↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第四章 戦国大名への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
128/139

第114話 桶狭間、決戦

 永禄三年(えいろくさんねん)(1560年)、五月十九日。

 尾張国(おわりのくに)、春日井郡(かすがいぐん)、清洲(きよす)、清洲城(きよすじょう)。


 桶狭間(おけはざま)――織田信長(おだのぶなが)


 夜半からの雨がまだ残る中、東の砦から使いが相次いで駆け込んできた。広間は灯りを増やしても隅まで照らせず、家臣たちは薄闇に座り、口を閉ざして廊下を近づく足音に耳を澄ませていた。


 昨日の昼過ぎ、今川勢が沓掛(くつかけ)から大高(おおだか)、鳴海(なるみ)へ進んだとの報せが届いた。以来、使者の出入りは絶えず、わしも軍議の座に着いたまま報告を聞き続けていた。


 賢政(かたまさ)は昨夜、二千九百を率いて大高へ向かった。本隊はわしに任せ、大高は自分が落とすと言い切った。あの男なら、言ったとおりにやるだろう。


 また一人、泥にまみれた使いが駆け込んできて、わしの前に膝をついた。

「申し上げます! 丸根砦(まるねとりで)、落城! 佐久間大学(さくまだいがく)殿、お討ち死に!」


 家臣たちの間に低いどよめきが広がった。盛重(もりしげ)が死んだ。あの小さな砦で、わずかな兵を率いて持ち堪えていた。最後まで退かずに戦ったのであろう。


 鷲津(わしづ)にも敵が取り付いたと聞いている。丸根まで落ちたとなれば、東南の守りは危うい。だが、大高は賢政に任せてある。わしがここで気を揉んでも始まらぬ。


 わしは居並ぶ家臣たちに目を向けた。

「出るぞ」


 末座の家臣が慌てて口を開いた。

「殿、今川勢は二万を超えると聞きます。まずは清洲に兵を集めてからでも――」

「大高は十兵衛に任せた。わしは治部大輔(じぶのたいふ)を叩く。すでに決めたことだ」


 ここで兵を待っていても、盛重は戻らぬ。わしは立ち上がり、幸若の一節を舞った。人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり――人はいずれ死ぬ。今日がその日かもしれぬと恐れて、城に籠もるつもりはなかった。


 家臣たちは黙って見守り、先ほど引き止めた者も口を挟まなかった。わしは舞い終えると、運ばせた湯漬けを立ったままかき込み、具足を持ってくるよう命じた。


 法螺貝が鳴ると、城内は慌ただしくなった。具足を運ぶ者たちが廊下を駆ける中、わしは支度を済ませて馬に乗った。供に付いたのは、まだ五、六騎だけだった。


 わしは馬を城門へ向け、供の者に命じた。

「出るぞ。遅れた者は追ってこい」


 皆が揃うのを待たず、熱田(あつた)へ馬を走らせた。


 * * *


 熱田に着く頃には、辺りは明るくなっていた。社前で馬を下りて戦勝を祈願する間にも、清洲から後続が追いついてきた。供は出立時より随分と増えたが、それでも今川勢には遠く及ばぬ。


 東には二筋の煙が上がっていた。丸根と鷲津、味方の砦が戦った跡だろう。わしは再び馬に乗り、集まった兵を率いて熱田を発った。


 丹下(たんげ)の砦で兵をまとめ、善照寺(ぜんしょうじ)へ向かう道中でも、具足の揃わぬ者たちが駆けつけてきた。来た者から隊列へ加えて進み、善照寺に着く頃には、ようやく軍勢と呼べる数になっていた。


 高みから東南を見渡した。丸根は落ち、鷲津も攻められている。義元は思いどおりに戦を進めているつもりだろうが、大高には賢政が向かっている。もっとも、そちらの報せはまだ届いていなかった。


 そこへ使いが駆け込み、報告した。

「申し上げます! 佐々隼人正(さっさはやとのしょう)様、千秋四郎(せんしゅうしろう)様、三百ほどを率いて今川勢へ攻めかかられました!」


 佐々隼人正政次《さっさはやとのしょうまさつぐ》と千秋四郎季忠《せんしゅうしろうすえただ》が、下知を待たずに打って出たという。味方の砦が落ちるのを見て、堪えきれなくなったのか。だが、三百の兵で崩せる相手ではない。


 二人を呼び戻そうと使いを出しかけたところへ、別の男が駆けてきた。

「申し上げます! 佐々隼人正様、千秋四郎様、お討ち死に! 御味方も多数討たれたとのことにございます!」


 家臣たちがざわめいた。打って出たと聞いたばかりなのに、もう討たれたというのか。わしは皆を静めようと声を張った。

「静まれ」


 ざわめきが収まると、近づいてくる馬の蹄の音が聞こえた。新たな使いが馬から下り、泥まみれの姿で膝をついた。

「申し上げます! 橘十兵衛(たちばなじゅうべえ)様が大高城を攻め落とされました! 松平次郎三郎《まつだいらじろうさぶろう》は討ち死にしたとのことにございます!」


 今度は家臣たちから驚きの声が上がった。城を落とし、元康(もとやす)まで討つとは。昨日、任せろと言い切った十兵衛の顔が思い浮かんだ。


 わしの口元に、思わず笑みが浮かんだ。

「十兵衛め、やりおったな」


 大高は落ちた。ならば、わしも打って出る。政次と季忠を失ったからといって、ここで退くわけにはいかぬ。


 わしは家臣たちへ向き直った。

「中島(なかしま)へ出る」

「お待ちくだされ! 道は狭く、左右は深田にございます。そのうえ、こちらの兵は敵から丸見えになります」

「ならば、こちらの兵が少ないと知って、侮る者もおろう」


 隠れて進めば敵も用心するが、少ない兵で向かうわしの姿を見れば、勝ちを疑わず油断する者もおろう。姿をさらす危うさはあるが、その隙に付け込めればよい。


 わしは引き止めた家臣へ問い返した。

「ここで兵が増えるのを待てば、治部大輔も動かずに待っていてくれるのか」


 家臣から返事はなく、わしは馬を進めながら皆へ声を掛けた。

「ついて来る者は、後から追ってこい」


 中島への道は、確かに狭かった。左右は深田で兵を横に広げられず、長い列を作って進むしかない。それでも、敵の姿を見ぬうちから足を止める気はなかった。


 中島へ入って後続の兵が追いつくのを待つと、わしは皆を集めて声を掛けた。

「今川の兵は夜から大高へ兵糧を運び、丸根と鷲津を攻めておる。動き通しで疲れた者も多かろう。今頃は首を検め、勝ち戦を喜びながら休んでおるはずだ」


 兵の一人がわしに尋ねた。

「では、敵が休んでおるところを攻めるのでございますか」

「そうだ。こちらはまだ戦っておらぬ新手だ。疲れた敵が立ち直る前に攻めかかる」


 兵たちが顔を上げると、わしは後ろに控える者にも届くよう声を張った。

「敵を倒しても、首や分捕りに構うな。足を止めず、先へ進め。目指すは治部大輔ただ一人だ」


 わしが槍を掲げると、兵たちから鬨の声が上がった。槍を握り直し、隣の者と声を掛け合いながら、先ほどまで敵の数を案じていた者も出撃の支度に取り掛かる。


 ほどなく、義元が桶狭間の辺りにいるとの報せが入り、わしは兵を進めた。中島を出てしばらくすると、にわかに空が暗くなり、強い風が木々を揺さぶり始めた。傍らの楠が根元から折れ、轟音を立てて倒れた。


 続いて激しい雨が叩きつけ、風に煽られる旗の向こうで、少し先の兵の姿さえ白く霞んだ。具足の隙間にも水が入り込み、兵たちは足を止めた。


 わしは雨の中で足を止めた兵たちへ声を張った。

「旗を伏せろ。互いに離れるな」


 この雨では、敵も思うようには動けまい。隊を崩さぬよう待っていると、やがて風が弱まり、雨脚も衰えた。木々の切れ間から、今川の陣が見える。


 旗は乱れ、兵たちがあちこちに固まっている。雨宿りをしていたのだろう。その中には具足を外した者や食事中の者もおり、まだこちらに気付いた様子はなかった。


 わしはそばの者へ手を差し出した。

「槍を寄越せ」


 槍を受け取ると、周囲の兵たちが穂先を前へ向けた。わしは今川の陣を見据え、号令を掛けた。

「すわ、かかれ、かかれ」


 兵たちは一斉に走り出し、ぬかるんだ地面を蹴って陣へ突っ込んだ。こちらに気付いた敵兵が槍を取ったが、その後ろにはまだ座ったままの者もいる。


 わしは兵たちに声を張り上げた。

「押せ! 止まるな!」


 先頭の兵が敵に迫り、槍を合わせた。押された今川兵が後ろの味方にぶつかり、横へ逃れようとする者も出て隊列が乱れる。織田兵はそこに生じた隙間へ入り込み、陣の奥へ押し進んだ。


 わしは指物が集まっている辺りを指し示した。

「治部大輔の旗本へかかれ! 倒した奴に構うな!」


 倒れた敵を越えて先へ進んだ。逃げ出す敵兵は増えていたが、陣の奥にはまだ隊列を保っている一団がいた。


 その一団の中から、よく通る声が響いた。

「退くな! 旗本はここへ集まれ。兵部少輔は左を支えよ。信濃守、前を押し返せ!」


 義元か。その号令で二つの集団が動き出すと、逃げかけていた兵も足を止めた。


 そばにいた者が、槍を掲げている武者を指さした。

「殿、松井兵部少輔《まついひょうぶしょうゆう》です」


 松井兵部少輔宗信《まついひょうぶしょうゆうむねのぶ》は前へ出ると、兵たちを叱咤した。

「御屋形様の御前ぞ! ここを抜かせるな!」


 宗信の周囲に兵が集まり、槍の穂先を揃えた。その傍らでは、別の武者が隊列の崩れた兵を集めている。


 別の者が、その武者を指さして声を上げた。

「井伊信濃守(いいしなののかみ)もおります!」


 井伊信濃守直盛《いいしなののかみなおもり》は兵の前に立ち、声を張った。

「井伊の者は前へ出ろ! 退くことは許さぬ!」


 宗信の兵が横から攻めかかり、直盛の一団が正面を塞いだ。こちらの先頭は押し留められ、何人かが倒れた。義元の旗本には、まだ戦える兵が残っている。


 わしは馬廻に前進を命じた。

「松井と井伊を崩せ! その先に治部大輔がおる!」


 馬廻は敵と槍を合わせ、押し返されても踏みとどまった。ぬかるみに足を滑らせて倒れる者もいれば、槍を失って刀を抜く者もいる。今川方も退かず、宗信自ら前へ出て、迫る織田兵を突き倒した。


 宗信は槍を引き戻しながら、兵たちを叱咤した。

「怯むな! まだ戦える!」


 織田兵の一人が宗信の脇へ踏み込んだ。宗信は槍を返して応じたが、さらに二人、三人と取り付かれる。今川方から助けを呼ぶ声が上がったものの、宗信の姿は群がる兵に遮られ、見えなくなった。


 群がる兵の中から、一人が声を張り上げた。

「松井兵部少輔、討ち取ったぞ!」


 宗信を失った一団が崩れると、直盛は退かず、その穴を塞ごうと兵を差し向けた。


 義元は直盛に呼び掛けた。

「信濃守、もうよい。下がれ」

「御屋形様こそ、お退きくだされ」

「兵を置いて退けるか」

「なれば、ここでお供いたしまする」


 直盛は再び敵へ向き直ると、槍を握り直した。

「井伊の者、最後まで槍を離すな!」


 井伊勢が声を上げ、正面からぶつかってきた。強い兵だった。だが、宗信が守っていた側からも織田兵が攻め込み、直盛の一団は正面と側面から押され始めた。


 直盛も刀を抜き、迫る一人を斬った。次の敵へ向き直ったところで横から槍を受け、よろめきながらも刀を振り上げたが、さらに別の槍が突き込まれた。


 直盛は義元の方へ顔を向け、声を絞り出した。

「御屋形様を――」


 声が途切れ、直盛はその場に倒れた。討ち取ったとの声が上がると、井伊の兵も崩れた。宗信と直盛を失った今、義元を守る兵は残り僅かだ。


 前へ出た兵の一人が義元を指さし、叫んだ。

「治部大輔はあそこだ!」


 義元は残った近習に囲まれ、太刀を抜いていた。近習の一人が退くよう促した。

「御屋形様、お退きを!」

「黙れ。敵にここまで迫られて、背を向けられるか。退くな、わしはここにおる!」


 近習たちが前へ出て、押し寄せる馬廻と斬り合った。その間を縫い、服部小平太一忠《はっとりこへいたかずただ》が槍を構えて進み出た。


 一忠は槍の穂先を義元に向けた。

「今川治部大輔殿とお見受けいたす」

「いかにも。何者だ」

「服部小平太と申す。御首、頂戴いたす」

「取れるものなら取ってみよ!」


 一忠が踏み込んで槍を突き出すと、義元は体を捻った。穂先は脇に刺さったが、義元は退かず、槍の柄に沿って間合いを詰める。そのまま太刀を振り抜くと、一忠が膝を折った。


 そばにいた兵が、一忠に呼び掛けた。

「小平太!」


 一忠が崩れ落ちた。義元も脇から血を流していたが、なお太刀をこちらへ向けている。


 義元が怒鳴った。

「次は誰だ!」


 毛利新介良勝《もうりしんすけよしかつ》が義元の前へ飛び込んだ。

「毛利新介! 御首を貰う!」

「まだ来るか!」


 良勝が斬りかかると、義元は太刀で受けた。二人は刃を弾き合って離れたが、すぐに義元が踏み込んだ。

「尾張の小倅どもに、この今川が――!」


 良勝は振り下ろされた太刀を受け止めると、そのまま義元に体を寄せ、腕を押さえて組み付いた。

「離せ!」

「離すものか!」


 二人はもつれ合ったまま泥の中へ倒れた。義元を助けようと近習が駆け寄ったが、馬廻に行く手を阻まれた。


 義元は倒れても抵抗をやめず、良勝を押し退けて太刀を振り上げようとした。良勝も離れず、義元を上から押さえ込んだ。二人の体が重なり、こちらからは手元が見えない。


 やがて義元の動きが止まった。しばらくして立ち上がった良勝の手には、義元の首があった。


 良勝は首を掲げ、声を張り上げた。

「今川治部大輔、毛利新介が討ち取った!」


 その声が周囲に広がると、踏みとどまっていた今川兵も、掲げられた首を見て崩れ始めた。


 わしは槍を掲げ、兵たちに命じた。

「勝鬨を上げよ!」


 兵たちが声を揃えて応じた。

「えい、えい!」

「応!」

「えい、えい!」

「応!」


 雨上がりの桶狭間に勝鬨が響いた。丸根と鷲津は失ったが、賢政が大高を取り返し、わしは義元を討った。逃げていく敵兵の姿はまだ見えるものの、戦の勝敗はすでに決していた。


 使番を出して深追いを止めさせ、義元と旗本の首を検めるよう命じた。清洲へ戻れば、諸方へ知らせを出さねばならぬ。だが今は、ぬかるみに立ったまま、兵たちの勝鬨を聞いていた。


 * * *


 少し前、大高城では、捕らえた城兵から武具を集めるなど、戦の後始末が進んでいた。俺は押収した足軽胴を手元に置き、自分の具足を脱ぎ始めた。


 秀吉(ひでよし)が足を止め、俺の手元に目を向けた。

「十兵衛様、何をしておられるので」

「見れば分かるだろ。着替えてる」

「それは分かります。なぜ今川の足軽の格好をなさるのかと伺っております」

「桶狭間へ行くからだ」


 秀吉は黙り、傍らの政基(まさもと)が顔をしかめた。

「十兵衛様、大高を落としたばかりにございます」

「だから、後始末は任せられるだろ」


 ここには秀吉も継潤もいる。捕虜を集めて城内を調べる間、俺がずっと付き添っている必要はない。


 俺は具足の紐を解きながら、秀吉に指示を出した。

「藤吉郎、大高は任せる。善祥坊(ぜんしょうぼう)も残し、捕虜をまとめておけ。今川の残兵が来ても、城へは入れるな」

「承知しました。ですが、十兵衛様は桶狭間で何をなさるおつもりですか」

「見てくるだけだ」

「見物でございますか」

「ああ」


 連れていくのは政基、成政(なりまさ)、興種(おきたね)、清興(きよおき)、光秀(みつひで)と、僅かな護衛だけだ。全員に橘の家紋が入った物を外させ、押収した足軽胴を着けさせて陣笠をかぶらせた。


 政基が皆の支度を見渡した。

「随分と物騒な見物にございますな」

「戦場だからな。これくらいでちょうどいい」


 光秀も口を挟んできた。

「某も弦十郎殿と同じく、お止めしたいところにございます」


 俺は苦笑して光秀を見た。

「九郎まで言うのか」

「当然にございます。十兵衛様、今からでもお考え直しください」

「もう決めた。行くぞ」


 政基の制止を振り切って大高を出たが、桶狭間へ向かう途中で空が暗くなり、激しい雨が降り出した。木の下に入っても横殴りの雨は防ぎきれず、足軽胴も陣笠も濡れていく。


 これが、あの雨か。前世で何度も読んだ桶狭間の豪雨が、今、俺に降り注いでいる。


 雨脚が弱まってから再び進み始めると、遠くで鬨の声が上がった。俺は声のした方へ顔を向けた。

「始まったな」


 足を速めて進むと、逃げてくる今川兵が次第に増えてきた。槍を捨てた者もいれば、まだ握ったまま走ってくる者もいる。


 光秀は逃げてくる兵たちに目を向けた。

「かなり崩れておりますな」

「ああ。上総介殿が攻め込んだんだろう」


 見晴らしのよい場所を探していると、十人ほどの今川兵と鉢合わせた。相手はいったん足を止めたものの、こちらが道を開けないと見るや、槍を構えて迫ってきた。俺は刀を抜き、脇から斬りかかる一人を斬り倒した。続いて迫る兵も斬り伏せ、今川本隊の方へ目を戻す。


 俺は苛立ち混じりに吐き捨てた。

「邪魔するな。見えんだろうが」


 政基が俺のそばへ寄った。

「十兵衛様、まだ敵がおります。見物どころではございませぬ」

「こんな場面を見逃せるか。九郎も目に焼き付けておけ」


 光秀が口を開いた。

「なぜそこまで仰るのか、分かりかねますが」

「後で分かる。とにかく見ておけ」


 残る今川兵には成政たちが応じた。清興と興種が前に立って敵を食い止め、政基も一人を斬り倒した。数人は逃げ出したが、誰も追おうとはしなかった。


 さらに進むと、林の向こうに今川勢が見えた。逃げる今川兵の間へ織田勢が押し入っていたが、その奥では、まだ一団がまとまって戦っている。


 俺はその一団を指さした。

「あそこだな」


 義元の旗本だろう。これ以上近づけば、さすがに戦いに巻き込まれる。俺たちはその場で足を止めた。


 ぬかるんだ地面には、捨てられた槍や指物が散らばっていた。今川兵が次々と逃げてくる一方で、奥からは怒号と武具のぶつかる音が響いている。固まっていた一団も、織田兵に攻め込まれるにつれて少しずつ崩れていった。


 文字でしか知らなかった戦が、目の前で進んでいる。俺は陣笠の雫を払い、陣の奥を見つめた。


 光秀が陣の一角を指さした。

「十兵衛様、あちらを」


 光秀が指した一角に、織田兵がさらに集まっていた。義元の周囲に取り付いたらしい。そのまま目を離さずにいると、やがて戦場から聞こえる声が変わった。


 前方から、兵の叫び声が聞こえた。

「治部大輔を討ち取ったぞ!」


 別の場所からも討ち取りを告げる声が上がった。やがて勝鬨が広がり、その場に残っていた今川兵も逃げ始めた。


 ほどなく、瑞鳳衆(ずいほうしゅう)の男が兵の間を抜けて駆けてきた。

「十兵衛様、織田方が駿河殿の首を挙げたとのことにございます」

「やったか」


 義元は討たれた。俺が知る桶狭間の戦と同じ結末だった。


 男はさらに報告を続けた。

「それと、佐々隼人正様と千秋四郎様も、討ち死になさったとのことでございます」


 成政の動きが止まった。

「……兄者が」


 俺は成政に目を向け、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。成政もしばらく黙っていたが、やがて低い声で答えた。

「そうか」


 成政はそれ以上、何も言わなかった。遠くでは、まだ織田勢の勝鬨が響いている。


 今川が失ったのは義元だけではない。元康も討たれ、大高城は落ち、長照(ながてる)は俺たちの捕虜となった。松平勢も大きく崩れている。前世で知った史実よりも、今川の損失は大きかった。


 雨上がりの戦場に、再び勝鬨が響いた。桶狭間の戦いは、今川の大敗に終わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。