第116話 野良田で待つ
永禄三年(1560年)、五月下旬。
伊勢国、三重郡、江野、江野城。
近江から届いた文を机の脇へ置き、以前に書いた紙を取り出して広げた。すると、政基と光秀が両脇から紙面を覗き込んできた。
標的リスト。
並んだ名の中で、「徳川家康」にはすでに線が引いてある。その下に記してあるのは、「浅井長政」だ。
その名を見た政基が、露骨に嫌な顔をした。
「また、それでございますか」
隣の光秀も紙面へ目を落とした。
「浅井長政……浅井備前守でございますか」
「そうだ」
「以前から名を記しておられたのなら、此度の寝返りも見越しておいでだったのでございますか」
「ある程度はな」
秀隆は六角を離れ、浅井方へ寝返った。
史実では、長政は六角の人質として育ち、承禎から一字を与えられて賢政と名乗っていた。
だが、この世界では事情が違う。瑞鳳衆の報告によれば、浅井下野守久政が朝倉に従い続ける姿勢に、家臣たちは不満を募らせていたという。長政は彼らに担がれて家督を握り、久政を隠居させた。表向きは円満な代替わりだが、実態は家臣と結んで父を当主の座から退けたに等しい。
それでも久政を追い出さずに残したのは、長政なりの手加減なのだろう。家中が割れかねない代替わりを、あの若さで押し通した。その点では侮れない。
長政は正室も朝倉から迎え、求められた軍役にも応じている。浅井家は依然として、朝倉に従属していると見ていい。
愛智郡の肥田城主、秀隆は、六角と浅井の境目に領地を持つ国衆だ。浅井からすれば、境を越えて調略した相手が味方になったというだけの話でも、六角にとっては自家に従う国衆を敵に奪われたことになる。
国衆は強い方へ靡く。秀隆の寝返りを放置すれば、ほかの国衆も浅井へつき、六角の支配が内側から崩れかねない。承禎が出兵を急ぐのも、それを防ぐためだろう。
俺は机の脇へ置いた文に目を戻した。
「高野瀬備前守が浅井へ寝返ったとなれば、大殿も黙ってはいないだろうな」
光秀が応じた。
「愛智郡で背かれては、大殿も捨て置けますまい。討伐に出られましょう」
俺は光秀の言葉に続けた。
「浅井の後ろには朝倉もいる。近いうちに、俺たちにも参陣の命が来るだろう」
政基が眉をひそめた。
「朝倉まで兵を出せば、六角だけで対処するのは厳しいのではございませんか」
「出てきても、今回は浅井の後詰に留まるだろう。朝倉が本腰を入れるなら、肥田一城の話では済まなくなる」
光秀が机に広げた紙へ目を戻した。
「では、朝倉が本腰を入れる前に、備前守殿を討たれるおつもりで」
「戦場へ出てくれば始末する」
「……随分と簡単に仰せになりますな」
「そのつもりで名を書いたんだからな」
政基が俺と光秀を見比べた。
「ですが、浅井勢が肥田城の後詰に来るとは限りませぬぞ」
「来なければ何もしない。大殿の城攻めに付き合って帰るだけだ」
「こちらから誘い出すおつもりはございませんか」
「わざわざそのために手間をかける気はない」
狙いは長政一人であって、浅井領へ攻め込むつもりはない。六角の出兵に応じて長政が戦場へ出てくれば、その時に討つ機会を窺えばいい。
その日の夕刻、話した通りに観音寺から使者が来た。
* * *
承禎の命は予想どおり、秀隆の裏切りを許さず肥田城を討つため、橘も兵を率いて参陣せよというものだった。使者は書状を読み上げると、返答も待たずに次の宛先へ馬を向けた。手元に残った書状にも、それ以上のことは記されていない。
使者を見送った後、俺は一度朝霧へ戻った。こちらには、江野で軍令を受けるよりも早く、肥田周辺の動きが伝わっていたらしい。
屋敷へ入ると、俺が軍令の話をする前に、頼政が尋ねた。
「観音寺から出陣の命が来たか」
「はい。橘も肥田城攻めに加われと」
「やはりな。六角勢が肥田へ集まっておる。昨日から、道を通る兵も人足も目に見えて増えた」
江野にいる俺と違い、頼政は兵や人足が集まる様子を間近で見ている。兵が増えれば道が混み、人足を集めれば村も騒がしくなる。浅井勢まで南下してくれば、朝霧のすぐ近くで両軍がぶつかる恐れもあった。
頼政が浅井の動きを尋ねた。
「高野瀬備前守を討つだけで済めばよいが、浅井も出てくるかもしれぬ。まだ兵を動かしたという報せはないのだな」
「今のところは。ただ、出てくれば肥田城だけでは済まないでしょうね」
「そうなれば、朝霧も近い。それで、橘からはどれほど出す」
「俺が六百連れていきます。父上の兵は朝霧に残してください」
「肥田なら、わしもすぐに出られるぞ。一緒に行った方がよくはないか」
「近いからこそ、残ってほしいんです。俺が出るのに、朝霧の守りまで手薄にすることはないでしょう」
頼政は少し考えてから頷いた。
「朝霧の守りを固めておけということか。その六百は、どの兵を連れていく」
「すべて鉄砲兵です」
頼政の眉が動き、こちらを探るような目になった。
「十兵衛、何をするつもりだ」
「浅井備前守が出てきた時の備えです」
「討ち取るつもりでおるのか」
「出てくれば、そのつもりです」
頼政は六百丁を揃える意図を察したらしく、息を吐いた。
「一人を討つのに、随分な数を持ち出すのだな」
「外したくありませんから」
政基、光秀、善住坊に二百ずつ預け、三隊に分けて撃たせる。初めの射撃を外しても、続く二隊で仕留めればいい。長政が射程に入ったところで、一気に撃ち込むつもりだ。
江野では、桶狭間で失った兵の補充と部隊の再編がまだ続いている。今回は成政を江野に残し、その作業に加えて、三河勢を各隊へ組み込む仕事も任せることにした。
頼政は俺を見て、念を押した。
「大殿も、お前が浅井備前守を狙って参陣するとは思っておるまい」
「参陣して何をするかまでは、聞かれていませんから」
「聞かれても申すな。大殿に知らせる必要はない。お前の目当ては、肥田城より浅井備前守なのだろう」
「まあ、出てきてくれれば、とは思ってます」
部屋を出ようとすると、頼政が声を掛けた。
「深入りはするなよ」
「分かってます」
「それが分かっておる男は、六百丁も持ち出さぬと思うがな」
頼政の呆れた声を背に、俺は屋敷を後にした。
* * *
肥田城に着いた時には、六角勢がすでに包囲を敷いていた。城の周囲では、集められた人足が土を運び、六角兵が積み上げて突き固めている。
城を囲む堤を築き、愛知川と宇曽川から水を引き入れるつもりらしい。普請は何日も続き、人の背丈ほどの堤が延びるにつれて、囲いの内側にも水が溜まり始めた。
これだけの普請を急ぐとなれば、駆り出す人足も相当な数になる。そうして堤を築いている間に、雨が降り続いた。
政基が堤の一角を指差し、俺を呼んだ。
「十兵衛様、あちらをご覧くだされ!」
指された先で、堤の一部が崩れ始めていた。裂け目を流れる水が土を削り、兵と人足が慌てて土を運び寄せる間にも、穴は広がっていく。やがて轟音とともに土塊が崩れ落ち、溜まっていた水が一気に噴き出した。近くの兵が逃げ惑ううちに、別の場所でも堤が切れた。
光秀が堤から噴き出す水を見て呟いた。
「……堤が切れましたな」
「駄目じゃねえか」
政基が咳払いして、声を落とした。
「十兵衛様、あまり大きな声では仰せになりませぬよう」
「分かってるよ」
結局、肥田城は落ちなかった。堤を築くために費やした日数も人足の働きも、城を取る役には立たずに終わった。六角勢は兵を退き、俺たちもいったん引き揚げることになった。
引き揚げる途中、政基がぼやいた。
「これほど人足を集め、日数までかけたというのに、この有様とは」
「地形や水量を読み違えたんだろうな。功を焦って、下調べを疎かにしたんじゃないか」
光秀が崩れた堤を振り返った。
「高野瀬方は、この隙に兵糧を運び入れておりましょうな」
「だろうな。大殿も、次はもっと本腰を入れて攻めることになる」
* * *
それから二月余りが過ぎた八月、長政が自ら兵を率いて南下したとの報せが届いた。肥田に籠もる秀隆の求めに応じ、浅井も援軍を出す支度を進めていたらしい。承禎は再び諸将を集め、俺も六百の鉄砲兵を連れて参陣した。今度の相手は肥田城だけではない。救援に来る浅井勢とも戦うことになる。
宇曽川沿いの田では、青い稲が実り始めていた。刈り入れを前に大軍が踏み荒らせば、秋に取れる米が減る。それを承知で両軍が陣を張っているのだから、どちらも退くつもりはないのだろう。
宇曽川を挟み、北岸には浅井勢、南岸には六角勢が陣を構えていた。事前に集めた情報では、浅井は一万に満たず、六角は二万を大きく超える兵を揃えているという。
陣を見渡しても、兵数の差は明らかだった。六角方は川沿いに長く備えを広げ、先陣の後ろに二陣、その後方にも旗が続いている。対する浅井方は、北岸の狭い範囲に兵を寄せていた。正面からぶつかるなら、数で勝る六角が圧倒的に有利だ。
六角方の先陣には蒲生、永原、進藤、池田、平井、和田らの旗が並び、後ろには楢崎、田中らが二陣として控えている。さらに奥に承禎の本陣があり、後藤の旗もそこに見えた。
浅井方は百々、磯野、丁野らを前に置き、その後方に長政の本陣を構えていた。家督を継いだ長政が自ら大軍を率いるのは、これが初めてだという。だからといって、同情する気にはならない。初陣であろうとなかろうと、殺す理由は変わらなかった。
六角勢の背後には愛知川が流れ、正面には宇曽川がある。宇曽川は渡れない深さではないが、対岸に敵が構えている以上、容易には踏み込めない。川の中では足が鈍り、岸を登る際には隊列も乱れる。どちらが先に渡るかで、戦の始まり方は大きく変わる。
対岸の浅井勢から時折貝の音が響き、応じるように六角の陣でも太鼓が鳴った。両岸の旗指物は朝の風に揺れているが、まだどちらも本格的に攻めかかろうとはしていなかった。
政基は対岸の浅井勢から六角の陣へ目を移した。
「兵の数では、御味方が負ける戦とは思えませぬな」
「そうだな」
六角に急ぐ理由はない。宇曽川の南岸を押さえて待つだけでも、肥田を救わなければならない浅井は困る。こちらは勝敗がつかなくても構わないが、向こうは睨み合ったままでは済まない。
俺は光秀に鉄砲を据える場所を尋ねた。
「九郎、どこがいい」
「こちらがよろしいかと。浅井の中央が川へ出てくれば、横から狙えます」
「よし、そこにしよう」
六百の鉄砲兵を、承禎の本陣から少し離れた位置へ移した。
政基が先陣へ目を向けた。
「鉄砲をもう少し前へ出さずともよろしいのでございますか」
「前へ出したら、備前守を横から撃てなくなるだろ」
「……やはり、狙いはそちらでございますか」
「そのために来たんだよ」
政基は待つ間も空を気にしていた。
「雨さえ降らねばよいのですが」
「今日は大丈夫そうだな。火縄が湿ったら、何しに来たか分からなくなる」
光秀が風向きを確かめた。
「風は北から南へ吹いております。こちらの硝煙は浅井方へ流れませぬから、狙いを遮らずに済みましょう」
「上出来だ」
善住坊は黙ったまま、預かった二百丁を一列に並べ直させていた。列に沿って歩き、兵が手にする火縄の長さを一本ずつ確かめていく。
日が高くなっても両軍は動かず、宇曽川の両岸で旗だけが揺れていた。待つばかりで落ち着かないが、こちらから仕掛ける理由もない。やがて、浅井勢の旗が前へ進み始めた。
光秀が川へ向かう浅井勢を指差し、声を上げた。
「浅井勢が川へ入ります!」
百々の旗が前へ進み、その下の兵が一斉に宇曽川へ踏み込んだ。六角勢が矢や石を浴びせると、浅井方も北岸から南岸へ矢を射かけた。六角兵はその攻撃にも応じなければならず、川を渡る百々勢だけに狙いを絞ることができない。
百々勢は水を蹴って進み、先頭が南岸へ取りついた。岸へ上がったところへ蒲生勢が押し寄せ、槍を交える。百々勢も後続を引き上げながら押し返したが、岸辺で足を止めているうちに、田中勢と楢崎勢が横へ回り込んできた。
光秀は、田中勢と楢崎勢に挟まれかけた百々勢へ目を向けた。
「これでは百々勢も持ちますまい」
光秀の言葉どおり、百々勢の備えが崩れた。だが、川へ逃げ戻ることはせず、少し離れた高みへ退いて兵を集め始める。傾いていた旗が立て直され、その下に再び兵がまとまっていった。
俺は高みで立て直された百々の旗を見た。
「もう一度攻めるつもりか」
「そのようでございます」
百々勢は兵を減らしながらも、勢いを失わずに再び前へ出た。蒲生勢へ正面からぶつかると、田中勢や楢崎勢とも槍を交え始めた。
その頃、宇曽川沿いの別の場所では、北岸を押さえようと六角勢が川へ入り始めていた。対岸に構える浅井の一隊は、その様子を見ても動かなかった。
俺は対岸に構えたまま動かない一隊を見た。
「あれが丹波守の勢か」
磯野丹波守員昌。今はまだ浅井の一将だが、この構えを見る限り、噂どおり無闇に兵を動かす男ではないらしい。川へ踏み込もうとはせず、六角兵が岸へ上がってくるのを待つように、備えを保っていた。
記憶が正しければ、後に佐和山を長く守り抜く男だ。だが、この戦で長政を仕留めれば、員昌がその後も史実と同じ道を歩むかは分からない。
光秀は対岸に構える磯野勢を見つめていた。
「六角勢が岸へ上がるのを待っておりますな」
「ああ。そのつもりだろう」
六角兵の先頭が北岸へ上がった途端、磯野勢が槍を揃えて押し寄せた。後続はまだ川の中にいる。岸辺の六角兵は前進を阻まれ、退こうにも後ろが詰まって動けなくなった。
六角の陣を使番が走り、進藤、平井の旗が川へ向かった。その後ろで後藤の旗も動き、俺は思わず目を向けた。あの旗の下には、舅の賢豊がいる。
政基も後藤の旗に気づいた。
「十兵衛様、後藤殿も川へ向かわれます。鉄砲を寄せましょうか」
「見えてる。今はまだ待て」
「ですが、正面には磯野勢がおりますぞ」
「浅井備前守は、どこまで出てきてる」
「まだ本陣にございます」
「なら、そのまま待機させろ」
政基は後藤の旗をもう一度確かめ、俺へ向き直った。
「……承知いたしました」
戦いは宇曽川の両岸へ広がっていた。百々勢は再び田中勢と楢崎勢に挟まれたが、退こうとはしない。旗の周りに集まった兵が何度も六角勢へ食らいついたものの、やがてその旗も倒れた。
少し遅れて、六角勢の鬨に交じり、討ち取りを告げる声が響いた。
「百々内蔵助、討ち取ったり!」
討ち取りの声は先陣から後方へ伝わっていった。もともと兵数で勝る上に、浅井の先鋒を崩したことで、六角勢は早くも勝ったつもりになったらしい。先ほどまで必死に攻めていた兵の足が鈍り、後方の備えも緩み始めた。
政基が対岸の浅井勢へ目を向けた。
「これで浅井も退きましょうか」
「いや、まだだ」
浅井の旗は退かず、磯野勢も戦い続けている。その背後で、新たな兵の動きが見えた。
光秀が浅井本陣を指した。長政の旗が前へ進み始めている。
「十兵衛様」
「来たな」
百々が討たれても、長政は退かなかった。残る兵をまとめて自ら前へ出ると、その旗に浅井勢が続き、崩れかけていた兵も踏みとどまって再び南へ向かう。磯野勢も攻勢に転じ、北岸の六角兵を川へ押し戻し始めた。
政基が後藤の旗へ目を向け、声を上げた。
「十兵衛様、後藤勢まで押されております!」
後藤の旗も後退し、川を渡って南岸へ戻ろうとしていた。
俺は政基に、賢豊と承禎の様子を確かめた。
「舅殿と大殿は、どうなってる」
「後藤殿の旗はまだございます。大殿の本陣も残っております」
「浅井備前守は、どこまで出てきた」
「本陣を離れ、さらに前へ進んでおります」
「まだ鉄砲は使うな。もう少し待て」
政基が俺へ向き直った。
「今ここから撃てば、後藤殿をお助けできますぞ」
「分かってる」
「ならば、なぜ」
「備前守がまだ遠い。ここで撃つわけにはいかない」
ここで六百丁を撃てば、川を渡った六角勢は助かるかもしれない。賢豊も退きやすくなるだろう。だが、長政はこちらの鉄砲を警戒し、逃げてしまう。討ち漏らせば、何のために来たのか分からない。
政基がなおも言い募ろうとした。
「十兵衛様」
「舅殿が本当に危なくなれば援護する。今はまだ待て」
政基は黙り込み、長政はなおも前進を続けた。そこで、肥田城の門が開いた。
光秀が開いた城門を指差した。
「肥田城から敵が出てきます!」
秀隆の兵が一斉に城から飛び出した。浅井の先鋒を討ち、勝ったつもりでいた六角勢へ、正面から長政、横から秀隆の兵が迫る。押し戻された兵が後ろの備えへぶつかり、北岸から川へ逃れる者と、南岸で迎えようとする者が入り乱れた。旗が倒れ、指示を叫ぶ声も届かない。優勢だった六角勢は、たちまち総崩れになった。
政基が承禎の本陣へ目を向けた。
「十兵衛様、このままでは大殿の本陣まで押し込まれます」
「舅殿は戻れたか。大殿の旗は見えてるな」
「後藤殿は南岸へ戻られました。大殿の旗もまだございますが、このままでは――」
「浅井備前守は、今どこだ」
「さらに前へ出てきております!」
長政の旗が宇曽川へ迫り、浅井兵に続いて馬廻りも川へ入った。六角勢が崩れたこの機に、勝負を決めるつもりなのだろう。
光秀が指示を求めるように俺へ目を向けた。
「十兵衛様」
「まだ撃つな」
すでに射程には入っている。だが、外せば次の機会はない。六角兵が逃げるにつれ、こちらと長政の間を遮る兵は減っていた。川を越え、もっと前へ出てこい。
長政の旗が南岸へ上がると、善住坊が銃を構えた。
「射程に入りました」
「浅井備前守で間違いないな」
「はい、間違いございませぬ」
俺は待機していた政基と光秀へ命じた。
「弦十郎、九郎。射撃用意」
三隊に分けた六百の鉄砲兵が、浅井の中央へ銃口を向けた。政基が後藤の旗を確かめ、俺もそちらへ目を向ける。後藤勢はすでに南岸へ戻っていた。これなら撃てる。
俺は銃を構えた善住坊に命じた。
「善住坊、撃て」
最初の二百丁が一斉に火を噴き、重なる銃声とともに白煙が広がった。長政の周りで馬が倒れ、兵が崩れ落ちる。浅井勢はようやくこちらを振り向いたが、立て直す暇は与えない。
俺は続けて光秀に命じた。
「九郎、次を撃て」
二度目の銃声が響くと、長政の旗が大きく揺れた。馬廻りが一か所へ駆け寄り、白煙と兵に遮られて、長政の姿が見えなくなった。
政基が身を乗り出した。
「十兵衛様、備前守殿の姿が見えませぬ」
「構わない。弦十郎、続けて撃て」
最後の二百丁が火を噴き、浅井勢の中央が前進を止めた。前へ出かけていた兵も振り返り、長政がいた場所へ集まっていく。
その少し後ろには、隠居したはずの久政の旗もあった。後詰として倅の初陣を見届けるつもりだったのだろう。久政の勢も射撃に巻き込まれ、動きを止めていた。
浅井勢が止まっても、六角勢は立ち直らなかった。崩れた兵は南へ逃げ続け、承禎の本陣も退き始めている。
政基が退いていく本陣を確かめた。
「大殿も退かれます」
「舅殿はどうしてる」
「御一緒に退いておられます」
「ならいい。俺たちも引き揚げるぞ」
「浅井勢を追われぬのでございますか」
「何のために追うんだよ」
ここへ来たのは長政を討つためで、浅井を滅ぼすためでも、六角を勝たせるためでもない。用を済ませた以上、追う理由はなかった。六百の兵をまとめ、潰走する六角勢に巻き込まれないよう戦場を離れた。
退く道でも、逃げ崩れた六角兵の姿が目についた。具足を捨てて走る者もいれば、傷を負って仲間に担がれる者もいる。誰もこちらを気にかける余裕はないらしい。二万を超える大軍も、一度崩れればこの有様だ。
光秀が本陣のあった方を振り返った。
「兵数では、負ける戦ではなかったはずですが」
「勝ったつもりで油断してたからな。押し返された途端、踏みとどまれなくなったんだろ」
政基が馬の轡を引きながら口を開いた。
「此度の働きで、高野瀬殿も浅井から重く用いられるようになりましょうか」
「いや、そうはならないだろうな」
* * *
夕刻になって、瑞鳳衆が戻ってきた。
男は俺の前に膝をつき、報告した。
「浅井備前守、討死にございます」
「間違いないか」
「はい。浅井方が遺骸を収めるところまで見届けております」
「下野守の方は」
「鉄砲傷を負い、重傷とのことでございます。小谷へ運ばれました」
「六角と浅井、それぞれどれくらい死んだ」
「六角方はおよそ九百、浅井方はおよそ四百と聞いております。浅井方が緒戦の劣勢を覆し、後半は六角方の損害が膨らんだようにございます」
死者は六角の方が多く、戦場に残ったのは浅井だった。先鋒を崩したところで勝ったつもりにならず、最後まで攻め切っていれば、結果は違ったかもしれない。優勢でも油断すれば、これほど容易く逆転されるのだ。
久政は生き残ったか。六角は肥田を取り戻せず、軍を崩されて退いた。だが、浅井も当主を失い、隠居した久政まで重傷を負っている。戦場に踏みとどまったからといって、勝利を喜べる状況ではない。
六角にとっては、一戦を落としただけでは済まない。二万を超える兵を揃えながら、初陣の当主が率いる浅井勢に押し切られたのだ。譜代の家臣まで承禎の采配を疑い始めれば、家中も内側から崩れかねない。
浅井も、家中を差配する者がいなくなったに等しい。敗れた六角と、当主を失った浅井。北近江の国衆にとっては、どちらに従うべきか、かえって判断しにくくなっただろう。当面は両家とも大きく動けない。この一戦で、近江の勢力関係は変わった。
俺には、それで十分だった。標的リストを取り出し、「浅井長政」の名に線を引いた。史実では、こいつが先に「賢政」と名乗っていた。だが、この世界では俺がその名を貰い、今日は命も奪った。
だが、小谷も北近江も、お市もまだ残っている。史実なら、長政は信長と結び、妹婿の立場まで手に入れるはずだった。その男を討った以上、もう同じ道は辿らない。それで構わない。ここから先は、俺が変えていけばいい。
俺は線を引いた長政の名を見下ろし、呟いた。
「……まだ奪う」
隣にいた政基が、怪訝な顔で俺を見た。
「十兵衛様は、備前守殿から何かされたのでございますか」
「何もされてない」
「では、なぜそこまで」
「ああいう、恵まれてるくせに裏切る奴は嫌いなんだよな」
政基はしばらく黙ってから、言葉を返した。
「……左様でございますか」
これで火種は一つ消えた。さて、次はあいつだ。そろそろ来る頃だろう。




