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近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第四章 戦国大名への道

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第107話 これが江野だ

 永禄二年(えいろくにねん)(1559年)、二月。

 山城国(やましろのくに)、愛宕郡(おたぎぐん)、京、御所。


 藤孝(ふじたか)の案内で外の間へ戻ると、俺たちを待っていた政基(まさもと)たちが立ち上がった。


 政基は俺の顔をうかがいながら尋ねた。

「十兵衛様。いかがでございましたか」

「思ってたより、公方様(くぼうさま)としてしっかりしてたな」

「それを御前(ごぜん)で口になさらず、何よりにございます」


 真顔でそう返され、俺は口を閉じた。


 俺が帰り支度をしている間に、光秀(みつひで)は藤孝の前へ進み出て頭を下げた。

「兵部大輔殿(ひょうぶだいふどの)。本日は御取次(おとりつぎ)いただき、ありがとうございました」

「明智殿。また何かあれば、声を掛けてくだされ」

「ありがとうございます。その折は、よろしくお願いいたします」


 光秀は別れ際にも、次に声を掛けられるよう話を繋いでいた。俺なら会釈(えしゃく)だけで帰っていたところだ。


 御所を出ると、信長(のぶなが)は宿へ戻らず、京を見て回ると言い出した。

「せっかく京まで来たのだ。公方様に会うだけで帰ってはつまらぬ。まずは禁裏(きんり)の辺りを見て、それから東へ足を延ばす」

「まだ歩くのかよ」

「都には興味がないと申しておったが、少しは見て回ってから言え」

「見るのはいいが、どこまで行くんだ。いつまでも歩き回るのは勘弁してくれ」

「その先は決めておらぬ。気の向くままに行くつもりだが、もう弱音か」

「どこまで行くかくらい、聞いてもいいだろ」


 後ろで政基が僅かに眉を寄せた。どこまで歩くか分からないのでは、警固の段取りも立てにくいだろう。それでも何も言わず、俺たちの後に続いた。まずは禁裏へ向かい、中へは入らず、門や築地(ついじ)を外から眺めた。


 信長は築地の向こうへ目を向けた。

「親父殿は、ここの修理に四千貫(よんせんかん)を出したそうだ。尾張(おわり)から、わざわざ銭を運ばせてな」

「四千貫か。今の俺でも、そう簡単には出せないな」

「それだけ出せば、名も残る。守護(しゅご)でも守護代(しゅごだい)でもない親父殿の名が、京にまで知れ渡ったのだからな」

「上総介殿(かずさのすけどの)も出すのか」

「今は出さん。ほかに銭の使い道がある」

「そこは同感だな」


 信長が横目で俺を見た。

「お前なら、何に使う」

「今なら道と港だな。まずは銭が入るように整える。人に配るのは、その後だ。入ってくる当てがなければ、いずれ続かなくなる」

「親父殿とは、銭を使う順が逆だな」

「名が広まったなら、出した甲斐はあったんだろ。俺は名を売るより先に、道や港を整えておきたいんだ」


 背後から、玄以(げんい)の控えめな咳払(せきばら)いが聞こえた。

「十兵衛様。禁裏の前でございますので、銭のお話はその辺りになさいませ」

「悪く言ったつもりはないぞ。四千貫は大金だって話だろ」

「余計なことを仰る前に、お止めしたのでございます」

「俺を何だと思ってるんだ」

「御自覚がないのでしたら、なおさらお止めせねばなりませぬ」


 信長は声を立てて笑うと、禁裏を離れ、東山(ひがしやま)へ向かった。寺を一つずつ見て回る気はないらしく、そのまま清水寺(きよみずでら)を目指した。


 仁王門(におうもん)を抜け、境内(けいだい)を進んだところで、思わず歩みが緩んだ。……見覚えがある。建物も周りの様子も、前世で訪れた清水寺とは違う。それでも、山の斜面に広がる境内から京の町を見渡す景色には、覚えがあった。


 一番違うのは、そこにいる人々だった。前世で訪れた時は外国人観光客でごった返していたが、今は町人や百姓、僧侶、武家の者が行き交っている。門前では商人が声を張り上げ、子連れの女が手を合わせる傍らで、旅装(りょそう)の男たちが腰を下ろして休んでいた。


 転生して、もう何年も経つ。それでも、見覚えのある場所に立つと、今歩いているのが本当に四百年以上前の京なのだと、改めて実感した。


 信長が横から声を掛けた。

「十兵衛。あれほど嫌がっておったが、来た甲斐はあったであろう」

「おかげでな。公方様に会うより、こっちの方が楽しめたよ」

「本人の前で口にしなかったのは、褒めてやろう」

「俺だって、言っていい場所くらいは選ぶよ」


 信長は鼻で笑うと、眼下(がんか)に広がる京の町へ視線を移した。

「この寺へ参るために、これだけの者が山を上がってくるのか。門前の店や飯屋、宿も、その人出に支えられておるのだろうな」

「何百年も人が参ってきた寺だからな。江野に一つ建てたところで、これだけの人は呼べない。門前に店や宿を並べるにも、まずは人が来る理由が要る」

「寺へ来ても、商いのことを考えておるのか」

「上総介殿も、同じことを考えてただろ」

「わしが見ておったのは人の方だ。銭はついでじゃ」

「その人が銭を使うんだろ。大して変わらないな」


 後ろで聞いていた光秀が口を挟んだ。

「十兵衛様。この人出なら、門前を通る者は一日に千人を超えるやもしれません」

「九郎まで人の数を見てたのか。……いや、よく気が付いたな」

「江野の御堂前と比べられるよう、人出や店の様子も控えておこうかと存じます」

「帰ってから役立てるつもりか。真面目だな」

「仰せの通り、よその様子を確かめているだけにございます」


 信長は俺たちのやり取りを聞き、口元を緩めた。

「明智。商いのことまで調べておるのか」

「見ておくよう、命じられておりますので」

「十兵衛も、面白いことをさせておるな」


 光秀は何も答えず、一礼した。清水寺を出た後も、俺たちはしばらく京の町を歩いた。公家(くげ)の屋敷や商人、職人の家を通り過ぎ、店の並ぶ寺の門前を抜けていく。だが、通りを外れると、焼けた後も建て直されず、空き地のままになっている場所もあった。


 信長は運ばれる荷の出どころを聞き、寺に関わる者や、分かれ道の行き先まで確かめていた。玄以は知っていることには答え、分からないことは後で調べると請け合った。


 途中、同じ紋を付けた具足(ぐそく)姿の一団が、通りを歩いてきた。店の主人は慌てて外へ出て頭を下げると、いったん奥へ戻り、小さな包みを持ってきて差し出した。


 信長もそれに気付き、足を止めた。

「あれは何だ」

「店から銭を強請(ゆす)っているのでしょう。ああして顔を見せ、繰り返し取り立てるのでございます」


 玄以の答えを聞いた信長は、それ以上近づかず、隣の店先へ目を向けた。一団は主人から包みを受け取ると、そのまま通りを進んでいった。


 俺は思わず口の端を上げた。前世でテレビか何かで見た光景を思い出したのだ。地回(じまわ)りが縄張(なわば)りの店へ顔を出すと、主人が銭を差し出す。京にも、同じような連中がいるらしい。


 政基が俺の顔を見て尋ねた。

「十兵衛様。どうかなさいましたか」

「いや、何でもない。京らしいなと思っただけだ」


 政基は怪訝(けげん)な顔をしたものの、それ以上は尋ねなかった。俺も通りに並ぶ店や、行き交う荷車へ目を戻した。長く人が集まってきた京には、昔からの付き合いも、顔の利く者もいる。江野や朝霧でうまくいったやり方を持ち込んでも、そのまま通るとは限らない。


 * * *


 京からは、堺(さかい)まで足を延ばした。町には海から届いた荷や、畿内(きない)から運び込まれた米、材木が並び、その間を商人たちが行き交っていた。荷の多さが目に付き、京とはまた違う賑わいを見せていた。


 信長は通りを眺めながら尋ねた。

「堺には前にも来たのであろう。知った商人はおるか」

「彦八郎(ひこはちろう)という商人を知ってる。堺の商いなら俺より詳しいぞ。寄ってみるか」

「どのような男だ」

「南蛮商人(なんばんしょうにん)にも顔が利き、堺の納屋(なや)とも繋がってる。話は早いが、油断すると向こうに有利な条件で話がまとまるぞ」

「気に入っておるのか、警戒しておるのか」

「両方だな。だから、会うなら気を抜くなよ」


 信長は少し考えてから、首を振った。

「いや、今日は町を見て回るだけにしておく。商人と話し込めば、それだけで日が暮れる」

「そうか。なら、寄るのはやめよう」

「警戒しろと言う割には、随分と褒めておったな」

「褒めたのは商いの腕だ。人柄の話はしてないぞ」


 彦八郎の店には寄らず、町を見て回った後、堺を発った。京の宿へ戻り着いた頃には、すっかり日が暮れていた。


 * * *


 その夜、宿の門を激しく叩く音に身を起こした。ほどなく政基が部屋へ入ってきた。

「十兵衛様。尾張から来た者が、上総介殿に火急(かきゅう)の用があると申しております」

「尾張から、こんな時間にか」

「はい。金森殿(かなもりどの)への取次を求めております。名はまだ確かめておりませぬ」


 政基とともに信長の宿へ向かった。通された部屋では、すでに男が信長の前に膝をつき、報告を始めていた。丹羽兵蔵(にわひょうぞう)と名乗り、志那(しな)の渡しで出会った者たちについて話しているところだった。


 信長は兵蔵に続きを促した。

「どこの者が、何人おった」

「美濃(みの)の者が、供を含めて三十人ほど。うち頭立(かしらだ)った者は五、六人にございます。志那の渡しで同じ舟になり、某(それがし)は三河(みかわ)の者と偽って話を合わせました」

「わしを討つ相談でもしておったか」

「はい。鉄砲で狙うとの話を耳にいたしました。その後も後を追い、京の二条蛸薬師(にじょうたこやくし)近くにある宿へ、全員が入るのを見届けております」

「一人で、よう追った。その宿へ案内できるか」

「はい。暗い中でも見分けられるよう、左右の門柱を少し削って目印を付けておきました」


 信長は兵蔵をしばらく見た後、頷いた。

「よう知らせてくれた。五郎八、お前はどう見る」


 信長が脇へ顔を向けると、控えていた金森五郎八長近《かなもりごろはちながちか》が進み出た。

「土岐家(ときけ)に仕えていた頃の縁もございますので、美濃衆なら顔を知る者がおるやもしれませぬ。夜が明ければ、確かめられましょう」

「では、夜が明けたら兵蔵と参れ。企みは承知しておると伝えてやれ。逃げるようなら、追わずともよい」

「承知いたしました」


 話が早い。……いや、待て。俺は信長に尋ねた。

「捕らえないのか。居場所が分かってるなら、今から宿を囲めるだろ」

「捕らえてどうする」

「誰の命令で来たのか、京で誰と会い、どこで鉄砲を揃えたのかを聞き出す。その上で処断する」

「首を刎ねるか」

「俺を殺しに来た奴なら、そうする」


 信長は面白がるように俺を見た。

「お前が狙われた時は、そうせよ。これはわしの客だ。扱いはわしが決める」

「刺客を客扱いするのか」

「生かして帰せば、企みが漏れておったと美濃へ伝わる。次に刺客を送る者も、少しは考えよう。斬ってしまえば、代わりを送り込まれるだけだ」

「治部大輔への当てつけか」

「安く済ませておるだけだ」


 信長はそこで話を切り、長近と兵蔵に刺客の泊まる宿の場所を確かめ始めた。狙われている本人がそう決めた以上、俺が勝手に捕らえるわけにはいかない。だが、俺が狙われたのなら、生かしては帰さない。


 政基が声を落として告げた。

「十兵衛様。我らも警固(けいご)を増やします。上総介殿を狙っているとはいえ、御一緒している我らも巻き込まれかねませぬ」

「頼む。裏口のほか、外から宿を狙える場所も確かめてくれ。鉄砲があるなら、近づかずに撃ってくるかもしれない」

「承知しました。十兵衛様も、今夜は宿からお出になりませんよう」

「こんな夜中に、どこへ出歩くっていうんだよ」

「そう仰っていただければ、安心にございます」


 美濃衆と聞いて以来、口を閉ざしていた光秀に、俺は声を掛けた。

「九郎。何か心当たりはあるか」

「名を聞かねば、誰かは分かりません。ただ、それだけの人数を美濃から送り、上総介殿を狙わせたのであれば、治部大輔殿の意向によるものかと存じます」

「だろうな」

「十兵衛様。一つ、確かめておきたいことがございます」

「何だ」


 光秀は少し間を置いてから口を開いた。

「私の名が伝われば、江野にいることも治部大輔殿に知れましょう。それでも、よろしいのでしょうか」

「知られていいとは言わないが、隠し通すのも無理だろう。お前が江野にいることは、いずれ知れる」

「承知いたしました。でしたら、私のことはお気になさらず」


 話を聞き、警固の段取りを確かめているうちに、空が白み始めた。夜が明けると、長近は兵蔵を連れて、美濃衆の泊まる宿へ向かった。


 * * *


 朝になり、美濃衆が小川表(おがわおもて)へ出たと報せが届いた。信長も立売(たちうり)からそちらへ向かうという。わざわざ狙っている連中の前へ出ていくのか。俺なら夜のうちに捕らえていたが、信長がどう出るのか見たくなった。玄以を宿に残し、政基と光秀を連れて、信長の一行の後を少し距離を置いてついていった。


 道の先に、美濃衆の姿が見えた。

「三十人ほどか。兵蔵の言ってた通りだな。真ん中の五、六人が頭に見えるが、九郎はどう見る」

「中央にいる者たちは、供の者とは具足も差料(さしりょう)も違います。右の二人は、上総介殿から目を離しておりませぬ」

「真ん中の男はどうだ」

「周囲の様子も確かめております。仕掛ける合図は、あの男が出すのではないかと存じます」

「始まる前から、詳しい解説だな」

「十兵衛様。お二人で、何をなさっておいでなのですか」


 俺は呆れた顔の政基に答えた。

「実況と解説だ」

「何のことでございますか」

「俺が様子を伝えて、九郎がそれを解説するんだ」

「黙って御覧になれませぬか」

「それじゃ、弦十郎の出番がなくなるだろ」

「私の役目は、お二人を黙らせることではございません」


 信長は俺たちのやり取りなど構わず、美濃衆へ近づいていった。

「上総介殿が前に出たぞ。おっと、右から二人目が刀に手を掛けた」

「まだ抜いておりませぬ。隣の者に袖を引かれ、手を止めました。合図を待てということでしょう」

「右から仕掛けようとしたが、味方に止められたわけか」

「十兵衛様。その言い方は、どうにかなりませぬか」


 美濃衆の一人が半歩前へ出ると、政基が僅かに腰を落とした。

「弦十郎。こっちへ来る奴だけ頼む。織田方へ向かった奴は、向こうに任せよう」

「承知しました。十兵衛様も、前へはお出になりませんよう」

「今日は見てるだけだよ」


 その時、美濃衆の一人が信長からこちらへ視線を移し、光秀に目を留めた。


 男の顔から血の気が引いた。

「九郎。どうやら、あいつはお前を知ってるな」

「……私にも見覚えがございます。明智城(あけちじょう)攻めに加わっていた者かもしれません」


 男が隣の者に何か囁くと、その男も光秀へ目を向けた。

「一人から二人に伝わったな」

「十兵衛様。いちいち数えずとも結構にございます」

「まだ広がるぞ。ほら、三人目だ」

「見物となれば、随分と楽しそうでございますな」

「人聞きが悪いな。相手の動きを見てるだけだ」


 美濃衆がざわめき始め、その中から漏れた声がこちらまで届いた。

「……明智十兵衛」


 光秀は何も答えず、相手を真っすぐ見返した。義龍(よしたつ)方にしてみれば、明智城の落城後に姿を消した男が、北伊勢の橘に付き従っている。しかも、その橘は信長と一緒だ。どういう繋がりなのか、気になるだろう。


 だが、美濃衆が光秀に気を取られている間にも、信長は近づいていた。その目の前で足を止め、声を掛けた。

「わしを討つために、わざわざ京まで来たそうだな」


 刀に手を掛けていた男も、動きを止めた。

「右も中央も止まったな。九郎、どう見る」

「宿も企みも知られ、戸惑っておるのでしょう。誰が漏らし、どこまで伝わっているのかも分かりませぬから」

「ここで最初に抜けば、そいつが首謀者にされかねないな」

「はい。誰も先には動きたくないかと」

「それで互いに様子見か」

「十兵衛様。どうか今だけは、お静かにお願いいたします」


 政基の声が一段低くなったのを聞き、俺も口を閉じた。


 信長はさらに一歩近づいた。

「若造どもが、わしを討つか。蟷螂(とうろう)の斧とは、このことよ。わしはここにおる。討てるものなら、討ってみよ」


 誰も刀を抜かなかった。先頭の男が僅かに後ずさり、信長がさらに一歩詰めると、隣の男も下がった。


 俺は声を落とした。

「……押し切ったな」

「ここで前へ出れば、斬り合いになります。頭立った者が動かぬうちは、供も続けませぬ。もはや仕掛ける機会は失ったかと存じます」

「分かりやすい解説だったよ、九郎」

「どういたしまして、とお答えすればよろしいのでしょうか」

「お二人とも、終わるまでは黙っていてください」


 結局、どちらも刀を抜かないままだった。いつの間にか通りには京の者たちが集まり、成り行きを見守っていた。


 俺なら首を刎ねる。だが、信長はこいつらを生かして帰すつもりだ。美濃へ戻れば、企みを見抜かれた上、目の前の信長に手も出せなかったことを、隠し通すのは難しいだろう。信長が背を向けて歩き出しても、斬りかかる者はいなかった。


 戻ってきた信長が、俺たち三人へ目を向けた。

「十兵衛。先ほどから何を騒いでおった」

「上総介殿と美濃衆の動きを見てた。九郎に聞くと、詳しく解説してくれるからな」

「私は、十兵衛様のお尋ねに答えていただけにございます」

「私は何度も、お静かにと申し上げておりました」


 信長はしばらく俺たちを眺め、鼻で笑った。

「見世物を見に来たつもりか」

「見物だって、最初から言ってたぞ。こっちに来る奴がいたら、弦十郎に任せるつもりだったしな」

「十兵衛様。もう少し言い方をお考えください」


 信長は光秀へ目を向けた。

「明智。名を呼ばれておったな」

「はい」

「美濃に知れても構わぬか」

「こうして御一緒しておれば、いずれは知れましょう。いつまでも隠せることではございませぬ」

「十兵衛の家中は、この程度では動じぬ者ばかりか」

「動じてはおります。ただ、顔に出さぬよう努めております」


 信長は短く笑っただけで、それ以上は尋ねなかった。


 * * *


 翌朝、京を発った俺たちは、近江(おうみ)に入り、守山(もりやま)、相谷(あいだに)を経て八風峠(はっぷうとうげ)を越えた。道中は雨に降られることもあったが、伊勢側へ下りれば、そこからは見慣れた道が続く。江野に着いた日は、すでに日が傾いていた。


 俺は信長へ声を掛けた。

「もう日も暮れる。今夜は泊まっていけ」

「供だけでも八十ほどおるが、皆まとめて泊められるか」

「湯の山(ゆのやま)に、前に六角の大殿を迎えるために造った館(やかた)がある。主屋(おもや)のほかに供が泊まる棟も厩(うまや)もあるから、八十人なら泊められる」

「ならば、世話になろう。お前の造った館も見ておきたい」


 江野へ初めて入った信長は、湯の山へ向かう間も妙に口数が少なく、馬上から店先や行き交う荷車、蔵の様子を眺めていた。商人が客を呼ぶ声に鍛冶場の槌(つち)の音が交じり、荷を担いだ男たちが行き交う傍ら、荷を積んだ馬が蔵へ入っていく。以前より人も荷も増えた町は、日が傾いても賑わっている。


 これだけ往来が増えても道が塞がらないよう、店の荷を道の真ん中まで広げることは禁じ、荷車を止める場所も決めてある。前の荷車が道脇へ寄って荷を下ろし始めたが、馬や車が通れる幅は空いており、後ろの車は止まらずにその横を通り抜けていった。


 信長は通り抜けていく荷車を目で追い、俺へ声を掛けた。

「十兵衛。昔、那古野(なごや)へ来た時のことを覚えておるか」

「覚えてるよ」

「町はどうだと聞けば、騒がしい。それだけかと聞けば、歩きにくいと申したな」

「聞かれたから答えただけだ」

「その時もそう申しておったな。気に入った所も言えと促せば、店も人も多い、揉めておる横でも平気で物を売っておると、ようやく褒める言葉が出てきた」

「よく覚えてるな」

「その上、商いにはよいが歩くには邪魔だとまで申したのだぞ。わしの町をあれほど遠慮なくこき下ろした童(わらべ)は、お前くらいのものだ」


 信長は江野の通りを見渡した。

「ここも騒がしいが、荷を下ろしておっても横を別の車が通れるし、店に人が集まっても道は塞がらぬ。あの時、歩きにくいと申した訳が、ようやく分かったわ」

「人が増えるのはいいけど、道が塞がって荷を運べなくなるのは困るだろ。店も荷車も場所は使うから、通り道が残るように、使っていい範囲を決めたんだ」

「触れを出すだけで、これほど守るものか。那古野でも似たようなことは命じたぞ」

「触れを出すだけじゃ守らない。決めた場所以外に止めた荷車は、荷の検(あらた)めを後回しにするんだ。守った方が早く済むと分かれば、大抵は決めた場所へ動かす」

「損得で動かすか」

「触れだけで動くなら、上総介殿も苦労してないだろ」


 信長は片眉を上げた。

「那古野の賑わいは欲しいが、気に入らぬ所まで真似るつもりはないか」

「自分で町を作るんだから、不便だと思った所は直すさ」


 信長は返事をせず、町を眺めながら馬を進めた。俺はその横で、昔、那古野で見た男たちの言い争いを思い出していた。刃が出たらどうするのかと尋ねた時も、信長の答えはずいぶん雑だった。


 ――尾張だ。


 やがて信長は、あの時と同じように俺へ横目を向けた。

「十兵衛、これは何だ」


 信長が何を聞いているのかは分かった。俺も通りへ目を向けた。店では商いが続き、働く者たちの傍らを荷車や荷を担いだ男が行き交っている。静かでもなければ、綺麗に整えて眺めるための町でもない。


 俺は信長に答えた。

「これが江野だ」


 信長はわずかに口元を上げ、そのまま何も言わずに湯の山へ馬を進めた。館に着くと、供の者たちは主屋の前に留まらず、左右へ分かれた。館の者が人数を確かめて宿泊棟へ案内する傍ら、厩番が乗馬と荷駄(にだ)の馬を分けて引いていく。


 信長は馬上から出迎えの様子を眺めていた。

「案内も慣れておるな。これも触れで決めてあるのか」

「迎える時の手順は決めてある。自分のやることが分かっていれば、慌てずに済むだろ」

「わしの城でも真似をせよと申すか」

「押し付ける気はないよ。さっきから何度も聞くから、気になるんだろうと思っただけだ」

「相変わらず、口の減らぬ童だ」

「今さら気付いたのか」


 信長は笑うと、宿泊棟へ向かう供の列に目をやり、館へ入っていった。


 * * *


 翌朝、まだ朝靄(あさもや)の残る館の前では、出立を控えた信長の供が列を整え、厩から出した馬に荷を積んでいた。玄以が前夜のうちに朝食と道中の食料を用意してあり、支度は滞りなく進んでいる。


 馬に乗る前に、信長が江野の方を振り返った。

「十兵衛。今度は、もう少しゆっくり見に来る」

「それなら先に知らせてくれ。いきなり八十人も連れてこられたら、迎える方も支度が要る」

「昨日は泊められたではないか」

「昨日は何とかなっただけだ。飯も飼葉(かいば)も、勝手に湧いてくるわけじゃないぞ」

「分かった。次に来る時までに考えておく」

「考えるだけじゃなくて、来る前に知らせろよ」


 信長は笑って馬に乗り、供を連れて東へ向かった。俺は館の前で、最後の荷駄が湯場の道を曲がるまで一行を見送った。

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