第110.5話 閑話 江野の帝王
永禄二年(1559年)、十月。
伊勢国、三重郡、江野、職人町。
江野の帝王――今井政基
鍛冶場の並ぶ通りを抜けると、戸を拳で叩く音が聞こえた。柿色の羽織を引っ掛けた二人組が、戸口に立っている。通りを行く者たちは目を伏せ、その前を足早に通り過ぎていた。
背の高い方が戸板に顔を寄せ、怒鳴った。
「おう、はよ開けんかい! 中におるんは分かっとるんや。昨日の夜も灯りがついとったやろが!」
もう一人も戸口へ詰め寄った。
「返す銭がないんやったら、顔出してそう言わんかい。出てこんなら、こっちから入らせてもらうで」
返事がないと、背の低い方が一歩退き、戸の真ん中を足の裏で蹴りつけた。二度目の蹴りで閂が外れ、戸板が内側へ倒れ込んだ。
戸口まで引きずられてきたのは、痩せた小間物売りの男だった。襟首を掴まれ、土間に膝をついている。奥では、女房らしい女が子を抱き、竈の陰に身を隠していた。
私は二人組と男の間に割って入った。
「待て。人の家の戸を蹴破るとは、何の騒ぎだ」
「なんや、おどれ。関係ない奴は引っ込んどれ」
「用向きを聞いている。この男に何の用だ」
背の高い方が懐から証文を取り出し、私の鼻先へ突きつけた。
「よう見てみい。二月前に三貫貸して、返す約束は今月の頭や。もう十日も過ぎとる。爪印も、間違いなくこいつのもんや」
男は膝をついたまま、証文から目を逸らした。
「確かにお借りしました。ですが、今は本当に一文もございません」
「ほな、昨日の晩に米屋で一俵買うた銭は、どこから出たんや」
「あれは、家の者に食わせる米で……」
背の低い方が鼻で笑い、私に顔を向けた。
「お侍さん、文句があるんやったら、頭に言うてくれや。わしらは橘の頭に言われて来とるんや」
「橘の頭だと?」
「そうや。今日中に返事がなかったら、明日は家財を全部持っていけ、言われとる」
こんな連中に橘の名を持ち出されては、聞き流すわけにはいかない。私は刀の柄に手を置いたまま告げた。
「その頭に会わせろ。橘の名を騙っているなら、ただでは済まさない」
「ほな、自分の目で確かめたらええ。ついて来いや」
背の高い方は男の襟首を放し、立ち去り際に振り返った。
「日暮れまでに返事せえよ。逃げても、どこまでも追いかけるさかいな」
* * *
案内されたのは、二年前に賢政が開いた武具店、橘屋だった。
店先では田鶴が客に手袋を試させ、手に合うか確かめていた。私たちに気づくと、接客を続けたまま視線で二階を示した。
田鶴は客に手袋を渡しながら、私に声を掛けた。
「弦十郎様、二階では武具とは別の商いをしております。お上がりになる際は、足元にお気をつけください」
「別の商いとは、何だ」
「上へおいでになれば分かります。私から申し上げられるのは、勘定のことくらいでございますので」
二階には銭箱が三つあり、その脇には帳面の山と、紐で括った証文の束が並んでいた。壁に目を向けると、板札が掛かっている。
――橘金融。年中無休、昼夜を問わず。十文からでも御用立て。
札の下では二人の書役が算盤を弾き、奥の座布団は空いていた。ほどなく、階段から誰かが上がってくる足音が聞こえた。
賢政は私に気づくと、足を止めた。
「弦十郎か。取り立てを止めたそうだな」
「あの者たちは、十兵衛様の御指図で動いているのですか」
「そうだが」
「……では、まずその訳をお聞かせください」
賢政は奥の座布団に腰を下ろすと、書役が差し出した帳面を受け取った。
賢政は帳面をめくりながら、事もなげに話し始めた。
「夏に、知り合いの商人から相談されたんだ。四日市から来た金貸しが、江野で十日ごとに一割の利息を取って、返す期日には証文の額まで書き換えてるってな」
「それで、どうなさったのですか」
「潰したよ。新九郎に帳面を調べさせ、書き換えた証文は内務軍に押さえさせた。店と取り立て役は、そのままこっちで引き取った」
「では、あの者たちは」
「元はそこの取り立て役で、仕事はできるから引き続き使ってる。利息は俺の決めた歩合に改めてある」
書役の一人が帳面から顔を上げた。この者も、元の店で働いていたらしい。
書役は少し得意げに、私へ身を乗り出した。
「お侍様、うちは昼でも夜中でも、十文からお貸しします。ただ、貸した銭は必ず返していただきます。御家中の方だからと、踏み倒しは許しません」
「家中の者も借りておるのか」
「先月も、分隊長のお方が泣きながら三百文を返しに来られました」
「泣いて返すくらいなら、初めから借りなければよかろう」
「借りに来られる時は、皆さま笑顔なのですがね」
私が賢政に目を向けると、証文の束から一枚を抜き出し、日付と名を確かめていた。先ほどの小間物売りが借りた時の証文だ。
私は膝を進め、書役の話を遮った。
「十兵衛様、戸を蹴破ったのも御指図でしょうか」
「顔を出させろとは言ったが、戸を壊せとは言ってない」
「では、あのやり方は行き過ぎだとお考えですか」
「行き過ぎだ。ただ、居留守を使われると、ああなることもある。戸の修理代はこちらで出す」
賢政は行き過ぎだと認めたものの、やめさせるとは言わなかった。
もう一人の書役が、算盤を弾きながら口を挟んだ。
「町ではもう、江野の鬼と呼ばれておいでです」
「誰がだ」
「十兵衛様でございます」
賢政は否定することもなく、証文を帳面の脇に置いた。
私は壁の札を指さした。
「十兵衛様、あの『年中無休』とは、どういう意味でしょうか」
「一年中、店を閉めないってことだ。夜中でも、泊まりの書役を起こせば銭を借りられる」
「書役は、いつ休むのでございますか」
「休みは交代で取らせてる。こっちが店を閉めても、銭が要る奴は待てないだろ。ほかへ借りに行けば、また十日で一割を取る連中が入り込んでくる」
二人の書役は算盤に目を落としたまま、揃って頷いた。
* * *
夕方、取り立てに出ていた男の一人が、息を切らせて二階へ駆け上がってきた。
背の低い男は階段を上がったところで膝をつき、賢政に報告した。
「頭、例の小間物屋が荷造りを始めとります。荷車を一台借りて、荷運びの男まで雇うたようです」
「夜逃げする気か」
「女房と子供の草鞋も、新しいのを買うとりました」
賢政は帳面を閉じて立ち上がった。
「俺が行く」
「御自身でおいでになるのですか。人を遣わせれば済むことかと存じますが」
「俺が貸した三貫だ。放っておけるか」
「……それでは、私もお供いたします」
「いいぞ。弦十郎も、夜逃げを見るのは初めてだろ」
「見たいと申し上げた覚えはございません」
* * *
夜が更けると、小間物売りの家の前に荷車が止まった。男は月明かりの下で行李を運び出し、すでに米俵や鍋、小間物の箱を載せた荷車へ積み込んでいた。戸口では、子を背負った女房が待っている。
賢政が路地の陰から出て荷車の縄に手を掛けると、男は行李を取り落とした。賢政はその顔を覗き込んだ。
「夜逃げいうんは、まだまだ余裕のある奴がするもんや」
私は思わず賢政に目を向けた。上方の訛りだが、あの二人組とは口調が違う。声は低く、一語一語をゆっくりと言い聞かせるように話していた。
男は荷車の陰で膝をついた。
「銭は、もう……」
「荷車を借りて、人まで雇うてるやないか。女房と子には新しい草鞋、荷台には逃げた先で食う米や。一文もない言うてた話と、ずいぶん違うな」
「それは……」
荷車の陰から、女房が震える声で訴えた。
「お許しください。この人は騙されたのでございます。逃げようとしたのも、取り立ての方々が恐ろしくて……」
「怖うて逃げたなるんは分かる。せやけどな、おかみさん」
賢政は女房に顔を向けたが、声の調子は変わらなかった。
「あんたらが逃げたら、借りた三貫は誰が返すんや。証文に保証の爪印を押した、青物売りの親父か」
男はさっと顔色を失った。女房は背負った子をかばうように、荷車の陰へ身を寄せた。
賢政は男の前にしゃがみ、声を落とした。
「逃げる前に、まず話してみい。何があって返せんようになったんや」
男はしばらく黙っていたが、やがて地面に額をつけて話し始めた。
「塩の荷を相場の半値で回してやると言われ、借りた三貫に手元の二貫を足して払ったのでございます。ところが、騙されまして……」
「五貫払うたんやな。塩は届いてへんのか」
「はい。いくら待っても届かず、店へ出向いても、もう少し待てと言われるばかりでございます」
「銭を渡した時の書付はあるか」
「受け取りの書付なら、ここにございます」
賢政は男が懐から取り出した紙を受け取り、月明かりにかざした。
「塩百俵の代銭として、五貫受け取った、と。売主の名も、町外れの荷置き場も書いてある。えらい丁寧な詐欺師やな」
「詐欺でございますか」
「銭だけ受け取って、荷は渡さん。催促されても待ての一点張りや。ようある手口やな」
賢政は書付を畳んで懐へ収めると、いつもの口調で言った。
「荷車は返してこい。荷運びの代金は、明日の朝、橘屋で立て替える」
「あの者に会いに行かれるのですか」
「まずは話を聞く。逃げるかどうかを考えるのは、その後だ。俺が貸した銭まで持っていかれたんだから、俺にも用がある」
* * *
翌朝、取り立ての二人組が、書付に記された荷置き場と、売主が荷を預けているという蔵を確かめに行った。
昼前、背の高い男が戻り、蔵の主から聞いた話を報告した。
「頭、あの蔵に塩は一俵もありまへん。売主の男に蔵を貸したこともないそうです」
「荷置き場はどうだった」
「ひと月前に借りたばかりで、用心棒らしい男が三、四人、出入りしとります」
「ほかにも同じ書付を渡してるのか」
「米屋と油屋でそれぞれ二人、同じ塩の話を持ちかけられたいう者がおりました」
賢政は立ち上がると、羽織を無造作に引っ掛けた。
私は階段の前に立ち、賢政の行く手を塞いだ。
「十兵衛様、ここは内務軍にお任せになっては」
「詮議は任せる。その前に、あいつが騙し取られた銭を返してもらう」
「そのために、十兵衛様が先頭に立たれる必要はございますか」
「弦十郎も一緒に来るんだろ」
「私がお供するからといって、何をなさってもよいわけではございません」
「分かってる。弦十郎がいれば、何をしても大丈夫ってことだろ」
* * *
荷置き場は、町外れの川沿いに建つ倉だった。表には俵が積まれていたが、近づいてみると、詰まっているのは藁だった。中には上等な羽織を着た男と、棒を持った男が四人いた。
羽織の男は賢政の背後に小間物売りを見つけると、顔をしかめ、外へ出ろと言うように顎をしゃくった。
「そいつには、荷はもう少し待てと言うてある。ほかに用がないんやったら、帰ってもらおか」
賢政は一歩前に出て、羽織の男へ丁寧に頭を下げた。
「江野で金貸しをやっとる、橘いうもんですわ」
また、あの口調だ。私は四人の立ち位置と棒を持つ手を確かめた。右の二人はまだ棒を下げていたが、左の一人は、すでに握り直していた。
橘の名を聞くと、羽織の男は一瞬目を泳がせた。
「金貸しが何の用や。銭を借りたんはそいつやろ。わしには関係あらへん」
「そうはいきまへんで」
賢政は懐から受け取りの書付を取り出し、男の前の台に置いた。
「あんたが受け取った五貫には、うちが貸した三貫も入っとる。塩百俵を渡す約束やのに、塩はおろか蔵も借りてへんやないか。銭はどこへやったんや」
「荷が遅れとるだけや」
「ほな、米屋と油屋にも同じ話を持ちかけたんは、どういうわけや。えらい手広う商売しとるんやな」
「金貸し風情が、わしの後ろに誰がおるか分かっとるんか」
「後ろの話は結構ですわ。銭はこっちの前に置いてもらいまひょか」
羽織の男は顔色を変え、棒を持った男たちへ手を振った。
「叩き出せ」
左の男が真っ先に棒を振り上げた。振り下ろす前に賢政が踏み込み、その手首を掴んで捻る。男が棒を取り落とすと、賢政はそのまま台へ叩きつけた。
右の男が賢政の背後へ回ろうとしたため、私はその行く手に入り、鞘に納めたままの刀で脛を打った。男が膝をつくと、鞘の先を首筋に押し当てた。
残る二人は裏口へ逃げようとしたが、取り立ての二人組が待ち構えていた。
背の低い男が裏口の戸を蹴って閉めた。
「どこへ行く気や。話はまだ終わってへんで」
賢政は倉の奥の箪笥の前に立ち、壁際に追い詰められた羽織の男を振り返った。
「銭はどこにあるんや」
「……そこには何もない」
「ほな、開けても構わんな」
賢政は引き出しを一つずつ抜き、床へ中身をあけていった。三つ目を逆さにすると、銭の束が音を立ててこぼれ落ちた。
* * *
呼び寄せた書役が書付の額を確かめ、床に散らばった銭を数え始めた。その間に、羽織の男と用心棒たちを、駆けつけた内務軍へ引き渡した。
書役は銭を数え終えると、書付ごとに分けて積んだ。
「小間物屋の五貫は揃いました。米屋と油屋の分も書付通りにございます。足りない分は、この男が飲み食いに使ったものでしょう」
「足りない分は、内務軍の詮議が済んでから、こいつの持ち物を売って補わせろ」
賢政は五貫の銭を小間物売りの前へ押し出した。
「取り戻した五貫だ。受け取れ」
「……ありがとうございます。何とお礼を申し上げればよいか」
「礼はいい。その中から、うちに借りた三貫と、十日遅れた分の利息を返してくれ」
小間物売りは五貫の中から三貫と利息を数えて差し出し、残りの銭を震える手で懐へ収めた。賢政は受け取った銭を書役に渡すと、何度も頭を下げながら出ていく男を見送った。
私は賢政の隣に立ち、尋ねた。
「十兵衛様は、あの者を助けに来られたのですか。それとも、銭の取り立てに」
「両方だ。あいつが銭を取り戻せば、俺も返してもらえるだろ」
* * *
橘屋の二階へ戻り、賢政が帳面に返済済みと記したところで、私は脇に紙を一枚置いた。
「十兵衛様、小間物屋の戸の修理代が、まだ残っております」
「それはこちらで払う。返してもらう銭とは別だ」
「昨夜は二人、今日は四人を動かし、荷運びの代金も立て替えております。銭は戻っても、これでは割に合わないのではございませんか」
「一人逃がせば、ほかの奴も逃げれば済むと思うだろ」
「十文の借金でも、取り立てに行かれるのですか」
「貸した銭に変わりはないからな」
私は取り立て役の羽織についても尋ねた。
「では、あの柿色の羽織も、十兵衛様がお選びになったのですか」
「前の店から使ってるものだ。あれだけ目立てば、門口に立つだけで何の用か分かるだろ」
「近所の者まで震え上がっております」
「それを見て、ほかの奴も返す期日を守るんだ」
そこへ、階下から田鶴が声を掛けてきた。
田鶴は階段を途中まで上がり、手すり越しに顔を出した。
「十兵衛様、二階へお客様です。三十文お借りしたいとのことでございます」
「上がってもらってくれ」
上がってきたのは、大工道具を担いだ若い男だった。男は壁の札を見上げてから、賢政の前に座った。
賢政は何事もなかったように、男へ尋ねた。
「三十文で何を買うんだ」
「鉋の刃でございます。普請場で欠けてしまい、今は親方に借りておりますが、いつまでも借りたままにはできませんので」
「返す当てはあるのか」
「十日後に手間賃が出ます」
「返すのは十日後だ。一日でも遅れたら、普請場まで取り立てに行かせるぞ。親方の前でも遠慮はしない」
「……必ずお返しします」
階下では、取り立ての二人組が次の客に声を掛けていた。
「心配せんでええ。江野の帝王も、借りた銭さえ返せば、話の分かる御方や」
帝王とは、随分と大きく出たものだ。私は賢政の隣で、若い男が差し出した証文に目を通した。賢政に申し上げたいことは、まだ山ほどある。まずは、この客が帰るのを待つことにした。




