第106話 信長と上洛
永禄二年(1559年)、正月下旬。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
机に帳面を広げて筆を走らせる俺の傍らで、政基と光秀が別の書付を見ながら話し込んでいた。
政基が書付から顔を上げ、俺の手元を見た。
「十兵衛様。先ほどから、何を書いておられるのでございますか」
「もう始末した奴と、これから始末する奴の名簿だ」
「……名簿でございますか」
光秀も話をやめ、俺の手元の帳面を横から覗き込んだ。
酒井吉規。
笠松正綱。
その下には、滅ぼした家の当主や処断した者の名が続き、後ろの方には盛信も記してある。ここまでに並んでいるのは、すでに片が付いた者たちだ。
政基は帳面に並ぶ名を見て、眉を寄せた。
「物騒なものを書き残されますな」
「便利だぞ。誰を片付けたか、一目で分かる」
「わざわざ帳面にせずとも、お忘れにはならぬかと存じますが」
「そういうものか」
俺は特に取り合わず、筆に墨を含ませた。帳面の空いたところへ、これから始末する二人の名を書き加えると、政基の表情が変わった。光秀も黙ったまま、その名を見つめている。
政基が声を落として尋ねた。
「……十兵衛様。このお二人も始末なさるのでございますか」
「ああ。来年のうちにな」
「いつなさるかも、すでにお決めなのでございますか」
「いつやるかまでは決めていない。ただ、長く先延ばしにするつもりはない」
二人は顔を見合わせた。書き加えた名を見て、先ほどのような軽口は言えなくなったらしい。
光秀が帳面から目を上げ、俺へ尋ねた。
「新九郎殿にも、お見せになるのでございますか」
「見せるかどうかは、状況を見て決める。だが、この二人は新九郎に任せず、俺たちの手で始末する」
「十兵衛様も、御自ら出られるのでございますか」
「ああ、俺も行く」
俺は帳面を閉じた。気になるのは、二人を消した後に何が起きるかだ。歴史はこれまでもずいぶん変えてきた。それでも、知っている人物や出来事を手掛かりに、先を読めるところは残っていた。この二人まで消せば、その見通しもさらに当てにならなくなる。
さよなら、現代日本で覚えた戦国時代。ここから先は、俺の知らない歴史になる。
考えを巡らせていると、廊下を近づいてくる足音に続いて、声が掛かった。
「十兵衛様。尾張から御使者が参っております」
「誰だ」
「佐久間と名乗っております」
……今さら、信行の件を蒸し返しに来たんじゃないだろうな。
客間へ入ると、尾張から来た佐久間右衛門尉信盛が一礼した。
「橘十兵衛殿にございますな」
「はい。佐久間殿の御高名は、かねて伺っております。上総介殿の御家中を長く支えておられると」
「恐れ入ります。我が主、上総介の命で参りました。十兵衛殿を清洲へお連れするようにとのことでございます」
「どのような御用か、伺っておられますか」
「某は、お連れせよとだけ申し付かっております。ただ、できるだけ早く、とも仰せつかっております」
「お急ぎのようですね。分かりました。支度を整え次第、向かいます」
信盛は用件を明かさないまま、一礼して下がった。急いで来いと言われても、何の話か分からないのでは気が重い。わざと伏せているなら、こちらへの当てつけかもしれない。
* * *
それから数日後、清洲へ入った。
信盛に案内されて奥へ進むと、信長が待っていた。
「十兵衛。近く、京へ上るつもりだ」
「そうですか。それはよろしいですね」
「お前も一緒に来い」
「なぜ某まで行くのですか」
何で急に、俺まで行く話になるんだ。
信長は、当然だと言わんばかりに続けた。
「お前も、そろそろ都で顔を売ってよかろう。北伊勢では名が通っていても、京では橘を知らぬ者の方が多い」
「興味ありませんね。今の公方様といえば、朽木へ逃れたり、六角を頼ったりしていた御方でしょう。お会いして、某に何の利があるのですか」
「……今の言葉を、本人に聞かせるなよ」
「さすがに、御本人には言いませんよ」
「公家と知り合う機会にもなるぞ」
「そちらは、なおさら結構です。会ったところで、銭が減るだけでしょう」
信長は呆れた顔で俺を見た。
「お前は都を何だと思っておる」
「金の掛かるところです。今は京で顔を売るより、北伊勢をまとめる方が先です。城も道も直している途中ですし、取った土地を放って行く理由がありません」
「北伊勢は、しばらく動かん。少し留守にしたくらいで崩れはせぬだろう」
「戦がなくても、領内でやることは残っています。放っておけば、締めるべきところまで緩みますよ」
公方や公家への挨拶を勧めるだけなら、俺が断ったところで話は終わるはずだ。それなのに、用件も知らせず江野へ使者を出し、ここまで呼び寄せた。ほかに狙いがあるのだろう。
俺は信長に尋ねた。
「某を同行させることで、何をなさるおつもりですか」
「ほかに狙いがあると見るか」
「顔を売れというだけなら、ここまでして呼ぶ必要はありません。一緒に京へ入れば、織田と橘が近いと見られます」
「橘だけで済む話ではない、ということか」
「はい。某は六角方です。六角と織田の間にも話が付いていると受け取る者が出るでしょう」
「それでよい」
信長は狙いを隠そうともせず、言い切った。
「わしだけなら、尾張の上総介が御目通りに来た、それだけだ。お前が一緒なら、北伊勢とも争っておらぬと分かる。そこから何を読み取るかは、京の者どもの勝手だ」
「それなら、なおさら困ります。某は織田家の家臣ではありません。上総介殿に従って上京したと見られれば、右衛門督殿にも説明しなければなりません」
「家臣と名乗れとは言っておらぬ」
「名乗らなくても、そう見られる恐れがあるという話です」
「だからこそ、お前を連れていくのだ」
信長には、俺と一緒に京へ入ったという事実だけで十分らしい。俺が本当に織田へ従っているかどうかは、さほど重要ではないのだろう。
俺は条件を確かめるように言った。
「六角と織田の話を進めるためなら、某も動きます。ただ、上総介殿の立場を良く見せるためだけに使われるのは困ります」
「お前にも利はある。桑名を押さえた橘十兵衛が何者か、京ではまだ知られておらぬ。今、公方様に顔を見せておけば、後に都へ用ができた時、話を通しやすくなる」
「利は分かります。ですが、今すぐ行く必要はないでしょう。右衛門督殿のお話もなく同行すれば、独断で織田に近づいたと見られかねません。今回はお断りします」
信長はしばらく俺を見ていたが、驚いた様子はなかった。断られることも織り込み済みだったのだろう。
「ならば、この間の勘十郎の件を、もう一度持ち出してもよいぞ」
……その話まで持ち出してくるか。
俺は信長を見返した。
「その話を持ち出せば、上総介殿もお困りでしょう。某が何を見て、なぜあの部屋に入ったかまで話せば、織田家中にも余計な噂が広がります」
「ならば、互いに黙っておればよい」
「その代わりに、京へ同行しろということですか」
「そういうことだ」
信行を逃がした件を持ち出されれば、俺も無関係では済まない。信長にとっても伏せておきたい話だろうが、それを理由に、こちらが関わったことまで知らないふりはできなかった。
しばらく考え、俺は折れた。
「……分かりました。同行します。ただし、六角方の橘として参ります。織田家の一員として扱わないでください」
「構わん。織田の者と名乗れとは言わぬ」
「では、一度江野へ戻り、支度を整えます」
「よい。桑名で落ち合おう」
京へ同行することだけ決め、清洲を後にした。
* * *
江野へ戻ると、まず玄以を呼んだ。
「孫十郎、上総介殿と京へ行くことになった。滞在中に使う銭を百貫、予備にもう百貫用意してくれ」
「急なお話にございますな。銭は、もう少し御用意した方がよろしいのではございませぬか」
「必要なところには出すが、顔を売るためだけに銭を撒くつもりはない」
「承知いたしました。御挨拶に必要な品も用意しておきます」
「頼む。お前も同行してくれ。寺や公家の作法を確かめたいし、銭の使いどころも、その場で相談したい」
「かしこまりました」
続いて、光秀に声を掛けた。
「九郎、お前も来い」
「承知しました」
「京の者を相手に、お前がどこまで動けるか見ておきたい。幕府の者と話す機会があれば、顔と名前も覚えておけ」
「いずれ、京との取次もお任せいただくのでございますか」
「必要になるかもしれない。その時になって一から人を探すのでは遅いからな」
「かしこまりました」
政基が、自分の役目を確かめた。
「十兵衛様。私はどういたしましょう」
「お前にも来てもらう。護衛を何人連れるかも、道中の警固も任せる」
「承知しました。泊まる宿も、先に確かめさせます」
「頼む」
品物と銭の帳面は玄以がまとめ、護衛と道中の段取りは政基が整えていった。二人のほか、光秀と護衛の兵も連れていく。京で顔を売ることには今も大して興味がない。だが、行くと決まった以上、何も見ずに帰るつもりはなかった。
* * *
桑名で信長の一行と合流し、八風峠へ向かった。前日の雨で轍には水が残っていたが、車輪が深く沈むところはない。荷車の列はほとんど止まらず、順調に進んでいた。
信長が馬上から道を見た。
「お前のお陰で、道中が楽になった。桑名へ入ってからは、宿も兵糧もすぐに話が付く」
「俺の領地だからな」
「だが、雨の後でも轍が浅いのは、それだけではあるまい」
「緩むところを固め直して、砕いた石を敷いてる。短い区間で試したら前より長持ちしたから、使えるところから広げてる」
「道にまで、それほど手を掛けるか」
「雨のたびに荷車が沈んだら困るだろ。商人も村の荷も、戦になれば兵も兵糧も通る道だ。道が悪ければ、どれも遅れる」
信長は、後ろに続く荷車の列を振り返った。
「荷を早く運べれば、兵も早く動かせるか」
「ああ。ただ、道幅を広げるだけじゃ駄目だ。水が溜まって崩れれば使えなくなる。造った後も、直し続けないとな」
「誰に任せておる」
「普請方だ。人足、大工、石工、鍛冶に、荷車方や牛馬方も普段から抱えてる」
「道のために、それだけの者を養うのか」
「道だけじゃない。橋や溝、蔵や工房の普請も任せてる。仕事のたびに村から人を集めるより、ずっと早い」
先の道を見ていた政基が、馬を寄せてきた。
「十兵衛様。この先は道が狭くなります。道端にはまだ柔らかいところがございますので、お気をつけください」
「分かった」
政基が後ろへ声を掛け、荷車を一列にさせた。それを見た信長は、前へ向き直って言った。
「桑名からここまで、誰に気兼ねすることもなく進める。お前を連れてきた甲斐があった」
「それも目当てだったのか」
「使えるものは使う」
「清洲では言わなかったな」
「言えば、なおさら渋ったであろう」
「それはそうだな」
峠道に入ると風が強まった。雪の残る木立の間に荷車の音と馬の足音を響かせながら八風峠を越え、相谷、守山を経て京へ入った。
* * *
宿に着くと、御目通りに必要な品と銭を確かめに玄以を出した。光秀は翌日の取次について話を聞きに向かい、政基は宿の出入口や裏手の道を見て、護衛を置く場所を確かめていた。
先に戻った玄以が帳面を開き、報告した。
「公方様への御挨拶の品は整いました。今のところ、用意した百貫から多くを出さずに済んでおります」
「それでいい。銭は必要な時だけ出してくれ。予備の百貫も、使わずに済めば持って帰る」
「承知いたしました」
少し遅れて戻った光秀も、聞いてきたことを報告した。
「御目通りは明日にございます。御前へ上がらぬ供は、外の間で控えるようにとのことです」
「武具はどうする」
「中へ入る前に預けることになっております」
「分かった」
政基も、道の確認を終えて報告した。
「宿から御所まで見て参りました。帰りも同じ道を使えますが、万一に備え、別の道も確かめております」
「着いたばかりで、そこまで見てきたのか」
「十兵衛様の御供にございますので」
「分かった。明日も頼む」
「承知しました」
* * *
翌日、信長とともに公方の御所へ向かった。
細川兵部大輔藤孝が取次に出て、信長に声を掛けた。
「上総介殿、御案内いたします」
藤孝は俺たちの後ろにいる供の者へ目を向けた。
「御供の方々は、外の間でお待ちくだされ。武具はこちらでお預かりいたします」
光秀は一礼してから、藤孝に確かめた。
「承知いたしました。護衛の者も、同じ間で控えてよろしゅうございますか」
「構いませぬ。そなたは何と申す」
「明智九郎にございます。橘十兵衛様の供として参りました」
「明智殿か。では、こちらへ」
光秀は藤孝に必要なことを確かめ、政基たちへ控える場所を手短に伝えた。初対面の相手でも、話を滞りなく進めている。
刀を預けた俺に、政基が声を掛けた。
「十兵衛様。私は外の間で控えております」
「頼む」
「くれぐれもお気をつけください」
「分かった」
政基たちを外の間に残し、俺と信長は藤孝の案内で奥へ向かった。
御前の間では、伊勢兵庫頭貞良や一色式部少輔藤長ら幕臣がすでに座を占めていた。俺と信長も案内された場所に座り、藤孝は上段に近い位置へ下がる。誰も口を開かず、衣擦れと庭の遠い水音だけが聞こえていた。
しばらくすると、奥で人の動く気配がし、公方の出座を告げる声が掛かった。
「公方様、御出座にございます」
幕臣たちが一斉に頭を下げ、信長も深く頭を垂れた。俺も頭を下げると、襖が開き、近習を従えた公方が上段へ進んだ。顔を伏せているため、姿はよく見えない。衣擦れの音だけが近づき、やがて止まった。
公方が声を掛けた。
「面を上げよ」
低く、よく通る声に促され、信長とともに頭を上げた。上段に座しているのは、室町幕府第十三代征夷大将軍、足利義輝だ。まだ二十代の半ばにも届かないが、居並ぶ幕臣を前にした姿には、これまで会ってきた国人や大名とは違うものを感じた。
義輝は、まず信長に声を掛けた。
「上総介。よう参った」
「はっ。御目通りを賜り、恐悦にございます」
「尾張のことは聞いておる。浮野では岩倉方を破ったそうだな」
「はい。あの戦で岩倉方の力を大きく削ぎました。長くは持ちこたえられぬと見ております」
「だが、今川も尾張を狙っておろう。美濃にも目を配らねばならぬのではないか」
「今川に尾張を譲るつもりはございません。美濃の治部大輔とは、互いの動きを見ておりますが、岩倉を残したまま北へ目を向けるつもりはございません」
義輝は信長の答えを聞き、さらに尋ねた。
「岩倉を片付けたからといって、尾張が静まるわけでもあるまい」
「仰せの通りにございます。ですが、内に敵を残して外へは動けませぬ。まず尾張を固め、今川と美濃の動きに備えます」
「その最中に、京まで来たのか」
「尾張の中だけを見ていては、その先を考えられませぬので」
義輝の口元が僅かに緩んだ。やがて話は美濃や今川から畿内の情勢に及び、義輝は信長の考えを探るように問いを重ねた。信長も話を広げすぎず、問われたことにははっきりと答えた。
俺は黙って二人の話を聞いていた。信長は挨拶だけで済ませるつもりはないらしい。尾張の外も見据えていることを、義輝に直接伝えに来たのだろう。
やがて義輝は俺を見て、信長に尋ねた。
「ところで上総介。そなたの隣におる者は誰だ」
「北伊勢の橘十兵衛にございます。六角に属する者で、わしの家臣ではございませぬ」
「橘……」
義輝は俺に声を掛けた。
「そちが橘十兵衛か。北伊勢では随分と働いたそうだな」
「お耳に入っておりましたか。恐れ入ります」
「そちがもう少し早く余に加勢しておれば、三好ごときに遅れを取らずに済んだものを」
「もう少し早くと仰せになりますと、五年ほど前でございましょうか」
「うむ。その頃なら、ちょうどよかった」
五年前の俺に、か。
俺は頭を下げて答えた。
「当時は伊勢へ兵を出し始めたばかりで、上方へ回す余裕はございませんでした」
「余が直々に頼んでもか」
「はい。某は六角家に属する身でもございます。右衛門督殿のお許しがなければ、独断で兵を動かすことはできません」
「では、六角に話を通した上で、余が兵を出せと命じればどうする」
咎める口調ではなかった。どこまで言えば俺が応じるのか、試しているようだ。俺はその問いに答えた。
「そこまで仰せになるのであれば、兵を出すことはできます。ただ、その時は三好に代わって、橘の旗が都に立つことになるかと存じます」
藤孝をはじめ、何人かの幕臣が俺へ目を向けた。信長は何も言わず、口元だけを緩めていた。
義輝はしばらく俺を見つめ、小さく息を漏らした。
「……それは困るな」
「恐れ入ります」
「早く来ておればよかったとも、言い切れぬわけか」
義輝が笑い、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「上総介」
「はっ」
「面白い者を連れてきたものだ」
「左様にございましょう」
信長が俺を見ると、義輝も再びこちらへ顔を向けた。
「十兵衛。次に京へ上った折も、顔を見せよ」
「畏まりました。御目通りをお許しいただけましたら、また御挨拶に伺います」
「うむ。兵は連れてこずともよいぞ」
「承知いたしました」
居並ぶ幕臣たちから、小さな笑いが漏れた。
義輝は藤孝に声を掛けた。
「兵部大輔。二人を送ってやれ」
「承知いたしました」
俺と信長は、もう一度深く頭を下げた。
「本日は御目通りを賜り、誠にありがとうございました」
「うむ。下がってよい」
立ち上がり、藤孝の後に続いて御前を退出した。襖が閉じた後も、外の間へ戻るまでは誰も口を開かなかった。俺たちの姿を見て、待っていた政基たちが一斉に立ち上がった。




