第109話 聖衆寺会談
永禄二年(1559年)、六月。
伊勢国、桑名郡、桑名、聖衆寺。
聖衆寺会談――吉田興種
夜明け前、某はもう一度境内を歩いた。六角の供には東の坊を、織田の供には西の坊を割り当てた。本堂までの道のりに差が出ぬようにし、渡り廊下に敷く筵の枚数も揃えさせてある。
門の脇では、桑名の書役が帳面を広げ、供を受け付ける支度をしていた。供の名と人数、預かる刀の数を記す欄は、両家を分けて設けてある。昨日のうちに、某が自ら線を引いておいたものだ。
山口にいた頃も、こうして客を迎えた。明の使いや京から下った公家を迎える日は、席の並びや膳を出す順に気を配り、一日を過ごした。その大内も、今はもうない。家中が二つに割れ、主を討った者が新たな主を立てた末に、毛利に飲まれた。
十日前、江野から届いた文には、会場の用意と当日の段取りを任せるとあった。末尾には「俺が座敷にいると、どっちの話か分からなくなる」と一行添えてある。六角の家臣筋である橘が上座の脇に控えれば、義治は橘の顔色をうかがい、信長はその橘を通して六角の意向を探る。それを避けたかったのだろう。
六角と織田の当主を同じ座敷に迎え、話がまとまるまで滞りなく事を運ぶ。その役目を某に任せたのが、大内でも毛利でもなく、北伊勢の若い家だというのも、妙な巡り合わせだった。
* * *
先に着いたのは六角一行だった。義治は供を東の坊に待たせ、三人の重臣だけを連れて本堂へ上がった。その中にいた賢豊は、具足を解いて間もないらしく、袴の裾に佐和山の土が残っていた。
賢豊は某の前で足を止め、声を落とした。
「左兵衛尉殿、陣を長く空けてはおけぬゆえ、話が済めば今夜のうちに佐和山へ戻るつもりだ」
「心得ております。お帰りの馬は、裏門に用意してございます」
「手回しのよいことだ。十兵衛殿のもとには、気の利く者が揃っておるな」
残る二人は、三上越後守恒安と永田刑部少輔景弘だった。恒安は座に着く前に本堂の柱と柱の間を目で測り、出入りの口がいくつあるかを確かめている。景弘は、座ると膝の前の畳が狭く見えるほどの大きな体を、静かに沈めた。
ほどなく、信長が林佐渡守秀貞、長秀、信盛の三人を従え、西の坊から本堂へ上がってきた。
義治は上座で腰を浮かせ、信長を迎えた。
「上総介殿、遠路、大儀であった」
「右衛門督殿こそ、佐和山の戦の最中に、ようお越しになった」
信長が短く礼を返すと、義治は一瞬顔をこわばらせ、黙って座り直した。某が挨拶を述べようと膝を進めたところで、信長が庭へ顔を向けた。
信長は縁の向こうに並ぶ、人影のない坊を眺めていた。
「左兵衛尉。この寺には四十三もの坊があり、僧兵もおったと聞くが、随分と静かだな」
挨拶も済まぬうちに、そのことを尋ねられるとは思わなかった。義治はわずかに眉を寄せたが、口を挟まず、某の答えを待っていた。
某は庭へ目を向けて答えた。
「寺内で武具を集めていた者は橘の内務軍が捕らえ、主だった者は裁かれました。僧兵の武具も取り上げ、今は残った僧たちが寺の務めを続けております」
「寺そのものは潰さなんだのか」
「潰せば、ここへ参る者の行き場がなくなります。桑名には、今も必要な寺でございます」
「武具は奪うても、寺は残すか。十兵衛らしいやり口だ」
信長はその答えで気が済んだのか、ようやく庭から座敷へ向き直った。
* * *
義治は膝の上で扇を握り直した。
「先代の頃より、尾張とは使いを交わしてきた。今日はその縁を、正式な約定としたい」
「互いに争う理由はない。それで十分ではないか」
信長はそれ以上言葉を続けず、義治も扇を握ったまま、何と返すか迷うように口をつぐんだ。
賢豊が沈黙を埋めるように膝を進めた。
「六角は今、北の浅井との戦に手を取られております。上総介殿も、今川と美濃への備えは欠かせぬことと存じます」
「東も北も、目を離すわけにはいかぬ」
「互いに兵を向けぬと約せば、その分、それぞれの敵への備えに力を注げましょう」
「但馬守の申す通りだ。わしも西で揉めておる暇はない」
某は二人の言葉を手元の紙に書き留めた。六角は浅井との戦に手を取られ、織田は今川と美濃に備えねばならぬ。互いに争いを避けたいという考えは同じだが、約定を結ぶに当たって相手に何を望むのかは、まだ聞けていなかった。
義治が求めたのは、その先だった。
「互いに争わぬだけでなく、いざという時には力を貸し合う間柄でありたい」
信長が手元の書付から顔を上げた。
「力を貸すとは、援軍を出せということか。浅井と戦になるたびに、尾張を空けるわけにはいかぬぞ」
「その都度兵を寄越せとは申しておらぬ。だが、いざという時に助け合わねば、結ぶ甲斐もあるまい」
「その『いざ』とは、どのような時だ。それが分からねば、約束はできぬ」
義治の声は少しずつ高くなり、信長はかえって声を落としていた。義治の言い分も、某には分かる。大内にいた頃、書付を交わしても、いざとなれば誰も兵を出さぬ例を何度も見た。名ばかりの約定なら、結ばぬ方がましだ。
秀貞は双方の前に置かれた書付へ手を添えた。
「右衛門督様、上総介様。助け合う約束と、いつ、どれほどの兵を出すかは、分けてお決めいただきとうございます。曖昧なまま約せば、後に双方の受け取り方が食い違いましょう」
信盛が秀貞の言葉を継いだ。
「兵を出すには、兵糧と通り道の手配も要ります。どの領内を通り、道中の米をどちらが用意するのか。それを決めねば、何人出せと言われても動けませぬ」
恒安は義治へ向き直った。
「六角も事情は同じでございます。尾張へ援軍を送るにも、こちらの守りからどれだけ兵を出せるか、その折の情勢を確かめねばなりませぬ。浅井と対しておる以上、南近江を手薄にはできませぬので」
義治は恒安に目を向けたが、口は開かなかった。六角の当主として約定を結ぼうとする義治と、自領の守りから兵を割かねばならぬ恒安とでは、気にかけることも違うのだろう。
* * *
条件を絞れば双方の負担は減る。だが、肝心なことまでその都度話し合うのでは、何を約束したことになるのか。某がその点をどう切り出すか考えていると、景弘が姿勢を正したまま信長へ顔を向けた。
景弘は拳を膝に置いたまま、信長に尋ねた。
「兵を出せぬ時は、出せぬと答える。それは互いに同じでよろしかろう。ただし、出すと約したからには、必ず出す。その点に異存はござらぬか」
織田の重臣たちが一斉に景弘へ目を向けたが、景弘は信長をまっすぐに見据えていた。
信長はしばらく景弘の顔を眺めていた。
「一度約したことを違えるつもりはない」
「では、援軍を求められた時は、返答の期日もお決めくだされ。来るか来ぬか分からぬままでは、待つ側も備えを定められませぬ」
「刑部少輔と申したな。大きいのは体だけではないようだ」
信長は口元を緩め、秀貞へ顔を向けた。
「佐渡、どう思う」
「異存はございませぬ。返答の期日を定めれば、こちらが援軍を求めた際も、返事を引き延ばされずに済みます」
賢豊は義治へ向き直った。
「御屋形様、刑部少輔の申す通り、返答の期日を定めるのは六角にも利がございます。浅井との戦の最中、尾張からの返事をいつまでも待たずに済みましょう」
「……分かった。それでよい」
某は手元の紙に、援軍に関する取り決めを三段に分けて書き付けた。まず、援けを求める。求められた側は返答の期日を知らせ、期日までに兵を出せるかどうかを答える。出すと決めた場合は、兵数と時期、兵糧の負担を定め、それを守る。
某は書き付けた紙を双方の前に置いた。
「今のお話を、この三つに分けました。援けを求める権利と、期日までに返答する務めは双方にございます。出兵を約した後は、取り決めた条件をそれぞれ守る、ということでいかがでしょう」
秀貞が紙を取り上げ、一行ずつ指でなぞって確かめた。賢豊も反対側から身を寄せ、文面を覗き込んでいた。
秀貞は紙を戻しながら、某に目を向けた。
「左兵衛尉殿は、どこでこうした書き方を覚えられた」
「大内に仕えていた頃、明や朝鮮と交わす書付を整えておりました。言葉の違う相手とは、何を約したか一つずつ分けて記さねば、後で揉めますので」
「なるほど。尾張と近江も、言葉が違うようなものか」
それを聞いた信長が、短く笑った。
* * *
昼には、それぞれの坊へ膳を運ばせた。料理も出す時刻も両家で差がつかぬよう、朝のうちに台所へ申し付けてある。
膳を下げる頃、東の坊の裏で両家の供が揉めていると、書役が知らせに来た。向かうと、井戸の前で六角と織田の供が桶を手に睨み合っていた。どちらが先に水を汲むかで、言い争いになったらしい。
某を見るなり、六角の供の一人が声を上げた。
「左兵衛尉殿、先に待っていたのはこちらでございます。そこへ尾張の者が、横から桶を差し入れてきたのです」
「待っておったとは知らぬ。井戸が空いておると思うて、汲もうとしただけだ」
某は二人の間に入り、井戸の縁に手を置いた。
「この井戸は東の坊にお泊まりの方にお使いいただいております。西の坊の裏にも、同じ深さの井戸を空けてございます。朝のうちにご案内すべきところを怠りました。こちらの手落ちでございます」
織田の供は桶を下ろして西の坊へ戻り、六角の供もそれ以上は言わずに水を汲み始めた。どちらの面目も潰さずに収まれば、それでよい。本堂へ戻る途中、信長が一人で縁側に座っているのを見かけた。供も連れず、庭の向こうに並ぶ空いた坊を眺めていた。
足音に気づいた信長が、顔だけをこちらへ向けた。
「左兵衛尉。お前は大内の奉行だったそうだな」
「はい。山口で書付と算用を預かっておりました」
「それほどの家に仕えておって、なぜ十兵衛のもとへ来た。ほかに大きな家もあったであろう」
「大きな家でも、内から割れればひとたまりもございませぬ。大内が崩れていくのを、この目で見てまいりました」
信長は少し黙り、鼻で笑った。
「橘なら、家中が割れぬと思うたか」
「そうならぬよう、先に手を打つお方だと思いました。それに、某の預かる帳面について、十兵衛様ほど細かく尋ねる主は、大内にもおりませなんだ」
「あいつは昔からそうだ。尾張へ来た時も、町で荷をどこに置いておるか、そんなことばかり見ておった」
信長はそう言って縁から立ち上がり、本堂へ戻っていった。某はしばらくその背を見送り、大内での日々を思い返した。主から書付の中身を細かく問われることはなく、確かめもせぬまま書付だけが積み上がっていた。気づいた時には、そこに何が記されているか、把握している者すらいなくなっていた。
午後の話し合いに戻ろうとしたところで、某は廊下で恒安に呼び止められた。
恒安は声を落とし、港の方を顎で示した。
「左兵衛尉殿。桑名では関銭を取らぬと聞いたが、まことか」
「はい。頂くのは、蔵を使う者からの蔵敷きだけでございます」
「それで港の守りに要る銭を賄えるのか」
「荷の出入りが増えれば、蔵を使う者も増えます。関で止めて銭を取るより、荷を通して蔵を使ってもらう方が、長い目では多く入ります」
「……近江の湊でも、同じようにできるものかのう」
恒安はそう呟き、某の答えを待たずに本堂へ入っていった。
* * *
午後の話し合いで、美濃のことが話題に上った。
信長は書付の端を指で叩いた。
「治部大輔は四月、公方様の相伴衆に取り立てられたそうだな。わしが攻めれば、公方様に弓を引く気かと申す者も出よう」
「六角がそう申すとお考えか」
「申さぬとは限らぬ。六角は公方様のために三好と戦うておる家だ。その名目で治部大輔に兵や米を送られては困る。そこを確かめておきたい」
某もその話は、京から下ってきた商人に聞いていた。相伴衆は幕府でも高い席次を与えられる。父を討って家を奪った者を、公方様がその席に迎えたのだ。美濃を攻めれば、公方様の重んじる者に兵を向けたと責められかねぬ。厄介なことだった。
義治は扇の先で畳を一度叩いた。
「六角が公方様をお助けしておるのは、三好との争いでのことだ。美濃まで同じに扱うつもりはない。ただし、こちらも確かめたい。浅井と戦うておる間に、尾張から浅井へ兵や米を送られては困る」
義治が言い終えると、長秀が控えめに口を開いた。
「まずは、互いの敵に兵や米を送らぬと約してはいかがでしょう。付き合いを一切断つとなれば、商いまで止まりかねませぬ」
「五郎左の申す通りだ。美濃との商いまで断っては、清洲の市も立ち行かぬ」
信長の同意を受け、賢豊が言葉を継いだ。
「では、商いは妨げず、互いの敵への加担はせぬ。相手に関わる動きがあれば、あらかじめ使いを立てて申し合わせる。それでいかがでございましょう」
長秀は懐から小さな紙を取り出し、某に示した。
「使いは、どちらへ送ればよろしいでしょうか。清洲と観音寺を行き来するには、近江を通っても伊勢を回っても日数がかかります」
「桑名でお受けいたします。そこから某の手の者が、両家へ急ぎお届けします。港の船も使えますので、陸路だけを行くより早うございます」
長秀が紙に書き留めて懐へ収めたところで、某は膝を進め、双方へ目を向けた。話を進める前に、一つだけ確かめておきたいことがあった。
某は信長と義治の間に、もう一枚の紙を置いた。
「橘と織田の約定は、これまで通り有効でございます。ただし、本日の約定が結ばれても、六角が橘を介して織田に命じたり、織田の兵を動かしたりできるわけではございませぬ」
義治は某に目を向け、何か言いかけたが、そのまま口をつぐんだ。
先に答えたのは信長だった。
「それでよい。十兵衛と交わした約定は、右衛門督殿と結ぶものとは別だ」
義治は扇を膝の上に置き、答えた。
「……異存はない」
異存はないと言いながら、義治が扇から手を離すまでには間があった。家臣筋の橘が主家を介さず織田と約定を交わしていることを、快くは思っておらぬのだろう。
大内が崩れたのも、こうした行き違いからではなかったか。主家の知らぬ間に家臣が他家と話をつけ、主家はそれを咎めることもできず、不満ばかりを募らせていった。
だが、某が仕えるのは橘であり、その約定を守るのも某の務めだ。ここで六角の約定の一部にされるわけにはいかぬ。
* * *
夕刻、秀貞と賢豊はそれぞれ清書した書付を手に、文面を読み合わせた。
両家は互いに敵対せず、相手を攻める者にも加担しない。相手に関わる動きがあれば事前に使いを立てて申し合わせ、それぞれの周辺の戦況も知らせ合う。援軍はその都度協議し、出兵を約した場合は取り決めを守る。使いの往来や、揉め事が起きた際の連絡は、桑名を通すことになった。
賢豊が読み終えた書付を義治の前に置くと、義治は改めて最初から目を通し、筆を取った。信長も秀貞から書付を受け取り、ためらわずに名を記した。
義治は筆を置き、某に顔を向けた。
「左兵衛尉、十兵衛にも伝えよ。此度の取り持ち、六角としても忘れぬとな」
信長が脇から口を挟んだ。
「お前が来ずとも話はまとまった、と伝えてやれ。あいつが来れば、誰よりも喋るであろうからな」
「確かに申し伝えます。今後、両家のお使いが参りましたら、桑名で受け、滞りなく先方へお送りいたします」
某が両者に頭を下げて顔を上げると、景弘が小さく息を吐いた。恒安はもう、供を待たせてある東の坊へ目を向けている。六角の一行はそちらへ引き揚げ、賢豊だけが少し遅れて本堂を出た。
賢豊は渡り廊下の端で足を止め、某を振り返った。
「左兵衛尉殿、十兵衛殿へ文を送る折には、綾のことも一言添えてくだされ。佐和山に詰めておると、娘の顔を思い浮かべる暇もない」
「承りました。馬は裏門に用意してございます。今お発ちになれば、月が出る前に山を越えられましょう」
賢豊が頷いて裏門へ急ぐと、入れ替わるように景弘が東の坊から戻ってきた。供に何か言い付けてきたのか、手ぶらだった。
景弘は某の前で足を止め、大きな体を少しかがめた。
「左兵衛尉殿、先ほどは出過ぎたことを尋ねた」
「いえ、刑部少輔殿が尋ねてくださらねば、某が口にするところでした。ただ、取り持つ者が問えば、どちらかへの肩入れと受け取られかねませぬ」
「なるほど。某が損な役を引き受けたわけか」
「おかげで、上総介殿には覚えられましょう。大きいのは体だけではない、と」
「褒められたのか、からかわれたのか、某には分からなんだがな」
景弘が短く笑って東の坊へ戻ると、西の坊へ向かっていた長秀が、渡り廊下の向こうから引き返してきた。その手には、昼に書き付けていた小さな紙があった。
長秀は紙を開き、某に差し出した。
「左兵衛尉殿、桑名へ使いを送る際の印を決めておきとうございます。名乗りだけでは、偽の使いかどうか見分けがつきませぬ」
「では、割符を作りましょう。清洲と桑名の蔵で片方ずつ持ち、六角の分も別に作って観音寺へお届けいたします」
「清洲の分は、某が受け取りに参ります。いつ頃できましょうか」
「十日以内には。港の船で清洲へお送りすることもできますが」
「いえ、直接お会いして受け取りたい。某が参ります」
長秀は紙を畳むと、西の坊へ戻っていった。
* * *
織田の一行が西の坊へ引き揚げると、本堂には某と書役だけが残った。
書役は預かった刀と返した刀の数を読み上げ、両家とも一致しているのを確かめて帳面を閉じた。某は約定の写しを二部用意し、一部を江野へ送る包みに入れ、残る一部は桑名の蔵へ納めるために取り置いた。包みには、賢豊の言伝を記した紙も添えておいた。
寺の外では、港で荷を下ろす者たちの声が響いていた。船の上の者たちは、今日ここで交わされた約定をまだ知らぬ。明日も荷を下ろして蔵へ運び、帳面に記す仕事は変わらず続いていく。
某は包みの紐を結ぶと、江野へ向かう使いを呼ぶよう書役に命じた。それから、明朝入港する船の荷を記した帳面を手元へ引き寄せた。




