第110話 塩浜から神戸へ
永禄二年(1559年)、九月十六日、未明。
伊勢国、三重郡、浜田、浜田城。
塩浜合戦――滝川一益
夜明け前、塩浜の沖に多数の船が現れたとの報せが入った。阿漕浦の方角から次々と近づき、長野、雲林院、草生の旗が見えるという。兵数は三家合わせて五千に届くと見られていた。
某は絵図から顔を上げた。動かせる兵をすべて集めても、五千を正面から受け止めるのは難しい。浜田へ移ってから港や蔵を調べ、荷揚げ場から市へ通じる道も確かめてきた。その道を使って、海から来る大軍を迎え撃つことになる。
某は絵図に描かれた塩浜を指して、元綱に尋ねた。
「遠江守、塩浜から浜田へ大勢の兵を動かすなら、どの道を使う」
「こちらです。浜を離れると足場が悪くなりますので、大勢で進むには、この道を通るほかございませぬ」
近宗が道の両脇の田を指した。
「横へ広がれば田に足を取られます。浜へ退くにも、この道を戻るほかございませぬ。船を着けられる場所も、あの入り江だけです」
「ならば、浜では止めず、道へ入ったところを叩くか」
浜に兵を並べれば、こちらの数も配置も船上から見えてしまう。敵が上陸を諦め、別の浜へ向かう恐れもある。姿を隠して上陸させ、船から離れたところを叩く方がよい。
某は絵図の道を指でたどった。
「ここまで引き込む」
「久助殿、上陸させるのでございますか」
「浜で止めれば、すぐ船へ戻られる。後ろの兵まで道へ入れ、列が伸びたところを分断して叩く。五千を一度に相手にする必要はない」
元綱は、某が指した道の脇にある松林へ目を移した。
「ここなら浜から兵を隠せましょう。某が兵を率いて入りますが、浜田勢だけでは心もとのうございます」
某は赤堀肥前守景治へ顔を向けた。
「肥前守、遠江守へ兵を分けてくれ。お前は残りを率いて市場路を塞げ」
「羽津の兵を分けましょう。こちらは手薄になりますが、道一本なら守れます」
「では、任せる」
続いて、近宗に絵図の別の道を示した。
「右京亮、この道へ兵を回せるか」
「回せますが、敵が先に来れば、そこでぶつかることになります」
「敵が来ても姿を見せずに通せ。先頭が浜田へ向かったところで、道を塞ぐのだ」
近宗が頷くと、某は盈豊へ向き直った。
「掃部助、茂福に守備の兵を残し、動かせる者だけ率いて塩浜へ来い」
「後から駆けつけることになりますが、よろしいので?」
「構わぬ。着いたら兵を隠し、合図を待て」
敵の狙いは、塩浜から上がった先の四日市一帯だ。浜田へ続く道を塞がずにおけば、そこを進んでくるはずだった。
益重を呼ぶと、すぐに立ち上がった。
「儀太夫、松林の先で兵を伏せて待て。先頭には手を出さず、敵の半数以上が浜を離れてから仕掛けろ」
「船へ戻れぬ所まで引き込むのでございますな」
「浜の近くで叩いては、すぐ逃げられる。せっかく来た客だ。少し歩いてもらおう」
益重が口元を緩めて絵図の道を確かめる間に、某は西側に残す兵を率いる元家へ声を掛けた。
「弥左衛門、敵が崩れても浜へ踏み込むな」
「船も焼かずにおくのでございますか」
「浜へ出れば、沖の船から狙われる。上がってきた兵を追い返せば、それでよい」
「承知いたしました。道を外れた敵に当たり、浜へ退いた者は追いませぬ」
元綱は先に人を松林へ送り、近宗は田原勢を集めて出立の支度を始めた。盈豊が茂福へ使いを走らせる間に、益重と元家も配下へ進む道と集合場所を伝える。景治は羽津勢の半数を元綱に付け、残りを率いて市場路へ向かった。兵が出た後も、城門は開けておいた。浜田を捨てたように見せかける必要はない。
某が塩浜浦へ着く頃、東の空が白み始めた。船から具足姿の武者が降り、槍を携えた兵が後に続く。次々に船が着く一方で、上陸した兵は先へ進みきれず、浜に溜まり始めていた。
松林では、元綱が加勢の兵とともに身を伏せていた。そばの兵が起き上がりかけると、元綱は手で制した。
「まだ動くな。今出れば、後ろの兵に船へ逃げられる。先頭が浜を離れるまで待て」
某は口を挟まず、浜の様子を窺った。この辺りの道を知る元綱に任せた以上、脇から指図を重ねることもない。
やがて敵の先頭が浜田へ続く道に入り、松の向こうへ消えた。後続も槍の穂先を揺らして進むが、道が狭く、列は長く伸びていく。先頭が見えなくなっても、後ろの兵はまだ浜を離れられずにいた。
某は片手を上げたまま敵の列を見送り、中ほどの兵が松林の脇へ差しかかったところで、腕を振り下ろした。
鉄砲が一斉に鳴り、松の陰から煙が流れ出した。元綱の兵が側面へ攻めかかると、長野勢は狭い道で押し合い、倒れた者に後続の兵がつまずく。振り向いて応じようにも、槍が味方の槍と絡み、列は乱れた。
元綱が配下に声を張った。
「押せ! 浜へ退かせるな!」
前へ進もうとした敵は近宗の隊に阻まれ、道を外れようとした者も、田の縁から出た兵に押し戻された。市場路へ向かった一団は景治の伏兵に行く手を塞がれ、浜へ退く者が増えていく。そこへ盈豊が道の片側から攻めかかると、逃げる兵が上陸してくる味方とぶつかり、旗が大きく傾いた。
だが、長野勢は崩れきらず、列の中ほどから野太い声が響いた。
「引き返せ! 敵は小勢ぞ! 四方から包んで討ち取れ!」
隣の武者も声を張ると、逃げかけた兵が足を止め、物頭らしい者たちの周りで槍を揃え直した。中には、浜へ退こうとする兵を斬って引き止める者もいる。立て直した一団が益重の隊へ押し寄せ、こちらの兵がじりじりと後退し始めた。
某も前へ進み、声を張り上げた。
「敵を通すな! 儀太夫の脇を固めろ!」
鉄砲で撃っても、次の弾を込める間に迫られれば槍で受けるほかない。半刻を過ぎても互いに押し合い、勝負はつかなかった。益重の兵が幾人か倒れ、元綱に加勢させた羽津勢にも損が出ていた。
道を突破できぬ長野勢が、横へ広がろうと田へ踏み込んだ。先の兵が足を取られると、後続がつかえ、槍の列が乱れる。元綱はその側面へ兵を進めた。
「今だ、押せ!」
益重が正面で踏みとどまる間に、元綱の兵が横から槍を突き入れた。近宗も兵を寄せ、敵の進める隙間を狭めていく。某は背後の伝令を呼び寄せた。
「弥左衛門に伝えよ。西に残した兵を回し、浜寄りで立て直しておる一団を崩せ」
「承知いたしました!」
元家の兵が乱戦を避けて外側から回り込むと、気づいた敵が向きを変え、前へ進もうとする味方とぶつかった。先ほどまで声を張っていた物頭の姿も、入り乱れる兵に遮られ、見えなくなった。
益重は敵が退き始めると、兵を前へ進めた。
「押せ! 立て直す暇を与えるな!」
田原勢も攻めかかると、四刻近く続いた戦はようやくこちらに有利となり、長野勢は列を崩して浜へ退き始めた。このまま追えば、浅瀬に足を取られたところを沖の船から狙われる。某は兵を走らせ、追撃を止めるよう伝えさせた。
それでも追おうとする兵に、某も声を張り上げた。
「そこまでだ! 浜へは下りるな! 向かってくる敵だけを迎え撃て!」
命令が行き渡り、追う兵は道の上で足を止めた。浜へ退いた長野勢は、まだ明るいうちはまとまって船へ戻れずにいた。元綱たちが道の脇に残った敵へ当たる一方、益重は散った兵を呼び集めて隊を立て直す。景治は市場路の柵を修理させ、盈豊は茂福へ戻す兵を選んでいた。
某が益重を呼んで味方の損を尋ねると、益重は答えた。
「五十は超えましょう。浜田勢も羽津勢も、戻っておらぬ者が幾人もおります」
「敵の損はどれほどだ」
「物頭を含め、百は下りますまい」
勝ちはしたが、損は小さくない。まずは負傷した者を浜田へ戻し、守りを立て直さねばならぬ。
某は集まった者たちに、それぞれの役目を伝えた。
「右京亮と遠江守は、浜田までの道に敵が潜んでおらぬか調べよ。掃部助は兵を茂福へ戻せ。肥前守は柵を直し、明日の市を開く支度をしておけ」
益重が問いかけた。
「敵を追わず、このまま引かせるのでございますか」
「沖にはまだ敵の船がおる。追撃に兵を出して、四日市の守りを手薄にはできぬ」
益重に答えると、某は元家を呼び止めた。浜へ戻らず、南へ逃れた兵の行方が気にかかっていた。
「弥左衛門、南へ抜けた兵の行き先を、日暮れまでに調べられるか」
「瑞鳳衆を何人か借りれば、後を追わせられます」
「では頼む。分かったことから順に知らせよ」
日が沈むと、浜に残っていた長野勢は船に乗り、闇に紛れて沖へ退いていった。南へ逃れた兵の行方が分かったのは、夜も更けてからだった。浜へ戻れずに抜けた一隊は、神戸へ向かったらしい。
その一隊を追って四日市の守りを空ければ、海から再び攻められた時に防げぬ。神戸へは敵が向かったことを知らせ、救援の兵を出すかどうかは江野の判断を仰ぐことにした。
某は元家に、江野へ送る書状を用意させた。
「今日の戦と、南へ抜けた一隊が神戸へ向かったとの報せを書け。確かなことと、まだ確かめておらぬことは書き分けよ」
「神戸へも同じ文を送りますか」
「神戸には別に書け。浜田からは兵を出せぬことも伝えておけ」
元家が書役のもとへ向かうのを見届けると、某は城へ戻る兵の列に目を向けた。最後の兵が出立するまで、塩浜に残った。
* * *
一益から江野へ届いた急報には、塩浜で敵を退け、浜田城と四日市一帯を守ったとあった。追撃はせず、兵を戻して守りを固めている。ただ、南へ抜けた敵の一隊が、神戸へ向かったらしい。
四日市の守りは一益に任せ、俺は神戸への対処を考えた。ほどなく、その神戸からも使いが駆け込んできた。
「長野勢が領内へ攻め入り、我らも兵を出して防いでおります。何とぞ御加勢をお願いいたします」
俺は神戸への救援を決めた。塩浜で敗れた長野勢をそのままにしておけば、神戸を足場に四日市を狙われかねない。神戸勢が持ちこたえているうちに兵を送り、追い払う必要がある。
神戸へ着いた時、神戸家当主の神戸下総守友盛は、正面での消耗戦を避け、兵を退きながら長野勢を神戸西城周辺の湿地や田へ誘い込んでいた。敵が足を取られている間に、俺はその脇へ回り込むよう兵を動かした。
俺は敵の側面を指して命じた。
「正面は神戸勢に任せ、こちらは横から攻めかかれ」
神戸勢が反転して攻めかかると、こちらの兵も側面を突いた。前と横から挟まれた長野勢には塩浜から逃れた兵も交じっており、踏みとどまろうとする者と退く者がぶつかって、ほどなく崩れた。俺は敵が神戸領外へ退いたところで追撃を止め、深追いはさせなかった。
戦を終えて友盛と会った時には、互いに具足を解いていたが、袖口にはまだ泥が残っていた。友盛は座に着くと、俺へ頭を下げた。
「此度の御加勢、神戸家として忘れませぬ。橘殿がお越しにならねば、戦はさらに長引いたでしょう」
「神戸勢が持ちこたえていたからこそ、こちらも間に合ったのです」
「敵を湿地へ誘い込めはしましたが、我らだけでは退かせられませなんだ」
俺たちが側面を突けたのも、友盛が正面で敵を引き受けていたからだ。友盛は礼を述べ終えると、しばらく間を置いて切り出した。
「橘殿、これより神戸家は、橘家に従いたく存じます」
いずれ申し出てくるとは思っていたが、こちらから臣従を迫るつもりはなかった。救援したばかりの今、それを求めれば、助けた恩に従えと言うようなものだ。
俺は返事をする前に、臣従の条件を確かめた。
「城や兵、年貢の扱いも、これまで通り神戸家だけでは決められなくなります。それは御承知ですか」
「はい。北勢の諸家に示された条件も、聞き及んでおります」
「その上で、従うとお決めになったのですか」
「神戸だけで南北の間に立ち続けるより、橘家に従う道を選びます。今回の戦で、南の守りを固めるだけでは足りぬと分かりました」
長野が北畠と結び、海からも兵を送り込んでくる以上、神戸も南の境に備えるだけでは守り切れない。友盛はさらに膝を進めた。
「もう一つ、お願いがございます。御嫡男の小徳丸様がお生まれになったと伺っております。娘の竹子を、小徳丸様の許嫁としてお迎えいただけませぬか」
小徳丸はまだ二つで、縁談を聞かせても分かる歳ではない。もっとも、今すぐ祝言を挙げるわけではなく、神戸と橘の縁を次の代へ繋ぐための約束だ。友盛は臣従に加え、婚姻によっても関係を固めたいのだろう。
俺は竹子の年齢を尋ね、友盛の答えを聞いてから念を押した。
「婚儀はまだ先ですが、許嫁と定める以上は約定です。後で都合が変わっても、一方の判断で取り消せる話ではありません」
「承知の上で、お願いしております」
「では、小徳丸の許嫁としてお受けします。ただし、臣従の条件は変わりません。縁組を理由に、神戸家だけ特別扱いはできません」
「それで結構でございます」
友盛は改めて頭を下げた。救援に赴いた先で、神戸家の臣従と小徳丸の縁談まで決まった。どちらも受け入れたが、約定はそれぞれ別に結ぶことにした。
* * *
使者の行き来に日を要し、具教と長野方を交えた講和の席を設けたのは、半月ほど後だった。具教と直接顔を合わせるのは初めてだ。以前、江野で弟の具政と話した際には、橘は南勢へ兵を入れず、北畠は橘の商人や荷、船の往来を妨げないと取り決めていた。
具教は席に着くなり、先の約定を持ち出した。
「左近衛中将とは、南へ兵を進めぬと約したはずであろう」
「はい、中納言殿。ですが、北畠領へ攻め込んだわけではございません」
「神戸へ兵を入れたことは認めるのだな」
「神戸から援けを求められましたので、救援のために兵を出しました」
具教の隣に座る長野大和守藤定が、横から口を挟んだ。
「救援を口実に南へ勢力を広げるのであれば、先の約定は何のためにあったのです」
「先に浜田を攻めたのは、そちらでしょう。某はそれまで、左近衛中将殿との約定を守り、南へ兵を出さずにおりました」
藤定が言い返しかけたが、俺は構わず続けた。
「塩浜で滝川に敗れたそちらの兵が神戸へ攻め込み、某は援けを求められて出向いたのです。それを勝手な南進と言われては困ります」
「だが、以前には関を攻め、亀山も落としておる。南へ勢力を広げてきたのは事実であろう」
「あの時も、先に兵を向けたのは関です。北畠から異議もございませんでした。それを今になって持ち出されるのですか」
具教はすぐには口を開かなかったが、やがて神戸の臣従に話を移した。
「神戸をそのまま配下に置くつもりか。北畠とも縁のある家だぞ」
「そのことは存じております。ただ、下総守殿が自ら望まれた臣従です。こちらから城を囲んで迫ったわけではありません」
友盛の臣従を受け入れた以上、長野との講和をまとめるために神戸を手放すわけにはいかない。そんなことをすれば、神戸はもちろん、ほかの家も橘を信用しなくなる。
具教も臣従を覆すよう求めることはせず、今度は縁談について尋ねた。
「神戸の息女を、そなたの嫡男に迎えるとも聞いたが」
「はい。許嫁にと申し出があり、お受けしました。婚儀はまだ先ですが、神戸との縁は次の代にも繋ぎたいと考えております」
「随分と話が早いものだな」
具教が竹子の話を打ち切ったところで、俺は講和の条件を切り出した。
「北畠には城も領地も、償いの銭も求めません。先の約定を守っていただければ結構です。ただ、攻めてきた長野まで、そのまま許すわけにはいきません」
「では、長野に何を求める」
「神戸の臣従を認め、今後は四日市と神戸に兵を向けないと約束していただきます。内通を誘って内側から崩すような真似も、やめていただきたい」
「それでよいのか」
「その約定を守る証として、人質を頂きます」
藤定が身を固くする傍らで、具教が問い返した。
「長野から人質を取るのか」
「いえ、中納言殿の御息女、雪姫様をお預かりしたく存じます」
「城や領地の代わりに、我が娘を差し出せと申すか」
「長野は御一門です。中納言殿にも責任を持って約定を守らせていただきたい。その証として、雪姫様をお預かりするのです」
先に声を上げたのは藤定だった。
「姫はまだ乳飲み子ぞ。人質に取るなど、正気か」
「北畠には関わりのない戦だとおっしゃるなら、長野とだけ戦を続けます。それなら、ここで講和を結ぶ必要もありません」
藤定は言葉に詰まり、具教は黙って俺を見ていた。
「雪姫様は江野でお預かりします。約定が守られる限り、粗略には扱いません」
「いつまで預かるつもりだ」
「年頃になれば、某の側室に迎えます。それ以降は人質ではなく、両家を繋ぐ方として遇します」
「人質を妻に迎えるというのか」
「はい。いつまでも人質のままにするより、いずれは婚姻で縁を結ぶ方が、双方のためになるでしょう」
具教は膝の上で指の動きを止めた。藤定はなおも身を乗り出し、異を唱えた。
「そのような条件は、あまりにも――」
「重すぎるとおっしゃるのですか。浜田で敗れた後も兵を引かず、神戸へ攻め込んだのは長野です。こちらは二度とも、攻められて応じたにすぎません」
俺は言葉を切り、藤定に目を向けた。声を荒らげるまでもない。
「二度も攻めて、負けても何も失わずに済むなら、また兵を出せばいいと思うでしょう。そんな前例を残すわけにはいきません」
「脅すおつもりか」
「ええ。また攻められると分かっていて見逃すくらいなら、今ここで長野を潰す方を選びます」
具教が強い口調で割って入った。
「橘殿、言葉が過ぎよう」
「本来なら長野を潰すところを、人質一人で済ませるという条件です。それでも重すぎるとおっしゃるなら、講和は結べません」
「その人質に、我が娘を求めておるのだぞ」
「はい。中納言殿にも長野を抑え、二度とこちらへ兵を向けないよう、責任を持っていただきたいのです」
長野の重臣の子では、戦のために切り捨てられるかもしれない。具教の娘を預かれば、北畠も長野の動きを放ってはおけなくなる。
俺は具教を見て続けた。
「左近衛中将殿と江野で交わした約定を、某は守ってきました。それでも浜田は攻められたのです。同じ約束を繰り返すだけで、兵を引くわけにはいきません」
「雪を渡せば、神戸より先へ兵を進めぬと約するか」
「北畠と長野がこちらへ兵を向けず、約定を守る限り、こちらから攻めることはありません」
「長野が違えた時は」
「人質としてお預かりしている間は、雪姫様にその責めを負っていただきます」
藤定が口を開きかけると、具教が遮った。
「そなたは黙っておれ」
藤定が黙ると、具教はしばらく俺を見据えてから尋ねた。
「年頃になれば側室に迎える。そのことも、今ここで約するのだな」
「はい。約定が守られていれば、必ずお迎えします」
「迎えた後に、長野が兵を挙げたらどうする」
「側室に迎えた後は、人質ではありません。長野が兵を挙げても、雪姫様にその責めを負わせることはありません」
人質として預かる間と、側室に迎えた後とでは、扱いを明確に分けておく必要がある。具教はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……分かった」
藤定が顔を上げた。
「中納言殿」
「浜田も神戸も取れず、二度敗れたのだ。これ以上続ければ、次は橘が攻めてこよう。城も領地も求めぬというなら、ここで戦を終える。神戸の臣従も認めよ」
具教の言葉は藤定に向けられていた。俺は口を挟まず、返答を待った。四日市は一益が守り、神戸も橘に従っている。ここで講和を拒めば、次は長野が攻められる側になる。藤定がそれをどう受け止めるかだった。
しばらくして、藤定は頭を下げた。
「……その条件、お受けいたします」
その後は、合意した条件を書付にまとめた。長野は神戸の臣従を認め、四日市と神戸へ兵を向けない。北畠とは先の約定を守り、捕らえた者は互いに返す。雪姫については、江野で人質として預かる間の扱いと、年頃になれば側室に迎える約束を分けて記した。
具教は雪姫に関する文面を何度も読み上げさせ、人質としての扱いと、婚姻後は長野の処分とは切り離すことを確かめた。書役が清書を終えると具教が筆を取り、長野方も続いた。俺は最後に名を記した。
城は攻め取らなかったが、神戸が橘に従い、竹子と小徳丸の縁談もまとまった。北畠との約定も保たれた。あとは取り決め通りに兵を引き、江野で雪姫を迎える支度を進めるだけだ。
具教は座敷を出る前に足を止め、俺に声を掛けた。
「橘殿。雪を粗略に扱えば、今日の約定とは別の話になるぞ」
「御心配なく。お預かりする以上、約定通りにお扱いします」
具教はそれ以上言葉を返さずに廊下へ出て、長野方も後に続いた。
政基が残った書付を揃え、俺の前に置いた。
「十兵衛様、こちらは江野へ持ち帰ります」
「頼む。神戸の臣従に関する書付とは分けておいてくれ」
「小徳丸様の縁組も、別に包みましょうか」
「ああ。そちらも別にしておけ」
政基が書付を包んでいる間も、外では兵たちが声を掛け合い、帰り支度を進めていた。最後の包みの紐を結び終えたところで、俺は立ち上がった。
「弦十郎、江野へ戻るぞ。久助には使いを出して、四日市は引き続き任せると伝えてくれ」
政基が包みを抱えて座敷を出ると、俺も後に続いた。




