↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第四章 戦国大名への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
123/139

第110話 塩浜から神戸へ

 永禄二年(えいろくにねん)(1559年)、九月十六日、未明(みめい)。

 伊勢国(いせのくに)、三重郡(みえぐん)、浜田(はまだ)、浜田城(はまだじょう)。


 塩浜合戦(しおはまかっせん)――滝川一益(たきがわかずます)


 夜明け前、塩浜(しおはま)の沖に多数の船が現れたとの報せが入った。阿漕浦(あこぎうら)の方角から次々と近づき、長野(ながの)、雲林院(うじい)、草生(くさわ)の旗が見えるという。兵数は三家合わせて五千に届くと見られていた。


 某(それがし)は絵図から顔を上げた。動かせる兵をすべて集めても、五千を正面から受け止めるのは難しい。浜田へ移ってから港や蔵を調べ、荷揚げ場から市へ通じる道も確かめてきた。その道を使って、海から来る大軍を迎え撃つことになる。


 某は絵図に描かれた塩浜を指して、元綱(もとつな)に尋ねた。

「遠江守(とおとうみのかみ)、塩浜から浜田へ大勢の兵を動かすなら、どの道を使う」

「こちらです。浜を離れると足場が悪くなりますので、大勢で進むには、この道を通るほかございませぬ」


 近宗(ちかむね)が道の両脇の田を指した。

「横へ広がれば田に足を取られます。浜へ退くにも、この道を戻るほかございませぬ。船を着けられる場所も、あの入り江だけです」

「ならば、浜では止めず、道へ入ったところを叩くか」


 浜に兵を並べれば、こちらの数も配置も船上から見えてしまう。敵が上陸を諦め、別の浜へ向かう恐れもある。姿を隠して上陸させ、船から離れたところを叩く方がよい。


 某は絵図の道を指でたどった。

「ここまで引き込む」

「久助殿、上陸させるのでございますか」

「浜で止めれば、すぐ船へ戻られる。後ろの兵まで道へ入れ、列が伸びたところを分断して叩く。五千を一度に相手にする必要はない」


 元綱は、某が指した道の脇にある松林へ目を移した。

「ここなら浜から兵を隠せましょう。某が兵を率いて入りますが、浜田勢だけでは心もとのうございます」


 某は赤堀肥前守景治《あかほりひぜんのかみかげはる》へ顔を向けた。

「肥前守(ひぜんのかみ)、遠江守へ兵を分けてくれ。お前は残りを率いて市場路を塞げ」

「羽津(はづ)の兵を分けましょう。こちらは手薄になりますが、道一本なら守れます」

「では、任せる」


 続いて、近宗に絵図の別の道を示した。

「右京亮(うきょうのすけ)、この道へ兵を回せるか」

「回せますが、敵が先に来れば、そこでぶつかることになります」

「敵が来ても姿を見せずに通せ。先頭が浜田へ向かったところで、道を塞ぐのだ」


 近宗が頷くと、某は盈豊(みつとよ)へ向き直った。

「掃部助(かもんのすけ)、茂福(もちぶく)に守備の兵を残し、動かせる者だけ率いて塩浜へ来い」

「後から駆けつけることになりますが、よろしいので?」

「構わぬ。着いたら兵を隠し、合図を待て」


 敵の狙いは、塩浜から上がった先の四日市(よっかいち)一帯だ。浜田へ続く道を塞がずにおけば、そこを進んでくるはずだった。


 益重(ますしげ)を呼ぶと、すぐに立ち上がった。

「儀太夫(ぎだゆう)、松林の先で兵を伏せて待て。先頭には手を出さず、敵の半数以上が浜を離れてから仕掛けろ」

「船へ戻れぬ所まで引き込むのでございますな」

「浜の近くで叩いては、すぐ逃げられる。せっかく来た客だ。少し歩いてもらおう」


 益重が口元を緩めて絵図の道を確かめる間に、某は西側に残す兵を率いる元家(もといえ)へ声を掛けた。

「弥左衛門(やざえもん)、敵が崩れても浜へ踏み込むな」

「船も焼かずにおくのでございますか」

「浜へ出れば、沖の船から狙われる。上がってきた兵を追い返せば、それでよい」

「承知いたしました。道を外れた敵に当たり、浜へ退いた者は追いませぬ」


 元綱は先に人を松林へ送り、近宗は田原勢(たはらぜい)を集めて出立の支度を始めた。盈豊が茂福へ使いを走らせる間に、益重と元家も配下へ進む道と集合場所を伝える。景治は羽津勢の半数を元綱に付け、残りを率いて市場路へ向かった。兵が出た後も、城門は開けておいた。浜田を捨てたように見せかける必要はない。


 某が塩浜浦へ着く頃、東の空が白み始めた。船から具足姿の武者が降り、槍を携えた兵が後に続く。次々に船が着く一方で、上陸した兵は先へ進みきれず、浜に溜まり始めていた。


 松林では、元綱が加勢の兵とともに身を伏せていた。そばの兵が起き上がりかけると、元綱は手で制した。

「まだ動くな。今出れば、後ろの兵に船へ逃げられる。先頭が浜を離れるまで待て」


 某は口を挟まず、浜の様子を窺った。この辺りの道を知る元綱に任せた以上、脇から指図を重ねることもない。


 やがて敵の先頭が浜田へ続く道に入り、松の向こうへ消えた。後続も槍の穂先を揺らして進むが、道が狭く、列は長く伸びていく。先頭が見えなくなっても、後ろの兵はまだ浜を離れられずにいた。


 某は片手を上げたまま敵の列を見送り、中ほどの兵が松林の脇へ差しかかったところで、腕を振り下ろした。


 鉄砲が一斉に鳴り、松の陰から煙が流れ出した。元綱の兵が側面へ攻めかかると、長野勢は狭い道で押し合い、倒れた者に後続の兵がつまずく。振り向いて応じようにも、槍が味方の槍と絡み、列は乱れた。


 元綱が配下に声を張った。

「押せ! 浜へ退かせるな!」


 前へ進もうとした敵は近宗の隊に阻まれ、道を外れようとした者も、田の縁から出た兵に押し戻された。市場路へ向かった一団は景治の伏兵に行く手を塞がれ、浜へ退く者が増えていく。そこへ盈豊が道の片側から攻めかかると、逃げる兵が上陸してくる味方とぶつかり、旗が大きく傾いた。


 だが、長野勢は崩れきらず、列の中ほどから野太い声が響いた。

「引き返せ! 敵は小勢ぞ! 四方から包んで討ち取れ!」


 隣の武者も声を張ると、逃げかけた兵が足を止め、物頭らしい者たちの周りで槍を揃え直した。中には、浜へ退こうとする兵を斬って引き止める者もいる。立て直した一団が益重の隊へ押し寄せ、こちらの兵がじりじりと後退し始めた。


 某も前へ進み、声を張り上げた。

「敵を通すな! 儀太夫の脇を固めろ!」


 鉄砲で撃っても、次の弾を込める間に迫られれば槍で受けるほかない。半刻を過ぎても互いに押し合い、勝負はつかなかった。益重の兵が幾人か倒れ、元綱に加勢させた羽津勢にも損が出ていた。


 道を突破できぬ長野勢が、横へ広がろうと田へ踏み込んだ。先の兵が足を取られると、後続がつかえ、槍の列が乱れる。元綱はその側面へ兵を進めた。

「今だ、押せ!」


 益重が正面で踏みとどまる間に、元綱の兵が横から槍を突き入れた。近宗も兵を寄せ、敵の進める隙間を狭めていく。某は背後の伝令を呼び寄せた。

「弥左衛門に伝えよ。西に残した兵を回し、浜寄りで立て直しておる一団を崩せ」

「承知いたしました!」


 元家の兵が乱戦を避けて外側から回り込むと、気づいた敵が向きを変え、前へ進もうとする味方とぶつかった。先ほどまで声を張っていた物頭の姿も、入り乱れる兵に遮られ、見えなくなった。


 益重は敵が退き始めると、兵を前へ進めた。

「押せ! 立て直す暇を与えるな!」


 田原勢も攻めかかると、四刻近く続いた戦はようやくこちらに有利となり、長野勢は列を崩して浜へ退き始めた。このまま追えば、浅瀬に足を取られたところを沖の船から狙われる。某は兵を走らせ、追撃を止めるよう伝えさせた。


 それでも追おうとする兵に、某も声を張り上げた。

「そこまでだ! 浜へは下りるな! 向かってくる敵だけを迎え撃て!」


 命令が行き渡り、追う兵は道の上で足を止めた。浜へ退いた長野勢は、まだ明るいうちはまとまって船へ戻れずにいた。元綱たちが道の脇に残った敵へ当たる一方、益重は散った兵を呼び集めて隊を立て直す。景治は市場路の柵を修理させ、盈豊は茂福へ戻す兵を選んでいた。


 某が益重を呼んで味方の損を尋ねると、益重は答えた。

「五十は超えましょう。浜田勢も羽津勢も、戻っておらぬ者が幾人もおります」

「敵の損はどれほどだ」

「物頭を含め、百は下りますまい」


 勝ちはしたが、損は小さくない。まずは負傷した者を浜田へ戻し、守りを立て直さねばならぬ。


 某は集まった者たちに、それぞれの役目を伝えた。

「右京亮と遠江守は、浜田までの道に敵が潜んでおらぬか調べよ。掃部助は兵を茂福へ戻せ。肥前守は柵を直し、明日の市を開く支度をしておけ」


 益重が問いかけた。

「敵を追わず、このまま引かせるのでございますか」

「沖にはまだ敵の船がおる。追撃に兵を出して、四日市の守りを手薄にはできぬ」


 益重に答えると、某は元家を呼び止めた。浜へ戻らず、南へ逃れた兵の行方が気にかかっていた。

「弥左衛門、南へ抜けた兵の行き先を、日暮れまでに調べられるか」

「瑞鳳衆(ずいほうしゅう)を何人か借りれば、後を追わせられます」

「では頼む。分かったことから順に知らせよ」


 日が沈むと、浜に残っていた長野勢は船に乗り、闇に紛れて沖へ退いていった。南へ逃れた兵の行方が分かったのは、夜も更けてからだった。浜へ戻れずに抜けた一隊は、神戸へ向かったらしい。


 その一隊を追って四日市の守りを空ければ、海から再び攻められた時に防げぬ。神戸へは敵が向かったことを知らせ、救援の兵を出すかどうかは江野の判断を仰ぐことにした。


 某は元家に、江野へ送る書状を用意させた。

「今日の戦と、南へ抜けた一隊が神戸へ向かったとの報せを書け。確かなことと、まだ確かめておらぬことは書き分けよ」

「神戸へも同じ文を送りますか」

「神戸には別に書け。浜田からは兵を出せぬことも伝えておけ」


 元家が書役のもとへ向かうのを見届けると、某は城へ戻る兵の列に目を向けた。最後の兵が出立するまで、塩浜に残った。


 * * *


 一益から江野へ届いた急報には、塩浜で敵を退け、浜田城と四日市一帯を守ったとあった。追撃はせず、兵を戻して守りを固めている。ただ、南へ抜けた敵の一隊が、神戸へ向かったらしい。


 四日市の守りは一益に任せ、俺は神戸への対処を考えた。ほどなく、その神戸からも使いが駆け込んできた。

「長野勢が領内へ攻め入り、我らも兵を出して防いでおります。何とぞ御加勢をお願いいたします」


 俺は神戸への救援を決めた。塩浜で敗れた長野勢をそのままにしておけば、神戸を足場に四日市を狙われかねない。神戸勢が持ちこたえているうちに兵を送り、追い払う必要がある。


 神戸へ着いた時、神戸家当主の神戸下総守友盛《かんべしもうさのかみとももり》は、正面での消耗戦を避け、兵を退きながら長野勢を神戸西城(かんべにしじょう)周辺の湿地や田へ誘い込んでいた。敵が足を取られている間に、俺はその脇へ回り込むよう兵を動かした。


 俺は敵の側面を指して命じた。

「正面は神戸勢に任せ、こちらは横から攻めかかれ」


 神戸勢が反転して攻めかかると、こちらの兵も側面を突いた。前と横から挟まれた長野勢には塩浜から逃れた兵も交じっており、踏みとどまろうとする者と退く者がぶつかって、ほどなく崩れた。俺は敵が神戸領外へ退いたところで追撃を止め、深追いはさせなかった。


 戦を終えて友盛と会った時には、互いに具足を解いていたが、袖口にはまだ泥が残っていた。友盛は座に着くと、俺へ頭を下げた。

「此度の御加勢、神戸家として忘れませぬ。橘殿がお越しにならねば、戦はさらに長引いたでしょう」

「神戸勢が持ちこたえていたからこそ、こちらも間に合ったのです」

「敵を湿地へ誘い込めはしましたが、我らだけでは退かせられませなんだ」


 俺たちが側面を突けたのも、友盛が正面で敵を引き受けていたからだ。友盛は礼を述べ終えると、しばらく間を置いて切り出した。

「橘殿、これより神戸家は、橘家に従いたく存じます」


 いずれ申し出てくるとは思っていたが、こちらから臣従を迫るつもりはなかった。救援したばかりの今、それを求めれば、助けた恩に従えと言うようなものだ。


 俺は返事をする前に、臣従の条件を確かめた。

「城や兵、年貢の扱いも、これまで通り神戸家だけでは決められなくなります。それは御承知ですか」

「はい。北勢の諸家に示された条件も、聞き及んでおります」

「その上で、従うとお決めになったのですか」

「神戸だけで南北の間に立ち続けるより、橘家に従う道を選びます。今回の戦で、南の守りを固めるだけでは足りぬと分かりました」


 長野が北畠と結び、海からも兵を送り込んでくる以上、神戸も南の境に備えるだけでは守り切れない。友盛はさらに膝を進めた。

「もう一つ、お願いがございます。御嫡男の小徳丸様がお生まれになったと伺っております。娘の竹子(たけこ)を、小徳丸様の許嫁としてお迎えいただけませぬか」


 小徳丸はまだ二つで、縁談を聞かせても分かる歳ではない。もっとも、今すぐ祝言を挙げるわけではなく、神戸と橘の縁を次の代へ繋ぐための約束だ。友盛は臣従に加え、婚姻によっても関係を固めたいのだろう。


 俺は竹子の年齢を尋ね、友盛の答えを聞いてから念を押した。

「婚儀はまだ先ですが、許嫁と定める以上は約定です。後で都合が変わっても、一方の判断で取り消せる話ではありません」

「承知の上で、お願いしております」

「では、小徳丸の許嫁としてお受けします。ただし、臣従の条件は変わりません。縁組を理由に、神戸家だけ特別扱いはできません」

「それで結構でございます」


 友盛は改めて頭を下げた。救援に赴いた先で、神戸家の臣従と小徳丸の縁談まで決まった。どちらも受け入れたが、約定はそれぞれ別に結ぶことにした。


 * * *


 使者の行き来に日を要し、具教(とものり)と長野方を交えた講和の席を設けたのは、半月ほど後だった。具教と直接顔を合わせるのは初めてだ。以前、江野で弟の具政(ともまさ)と話した際には、橘は南勢へ兵を入れず、北畠は橘の商人や荷、船の往来を妨げないと取り決めていた。


 具教は席に着くなり、先の約定を持ち出した。

「左近衛中将とは、南へ兵を進めぬと約したはずであろう」

「はい、中納言殿。ですが、北畠領へ攻め込んだわけではございません」

「神戸へ兵を入れたことは認めるのだな」

「神戸から援けを求められましたので、救援のために兵を出しました」


 具教の隣に座る長野大和守藤定《ながのやまとのかみふじさだ》が、横から口を挟んだ。

「救援を口実に南へ勢力を広げるのであれば、先の約定は何のためにあったのです」

「先に浜田を攻めたのは、そちらでしょう。某はそれまで、左近衛中将殿との約定を守り、南へ兵を出さずにおりました」


 藤定が言い返しかけたが、俺は構わず続けた。

「塩浜で滝川に敗れたそちらの兵が神戸へ攻め込み、某は援けを求められて出向いたのです。それを勝手な南進と言われては困ります」

「だが、以前には関を攻め、亀山も落としておる。南へ勢力を広げてきたのは事実であろう」

「あの時も、先に兵を向けたのは関です。北畠から異議もございませんでした。それを今になって持ち出されるのですか」


 具教はすぐには口を開かなかったが、やがて神戸の臣従に話を移した。

「神戸をそのまま配下に置くつもりか。北畠とも縁のある家だぞ」

「そのことは存じております。ただ、下総守殿が自ら望まれた臣従です。こちらから城を囲んで迫ったわけではありません」


 友盛の臣従を受け入れた以上、長野との講和をまとめるために神戸を手放すわけにはいかない。そんなことをすれば、神戸はもちろん、ほかの家も橘を信用しなくなる。


 具教も臣従を覆すよう求めることはせず、今度は縁談について尋ねた。

「神戸の息女を、そなたの嫡男に迎えるとも聞いたが」

「はい。許嫁にと申し出があり、お受けしました。婚儀はまだ先ですが、神戸との縁は次の代にも繋ぎたいと考えております」

「随分と話が早いものだな」


 具教が竹子の話を打ち切ったところで、俺は講和の条件を切り出した。

「北畠には城も領地も、償いの銭も求めません。先の約定を守っていただければ結構です。ただ、攻めてきた長野まで、そのまま許すわけにはいきません」

「では、長野に何を求める」

「神戸の臣従を認め、今後は四日市と神戸に兵を向けないと約束していただきます。内通を誘って内側から崩すような真似も、やめていただきたい」

「それでよいのか」

「その約定を守る証として、人質を頂きます」


 藤定が身を固くする傍らで、具教が問い返した。

「長野から人質を取るのか」

「いえ、中納言殿の御息女、雪姫様をお預かりしたく存じます」

「城や領地の代わりに、我が娘を差し出せと申すか」

「長野は御一門です。中納言殿にも責任を持って約定を守らせていただきたい。その証として、雪姫様をお預かりするのです」


 先に声を上げたのは藤定だった。

「姫はまだ乳飲み子ぞ。人質に取るなど、正気か」

「北畠には関わりのない戦だとおっしゃるなら、長野とだけ戦を続けます。それなら、ここで講和を結ぶ必要もありません」


 藤定は言葉に詰まり、具教は黙って俺を見ていた。

「雪姫様は江野でお預かりします。約定が守られる限り、粗略には扱いません」

「いつまで預かるつもりだ」

「年頃になれば、某の側室に迎えます。それ以降は人質ではなく、両家を繋ぐ方として遇します」

「人質を妻に迎えるというのか」

「はい。いつまでも人質のままにするより、いずれは婚姻で縁を結ぶ方が、双方のためになるでしょう」


 具教は膝の上で指の動きを止めた。藤定はなおも身を乗り出し、異を唱えた。

「そのような条件は、あまりにも――」

「重すぎるとおっしゃるのですか。浜田で敗れた後も兵を引かず、神戸へ攻め込んだのは長野です。こちらは二度とも、攻められて応じたにすぎません」


 俺は言葉を切り、藤定に目を向けた。声を荒らげるまでもない。

「二度も攻めて、負けても何も失わずに済むなら、また兵を出せばいいと思うでしょう。そんな前例を残すわけにはいきません」

「脅すおつもりか」

「ええ。また攻められると分かっていて見逃すくらいなら、今ここで長野を潰す方を選びます」


 具教が強い口調で割って入った。

「橘殿、言葉が過ぎよう」

「本来なら長野を潰すところを、人質一人で済ませるという条件です。それでも重すぎるとおっしゃるなら、講和は結べません」

「その人質に、我が娘を求めておるのだぞ」

「はい。中納言殿にも長野を抑え、二度とこちらへ兵を向けないよう、責任を持っていただきたいのです」


 長野の重臣の子では、戦のために切り捨てられるかもしれない。具教の娘を預かれば、北畠も長野の動きを放ってはおけなくなる。


 俺は具教を見て続けた。

「左近衛中将殿と江野で交わした約定を、某は守ってきました。それでも浜田は攻められたのです。同じ約束を繰り返すだけで、兵を引くわけにはいきません」

「雪を渡せば、神戸より先へ兵を進めぬと約するか」

「北畠と長野がこちらへ兵を向けず、約定を守る限り、こちらから攻めることはありません」

「長野が違えた時は」

「人質としてお預かりしている間は、雪姫様にその責めを負っていただきます」


 藤定が口を開きかけると、具教が遮った。

「そなたは黙っておれ」


 藤定が黙ると、具教はしばらく俺を見据えてから尋ねた。

「年頃になれば側室に迎える。そのことも、今ここで約するのだな」

「はい。約定が守られていれば、必ずお迎えします」

「迎えた後に、長野が兵を挙げたらどうする」

「側室に迎えた後は、人質ではありません。長野が兵を挙げても、雪姫様にその責めを負わせることはありません」


 人質として預かる間と、側室に迎えた後とでは、扱いを明確に分けておく必要がある。具教はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「……分かった」


 藤定が顔を上げた。

「中納言殿」

「浜田も神戸も取れず、二度敗れたのだ。これ以上続ければ、次は橘が攻めてこよう。城も領地も求めぬというなら、ここで戦を終える。神戸の臣従も認めよ」


 具教の言葉は藤定に向けられていた。俺は口を挟まず、返答を待った。四日市は一益が守り、神戸も橘に従っている。ここで講和を拒めば、次は長野が攻められる側になる。藤定がそれをどう受け止めるかだった。


 しばらくして、藤定は頭を下げた。

「……その条件、お受けいたします」


 その後は、合意した条件を書付にまとめた。長野は神戸の臣従を認め、四日市と神戸へ兵を向けない。北畠とは先の約定を守り、捕らえた者は互いに返す。雪姫については、江野で人質として預かる間の扱いと、年頃になれば側室に迎える約束を分けて記した。


 具教は雪姫に関する文面を何度も読み上げさせ、人質としての扱いと、婚姻後は長野の処分とは切り離すことを確かめた。書役が清書を終えると具教が筆を取り、長野方も続いた。俺は最後に名を記した。


 城は攻め取らなかったが、神戸が橘に従い、竹子と小徳丸の縁談もまとまった。北畠との約定も保たれた。あとは取り決め通りに兵を引き、江野で雪姫を迎える支度を進めるだけだ。


 具教は座敷を出る前に足を止め、俺に声を掛けた。

「橘殿。雪を粗略に扱えば、今日の約定とは別の話になるぞ」

「御心配なく。お預かりする以上、約定通りにお扱いします」


 具教はそれ以上言葉を返さずに廊下へ出て、長野方も後に続いた。


 政基が残った書付を揃え、俺の前に置いた。

「十兵衛様、こちらは江野へ持ち帰ります」

「頼む。神戸の臣従に関する書付とは分けておいてくれ」

「小徳丸様の縁組も、別に包みましょうか」

「ああ。そちらも別にしておけ」


 政基が書付を包んでいる間も、外では兵たちが声を掛け合い、帰り支度を進めていた。最後の包みの紐を結び終えたところで、俺は立ち上がった。

「弦十郎、江野へ戻るぞ。久助には使いを出して、四日市は引き続き任せると伝えてくれ」


 政基が包みを抱えて座敷を出ると、俺も後に続いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。