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近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第四章 戦国大名への道

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第112話 桶狭間、もう一つの戦場

 永禄三年(えいろくさんねん)(1560年)、五月十七日。

 伊勢国(いせのくに)、三重郡(みえぐん)、江野(えの)、江野城(えのじょう)。


 机に広げた絵図には、尾張(おわり)東南部から三河(みかわ)境にかけての城や砦が描かれている。鳴海(なるみ)、大高(おおだか)、丸根(まるね)、鷲津(わしづ)の周辺には、瑞鳳衆(ずいほうしゅう)から報せが届くたびに人と荷の動きを書き足してきた。大高の近くには、松平次郎三郎元康《まつだいらじろうさぶろうもとやす》の名もある。


 政基(まさもと)は大高の辺りを見つめたまま、俺に尋ねた。

「十兵衛様。以前、帳面にお書きになったお二人のことですが、あの時は来年と仰っておられましたな」

「ああ、そう言ったな」


 隣で絵図を見ていた光秀(みつひで)も顔を上げた。

「もうお一人は、おそらくあの方であろうと見当がついております。ただ、『徳川家康(とくがわいえやす)』という名だけは、いくら探らせても出てまいりませぬ」


 そりゃそうだ。今はまだ、徳川家康とは名乗っていない。俺は絵図に記された元康の名を指した。

「徳川家康というのは、今の松平次郎三郎のことだ」


 二人は俺の指した名へ目を落とした。光秀はそれを確かめ、俺へ視線を戻した。

「……名が違いますが」

「名のことは今は気にするな。今回狙うのは、その次郎三郎だ」

「それで、瑞鳳衆に次郎三郎の動きを追わせておられたのですな」

「ああ。今川が動いて、あいつが大高へ出てくるなら、そこで討つ」

「もうお一人はいかがなさいますか」

「そちらはまだ先だ。今は次郎三郎に専念してくれ」


 前世で知る桶狭間(おけはざま)の戦いでは、今川治部大輔義元《いまがわじぶのたいふよしもと》が尾張へ侵攻すると、元康は鵜殿藤太郎長照《うどのとうたろうながてる》の守る大高城(おおだかじょう)へ兵糧を運び入れた。その後、佐久間大学盛重《さくまだいがくもりしげ》が守る丸根砦(まるねとりで)を攻め落とすが、義元は信長に討たれることになる。


 大まかな流れは分かっている。とはいえ、俺の知るとおりに事が運ぶとは限らない。瑞鳳衆には人と荷の動きを追わせ、今川方が実際にどこまで準備を進めているのか、確かめさせていた。


 庭ではすでに出陣の支度が進み、具足姿の兵が並んでいた。馬の嘶(いなな)きに交じり、武具の擦れる音が聞こえてくる。直轄連隊(ちょっかつれんたい)一千六百はいつでも動かせる状態にあり、千種(ちくさ)と桑名(くわな)にも、今川が動き次第、兵を出せるよう準備を命じてあった。


 そこへ瑞鳳衆の男が駆け込んできた。座敷に上がると俺の前に膝をつき、一礼して報告を始めた。

「十兵衛様、火急の報せにございます。今川治部大輔が駿河、遠江、三河の兵およそ二万五千を率い、西へ進んでおります」

「先の兵はどこへ向かっている。次郎三郎も動いたか」

「沓掛(くつかけ)へ向かう兵を確認しております。次郎三郎の軍勢も動き始めました」

「引き続き次郎三郎を追え。大高へ入るか確かめ、入ったあとも動きを見失うな」

「はっ!」


 男が下がると、継潤(けいじゅん)が絵図を覗き込んだ。

「二万五千もの兵となれば、鳴海や大高への増援だけではありますまい」

「ああ。そのまま尾張へ攻め込むつもりだろう」


 義元が動いた以上、こちらも兵を出す時だ。出陣を命じようとしたところへ、織田からも使者が到着した。


 使者は書状を差し出し、信長からの言葉を伝えた。

「織田上総介様より、火急の使いとして参りました。今川治部大輔の侵攻を受け、橘十兵衛様に援軍をお願いしたいとの仰せにございます」


 俺は書状に目を通すと、政基へ渡した。

「弦十郎、直轄連隊を出す。藤吉郎には千種から五百、左兵衛尉には桑名から八百を率いて出るよう伝えろ。支度の整った隊から尾張へ向かわせる」

「承知しました」


 政基が手配に向かうのを見送り、俺は大高の印へ目を戻した。史実では、元康はこの戦を生き延びる。今回は三河へ帰さず、ここで討つ。そのためにも、大高は信長に任せず、俺が攻める。


 江戸幕府なんて作らせん。


 * * *


 翌十八日、橘軍は尾張へ入った。直轄連隊一千六百に、秀吉(ひでよし)率いる千種勢五百と、桑名から出た興種(おきたね)の八百が合流し、総勢二千九百となった。兵のあとには荷駄が続き、街道に長い列を作っていた。


 清洲(きよす)へ着くと、城には今川方の動きを伝える使者が次々と出入りしていた。信長の前には絵図が広げられ、鳴海、大高、沓掛の周辺にいくつもの印が置かれている。


 信長は俺に気付くと、絵図から顔を上げた。

「十兵衛、よく来た。二千九百とは、随分連れてきたな」

「今川が動き次第、兵を出せるようにしておいた。千種と桑名からも連れてきてる」

「待て。いつから今川が動くと見ておった」

「今年から三河と尾張東南部を探らせてた。鳴海や大高へ人と荷が集まっていたから、そろそろ動くと見て支度させたんだ。日までは分からなかったがな」

「それで、わしの使いが着く前から三千近い兵を出せるようにしておったのか」

「使いを貰ってから集めたんじゃ、間に合わないだろ」


 信長はしばらく俺を見ていたが、やがて絵図へ視線を戻した。

「お前は時々、気味が悪いほど先を読むな」

「褒め言葉として受け取っておく」

「褒めておらん。ともかく、今川はもう沓掛まで来ておる。鳴海と大高も奴らの手の内だ。丸根と鷲津には兵を置いたが、長くは持つまい。お前はどこへ向かう」


 俺は絵図の大高を指した。

「今川本隊は上総介殿に頼む。俺は大高城を落とす」

「大高か。本隊ではなく、城を狙うのか」

「あそこを残せば、今川は尾張へ兵と荷を送り込める。次郎三郎も入っているし、城もろとも叩いておきたい」

「次郎三郎が気になるようだな。あの若造に何かあるのか」

「報告を聞く限り、放っておけない相手だ。大高を落とすなら、あいつも一緒に討っておきたい」


 信長は大高の印から俺へ視線を移した。

「まだ何か隠しておるな」

「全部話したつもりだが」

「まあ、そういうことにしておこう。大高は任せるぞ。わしは今川本隊を叩く」

「分かった。こちらも好きにやらせてもらう」

「わしの兵まで撃つなよ」

「上総介殿こそ、俺が入ったあとで大高を攻めるなよ」


 信長は声を上げて笑ったが、周りの家臣たちは何も言わず、何人かが困ったように顔を見合わせていた。


 城を出る頃には日が傾いていた。大高へ向かう途中、瑞鳳衆から報せが届いた。元康は兵糧を運び入れ、城で兵を休ませたあと、丸根砦へ向かったという。ここまでは前世で知るとおりだが、この先まで同じにはさせない。俺は進軍しながら、各隊の配置を固めていった。


 正面には直轄連隊を置き、成政の第一大隊が鉄砲で敵の出足を挫く。丸根から戻る松平勢は、大高へ抜けるためにこちらの右を狙うと見て、家次の第二大隊に固めさせる。親正の第三大隊は本部の後ろに控え、押された場所へ回す。左は光泰の第四大隊に任せ、大高城を押さえる興種と、三河側へ回る秀吉との間を繋がせる。


 清興(きよおき)の隊は正面に加えず、本部の百とともに後方へ残す。元康本人が動くまでは、そこで待たせることにした。


 兵を止めて諸将を集め、地面に絵図を広げた。俺は皆が揃うのを待ち、大高と丸根の間を指した。

「次郎三郎は丸根へ向かった。俺たちはこの間に入り、戻ってきた松平勢を止める。大高へは入れさせるな」


 興種は城の前に置かれた札へ目を落とした。

「城兵が松平勢を迎えに出れば、桑名勢で止めます。そのまま城も攻めますか」

「いや、まずは城兵を押さえ、合流を防いでくれ。無理に城を攻めて兵を減らす必要はない」


 秀吉は絵図の上で大高から東へ続く道を辿り、札を置いた。

「城へ戻れねば、次郎三郎は三河へ退くやもしれません。千種勢はこちらへ回しますが、退き口をすべて塞げば、死に物狂いで引き返してくる恐れがございます」

「なら、抜けられそうな道を一つ残しておけ。その先で待ち受けろ」

「では、そちらへ逃げるように仕向けます」


 配置を確認すると、俺は一同に軍令を伝えた。

「それと、今回は首の扱いを変える。ただし、雑兵の首はいらないし、戦の最中に首を取るのも今までどおり禁止だ。敵を倒したら持ち場へ戻れ。逃げる雑兵を追って隊列を崩した者は処罰する」


 普段の軍令を念押ししてから、大将の扱いについて続けた。

「ただし、敵の大将や城将、名のある武将は、生きていれば捕らえ、討ったなら遺体を押さえろ。首を取るのは戦が終わってからだ。今回は織田への援軍だからな。誰を討ったか、上総介殿に示せるようにしておく」


 成政が腕を組んだまま、念を押した。

「次郎三郎は、何としても逃すなということでございますな」

「そうだ。旗を捨てようが、具足を替えて供に紛れようが逃がすな。生け捕りでも討ち取りでもいい。必ず押さえろ」


 最後に、清興へ向き直った。

「左近は俺のそばに控えていろ。次郎三郎本人の動きが分かるまでは待て」

「某は予備にございますか」

「ああ。あいつが出てきたら、お前に任せる。城はほかの者に任せて、本人を狙え」

「承知しました。必ず仕留めます」


 清興はそれ以上尋ねず、頭を下げた。史実では四十年後、関ヶ原で家康方と戦う男に、まだ三河すら取り戻していない元康を討たせる。妙な巡り合わせだった。


 * * *


 十九日、まだ暗いうちから丸根の方角で鉄砲の音が響いていた。鷲津からも戦の音が聞こえ、空が白むにつれて、東に立ち上る薄い煙が見えてきた。


 橘軍は出撃の支度を整え、待機していた。本陣には俺の傍らに政基が控え、継潤と光秀も揃っている。成政たちは各隊に付き、興種は大高側を、秀吉は三河へ抜ける道を押さえていた。


 空が白み始めた頃、伝令が馬で本陣へ駆け込んできた。男は馬を下りて俺の前に膝をつき、息を切らしながら報告した。

「丸根砦、落城! 佐久間大学殿、お討ち死に! 松平勢にも手負いが多く出ておりますが、すでに兵をまとめ始めており、このまま大高へ戻るものと思われます!」


 盛重は討たれた。今から丸根へ向かっても、もう救えない。俺は伝令を下がらせ、出撃を命じた。

「全軍、前へ。予定どおり、大高と丸根の間へ入るぞ」


 法螺貝が鳴り、伏せてあった橘の旗が次々と立ち上がった。直轄兵が進み始めると、大高城でもこちらに気付いたらしく、城門付近に兵が集まってきた。元康が戻る前に道を塞ぐべく、隊列を保たせながら前進を急がせ、丸根から大高へ続く道を遮るように戦列を延ばした。


 俺は使いを呼び、興種への命令を託した。

「城兵が出てきたら、松平勢と合流する前に止めろ。ただし、深追いはするなと伝えろ」


 やがて、丸根の方から松平勢が現れた。具足や陣笠は泥に汚れ、仲間の肩を借りて歩く手負いも交じっている。砦を落としたばかりで列こそ揃っていないが、足取りは確かだった。敗れて逃げてきた兵とは違う。


 こちらの旗に気付いた先頭の兵が立ち止まると、後続も次々に足を止めた。松平勢は手負いを後ろへ下げ、槍を前へ集めながら、大高へ向かっていた隊列をこちらへ向け直した。


 政基は松平勢が列を整える様子を見つめた。

「思ったより早く立て直しますな」

「ああ。丸根を落とした直後でも、あれだけ動ける。止めるのは楽じゃなさそうだ」


 大高城は近く、松平勢は俺たちの戦列さえ抜けば城へ戻れる。成政から射撃準備が整ったとの報せが来たが、まだ撃たせなかった。こちらから攻めて元康に退き先を選ばせるより、大高を目指して向かってくるのを待つ。


 睨み合いが続く中、松平勢の旗が動いた。前列へ兵を寄せたかと思えば左右へも広げ、こちらの備えを探っている。


 光秀が左右へ広がる兵を指した。

「正面から押すだけではなさそうですな」

「ああ。手薄なところを探してる」


 やがて松平勢の一角が前へ進み、法螺貝が鳴ると一斉に走り出した。狙いはこちらの右翼だった。


 俺は成政に射撃の合図を送った。

「内蔵助、撃たせろ!」


 指物が振られると、一斉に銃声が響き、白煙の向こうで先頭の兵が倒れた。後続は倒れた者を避け、あるいは乗り越えて迫ってくる。二度目の射撃を浴びても止まらず、鉄砲兵が撃ち終えて下がると、代わって槍兵が前へ出た。


 松平勢が槍の列にぶつかり、戦列が揺れた。槍同士が絡み、折れた柄が宙を飛ぶ。押し返しても後続が隙間を埋め、家次の第二大隊へ次々と押し寄せてきた。


 右翼から駆け戻った使いが、俺の前で報告した。

「右が押されております!」

「甚助に二分隊を右翼の後ろへ回すよう伝えろ。前列は無理に押し返さず、列を保って下がれ。隣の隊との間を空けるな」


 前列が命令どおり少しずつ下がると、松平勢も押し込んできた。だが、第三大隊の槍兵が加わると、その足が止まった。深く入り込んだ敵を両側から押さえ、崩れかけた戦列を立て直した。


 松平勢も突出した兵を引かせ、列を整え直した。丸根を攻めた直後だというのに、崩れる気配はない。押せるところへ兵を寄せ、止められれば引いて立て直す。元康はまだ突破するつもりらしかった。


 その時、大高城の門が開き、城兵が松平勢へ向かって進み出た。興種の桑名勢が行く手を塞ぐと、城の前でも槍を交える戦いが始まった。


 ほどなく、大高側から使いが報告に来た。

「左兵衛尉様からの御伝言です。城兵は押さえており、松平勢との合流も防いでいるとのことでございます」

「そのまま城へ押し戻せ。ただし、退く敵を追って城内へ入るなと伝えろ」


 大高からの援兵を阻まれた松平勢は、右翼へ寄せていた兵を引き、中央へ集め始めた。こちらが予備を右へ回したのを見て、攻め口を変えたらしい。


 俺は再び成政へ使いを出した。

「鉄砲隊の半分を中央へ回せ。残りは動かすな」


 二度目の攻撃は正面に向けられた。銃撃を受けても後続の兵は進み、槍を交えると橘の前列が押し下げられた。松平兵の何人かが列を破って入り込んだが、後方の兵が穴を塞ぎ、左右から押さえ込む。その間も、ほかの場所では押し合いが続いていた。


 さらに松平勢の一部が、戦列を迂回するように左へ回り始めた。継潤が絵図から顔を上げ、その動きを指した。

「十兵衛様、左から抜けようとしております」

「追う必要はない。その先は藤吉郎に任せろ」


 しばらくして、千種勢から報せが届いた。秀吉は三河へ抜けようとする兵を本道の手前で止め、あえて空けておいた道へ追い込んでいるという。


 俺は使いに念を押した。

「そのまま追い込め。ただし、逃げる雑兵まで追い回すなと伝えろ」


 松平勢は右でも中央でも押し留められ、大高へ進めずにいた。三河へ抜けようとした兵も止められている。俺は元康が次にどう動くか、後方の旗に目を凝らした。


 光秀が、後方から進み出た一団を指した。

「控えていた兵が前へ出ております。馬廻でしょう」


 周囲より立派な具足を着た武者たちが、中央を守るように固まって進んでいた。一団が向かったのは、最初にこちらを押し込んだ右翼だった。大将の旗が近づくと松平勢の声が一段と大きくなり、こちらの前列が再び押され始めた。


 光秀が右翼から俺へ目を戻した。

「十兵衛様、予備を右へ回しますか」

「まだ待て」

「このままでは突破されます」


 政基も戦列へ目を向け、予備を出すよう促した。俺は元康の旗を見据えたまま答えた。

「分かってる。だが、ここで止めるだけじゃ駄目だ」


 元康の旗がさらに前へ進み、周囲を固める兵も戦列へ加わった。もう簡単には引き返せない。俺はそばに控えていた清興へ声を掛けた。

「左近、出番だ。次郎三郎を討て。決して逃がすな」

「承知!」


 清興は兵を率いて戦列の横へ回り、斜めから松平勢へ攻めかかった。敵も元康の周囲に槍兵を集め、清興の進路を塞いだ。


 清興は最初の衝突で止められると、無理に突破しようとはせず、元康を囲む馬廻へ兵を当てた。守りの兵を少しずつ引き離し、別の兵が元康のもとへ集まるにつれ、本隊との間が開いていった。


 政基が清興の隊を指した。

「左近の隊へ松平兵が集まっております」

「そのままでいい。次郎三郎を守らせておけ。兵が集まる場所を見失うな」


 清興の隊へ横から迫る松平兵を、成政の兵が食い止めた。援兵を阻まれた元康の一団は本隊から切り離されながらも、大高を目指して押し進み、清興の隊と激しくぶつかり合っていた。


 清興が踏み込むと、松平の馬廻が進路を塞いだ。一人を槍で突き崩し、横から迫る武者を部下が食い止める間に、さらに前へ出る。人垣が割れ、その向こうに槍を構えた元康の姿が見えた。


 清興は元康へ槍先を向け、名を確かめた。

「松平次郎三郎殿とお見受けいたす」

「いかにも。貴殿の名は」

「島左近と申す」


 元康は大高の方へ一度目をやり、清興へ向き直った。

「橘の武者か。そこを退かれよ」

「それは出来ぬ。次郎三郎殿をここで討てとの、我が殿の命だ」

「ならば、押し通るまでだ」


 元康が踏み込んで槍を突き出すと、清興は穂先を弾き、すかさず突き返した。元康もそれを柄で受け、押し退ける。周囲の松平兵が加勢に入ろうとしたが、清興の兵に阻まれ、二人には近づけなかった。


 清興が半歩退いた隙に、元康は大高へ抜けようとした。だが、すぐに回り込まれて行く手を塞がれ、再び槍を繰り出す。清興も退かずに受け、二人は続けざまに槍を交えた。


 元康はさらに一歩踏み込み、怒鳴った。

「退け!」


 清興は突き出された槍を外へ流して踏み込み、元康が柄を引き戻す前に、その体を貫いた。元康は膝を折り、槍を引き抜かれると、その場に崩れ落ちた。


 元康が倒れるのを見た松平兵が叫んだ。

「殿!」


 元康を助けようと松平兵が殺到し、清興の部下たちも前へ出た。その一人が倒れた元康へ手を伸ばした途端、清興が怒鳴った。

「首は後だ! 前を見ろ! 軍令を忘れるな!」


 元康を取り戻そうと押し寄せる松平兵を、清興の兵は遺体を囲んで食い止めた。成政の兵も加わって押し返すと、駆け寄ろうとした敵が倒れ、後続も槍に阻まれて足を止めた。


 * * *


 大将が倒れたとの声が広がると、正面の松平兵も後方を振り返り、攻めの勢いが鈍った。そこへ橘兵が押し返し、敵の列を崩していった。


 松平勢が退き始めると、俺は声を張った。

「追うな! 逃げる雑兵は放っておけ! 隊列を整えろ。次郎三郎の周りに残っている奴だけ押さえろ!」


 太鼓が鳴ると、追撃に移りかけた兵が足を止めた。松平兵は三河へ向かう者と丸根へ逃れる者に分かれて退き、秀吉の兵も深追いせず、持ち場を守っていた。


 清興の使いが本陣へ駆け込み、報告した。

「左近様が松平次郎三郎を討ち取られました! 遺体も確保しております!」

「捕らえた松平の者に、次郎三郎本人か確かめさせろ。それまでは首を取るな。左近には、周囲を片付けてから戻るよう伝えろ」


 使いを送り出して大高へ目を向けると、城兵は門へ引き返していた。桑名勢に阻まれて松平勢との合流を果たせず、元康の一団も崩れた今、長照は城に籠もるしかなかった。


 俺は各隊に城攻めへの転進を命じた。

「松平勢を押さえる兵は残せ。ほかは大高へ向かえ」


 各隊が大高へ向きを変える中、清興が本陣へ戻ってきた。俺の前に膝をつき、元康の周囲に残っていた敵も押さえたと報告した。


 俺は報告を聞いて頷いた。

「よくやった。残っている兵をまとめてくれ」


 長照は門を閉ざして抵抗したが、城兵は桑名勢との戦いで数を減らし、外からの援兵もなかった。俺は鉄砲隊の射撃で城内の兵を押さえ、その間に槍兵を寄せた。


 戦いは長く続かなかった。城内で武器を捨てる者が増え、最後まで抵抗していた長照も負傷したところを捕らえた。大高城が落ちた頃には、日はすでに高く昇っていた。


 政基とともに城へ入り、継潤と光秀も続いた。本丸では今川方の旗が下ろされ、降伏した城兵たちが武器を積み上げていた。


 俺は城内を見渡し、捕虜の扱いを指示した。

「降った者は殺すな。松平勢の捕虜とは分けておけ。役持ちは名と出身を確かめて別に集めろ。江野へ送るのは、戦がすべて終わってからだ」


 継潤が長照の方へ目を向けた。

「藤太郎はいかがいたしますか」

「ほかの大将と同じ扱いでいい。傷を手当てして、見張りを付けておけ。今ここで処分する必要はない」


 継潤は城内の後始末に取りかかり、光秀は捕虜の確認へ向かった。ほどなく、清興が討ったのは元康本人だと報せが届いた。首を取って信長へ届けるのは、この戦が終わってからでいい。


 今川の旗に代わり、橘の旗が掲げられた。戦が終われば大高は織田へ引き渡すが、今は橘軍が城を押さえていると、外にいる兵にも知らせておく必要があった。


 大高城は落ち、元康も討ち取った。だが、尾張にはまだ義元の本隊が残っている。桶狭間の戦いは、終わっていなかった。


 * * *


 後年、桶狭間の戦いについてまとめられた書上(かきあげ)には、近江の佐々木方(ささきがた)――六角方の軍勢が織田への援軍として参戦し、二百七十二人が討ち死にしたと記される。


 しかし、時代が下るにつれ、六角氏にまつわる偽文書の多さから、この書上も後世に作られたものではないかと疑われるようになる。近江勢が桶狭間に参戦したという記録も、真偽の定かでないものとして扱われていく。


 それでも、永禄三年五月十九日、近江勢は確かに尾張の地で戦っていた。

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― 新着の感想 ―
GJ!あの田舎侍が天下をとらないだけで大分歴史が変わる、この時点ではロクに記録に残らんだろうし 次の更新も期待してます
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