第108話 佐和山城攻め
永禄二年(1559年)、五月。
近江国、蒲生郡、石寺、観音寺城。
佐和山城攻め――橘頼政
広間へ向かう廊下にまで、承禎の声が響いていた。浅井が越前から嫁を迎えたのは、六角から持ちかけた縁組を蹴ったも同然だと憤っている。わしが座に着いてからもその怒りは収まらず、承禎は扇の先で畳を叩き続けていた。
承禎の怒りを受け、上座の義治が佐和山を攻めるよう命じた。短い下知に続き、定秀が攻め手の差配を説明した。
定秀は懐から書付を取り出して広げ、居並ぶ者たちへ読み上げた。
「佐和山城を落とした者には、城とその周辺の百々の知行、さらに五万疋を下される。城攻めは某が差配いたす。各々の陣所は追って知らせる」
五万疋という額に末席の何人かが顔を上げる中、わしは脇に座る政澄とともに頭を下げた。
広間を出て廊下の角を曲がると、わしはようやく息を吐いた。承禎が扇で畳を叩く音は、まだ耳に残っている。
わしは政澄へ顔を寄せ、声を落とした。
「十兵衛から兵を借りずとも、わしらで落とせる。城まで貰えるのなら、働き甲斐もあるというものだ」
「取った後は、守る兵も要りますぞ、兄上」
「分かっておる。まずは取らねば、その心配もできん」
「江野へはお知らせになりますか」
「知らせはするが、来いとは書かん。あれも伊勢で手一杯だ」
政澄はそれ以上何も言わず、かがんで草履の紐を結び直した。
* * *
朝霧へ戻ると、すでに高晴たちが屋敷の庭に集まっていた。誰かが先に使いを出し、知らせていたらしい。
政忠が真っ先に縁側へ寄ってきた。
「橘殿、佐和山攻めと聞きました。落とせば城も頂けるというのは、まことでございますか」
「城と知行、それに五万疋だ」
「五万疋……。兵庫助殿、それだけあれば具足が何領揃いましょうか」
「左近殿、勘定は城を取ってからにいたせ」
政澄の返しに、重尚が口元を緩めた。
「某なら、具足より馬が何頭買えるかを考えますな。佐和山は山城ゆえ、出番は少のうございましょうが」
「右近も、取る前から使い道を考えておるではないか」
「頂いてから迷うよりはよろしゅうございましょう」
高晴は皆の話を聞きながら、庭の隅に積まれた出陣用の米俵へ目を向けていた。
高晴は俵の山からわしへ向き直った。
「橘殿、兵糧は朝霧の蔵の米だけで足りましょうか。六角の諸家が一斉に兵を集め始め、観音寺の市では早くも米の値が上がっております」
「蔵の米を出そう。足りぬ分も、現地で高値の米を買うより、朝霧から運び足す方が安かろう」
「では、わしが荷駄の馬を揃え、兵の給金も出立前に渡せるよう支度しておきます」
「それも頼む。五万疋を貰うより先に、こちらの銭が出ていくな」
奥から春が、政澄の替えの下帯を包んだ風呂敷を手に出てきた。
春は政澄へ風呂敷を渡すと、わしに目を向けた。
「殿、また兵庫助の支度まで私に任せるおつもりでしたか」
「わしではない。兵庫助が忘れておったのだ」
「忘れてはおりません。後で取りに行くつもりでした」
「上平野の時もそうおっしゃって、三日目には借りに来たではありませんか」
政澄が風呂敷を手に黙り込むと、庭の者たちは一斉に顔を伏せた。笑いを堪えきれず、あちこちで肩が揺れている。
* * *
朝霧の谷を下り、平地に出て田の間をまっすぐ北へ進んだ。水を張った田には植えたばかりの苗が並び、畦で草を取っていた百姓が、こちらの旗を見て腰を伸ばす。
政忠は馬を寄せ、前を行く高晴に声を掛けた。
「茂兵衛殿、佐和山では、どちらが先に柵を越えるか賭けませぬか」
「左近殿、上平野でもそう言って、先に越えたのはわしだったぞ」
「あれは、茂兵衛殿の隊の前だけ、たまたま柵が崩れていたのでございましょう」
「たまたまだろうと、わしが先に越えたことに変わりはなかろう」
二人のやり取りを聞いていた重尚は、後ろに続く荷駄の列へ目を向けた。
重尚はわしのそばへ馬を寄せ、荷駄の列を指さした。
「橘殿、荷駄の三番目の馬が少し脚を引いております。佐和山までは持ちましょうが、着いたら替えた方がよろしいかと」
「では、着いたら替えてやってくれ。ところで右近、お前はあの二人と賭けぬのか」
「某は先を争うより、味方が越えた後の道を守る方が性に合っております」
「ならば、どちらが先に越えたか、お前が見届けてやれ」
後ろから馬を進めてきた政澄が、高晴と政忠の間に入った。
「二人とも、賭けるのは五万疋を貰ってからにしろ。まだ手にしてもおらぬ銭を当てにして、負けたら何で払うつもりだ」
* * *
佐和山の麓へ着いたのは、五月の半ばだった。見上げる山は思っていたより高く、尾根には曲輪が段をなして連なっている。そこへ通じる道はどれも、一人か二人が並んで通るのがやっとの狭さで、いくら兵を揃えても、一度に登らせられる数は限られていた。
わしは陣所の外れに立ち、政澄と南の道や西の谷筋を見比べた。
「南の道は、ここから見えるだけでも三度折れておる。あれでは、曲がるたびに上から狙われるな」
「西の谷筋も、道と呼べぬほどの斜面です。人は登れても、鉄砲を担いでいては足を取られましょう」
「ならば、南から攻めるほかないか」
「南を主として、西にも少しずつ兵を回してはどうでしょう。どちらから攻め上がるか、城の者を迷わせることはできましょう」
背後で馬の鼻息がして振り返ると、後藤の旗を掲げた一団が陣所の脇を通っていた。先頭の賢豊が、ちょうど馬から降りるところだった。
賢豊は手綱を家人に預け、わしの前へ歩み寄った。
「弥三郎殿。南の攻め口は橘が受け持つと、下野守殿から聞いておる。後藤はその東隣に陣を張ることになった」
「但馬守殿が隣におられるなら、心強うございます。ただ、先に申しておきますが、十兵衛は連れてきておりませぬぞ」
「承知しておる。十兵衛がおれば、この陣ももう少し騒がしかろうな」
賢豊は陣所を見渡し、声を落とした。
「小徳丸は息災か。綾の文には、もう歩くようになったとあったが」
「今では廊下を走り回り、春に叱られておりますよ。去年お目にかけた時より、背も頭一つは伸びましたな」
「頭一つもか。そこまでは書いておらなんだ」
「綾殿は大げさには書かれませぬからな。戦が片付きましたら、朝霧へ顔を見にいらしてくだされ」
賢豊は返事の代わりにわずかに口元を緩め、自分の陣へ戻っていった。
* * *
城攻めは思うように進まなかった。南の道は曲がるたびに上から矢と石が降り、鉄砲で柵を狙っても、敵はその陰へ身を隠して撃ち終わるのを待つ。三日かけてようやく、最初の曲がり角を越えた所に足場を築いた。
負傷者を運び下ろすにも、攻め上がる兵と同じ道を使わねばならないのが厄介だった。政澄が道脇に杭を打たせて上りと下りを分けたものの、幅の狭い所では互いに行く手を塞いでしまう。
政澄は負傷者を運ぶ列が下りていくのを見届け、わしのもとへ戻ってきた。
「兄上、今日の手負いは昨日より増えております。死者こそおりませんが、明日も同じ道を攻め上がれば、また同じように兵を損じましょう」
「攻め口を変えるか」
「西の谷筋へ回した者が、上へ通じる獣道を見つけました。一人ずつしか通れませぬが、使えそうです」
「左近に確かめさせよう。あれは、こういう道を好む」
その夜、獣道を確かめて戻った政忠は、顔を泥だらけにしながらも嬉しそうに報告した。
政忠は泥の付いた袖で額を拭い、わしの前に膝をついた。
「橘殿、上まで登れました。ただ、登り切った所に見張りが一人おります。攻めるなら、声を上げられる前に始末して、続く兵を一気に登らせねばなりませぬ」
「見張りは一人だけか」
「はい。ただ、下からその者に声を掛ける者がおりました。『隠岐守様が、今夜は二刻ごとに見回る』と」
その名は、すでに何度か聞いていた。昼の攻めでこちらの兵が二つ目の曲がり角まで迫った際、退きかけた城兵を怒鳴りつけ、持ち場へ押し戻した将がいた。城兵たちが口々に「隠岐守様」と呼んでいたその男が、佐和山を預かる百々隠岐守盛実だった。
わしは政忠の報告を聞き、しばらく考えた。
「二刻ごとの見回りなら、合間に兵を登らせられよう。だが、登った先で隠岐守に出くわせば、あの狭い道では退くに退けん」
「では、この道は使いませぬか」
「いや、今夜は見送るだけだ。もう少し上の様子を確かめてからにしよう」
政忠は少し肩を落としたものの、何も言わずに下がった。翌朝、陣所に定秀の使いが訪れた。
使いは書状を差し出し、定秀の言葉を伝えた。
「下野守様より、近く合図を送るゆえ、それまでは兵を休ませておくようにとのことでございます」
「何を始める合図だ」
「そこまでは承っておりませぬ」
使いが帰ると、高晴が書状を覗き込んだ。
「兵を休ませておけとは、何か策がおありなのでしょうか」
「少なくとも、わしらが動くのは合図を待ってからだ。誰が何をするのかまでは、知らせぬつもりらしい」
「では、仰せの通り休ませておきましょう。兵もそろそろ、足が棒になっておりますので」
休めとの下知に、兵たちは具足の紐を解き、川で足を洗って疲れを癒やした。陣所のあちこちで麦飯を炊く鍋が火に掛けられ、昼過ぎには煙の匂いが広がっている。夕方になると、賢豊が徳利を提げて訪ねてきた。後藤の陣にも、同じ下知を伝える使いが来たらしい。
賢豊は焚き火の前に腰を下ろし、わしに徳利を差し出した。
「弥三郎殿、休めと言われても、何もせずにおると手持ち無沙汰でな」
「但馬守殿が酒を提げてお越しとは、珍しいですな」
「弥三郎殿と陣を並べるのは、朝明川以来だな。あの時は、こうして飲む暇もなかった」
焚き火の向こうでは、政忠が身を乗り出し、徳利にじっと目を注いでいた。
政忠は意を決したように、賢豊へ頭を下げた。
「但馬守様、私にも一杯頂けませぬか。獣道を三度も上り下りして、喉が渇いております」
「左近、さっきから焚き火の前を離れぬと思えば、但馬守殿の酒が目当てか」
「席を外せば、また茂兵衛殿に先を越されますので」
高晴は自分の椀を差し出しながら言い返した。
「先を越すのは柵だけで十分だ。酒までお前と争うつもりはない」
「では、茂兵衛殿の分も私が頂きましょう」
「飲まぬとは言っておらんぞ」
賢豊は声を上げて笑い、二人の椀へ順に酒を注いだ。重尚は椀を伏せたまま、焚き火に薪をくべている。
賢豊は重尚の伏せた椀に気づき、徳利を傾ける手を止めた。
「右近殿は飲まぬのか」
「今夜にも合図が来るやもしれませぬ。某は、その用が済んでから頂きます」
「ならば、残しておこう。弥三郎殿の家中は、慎重なのか騒がしいのか分からぬな」
「どちらもおりますからな。わしが間に入らねばなりませぬ」
* * *
合図が来たのは、それから数日後の夜だった。重尚の隊で見張りに立っていた兵が、城の奥、本丸に近い辺りから上がる火の手に気づいた。一筋だった炎は、見る間に二筋、三筋と増えていく。
重尚が陣所へ駆け込んできた。
「橘殿、城内で火の手が上がっております。こちらの攻め口を守る兵も、柵を離れて火の方へ走っております」
「どれほど持ち場を離れた」
「見えた限りでは半数ほどです。残る者も、しきりに後ろを振り返っております」
陣所を出て山を見上げると、火に照らされた南の道の柵に、兵の影がまばらに見えた。そこへ、麓の定秀の陣から法螺貝の音が響いた。
わしは集まった者たちを振り返った。
「行くぞ。茂兵衛は南の道を攻め上がれ。右近はその後に続き、取った足場を守って後続の兵を通せ」
「橘殿、獣道からは、いつ登りますか」
「左近はすぐに登り、隠岐守が見回る道を塞げ。兵庫助は後方で、兵や荷が道に詰まらぬよう差配せよ」
政澄が問い返した。
「手負いは、どちらへ下げます」
「登ってきた道を戻らせろ。杭で分けた通り、上りと下りを守らせよ」
高晴の隊が南の道を駆け上がると、上の柵からまばらに矢が飛び、こちらも鉄砲で応じた。二つ目の曲がり角には昼の半分もかからずに達したが、三つ目では新たに集まった城兵に阻まれた。柵の内側では、具足に陣羽織を重ねた男が、兵たちの中央で声を張り上げている。
盛実だった。火の方へ走った兵を呼び戻して柵の前に並べ直すと、兵たちも浮き足立っていた様子を収め、こちらへ向き直った。そこへ獣道の方から喚声が上がる。登り切った政忠の隊が、盛実の背後へ回り込んでいた。
盛実は振り返ると、自ら槍を取って政忠の隊へ向かい、兵も何人か続いた。だが、間合いを詰めるより先に鉄砲が火を噴き、盛実の体が揺らいだ。それでも二、三歩踏み出したところを、政忠の隊の槍兵が取り囲んだ。
城兵の間から「隠岐守様」と叫ぶ声が上がり、柵の前で踏みとどまっていた兵たちが退き始めた。高晴の隊が柵を越えると、重尚の隊も続いて道を固める。東の尾根には後藤の旗も見え、夜明けには本丸の辺りまで六角の旗が立っていた。
* * *
城を落とすと、まず兵の安否を確かめた。政澄が曲輪ごとに名を読み上げさせ、高晴たちが自隊の手負いと死者を数えていく。死んだ者は思っていたより少なかった。わしは、盛実が倒れた辺りを黙って見つめる政忠の隣に立った。
わしは政忠の方を見ずに尋ねた。
「隠岐守は誰が討った」
「私の隊の者でございます。ただ、取り囲んだ時にはすでに倒れておりましたので、誰の槍が先に届いたのかまでは分かりませぬ」
「ならば、隊で討ったとしておけ。誰の手柄かで揉めるより、その方がよい」
「心得ました。……それにしても、皆に笑われずに済みました」
「何の話だ」
「獣道でございます。夜にあそこを登りながら、足を滑らせれば皆に笑われると思うておりました。もっとも、死んでしまえば笑われても分かりませぬが」
昼過ぎには焼けた柵の修理が始まり、守りの兵も持ち場に就き始めた。わしが本丸の曲輪から麓を見下ろすと、山を取り巻く六角の旗が見えた。
隣に来た政澄へ、わしは麓を顎で示した。
「これで佐和山は橘のものだな。五万疋も頂ければ、出陣の支度に使った銭は取り戻せよう」
政澄は麓には目を向けず、曲輪の端に残る焼けた柵を見ていた。
「まずは、あれを直す材木が要ります。城の蔵も半分焼けておりますから、守備の兵の米も運ばねばなりませぬ」
「取ったばかりだというのに、もう銭の使い道が決まるか」
「兵を置く以上、食わせぬわけにはいきませぬからな」
後ろで聞いていた高晴が口を挟んだ。
「五万疋を頂けたら、わしはまず具足を新調したいものです。今度の攻めで、胴の紐が三本も切れました」
「茂兵衛殿、あの具足は紐が切れる前から古かったではないか」
「兵庫助殿にまで言われては、替えぬわけにはいきませぬな」
重尚は皆の話に耳を傾けながら、手元の帳面に何やら書き付けていた。
わしは重尚の帳面を覗き込んだ。
「右近、何を書いておる」
「城の蔵に残った米と、焼けて失われた分です。持参した兵糧と合わせて、あと何日もつか勘定しております」
「どれほどもちそうだ」
「城の米を足しても、そう長くはもちませぬ。麓から荷が届かねば、浅井が来る前に尽きかねませぬ」
兵糧が長くはもたぬと聞いて、皆も浮かれてばかりはいられなくなった。
夕方、本丸へ上がってきた定秀は、わしの前で足を止め、焼けた曲輪を見渡した。
「橘殿の働きは、しかと見届けました。御屋形様にもお伝えいたす」
「城と知行の件は、いつお決まりになりますか」
「観音寺へ戻ってからでございますな。まずは、この城の守りを固めていただきたい」
定秀はそう言い残し、後藤の陣へ向かって山を下りていった。
* * *
六月の末、北の尾根に現れた浅井の旗が日ごとに増え、ついに麓の六角勢の陣へ兵が押し寄せた。本丸の曲輪から見下ろすわしの前で、陣の一つが崩れ、兵が南へ退いていく。佐和山へ米を届けるはずの荷駄も引き返し、その後に続いていた。
重尚が帳面を手に駆け寄ってきた。
「橘殿、南の道から荷が届かなくなりました。麓の味方が退き、人足も引き返しております」
「米はあと何日もつ」
「このまま荷が届かねば、幾日ももちませぬ。焼けた柵の修理も、まだ半分でございます」
曲輪の端から戻った政澄が、わしに告げた。
「兄上、北の尾根を進んできた浅井勢が、この曲輪の下まで迫っております。今夜にも攻め上がってくるやもしれませぬ」
「守り切れるか」
「柵の修理が済んでおらぬ所が、まだ幾つもございます。そこを破られれば、本丸まで一気に押し込まれましょう」
そこへ、定秀の使いが息を切らせながら登ってきた。
使いは膝をつくなり、早口で定秀の命を伝えた。
「麓では持ちこたえられぬため、南へ退いて陣を立て直すとのことです。佐和山を守る兵も、今夜のうちに山を下りるようにと」
「後藤の陣はどうなっておる」
「但馬守様は南の道の入口を押さえ、橘勢が下りてくるのを待つと仰せでございます」
使いを下がらせ、南へ続く道を見下ろした。今ならまだ下りられるが、明朝には浅井勢に塞がれているかもしれぬ。城内へ目を戻すと、直したばかりの柵が目に入った。城を取ってまだひと月も経たず、焼けた柵もようやく半分を直したところだ。
わしは政澄へ向き直った。
「兵庫助、まず手負いを下ろせ。右近は退く道を確保しろ。茂兵衛と左近は、兵を順に下がらせよ」
「城を捨てられるのですか」
「ここで皆を失えば、朝霧へ帰る者がおらぬ。退くぞ」
政澄は黙って頭を下げ、曲輪を駆け下りた。その夜、手負いを先に南の道へ下ろし、兵も順に退かせた。重尚の隊が曲がり角ごとに兵を通し、山の上からの追撃に備える。最後に高晴と政忠の隊が本丸を離れる頃には、北の曲輪に浅井勢の松明が見えていた。
南の道の入口では、賢豊が待っていた。後藤の兵が道の両脇を固め、下りてくる橘勢を守りながら通している。
わしは賢豊の前で馬を止めた。
「但馬守殿、お手数をおかけしました」
「隣同士であろう。それに、弥三郎殿を置いて退いては、綾に何と書けばよいか分からぬ」
「それは、わしも困りますな。春に何と言えばよいものやら」
賢豊は橘の兵が全員通り過ぎたのを確かめると、自らの兵を率いて南へ退いた。
* * *
七月初め、麓の六角勢の陣で、浅井勢が佐和山へ入ったと聞いた。朝霧へは来た時と同じ道を戻ったが、城も知行も五万疋も得られず、荷車には手負いの兵が乗り、穂先の欠けた槍や紐の切れた具足が積まれていた。
政澄が傷んだ荷を馬の背に積み直しながら言った。
「五万疋は、もう当てにできませぬな」
「手に入らぬうちから、使い道を決めるものではないわ」
「城も、頂けるつもりでおりましたな」
「……それもだ」
後ろからは、高晴と政忠が具足の紐について話す声が聞こえた。政忠が笑いながら答える合間に、重尚も帳面から顔を上げずに口を挟んでいる。やがて朝霧の屋敷に着くと、門前で待っていた春が手負いの人数を聞き、女中を奥へ走らせた。
わしは馬を降り、春の前に立った。
「城は取ったが、守り切れなんだ」
「兵は連れてお戻りになりましたか」
「ほとんどはな」
「では、まず手負いの者の手当をいたしましょう。城のお話は、その後で伺います」
春は返事を待たずに屋敷へ戻っていった。わしも高晴たちに命じて兵を兵舎へ帰らせた。今夜のうちに、手負いの者の名簿と今月の給金の帳面を揃えておかねばならぬ。




