第111話 競馬場を作ろう
永禄三年(1560年)、三月。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
北畠、長野との講和がまとまってから、半年ほどが経った。
具教との約定に従い、江野へ送られてきた雪姫は、小徳丸たちと一緒に奥向きで育てている。人質とはいえ、まだ乳飲み子だ。わざわざ別の部屋に囲っておく気にはならなかった。
二月には綾が二人目の子を産み、奥向きはまた少し賑やかになった。今度は娘で、名前はまだ決めていない。
綾は眠る娘へ目を落とし、俺に尋ねた。
「十兵衛様、この子には、どのような名をお付けになりますか」
「恋姫にする。員弁にそう呼ばれている山があって、そこから名を取ったんだ」
「小徳丸は十兵衛様のお名前からで、この子は山からなのですね」
「娘にまで俺の幼名を付けるわけにはいかないだろ。恋姫なら、いい名前だと思ってな」
「ええ。私も好きですよ」
綾も気に入ってくれたようだ。俺は眠る恋姫をもう一度眺めてから、腰を上げた。もう少しそばにいたかったが、今日も片付ける用が残っている。
三月に入って間もなく、弥平次が一枚の書付を持ってきた。
「十兵衛様。江野の町家に夜ごと客を集め、銭を賭けさせている者がおります。一軒を賭場にしているようでございます」
「仲間内で遊んでるだけじゃないのか」
「それだけなら放っておきます。ただ、胴元が儲けの一部を、よそへ運ばせているのが気になりまして」
「胴元のほかにも、儲けを受け取ってる奴がいるのか」
「はい。受け取った男を追わせると、さらに別の男へ渡しました。その先にも渡っているようですが、まだ行き先を突き止めておりませぬ」
「ずいぶん用心してるな」
江野には商人や職人、人足、兵が集まり、宿に泊まる旅人も増えた。夜は酒を出す店が賑わい、賭け事で稼ごうとする奴が出てきても不思議ではない。ただ、胴元が取った銭を何人もの手を通して外へ流しているとなれば、その行き先は確かめておきたい。
俺は書付へ目を戻した。
「ほかにも賭場があるのか」
「今のところ、三か所確認しております。ただ、それぞれ銭の渡し方が違うため、行き先が同じかは、まだ分かりませぬ」
「なら、一まとめにするのは早いな。まだ、どこにも手は付けてないのか」
「はい。一か所でも潰せば、ほかへも話が伝わります。銭を受け取る者まで姿を消せば、その先を追えなくなりますので」
「分かった。銭の行き先が分かるまで、調べを続けてくれ」
内務軍を任せているのだから、調べ方まで細かく口を出す必要はない。ただ、書付を読むだけでは分からないこともある。
俺は書付から顔を上げ、弥平次を見た。
「今夜、俺も客として入ってみる。どんな連中が集まって、胴元がどう銭を取ってるのか、見ておきたい」
「十兵衛様が、でございますか。探りに入る者でしたら、こちらで用意いたします。御自らお出になるには及びません」
「内務軍の者だと顔を知られていたら、探りだと気づかれる。俺なら又四郎と供を何人か連れていけば、遊びに来た若い侍に見えるだろ」
「ですが、中で何が起こるか分かりませぬ」
「弥平次たちは外で待っててくれ。騒ぎが起きたら、すぐ踏み込めるようにしておいてくれればいい」
「……承知いたしました。ただし、刀を抜く者が出れば、合図を待たずに踏み込みます」
それでいいと答えようとしたところで、廊下から声が掛かった。
「わしも連れていけ」
「勘九郎。いつから聞いてた」
「賭場の話を始めた辺りからじゃ。お前だけで行かせたら、調べも忘れて博打に熱中しそうじゃからの」
「俺を何だと思ってる」
「勝っておれば、調べも忘れて居座る男じゃ」
「じゃあ、あんたは負けても素直に帰るのか」
「なぜ、わしが負ける話になる」
正利は、表向きには死んだことになっている。気軽に町を出歩かせるわけにはいかないが、姿を変え、夜に少人数で紛れ込むくらいなら何とかなるだろう。
俺は正利へ向き直った。
「分かった。ただし、前に出歩いた時と同じように、変装してもらうぞ」
「博打を打つにも変装が要るとは、年を取るのも楽ではないのう」
「別に打たなくてもいいんだぞ」
「賭場まで行って見ておるだけでは、かえって怪しまれよう。少しくらいは付き合わねばならん」
最初から博打を打つ気で来たんじゃないか。
その夜、俺は正吉と正利、供を数人連れて町へ出た。弥平次たちは先回りして表と裏の道を押さえ、俺たちが中にいる間は、騒ぎがあればすぐ踏み込める場所で待つ手筈だった。
賭場に使われている町家は、表通りから路地を二本ほど隔てた所にあった。看板はなく、戸口に男が一人立っているだけで、知らなければ通り過ぎてしまいそうだった。
戸口の男が、俺たちの行く手を遮った。
「何の用だ」
「ここで遊べると聞いてな」
「誰に聞いて来た」
「名前までは聞いてない。入れないなら、帰るよ」
男は俺たちの腰の刀と後ろの供を見てから、顎で中を示した。
「入っていいぞ。ただし、揉め事は起こすな。負けたからって、後から銭を返せと騒ぐのもなしだ」
「分かってる」
中には思ったより人がいた。板敷きの上に広げた筵に何人かずつ輪になって座り、銭を賭けている。奥では札を使い、手前では椀に賽を振り入れていた。
前世のチンチロリンに似ている。細かな決まりは違うようだが、何度か見ていれば覚えられそうだった。
俺は手前の輪に腰を下ろし、正吉を促した。
「又四郎。お前も座れ」
「某も、でございますか。賭場に入るのは初めてでして」
「客として来たんだ。後ろに立ってないで、お前も座れよ。賽を振るくらいで死にはしない」
「その前に、妙な真似をして正体を疑われそうでございます」
「構えすぎる方が怪しい。普通にしてろ」
「それが一番難しゅうございますな」
正吉がようやく座ると、正利も俺の隣へ腰を下ろし、辺りを見回した。
「思っていたより人が多いのう」
「町に人が増えれば、遊びに来る奴も増えるだろ。それより、調べに来たことは忘れるなよ」
「それは、わしの台詞じゃ。お前こそ、先ほどから賽ばかり見ておるぞ」
「客らしく振る舞ってるだけだ」
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
胴元らしい男が近づき、俺たちを見回した。
「初めてなら、張るのは少しにしとけ。帰りの銭までなくしても知らねえぞ」
「親切だな」
「後で銭を返せと騒がれたくねえだけだ」
「分かった。少しずつ張るよ」
まずは様子を見るつもりで、少しだけ銭を置いた。何度か続けるうちに、負けても次には取り返せて、手元の銭は少しずつ増えていった。気づけば、初めに持っていた額をずいぶん上回っている。
正吉は勝つたびにほっとした顔を見せ、負けると途端に顔を曇らせた。手元の銭が減ってくると、指先で何度も数え直している。
俺は銭を数える正吉に声を掛けた。
「又四郎。少しは顔に出さないようにしろよ」
「出しているつもりはないのですが」
「さっきから、何度その銭を数え直してるんだ」
「……減っておりますので」
正利が、俺の前に増えた銭へ目をやった。
「お前、ずいぶん勝っておるのう」
「たまたま運がいいんだろ」
「なら、今のうちに切り上げればよい。欲を出せば、せっかく増えた銭まで持っていかれるぞ」
「まだ入ったばかりだ」
「ほれ、もう帰る気がないではないか」
言い返そうとしたところで賽が振られ、また俺が勝った。銭がこちらへ寄せられると、正利に何を言い返すつもりだったかも忘れ、増えた分を目で数えていた。
勝てば気分がよくなり、次も勝てる気がしてくる。負ければ、今度は取り返したくなるのだろう。どちらにしても次の一振りが気になって、なかなか席を立てないわけだ。
胴元が、俺の前に増えた銭へ目をやった。
「兄ちゃん、今日はついてるな。もう少し大きく張ってみたらどうだ」
「そっちから勧めるのか」
「嫌なら今のままでもいいぜ。俺は困らねえ」
「じゃあ、少し増やすか」
張る額を増やした途端、勝てなくなった。二度、三度と銭を取られるうちに、胴元の手つきが気になり始めた。俺が多く張る時だけ、椀を伏せる直前に手首がわずかに止まっている。
確かめようと、もう一度同じ額を置き、胴元の手元を見た。椀を伏せる直前にまた手首が止まり、俺はまた負けた。
胴元が俺の顔を覗き込んだ。
「どうした。急に黙っちまったな」
「これだけ負ければな。もう一度、同じ額でやる」
「いいぜ。まだ張るなら受ける」
銭を置きながら隣を見ると、正利も胴元の手元を追っていた。
「勘九郎。今のをどう見る」
「わしなら、もう張らぬな」
「あの手の動きか」
「お前も気づいておったか」
俺は銭を置いたまま手を引き、胴元へ顔を向けた。
「次を振る前に、その賽を見せてくれ」
「さっきから同じもんを使ってるだろ」
「一度、手に取って確かめたいんだ。何もなければ、そのまま続ける」
「負け始めたら言い掛かりかよ。勝ってた時は楽しそうだったじゃねえか」
「勝ち負けじゃなく、賽の話をしてる。見せられないのか」
男は笑みを引っ込め、俺を睨んだ。
「ここでは俺のやり方に従え。気に入らねえなら、手元の銭を持って帰れ」
「その賽を見せれば済む話だろ」
「しつけえな。帰れって言ってんだよ」
「見せろ、イカサマ野郎」
周りの客がこちらへ顔を向けた。正吉がさりげなく身体をずらすと、その向こうの壁際に、立ったままこちらを見ている男が二人見えた。賭けには加わらず、騒ぎがあればすぐ動けそうな場所にいる。用心棒だろう。
胴元は椀を手元へ引き寄せ、声を落とした。
「ここが誰の場所か、知らねえようだな」
「誰の場所なんだ」
「てめえには関係ねえ」
「俺から取った銭がどこへ行くかは、関係あるだろ。誰に渡してるんだ」
「……てめえ、探りに来たのか」
「最初は遊ぶつもりだったよ。ただ、途中から気になることができてな」
正利が小さく笑った。
「それは確かじゃ。さっきまで随分楽しんでおったぞ」
「勘九郎。今、それを言う必要あるか」
「本当のことを申しただけじゃ」
胴元は正利を睨み、俺へ視線を戻した。
「銭を置いて失せろ。今なら見逃してやる」
「それで済むと思ってるのか」
壁際の二人が刀へ手を伸ばすと、正吉が立ち上がった。
「十兵衛様、後ろの二人が刀に手を掛けております」
「刀を抜く前に押さえろ。そのまま座らせておけ」
俺の名を聞いた胴元は、目つきを変えた。
「……十兵衛」
「橘十兵衛だ。ただの賭け事なら見逃すつもりだったが、賽に細工があるとなれば話は別だ。その賽と銭の行き先を調べさせてもらう。大人しくしていろ」
用心棒の一人が刀を抜いて斬りかかり、正吉がその一撃を受け止めた。同時に、その脇から俺へ椀が飛んできた。とっさに顔を逸らすと、椀は背後の柱に当たって砕けた。
胴元は腰の刀に手を掛け、俺を睨んで怒鳴った。
「この餓鬼が!」
俺も刀を抜きながら立ち上がり、振り下ろされた刃を外へ受け流した。そのまま踏み込んで腹を突き、刀を引き抜く。胴元は腹を押さえてよろめいたが、刀を手放そうとはせず、苦しげに息を吐きながら再び俺へ切っ先を向けた。
俺は間合いを詰めて首を斬り、男が崩れ落ちるのを見届けてから用心棒たちへ目をやった。一人はすでに正吉に斬り伏せられ、もう一人も供の者に組み伏せられていた。
弥平次たちが戸口から踏み込み、声を張り上げた。
「内務軍だ! 動くな!」
弥平次は俺の姿を確かめると、倒れた胴元へ目をやった。
「十兵衛様、お怪我はございませんか」
「ない。又四郎たちも無事だ」
「何よりでございます。あとは某どもにお任せください」
「生き残った連中から話を聞いてくれ。家の中も奥までくまなく調べろ」
「裏口にも人を回しております。次右衛門には家の中を調べさせ、伝五郎には聞き取りを、庄兵衛には銭と帳面を押さえさせます」
「賽に細工があるかも確かめてくれ」
弥平次は再び胴元の亡骸へ目を落とした。
「できれば、この者からも話を聞きたかったのですが」
「向こうから斬りかかってきたんだ」
「承知しております。十兵衛様をお責めしているわけではございません」
「なら、そんな顔をするな」
「某はいつもこの顔でございます」
横でやり取りを聞いていた正利が笑った。
「十兵衛、帰るぞ。あとは任せておけ。お前がおっては、聞ける話も聞けぬ」
「分かってる。勘九郎は随分楽しそうだな」
「久しぶりの賭場で、胴元が斬られるところまで見たからのう。退屈はせなんだ」
「次は連れてこない」
「それは困るのう」
* * *
その後、内務軍は捕らえた者から聞き出した賭場にも踏み込み、人と銭の流れを調べていった。数日が経つと、弥平次が調べた内容をまとめた書付を携えて報告に来た。
弥平次は書付を広げ、捕らえた者の名を指で示した。
「江野で確認できた賭場はすべて潰しました。胴元や用心棒に加え、銭を運んでいた者も捕らえております。ただ、大本までは辿れておりませぬ」
「そいつらも知らないのか」
「銭を渡す相手までは知っていても、その先を知る者はほとんどおりません。銭も一か所には集めず、何人もの手を経て渡しております」
「口裏を合わせているんじゃないか」
「一人ずつ別に聞いておりますが、話の食い違う箇所を見る限り、あらかじめ口裏を合わせていたとは考えにくいかと存じます」
俺は書付に目を通し、弥平次へ顔を上げた。
「なら、今は分かったところまででいい。元締めが一人いると決めつけず、裏付けの取れたつながりを追え」
「四日市や桑名にも賭場はございますが、今回捕らえた者たちとのつながりを示す証は、まだ出ておりません」
「そちらも別に調べてくれ。つながりが分かるまでは、同じ一味として扱うな」
弥平次は頷くと、別の書付を取り出した。
「今後、何を取り締まるかもお決めいただきとうございます。銭を賭けるだけなら、家の中でも行われております」
「賭場を開くこと、イカサマをすること、賭けるための銭を貸すこと。この三つを禁じろ」
「客はいかがいたしますか」
「賭けただけなら咎めなくていい。今言った三つに関わった奴を取り締まれ」
「では、その旨を記した書付を整えます」
禁じるだけなら簡単だ。だが、あの客たちは脅されて来たわけではなく、自分で銭を持ち込んで賭けていた。賭場を潰したところで、賭けたいという気持ちまで消えるわけじゃない。
俺は書き留めている弥平次に声を掛けた。
「それと、俺たちで管理する賭場を作る」
「……今、賭場を禁じると仰いませんでしたか」
「勝手に開くのは禁じる。こちらで管理する賭場だけ認めるんだ。隠れて好き勝手にやられるより、目の届くところでやらせた方がいい」
「寺銭もお取りになるので」
「取る。場所と人を用意して、揉め事が起きればこちらで収めるんだ。その分の銭はもらう」
正利が茶碗を置き、口を挟んだ。
「人の賭場を潰したかと思えば、今度はお前が胴元か」
「もう少し言いようがあるだろ」
「間違ってはおらんじゃろう」
「それはそうだが、イカサマも賭けるための貸し付けもさせない。銭の出入りもすべて帳面につける」
「なら、やってみればよい。ただ、賽は使わぬ方がよかろう。また細工を疑われては面倒じゃ」
「俺もそう思ってる」
賭けさせるなら、その場の誰もが自分の目で勝ち負けを確かめられるものがいい。だが、何がよいかとなると、すぐには思いつかなかった。
ちょうど神戸へ挨拶に行く予定があり、神戸城を訪れた折に友盛にも相談した。賭場の取り締まりについて話し、こちらで管理する賭場を設けたいが、何に賭けさせるか決めかねていると伝えた。
友盛はしばらく考え、確かめるように尋ねた。
「賭け事そのものを禁じられるわけではないのですな」
「禁じても隠れてやるだけだ。客を集めて、イカサマや借金で食い物にするのをやめさせたい」
「なるほど。それで、何に賭けさせるかお考えなのですな」
「誰が見ても、その場で勝ち負けの分かるものがいいんだ」
「それでしたら、まずは稲生の辺りを御覧になってはいかがでしょう。広く使える土地もございます。勘解由左衛門に案内させます」
稲生という地名に、どこか聞き覚えがあった。何だったかと思い返しながら神戸を出て、稲生へ向かう道中でようやく思い出した。前世では、この辺りに鈴鹿サーキットがあったはずだ。この時代に自動車はないが、馬ならいる。
俺は隣の正利へ顔を向けた。
「勘九郎、何頭かの馬を競わせて、どの馬が先に着くか賭けさせるのはどうだ」
「ほう。賽より分かりやすいのう。どの馬が勝ったか、皆の目で確かめられる」
「それに、速い馬を見つけることもできる。賭け事だけで終わらせなくてもいい」
「使えるものは何でも使う気じゃな」
「その方が得だろ」
* * *
稲生に着くと、友盛から話を聞いていた稲生勘解由左衛門兼顕が出迎えてくれた。
「お使いいただけそうな土地を二か所ほど見繕っております。どれほどの広さが必要でございましょうか」
「馬を何頭か並べて走らせられる広さが欲しい。どの馬が先に着くか、客に銭を賭けさせるつもりだ」
「馬比べを見せながら、勝つ馬を当てさせるのでございますな」
「ああ。まずは走る場所を柵で囲い、馬を待たせる場所と、札を扱う小屋を用意する。一度開いてみて、どれくらい客が集まるか確かめたい」
兼顕は周囲の道へ目を向けた。
「それでしたら、客と馬が行き来する道は分けましょう。村の者が使う道も塞がぬようにいたします」
「頼む。田畑を潰してまで広げるつもりはない。普請方はこちらから出して、土地の高低や水の流れを調べさせる。村との話は任せていいか」
「承知いたしました。では、まずはこちらから御覧ください。もう一方の土地は、雨のあとに水が残りやすうございます」
兼顕の案内で土地を歩いた。後世の鈴鹿サーキットと同じ場所かどうかは分からないが、前世では車が走っていたこの辺りで、今度は馬を走らせる。そう考えると、なかなか面白そうだった。
土地を確かめたうえで、仮の競馬場を造り始めた。走路を均して柵を立て、馬留めと札を扱う小屋、払い戻しの場所を設ける。大きな建物まで造るかどうかは、一度開いて客の集まり具合を見てから決めればいい。
数週間後、初めて競走を開くと、予想以上の人が集まった。神戸や稲生の者たちに交じって四日市の商人も姿を見せ、馬を連れた武士が行き交う傍ら、柵の外には食い物を売る店まで並んでいた。
正吉は出走を控えた馬たちを眺めてから、人の集まった柵の方へ目を向けた。
「十兵衛様、随分と人が集まりましたな」
「又四郎、今日は負けるなよ」
「賭場とは違います。馬の良し悪しなら、某にも少しは分かります」
「なら、どの馬に張る」
「先に十兵衛様がお選びください。某は別の馬に張ります」
「俺が選ぶ馬は、そんなに当てにならないか」
「賭場であれだけ負け続けるお姿を見ておりますので」
俺は正吉を面白そうに眺めている正利へ顔を向けた。
「勘九郎、こいつも俺に遠慮がなくなってきたぞ」
「弦十郎に預けた甲斐があったのではないか。もっとも、博打の時だけかもしれぬがの」
正吉は今度は正利へ向き直った。
「勘九郎殿まで、そのようなことを仰らないでください」
俺も三頭の着順を当てる札を買い、二番、四番、一番の順に賭けた。
並んだ馬が合図とともに走り出すと、蹄に蹴られた土が跳ね、柵の外から歓声が上がった。狙いどおり二番が先頭に立ち、四番がその後を追う。走路の半ばで四番が二番に並びかけたが、外から追い上げてきた別の馬に抜かれた。
正吉が柵の向こうを見ながら、俺に声を掛けてきた。
「十兵衛様、二番手が別の馬に替わりましたぞ」
「まだ終わってない」
「某の選んだ馬は、さらに後ろですが」
「なら、お前も黙って見てろ」
二番は先頭を守って駆け抜けたものの、四番は二着に入らなかった。俺も正吉も賭けを外し、隣では正利だけが笑っていた。
俺は正利の手元の札へ目をやった。
「まさか、当てたのか」
「わしは、あの馬に賭けておった」
「よく分かったな」
「分かるものか。適当に選んだだけじゃ」
「それで当てられると腹が立つな」
「博打とは、そういうものじゃろう」
正吉は外れた札に目を落としてから、俺へ尋ねた。
「十兵衛様、次も賭けられますか」
「もちろんだ。次こそ当てるぞ」
「負けた分を取り返すおつもりで?」
「今日は俺が胴元だからな。負けても寺銭で少しは戻ってくる」
「それを勝ったと仰るのは、無理がございませんか」
返す言葉がなかった。そうこうするうちに次の競走に出る馬が引かれてきたので、俺はもう一枚、札を買った。




