第113話 又左の三首、具教の二首
永禄三年(1560年)、五月。
伊勢国、三重郡、菰野、菰野城。
連れて行かれなかった又左――前田利家
賢政は成政を供に、兵を率いて尾張へ入った。秀吉も大高へ回ると聞いたし、一益は四日市を任されとる。わしには菰野の城を守っておれとの下知だけで、こうして槍を磨いてばかりおる。
守りが大事なのは分かっとる。それでも、今川が尾張まで来とるのに、わしだけ留守番では納得がいかん。だが、勝手に後を追えば軍令破りになる。賢政は、そういうことには甘くない。
槍の穂先を布で拭いているうちに、ふと思いついた。橘の兵として行くから軍令破りになるのだ。織田の足軽として戦えば、橘の軍令には触れん。うむ、筋は通っとる。
そうと決めて槍を担いだが、廊下へ出たところで永福に呼び止められた。
「又左衛門様、その槍を担いで、どちらへ」
「ちょっと尾張まで見物だがね」
「城はどうなさるのです」
「助十郎が見とってくれ。守りの段取りは付いとる」
「十兵衛様に知れたら、叱られるのは某ですぞ」
永福は本気で顔を引きつらせていた。わしはその肩をぽんと叩いた。
「織田の足軽として行くんだ。橘の兵ではないから、十兵衛様の軍令には触れん」
「……その理屈が、十兵衛様に通るとお思いですか」
「通す」
城の差配は永福に任せ、わしは供を連れず、一人で菰野を発った。
* * *
永禄三年(1560年)、五月十九日。
尾張国、愛知郡、鷲津、鷲津砦。
織田方の兵が集まる寺の前で、わしは列の端へ紛れ込んだ。組頭らしい男がわしの具足を上から下まで眺め、眉を寄せた。
「お前、どこの者だ」
「伊勢から来た又左だ。槍には覚えがある」
「伊勢の足軽か」
「今日はな」
組頭は胡散臭そうに、わしの具足をしげしげと眺めた。
「随分と良い具足を着とるな」
「借り物だがね。……いや、借り物だ」
「誰に借りた」
「伊勢の知り合いだ」
「こんな上等な具足を貸してくれる者がおるのか」
「おるとも。顔は広いでな」
組頭はまだ何か言いたげだったが、戦を前に一人ひとりの素性を確かめる暇もないのだろう。それ以上は聞かれず、わしは足軽の一人として鷲津の砦へ入った。
砦の柵内で夜を待っていると、隣に座った年嵩の足軽が、わしの槍をしげしげと眺めた。
「随分使い込んどるな。槍はどこで習った」
「伊勢で、ちいとな」
「伊勢では今、橘とかいう家が威張っとるそうだが」
「……威張っとるわけじゃないが、何かとうるさい家だ」
「なんだ、よう知っとるな」
「噂を聞いたくらいだ」
これ以上しゃべれば主の名まで出しかねんので、わしは口をつぐんだ。そうして夜を過ごすうち、空が白む前に南の大高の方角で鉄砲が鳴り始めた。賢政たちはあっちかと思っていると、こちらにも松明の列が迫ってきた。朝比奈備中守泰朝の兵だと叫ぶ声が上がった。
砦を守る織田の兵は少ない。それでも、ようやく戦えると思うと、妙に腹が据わっとった。今川兵が柵を乗り越え、周りの足軽が押され始めると、わしは先頭の兵の胸を槍で突き、柵の内へ引き倒して止めを刺した。
そばにいた足軽が声を掛けてきた。
「又左、やるじゃねえか」
「まず一つだ」
首を落として腰へ括りつけると、隣の足軽が目を剥いた。
「おい、この乱戦で首を取る暇があるのか」
「一つくらいならな」
「そんなものを下げて走れるか」
「走れる。足の速さにも自信があるでな」
橘の軍では首取りを禁じられとる。だが、今日のわしは織田の足軽だ。やがて夜が明けきり、柵の一角を破った敵が砦へなだれ込んできた。味方が後退する中、わしは逆に前へ出た。
二人目は、それまでの足軽とは格が違った。わしの槍を柄で払うと、すぐに間合いを外した。そこへ別の兵が脇から斬りかかってきた。わしは身をかわして追いすがり、相手が体勢を立て直す前に脇腹を突き、倒した。
近くの織田兵が、隣の者に話し掛けた。
「あの伊勢者、ただの足軽じゃないぞ」
「あれはどこの家中の者だ」
背後の声に構っとる暇はなかった。昨夜隣に座っとった年嵩の足軽が、柵の陰から怒鳴った。
「又左、出すぎだ! 下がれ!」
「下がったら、そっちへ抜けられるがね!」
「一人で塞げるか!」
「塞げるだけは塞いでやる!」
わしが二人討っても、戦の流れは変わらなかった。朝比奈の兵は次々と柵を越え、とうとう「もう持たん」と叫ぶ声が上がった。織田の兵が退き始めた。
今川の小頭らしい男が兵を率い、味方の退き口へ回り込もうとしとった。わしはその前へ割って入り、男の喉を槍で突いた。
三つ目。
槍には確かな手応えがあった。退きかけていた織田兵が何人か足を止め、わしへ目を向けた。
足を止めた一人が、わしに問い掛けた。
「伊勢者、お前、本当は何者だ」
「又左だと言うたがね」
「名を聞いとるんじゃない」
振り返れば柵は倒れ、櫓からは煙が上がっていた。織田の旗が一つ、また一つと下ろされていく。三人斬ったところで、砦は守れんか。もはや残る理由もなく、わしは三つの首を抱え、退く兵に混じって砦を出た。
横を走る足軽が、わしの抱えた首を見て怒鳴った。
「そんなものまで持って逃げるのか!」
「せっかく取ったんだがね!」
「重くて走れんだろうが!」
「これくらいなら走れる!」
少し重いが、走るのに支障はなかった。
砦から離れた田の畦で、ようやく足を止めた。そこへ兵が東から駆け込んできて、大声で知らせた。
「上総介様が清洲を出られたぞ!」
「どこへ向かわれた」
「善照寺の方だと聞いた!」
一緒に逃げてきた年嵩の足軽が、わしの腰に下げた首を見て呆れた。
「本当に三つとも持ってきたのか」
「当たり前だがね」
「上総介様に見せれば、褒美を頂けるかもしれんぞ」
「褒美はいらん。それに、わしの主は首を持ち帰っても喜ばんでな」
「……変わった主だな」
東では、まだ戦が続いとるらしい。わしは腰に下げた三つの首を見下ろし、少し考えた。……まだ終わっとらんなら、行くか。
* * *
永禄三年(1560年)、六月。
伊勢国、一志郡、多気、北畠館。
消えない屈辱――木造具政
某は、鳥屋尾石見守満栄、田丸中務少輔直昌とともに、具教の前に座っていた。
江野から届く報せは、相変わらずだった。雪姫は江野の奥で健やかに育ち、神戸は橘に従い、九鬼も橘と船を行き来させている。長野では、具教の子、長野次郎具藤が養子に入って家を継いだものの、今も藤定とその父、長野宮内大輔稙藤が家中を握っていた。
具教にとって、去年の講和はまだ済んだ話ではなかった。長野が勝手に起こした戦の尻拭いをさせられ、神戸は橘の側へ移った。賢政から条件を突きつけられた末、まだ乳飲み子の雪姫まで江野へ差し出すことになったのだ。
具教は声を低くして言った。
「長野が起こした戦の代償を、なぜわしの娘が払わねばならぬ」
誰も答えず、具教は自ら話を続けた。
「長野を滅ぼすつもりはない。次郎がおるからな。要らぬのは、いまだに次郎の上に居座る二人よ」
「両名を除けば、次郎様のもとに長野をまとめられます。利はございましょう」
直昌は淡々と答えた。満栄は目を伏せたまま、懸念を口にした。
「次郎様はまだお若うございます。両名を失えば、長野の家中も揺れましょう」
具教は短く答えた。
「ならば、揺れる前に押さえればよい」
直昌もそれに続いた。
「石見守殿の御懸念は分かります。されど、両名を残して次郎様を名ばかりの当主にしておく方が、先々の禍根となりましょう」
直昌の言葉に、満栄はそれ以上反論しなかった。北畠の家を守ろうとしているのは、どちらも同じだ。ただ、そのために取るべき手立てが違っていた。
具教が某へ目を向けた。
「左近衛中将、二人を呼べ。次郎を交え、長野と北畠の今後について話したいと伝えよ」
「某が仲介に立つのでございますか」
「そなたが間に入れば、あの二人も疑うまい」
「お呼びするだけで、よろしいのですな」
「それでよい。その先は、わしが決める」
「……承知いたしました」
某は頭を下げた。長野父子を除くことには理がある。だが、兄は本当に北畠のためだけに決めたのか。先ほどの声を思い返すと、その疑いが消えなかった。
* * *
数日後、藤定と稙藤が館を訪れた。某が門で出迎えると、藤定は頭を下げた。
「左近衛中将殿、わざわざのお出迎え、痛み入ります」
「中納言殿が、次郎の今後について話したいと仰せでな」
「それは何よりにございます。先の一件も、ようやく収まったと考えてよろしゅうございますか」
「そう考えてよかろう」
某の返事を聞くと、藤定は安堵したように稙藤と顔を見合わせた。座敷では満栄が普段どおりに応対し、直昌は一門の若手らしく末座に控えている。某も平静を装って席に着き、しばらくは具藤や長野家中の近況を話した。
具教は藤定に問い掛けた。
「次郎も近頃は、家中の者の名をよく覚えるようになったそうだな」
「まだ若うございますが、筋は良いかと存じます。某と父が、後ろから支えておりますゆえ」
「そうか。後ろから、な」
具教はそれきり口を閉ざし、盃を傾けた。藤定は、その言葉に含まれた意味にも気づいていない様子だった。
二人の肩から力が抜けた頃、具教が唐突に話を変えた。
「大和守」
「はっ」
「塩浜の一件を覚えておるか」
その一言で、座の空気が変わった。
藤定はすぐに弁明を始めた。
「あの折は、橘が北勢を押さえ、神戸にまで手を伸ばす恐れがございましたゆえ」
「それで、浜田は取れたか」
「……いいえ」
「では、神戸は」
「……取れませなんだ」
具教は間を置かず、さらに問いを重ねた。
「その神戸は今、誰に従っておる」
「……橘にございます」
問いを重ねるたび、具教の声は低くなった。藤定が答えに詰まると、稙藤が横から身を乗り出した。
「中納言殿。そもそも北畠と和したことが、長野をこの有様にしたのでございます」
「何と申した」
「長野は己の力で立ってきた家。次郎殿を迎えるまで譲ったというのに、これ以上何を――」
そこまで言うか、と某は思った。北畠との和睦も具藤の養子入りも、本心では認めておらぬと白状したようなものだ。末座の直昌が二人を見据えていた。その眼差しからは、もはや残しておく方が危ういと判断したように見えた。
藤定は慌てて父を制したが、自らも言ってはならぬことを口にした。
「されど、雪姫様を江野へ送ると決められたのは、中納言殿御自身ではございませぬか」
具教は怒鳴るどころか、かえって声を静めた。
「……わしが好きで雪を差し出したと思うておるのか」
二人はようやく表情をこわばらせた。具教は一つずつ確かめるように尋ねた。
「大和守、そなたは城を失ったか」
「……いずれの城も無事にございます」
「領地は」
「一寸たりとも取られてはおりませぬ」
藤定は答えるうちに自分の言葉の意味を悟ったのか、次第に声を落とした。具教は稙藤へ向き直った。
「宮内大輔、そなたの娘は今どこにおる」
「……長野の館におりまする」
「わしの娘は、今も江野に預けたままじゃ」
藤定が何か言いかけたが、具教はそれを遮った。
「もうよい」
「御理解いただけましたなら――」
「違う。そなたらを生かしておけば、また同じことをしでかす。よう分かった」
具教は満栄へ目を向け、命じた。
「済ませよ」
満栄はわずかにためらってから、頭を下げた。
「……御意」
戸が閉ざされ、直昌が控えさせていた兵が座敷へ入ってきた。藤定は這うように具教へにじり寄った。
「中納言殿、お待ちくだされ! 長野は北畠の一門にございますぞ!」
「長野は己の力で立ってきた家なのであろう。先ほど、宮内大輔がそう申したではないか」
稙藤は兵に腕を取られても、なお声を張り上げた。
「長野を食らう気か! 名ばかりの国司め!」
「長野を潰す気はない。次郎がおる。そなたら二人が要らぬだけだ」
具教が言い終えると、二人の声は途絶えていた。
* * *
二人の骸が運び出されると、具教は空いた座をしばらく見つめ、口を開いた。
「これで、長野も静まろう」
満栄がすぐに答えた。
「次郎様を立て、家中をまとめます」
直昌も続けて進言した。
「大和守方の家臣が動く前に、城と人質を押さえましょう」
某はしばらく黙っていたが、やがて兄に尋ねた。
「……これで御心は晴れましたか、兄上」
具教が鋭い目を某へ向けた。某はすぐに言葉を継いだ。
「長野を収めるためには、必要なことだったと存じます」
某はそれ以上言わずに引いた。具教は脇に広げた志摩の絵図へ目を移した。
「石見守、九鬼はまだ橘との付き合いを続けておるのだな」
「今も桑名や四日市と船を行き来させております」
「橘十兵衛とは兵を交えぬと約したが、九鬼は橘の家臣ではあるまい」
また橘か、と某は思った。長野父子を除くのは、北畠のためだと言えた。だが、九鬼まで叩く必要があるのか。兄は橘と兵を交えぬと約したために、その周囲を攻めて鬱憤を晴らそうとしておらぬか。家のための判断と、傷ついた面子を取り戻したい思いが、某には次第に見分けられなくなっていた。
志摩には、海の利を九鬼と争ってきた小浜民部左衛門景隆がいる。具教は近習を呼び寄せ、命じた。
「民部左衛門を呼べ」
景隆が参じると、具教は前置きもなく九鬼の話を切り出した。
「民部左衛門、九鬼が橘と組んで力を増しておる」
「存じております。近頃は桑名の港にも船を出しておりますゆえ」
「このままにはしておけぬ。そなたも、九鬼の下につくのは面白くあるまい」
「……面白うはございませぬ」
具教は景隆の返事に満足した様子で命じた。
「志摩の者をまとめ、九鬼を叩け。必要なら、こちらからも兵を出す」
「承りました」
景隆が退出すると、満栄と直昌も手配のために席を立った。某も続いて座を離れ、戸口で一度振り返った。具教は一人残り、志摩の絵図を見下ろしていた。
雪姫は江野に預けられ、神戸は橘に従い、九鬼も橘との交易を続けている。具教には、若い賢政に北畠の面目を次々と潰されているように思えるのだろう。
具教は絵図に目を落としたまま、低く呟いた。
「いずれ、北畠を侮った報いを受けさせてやる」
その声を背に廊下へ出ると、先に退いた満栄が角で待っていた。
「左近衛中将殿、今宵のことは、某から次郎様へお伝えいたします」
「頼む。取り乱さぬよう、気を配ってくれ」
「心得ております」
「石見守。……兄上は、長野の次は九鬼を叩くおつもりだ」
「九鬼が橘と組んで海で力を増せば、北畠にとって厄介なのも確かでございます」
「理屈ではそうなるな。理屈では、な」
満栄は答えず、某もそれ以上は口にしなかった。景隆らが次に攻めるのは、志摩の田城にいる浄隆の一族だった。




