から済ませましょう」
「分かりました。ただ、その前に、今読んでいる件をもう一度説明してもらえますか」
日々の差配には戸惑っても、この先進む道に迷いはなかった。六角から離れ、野良田で勝って信長と結ぶ。そこまで進めば、お市との婚姻も待っているはずだった。
そう思っていた矢先、久政が婚姻の話を切り出した。
「六角殿からの縁談は断った。越前から姫を迎えることにした」
俺は弟の浅井玄蕃頭政元へ目を向けた。
「玄蕃頭の婚姻ですか。随分早いですね」
「なぜ私の話だと思われるのです」
「いや、お前の縁談かと。俺より若いから、まだ先だと思ってたんだ」
久政が俺に言った。
「お前の縁談だぞ、新九郎」
すぐには意味が呑み込めず、俺は聞き返した。
「俺の縁談ですか」
「朝倉殿の姫を迎える。先方とも話を進めておる」
「朝倉の左衛門督殿、その娘ということですか」
「ほかに誰がおる」
朝倉左衛門督義景の娘を、俺の妻に迎える。ようやく話が呑み込めると、会ったこともないお市を嫁にするつもりでいた俺は、途端に慌てた。
俺の嫁は、お市のはずだ。そう思うと、とにかく話を止めたくなった。
「父上、ありがたいお話ですが、少し待っていただけませんか。家の差配を任されたばかりですし、婚姻まで急がなくても」
「何が不満だ。朝倉殿の姫ぞ」
「不満があるわけじゃありません。ただ、もう少し後でもいいかと」
「なぜ待つ必要がある」
「それは、その……うまく説明できないんですが」
政元も不思議そうに俺を見た。
「兄上にとっても、よい御縁ではございませんか。何をためらっておられるのです」
「お前まで父上の味方か」
「味方も何も、私には嫌がられる理由が分かりませぬ」
会ったこともない尾張の女を嫁にしたいから断る、などと言えるはずがなかった。ほかに理由を示せないまま婚姻は進み、義景の娘が嫁いできたのだが、話してみると気の合う相手で、それがかえって俺を困らせた。
村から戻ると、妻がその日の様子を尋ねてきた。
「今日も村々を回っておられたとか。揉め事を収めるのは大変でございましょう」
「ああ。でも、前よりはましになったよ。話を聞くだけで収まることも多いから」
「皆が申しておりました。新九郎殿は、揉め事の話を聞くのがお好きなのだと」
「好きで聞いてるわけじゃないんだけどな。どうしてそういう話になるんだ」
妻は楽しそうに笑った。俺の話に耳を傾けるだけでなく、自分の考えも聞かせてくれるので、話していて気が楽だった。嫌なところが見つからない。それが、俺には困るのだ。
妻が俺の顔を覗き込んだ。
「私とお話しになる時は、随分とかしこまられるのですね」
「朝倉の姫だと思うと、どうしても気を遣うんだよ」
「今は、あなたの妻でございますよ」
「それを言われると、余計に緊張するんだ」
また笑われた。話していて気が合うし、本人には何の落ち度もない。義景の娘だから離縁しにくいというだけでなく、こんな相手に、お市と結婚したいから別れてくれなどと言えるはずがなかった。
信長と同盟を結ぶ頃には、事情も変わっているかもしれない。戦国の婚姻は政治で決まるのだから、その時に考えればいい。そう自分に言い聞かせ、俺は離縁のことを考えるのをやめた。
* * *
浅井には頼れる家臣が揃っているが、未来の知識を使えば、後に名を上げる者も今のうちに迎えられる。そうなれば、家臣団はさらに充実するはずだ。
俺は直経を呼び、知っている名を挙げた。
「喜右衛門、前田又左衛門という男を探してほしい」
「どこの者にございますか」
「尾張です。まだ若くて、それほど名も知られていないと思います」
「そのような者を、若殿はどこでお知りになったので」
「勘です」
「殿が渋い顔をなさるわけが、ようやく分かりました」
しばらくして、直経が調査の結果を報告しに来た。
「前田又左衛門は、すでに他家に仕えております」
「どこの家に」
「橘家にございます」
「橘……六角方の家だよな」
すでに仕えているなら仕方がない。尾張出身でも、俺の知らない事情で近江へ来ることはあるだろう。
俺は直経に、次の名を挙げた。
「それなら、木下藤吉郎という男を探してください」
「その者も尾張の者でございますか」
直経にほかの名も伝えて調べさせたが、秀吉、成政、一益、可成のいずれも、すでに橘に仕えていた。利家一人ならともかく、信長の家臣になるはずの者が、これほど揃って別の家へ入っているとは思わなかった。
俺は報告の文を机に置き、直経を見た。
「何なんだよ、その橘家は」
「若殿がお探しになる者を、先に召し抱えているのでございましょう」
「だから、何で俺の知ってる奴ばかりなんだよ。俺は未来を……いや、何でもない」
「今、何を仰せになりかけたので」
「聞かなかったことにしてください」
直経が下がった後も、文に並ぶ名から目を離せなかった。偶然にしては揃いすぎているが、橘がなぜ集めているのか、考えても分からない。ひとまず織田の家臣になる者は諦め、次は浅井に仕えるはずの者を探すことにした。
俺はあらためて直経に人探しを頼んだ。
「宮部善祥坊という者を探してください」
「宮部善祥坊……どこの者にございますか」
「浅井に仕えるはず……いや、この近くにいると思うんです」
「存じませぬが、調べて参ります」
今度こそ浅井で見つかると思っていた。だが数日後、直経は言いにくそうに調査の結果を告げた。
「宮部善祥坊の居所が分かりました。すでに橘家に仕えております」
「浅井にはいないのかよ!」
「はい。橘家におります」
「何で、こいつまで向こうにいるんだよ!」
「私に尋ねられましても、分かりませぬ」
直経は報告の文と俺の顔を見比べた。
「若殿は、何が御不満なのでございますか」
「俺も、何を当てにすればいいのか分からなくなってきたよ」
知っている人材を、片っ端から先に取られている。だが、天下を取るつもりでもないのだから、北近江を治めるには、磯野、赤尾、海北、雨森、遠藤がいれば十分なはずだ。信長と同盟を結べば、その力も借りられる。
橘が何を考えて人を集めていようと、俺が生き残る道まで断たれたわけではない。
* * *
六角からの縁談を断り、朝倉から妻を迎えたことで、六角との関係は悪化した。永禄二年の五月には佐和山を攻められ、城を守っていた盛実が討たれた。その城を落としたのも、また橘だった。
それでも、佐和山は取り戻せた。六月末に浅井勢が麓の六角勢を崩すと、橘勢も城を退き、七月には再び浅井の兵が入った。一度は城を奪われても、六角を押し返す力はある。このまま独立へ進めるはずだと、俺は自信を深めていた。
翌年、今度は尾張での戦について知らせが届いた。
使者は俺の前に膝をつくと、戦の結果を伝えた。
「今川治部大輔、討死にございます。織田上総介殿が桶狭間の辺りで今川勢を破られたとのこと」
「本当か!」
俺は思わず立ち上がった。信長が義元に勝ったのなら、少なくとも桶狭間は、俺の知っている通りに起きたのだ。
俺は使者に、義元の死を確かめた。
「治部大輔が討たれたのは、間違いないんだな」
「はい。松井兵部少輔、井伊信濃守らも討たれ、今川勢は退いております」
利家や秀吉の仕官先も、俺の婚姻相手も史実とは違う。それでも桶狭間は起きたのだから、信長が強くなる流れまでは変わっていないはずだ。
ほっとしかけた俺に、使者が報告を続けた。
「今川方の三河勢も、大きな損害を受けております。松平次郎三郎も討死したとのことでございます」
「……次郎三郎が死んだのか」
「左様にございます。ただ、詳しい経緯までは、まだ届いておりませぬ」
さっきまでの嬉しさが一気に消えた。松平元康は、後に江戸幕府を開く徳川家康だ。桶狭間で死んでしまったら、俺の知っている歴史に繋がらない。
俺は報せが信じられず、思わず呟いた。
「いや、あいつ家康だぞ……」
傍らの政元が首を傾げた。
「兄上、松平次郎三郎は、それほどの人物なのですか」
「俺の知ってる限りでは、後に大きな……いや、大事な人物のはずなんだ」
「お会いになったことがあるので」
「そうじゃない。これから力をつけると思ってたんだよ」
自分でも苦しい言い訳だと思った。家康が死ねば、覚えている歴史をこの先も当てにできるか分からない。その不安から、詳しい経緯はまだ届いていないという使者の言葉に縋り、何かの間違いかもしれないと思おうとした。
少なくとも、信長は史実どおりに勝った。俺はその信長と同盟を結び、朝倉のために裏切ることさえしなければいい。それなら家康が死んでも、浅井は滅びずに済むはずだ。まだ大丈夫だと、俺は何度も自分に言い聞かせた。
* * *
永禄三年(1560年)、八月。
近江国、愛智郡、宇曽川。
六角が肥田城の包囲を解いてから二月余り、再び兵を集めているとの知らせが届いた。秀隆は早くから救援を求めてきている。肥田を見捨てれば次は浅井領へ攻め込まれかねず、俺は兵を率いて救援に向かうことにした。
清綱は、俺が前線へ出ることに最後まで反対していた。
「殿御自ら川端まで出られることはございませぬ。後方から御指図くだされば、十分にございます」
「俺が前に出た方が、皆も奮い立つだろ。それに――」
野良田で勝つのは俺だ。そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。史実でそうなると知っているだけでは、清綱への説明にならない。
宇曽川の北岸から対岸を見渡すと、六角勢の陣が長く連なっていた。兵は二万を超えるという。こちらは一万にも届かず、正面からぶつかって数で押し勝てる相手ではなかった。
俺は対岸に並ぶ旗を見渡し、呟いた。
「六角は随分と集めたな」
兵数の差を口にしても、不思議と怖いとは思わなかった。ここで勝ち、北近江での立場を固めて信長と手を結ぶ。その先を疑っていないつもりなのに、目は対岸の旗を追い、何度も数え直していた。
先の水攻めでは、長雨で堤が切れて六角勢が退いた。あの時に肥田が落ちていれば、俺が救援に来ることもなかっただろう。城が持ちこたえたからこそ、今こうして六角勢と向き合っている。
川辺の足場を確かめていた員昌が戻ってきた。
「殿、先ほどの雨で足元が悪うございます。六角方も動きにくいでしょうが、こちらも同じにございます」
「無理には攻めない。まず百々に先陣を任せて、向こうの動きを見てから決めよう」
「随分と落ち着いておられますな」
「そう見えるか。これでも結構、緊張してるんだよ」
員昌が少し笑った。後方には久政の旗も見える。隠居してなお兵を連れてきたのは、俺の初陣を見届けるためだろう。その目がある以上、家臣たちの前でも怯えた顔は見せたくなかった。
傍らの兵が、川へ向かう百々勢を指して声を上げた。
「先陣が川へ入ります!」
百々の旗を追って兵が宇曽川へ踏み込むと、六角勢が矢を射かけ、こちらも北岸から援護の矢を放った。百々勢は水しぶきを上げて進み、先頭が南岸へ取りついたところへ、蒲生勢が押し寄せた。
岸へ上がった百々勢は槍を交えながら後続を迎え、蒲生勢を押し返そうとした。だが、田中勢と楢崎勢が横から攻めかかると、隊列が崩れ始めた。
それでも百々勢は川へ逃げ戻らず、少し離れた高みへ退いて兵を集め直した。傾いていた旗が再び立つと、兵は坂を下り、数を減らしながらも蒲生、田中、楢崎の勢へ食らいついていった。
川沿いの別の場所では、六角勢が北岸を目指して渡り始めていた。対岸に備える員昌は迎えに出ず、そのまま岸で待ち構えていた。
六角兵の先頭が北岸へ上がった途端、磯野勢が槍を揃えて押し寄せた。岸辺の兵は前進を阻まれ、退こうにも川の中の後続が詰まっている。だが、こちらが六角勢を押し止める間にも、南岸の百々勢は数を減らしていた。
六角勢の方から、討ち取りを知らせる声が響いてきた。
「百々内蔵助、討ち取ったり!」
倒れた百々の旗を見て、息が詰まった。戦場では誰が死んでもおかしくないと分かっていても、すぐには受け止められない。川向こうでは、六角勢が勝ったかのように鬨を上げていた。
俺は本隊の旗を進めるよう命じた。
「本隊も前へ出す。俺も行くぞ」
「殿、それはなりませぬ」
清綱に止められても、馬を返す気にはなれなかった。
「百々があそこまで戦ったんだ。ここで俺まで足を止めたら、あいつは何のために死んだんだよ」
俺の旗が進むと、下がりかけていた兵も踏みとどまり、本隊とともに再び南へ向かった。磯野勢も北岸の六角兵を押し返し、川へ追い戻していく。その時、肥田城の門が開いた。
城門の動きに気づいた兵が、声を上げた。
「肥田城から御味方が出てきます!」
秀隆の兵が一斉に打って出ると、正面の本隊と横から迫る肥田勢に押され、六角勢の備えが崩れ始めた。北岸から川へ逃げ戻る兵が、南岸で迎えようとする味方まで押し込み、後続を巻き込んで入り乱れていく。旗が倒れ、指示を叫ぶ声が重なった。
清綱が崩れ始めた六角勢を指した。
「殿、六角勢が退き始めました」
「見えてる。このまま押すぞ」
六角が退くのを見て、手綱を握り直し、前の兵に続いた。今なら、このまま南岸まで押し切れる。
背後から清綱の声が飛んだ。
「殿、前へ出すぎます!」
「分かってる! ここで俺が退いたら、兵も足を止めるだろ!」
馬を進めて宇曽川を渡った。南へ逃げる六角兵に続き、本陣まで退き始めたのを見て、俺はようやく息を吐いた。
「勝った……」
次は信長と同盟を結び、お市のこともその時に考える。妻には申し訳ないが、何とかなるかもしれない。まだ知っている未来へ戻せるはずだ。そう思った途端、川の下流で何かが一斉に光った。
土手の陰か、その向こうか。光った場所を確かめる前に銃声が届き、目の前の兵が倒れた。馬も横倒しになり、それを避けようとした後続の兵が互いにぶつかった。
俺は銃声の方へ顔を向けた。
「鉄砲……どこからだ――」
二度目の銃声が響き、すぐ近くの兵が倒れ、馬が暴れた。前へ進んでいた者たちも足を止めて振り返る。叫び声は聞こえるが、言葉までは聞き取れない。六角は逃げているし、この戦は勝つはずだ。それなのに、なぜまだ撃たれている。
誰かが俺の腕を掴み、引いた。
「殿、下がってくだされ!」
腕を引かれても、すぐには馬を返せなかった。六角がこれほどの鉄砲を揃えていたとは聞いていない。誰がどこから撃っているのかも分からないまま、ようやく逃げなければと思った。
三度目の斉射とともに胸へ衝撃が走り、息が詰まった。手綱を握ろうとしても指に力が入らず、身体が傾いていく。差し伸べられた手は腕を掠めただけで、俺は鞍から滑り落ち、河原へ倒れ込んだ。
おかしい。この後は信長と手を結び、生き残るはずだ。周りでは兵が身を伏せて俺を庇い、誰かが必死に名を呼んでいる。久政なのか、清綱なのか。顔を見ようとしても首が動かず、答えようにも声が出なかった。
史実の長政はここで死なない。野良田では勝つのだから、俺も勝てると信じていた。目の前の戦が知っている通りに進むのか、確かめもしないまま。呼び掛けが遠のき、見上げた近江の空がぼやけていった。




