第103話 武田家の親子
永禄元年(1558年)、五月。
甲斐国、山梨郡、府中、躑躅ヶ崎館。
木曾を発ってから数日、俺たちは躑躅ヶ崎館へ入った。飛騨から木曾を抜けて甲斐まで、随分と遠くへ来たものだ。館に高い石垣や天守はないが、門の内では書付を運ぶ家臣や、荷を改める者が行き交っている。旅先で道や湯の話をしていた晴信が、ここで武田家の政務を取り仕切っている。
用意された部屋で荷を下ろし、政基が正吉を連れて馬を見に出ると、俺はしばらく休むことにした。その間、光秀は木曾から甲斐までに通った道や宿、川を渡った場所を帳面に整理していた。休んだ後、俺は光秀だけを連れて晴信のもとへ向かった。
部屋へ通されると、晴信は家臣から受け取った書付に目を通していた。二枚ほど読み、その場で指示を与えて家臣を下がらせてから、俺たちに座るよう促した。
「飛騨からここまで来たのだ。今日は休んでおるかと思っておったぞ」
「せっかく甲斐まで来たのですから、大膳大夫殿に聞いておきたいことがあります」
「何を聞きたいのだ」
「甲州法度之次第についてです」
晴信は書付を片付ける手を止め、俺へ顔を向けた。
「甲斐の法度まで知っておったか」
「いくつか耳にしただけで、詳しいことまでは知りません」
前世で読んだことはあるものの、条文をすべて覚えているわけではない。法度の内容は後からでも調べられるが、それぞれの決まりを設けた理由は、本人に聞ける今のうちに確かめておきたかった。
俺は晴信に、法度の何を知りたいのか話した。
「某が伺いたいのは、法度の内容よりも、それぞれの決まりを設けた理由です」
「どの決まりについて聞きたいのだ」
「まず、棟別銭についてです。逃亡や死亡で家が減った後も、減った家の分まで郷に残った者へ負わせるのはなぜですか」
「家が一軒減るたびに、こちらで改めておっては切りがない。誰が逃げたか、誰が死んだか、新しい家がどこに建ったかも、同じ郷の者ならすぐに分かる」
家の増減を調べるなら、郷の者に任せる方が早い。だが、それと減った家の分まで残った者に払わせることは別だ。
「十軒のうち一軒が逃げ、さらに戦で二軒焼けたら、残る七軒で十軒分を払うのですか」
「新たに家が増えておらねば、そうなる」
「それでは、払えずに逃げる者が出るほど残った家の負担が増し、さらに逃げる者が出ませんか」
「そこまで家が減れば、負担を改めることもあろう」
「では、家がどれだけ減ったか、誰がいつ確かめるのですか」
「郷から申し出があれば確かめる」
郷から申し出がなければ、家が減っても帳面には反映されない。俺はその点を晴信に尋ねた。
「申告だけで負担が減るなら、口裏を合わせる者も出ます。逆に、本当に減っても認められなければ、七軒で十軒分を払い続けることになります」
「ならば、時折こちらから確かめる」
「某なら、最初に基準を決める時は念入りに調べます。その後は、前年から大きく変わった村や、訴えの多い村を確かめ、毎年すべての村を調べることはしません」
「村役人が口裏を合わせたらどうする」
「抜き打ちでも調べますが、すべては見抜けないでしょう。ただ、郷の者に調査と負担の割り振りを任せても、人手が要ることは同じです」
晴信が否定せずに聞いているので、俺は家ごとの負担の違いにも話を進めた。
「それに、奉公人を抱える大きな屋敷と、貧しい小屋から同じ額を取れば、貧しい家ほど負担が重くなります」
「家ごとの財まで調べるのか」
「財を隅々まで調べなくても、暮らし向きの明らかに違う家には、負担に差をつけられるでしょう」
「その分、帳面をつける手間が増えるぞ」
「ええ。ですが、払えずに逃げた者を追い、潰れた家を調べる手間と、どちらが大きいかです」
戦が続けば、家が減る一方で、戦費や普請の負担は増えていく。十軒で十を納めていた郷が十五、二十を求められる頃には、戦禍や逃亡で八軒しか残っていないかもしれない。
俺は晴信に、さらに徴収を増やせばどうなるか尋ねた。
「徴収を増やして逃げる者が出れば、残った家の負担も増します。取る額を増やすほど、払える家が減りませんか」
「逃げることを許せと申すか」
「逆です。逃げてから捕まえるより、ここに残った方がましだと思えるようにしたいんです」
「家を基準に取るのが悪いと申すわけではないのだな」
「ええ。ただ、決めた額にこだわって家を潰せば、先々取れるものもなくなります」
晴信は手元の書付へ目を落としたが、片付けずに俺の話を待った。
「……まだあるのであろう。申してみよ」
「次は喧嘩の扱いです。私闘を抑えるために厳しく罰する考えは分かります。ただ、一方的に襲われた者まで、抵抗したことで罰せられるなら問題でしょう」
「何でも同じに罰するわけではない」
「では、誰が先に手を出したか、調べる必要がありますね。書付だけでは判断できませんし、被害を受けた側も罰を恐れれば、訴えを控えるかもしれません」
「訴えずに耐えると申すか」
「いえ。人目を避けて、自分たちで報復するでしょう」
人前での喧嘩が減っても、陰で身内を集めて報復し合うなら、争いが収まったことにはならない。
晴信はそれでも、私闘を厳しく罰する必要があると答えた。
「それでも、好き勝手に斬り合うよりはましだ」
「そこは否定しません。ただ、田の境や銭の貸し借り、水を引く順番で揉めたのなら、殴り合った者を罰するだけでは、また争いになるでしょう」
「争いの元になったことは、別に裁けばよい」
「ええ。まず村や町で事情を聞き、そこで収まらない争いや、重いものを上へ持ってくればいいと思います」
「すべての喧嘩に、こちらから人を出すわけではないのだな」
「全部は無理でしょう。ただ、放っておけば繰り返す争いは、原因まで調べて裁く必要があります」
厳しい処罰を恐れて、仲裁をためらう者も出るだろう。俺は喧嘩を止めに入った者の扱いへ話を移した。
「止めに入って自分まで罰せられるくらいなら、離れていた方が安全だと考える者も出るでしょう」
「仲裁した者まで罰する必要はない」
「ええ。ただ、争った者と止めた者を分けるにも、何があったか確かめる人は要ります」
晴信は少し考え、俺に向き直った。
「そなたの話を聞いておると、わしの法度が穴だらけに思えてくるな」
「欠点のない法度はないでしょう」
「そう言いながら、欠点ばかり挙げるではないか」
「気になったことを伺いに来たので」
晴信は脇の銭を一枚取り、俺に示した。
「では、悪い銭はどう扱う」
今度は撰銭か。俺は晴信の示す銭を見ながら、商人がそれを受け取るかどうか考えた。
「銭を選り分けずに使えと命じても、損をする商人が従うとは限りません」
「だから、撰銭を禁じるのだ」
「ですが、売買のたびに、どの銭を受け取り、どれを拒んだか確かめられますか」
「見つければ罰する」
「見つからなければ続けるでしょう。それに、駿河や信濃から来る商人まで、甲斐の禁令だけで従わせられますか」
悪銭をすべて排除すれば、良い銭だけでは数が足りず、品物があっても売買が滞るかもしれない。
俺は晴信に、どの銭を使えるものとして扱うか、自分の考えを伝えた。
「悪い銭をすべて除けば、数が足りなくなります。役銭として受け取る銭と、市場で使われている銭を見比べ、質の悪すぎるものだけ除きます」
「どの銭を除くかは、誰が決めるのだ」
「商人にも話を聞いた上で、某が決めます」
「商人は己に都合のよいことを申すぞ」
「一人の話だけでは決めません。桑名や堺、近江で多くの銭を扱う商人から、それぞれ話を聞きます」
「それでも、領主が値を誤れば、国中の者が損をする」
「だから、決めたままにはしません。市場の変化を確かめて、必要なら見直します」
晴信が銭を小箱へ戻して絵図を引き寄せると、俺もそこに描かれた釜無川の川筋へ目を向けた。
「治水についてですか」
「そうだ。そなたならどうする」
「堤だけで大水を抑え切ろうとはしません。守る場所を決め、溢れた水は被害の少ない方へ逃がします」
「そなたも、川と正面から争うつもりはないか」
「大水になれば、こちらが勝てる相手ではないでしょう」
この点では考え方が近いらしい。とはいえ、土木の専門家でもない俺には、水の逃がし先や堤の造り方までは分からないので、それ以上は口を出さなかった。
晴信は絵図を畳む手を止め、俺に改めて尋ねた。
「十兵衛。そなたは甲州法度之次第をどう思う」
「それぞれの決まりを設けた理由は分かります。ただ、その理由が今も通じるのか、従うことで困る者が出ていないかは、調べる必要があるでしょう」
「問題があれば、すぐに法を変えるのか」
「すぐに変えるつもりはありません。ただ、欠陥が分かったなら、放っておくべきではないでしょう」
「これまでの法を信じて動いた者もおるぞ」
「だからこそ、改める前に調べます。法を破った者だけでなく、法を守ったために困った者の事情も確かめます」
棟別銭を巡る郷の揉め事や喧嘩の沙汰、市場での悪銭の扱いを調べれば、俺が懸念した問題が実際に起きているか分かる。起きていなければ、その理由も確かめたい。俺は晴信に、何を改めるかは、そうした事情を調べてから決めると伝えた。
晴信は俺の話を受けて尋ねた。
「わしに法度を改めよと申すのか」
「改めるかどうかは、大膳大夫殿がお決めになることです」
「逃げたな」
「よその国の法まで、某が勝手に決めるわけにはいきませんよ」
晴信は法度を手元へ引き寄せ、廊下に向かって呼びかけた。
「誰かおるか」
晴信は入ってきた家臣に、近年の沙汰や訴えを、棟別銭、喧嘩、銭の扱いに分けて集めるよう命じた。家臣が下がってから、俺は晴信に尋ねた。
「本当に調べるんですか」
「あれだけ欠点を指摘されては、確かめずにはおけぬ」
「法度を改めるかは、それからですか」
「当然だ。そなた一人の言葉で国法を変えるわけにはいかん」
それでいい。俺が指摘したのは、仕組みの上で起こり得る問題だ。甲斐で実際に起きているかまでは知らないので、まず確かめてもらう必要がある。
晴信が次を尋ねようとした時、廊下から誰かを引き止める声が近づいてきた。戸が開き、若者が顔を出す。
「親父だけ、面白そうなことやってんじゃん」
俺より少し年上に見えるが、顔よりもその喋り方が気になった。晴信は法度から手を離し、額を押さえている。
「……愚息だ」
「愚息とか超ウケる」
何だこいつ。返事に迷っていると、晴信が若者に挨拶を促した。
「太郎。こちらは伊勢の橘十兵衛殿だ。挨拶せよ」
「どもっす」
武田太郎義信か。晴信の嫡男の名は知っていたが、こんな喋り方をするとは思わなかった。戸惑いながらも、俺は名乗った。
「橘十兵衛です」
「へえ。で、こいつ何者?」
「今、名を申したではないか」
「名前じゃなくてさ。親父と何をそんな真面目に話してんの?」
義信は法度にちらりと目をやり、俺へ向き直った。
「まあいいや。十兵衛ちゃん、ちょっと借りるわ」
「待て、太郎」
「すぐ返すって」
俺は物か。光秀を部屋に残したまま廊下へ連れ出され、義信と並んで歩いていると、向こうから話しかけてきた。
「十兵衛ちゃんって、俺よりちょい年下だよね」
「そうですね」
「よく親父とあんな話してられるね。楽しい?」
「聞いておきたいことがあったので」
「途中から親父に試されてたの、分かってた?」
「次々と問いを出されたことなら」
「そうじゃなくてさ。十兵衛ちゃんが何を当然だと思って話してるのか、探ってたんだよ」
義信は軽い口調のまま、晴信とのやり取りについて続けた。
「調べる人がいて、帳面もあって、商人にも話を聞ける。十兵衛ちゃん、そういうものが揃ってる前提で話すじゃん」
「だからこちらも、大膳大夫殿が誰に調べさせ、何を頼りに判断するのか聞いていました」
「うん。親父に、そっちだって人手は要るでしょって返したの、面白かったよ」
どこから聞いていたんだ。ふざけた調子で入ってきたが、話の中身はよく分かっているらしい。俺は義信に感心したことを伝えた。
「よく見ていますね」
「見てりゃ分かるよ。てか、十兵衛ちゃんって結構めんどくさいよね」
「初対面で、よくそんなことを言えますね」
「だって、相手が間違ってると思ったら、そのまま言うでしょ」
「必要なら言います」
「で、それでも相手が動かなかったら、もっと詳しく説明する?」
こちらの意図が伝わっていないと思えば、説明を重ねることはある。だが、伝われば必ず相手が動くとまでは考えていないつもりだった。
俺は言葉を選んで義信に答えた。
「場合によります」
「でも、正しいって分かってもらえれば、そのうち動いてくれると思ってない?」
「そこまで単純には考えていません」
義信は少し歩調を緩めた。
「でも、十兵衛ちゃんが正しいからって、相手が言うこと聞く理由になる?」
すぐに答えが出ずにいると、義信は返事を待たずに続けた。
「正しい方を選んだら、その人が得するようにすればいいじゃん」
「得になるからといって、誰もが動くわけではありません」
「じゃあ、安心できるとか、褒めてもらえるとか、好きな奴に喜んでもらえるとか。その人が欲しいものを理由にすればいいじゃん」
「相手が何を望んでいるのか、いつも分かるんですか」
「分かんない時もあるよ。だから、話してもらって探るんじゃん」
「話してくれない相手なら、どうするんです」
「十兵衛ちゃんは、こっちが聞かなくても喋ってくれるから楽だよ」
俺が説得しようと話す間に、向こうは俺の考え方を探っていたらしい。言い返そうとした時には、義信はもう門の方へ顔を向けていた。
「十兵衛ちゃん、伊勢から来たんだっけ。海あるじゃん、いいなあ。俺、こんなクソ田舎で暮らすの、マジで耐えられないわ」
「今は伊勢にいることが多いですね。ですが、甲斐も栄えている方だと思いますよ」
「は? ここで栄えてる方なの? どんだけ田舎から来たんだよ」
「ここの城下より、ずっと小さな村ですよ」
「じゃあ、十兵衛ちゃんから見たら都会じゃん」
「それは、どういう理屈ですか」
さっきの話をもう少し聞きたかったが、義信は甲斐の暮らしへの不満を並べている。そこへ若い男が近づき、義信に耳打ちした。
「マジで? 誰が来たの?」
男の話を聞いた義信は、すぐに向きを変えた。
「ああ、はいはい。分かった、今行くわ」
急に話を切り上げて行こうとする義信を、俺は呼び止めた。
「何か用ができたんですか」
「指名が入ったんだよ」
「何の指名ですか」
「俺じゃなきゃ嫌だってさ。悪いね、十兵衛ちゃん。仕事だから、また今度」
義信は何の仕事かも説明せず、男と一緒に行ってしまった。俺が晴信の部屋へ引き返す途中、書付を抱えた小柄な少年が道を譲ってくれた。
その少年に、廊下の先から声が掛かった。
「源五郎、こちらへ来い」
少年が声の方へ急ぐのを見送り、俺も晴信の部屋へ戻った。晴信の前にはまだ法度が開かれており、俺の姿に気づくと、義信のことを詫びた。
「愚息が迷惑を掛けたな」
「いえ。変わった方ですね」
「昔は、あそこまでひどくなかったのだがな」
「先ほど、指名が入ったと言っていました。何のことでしょう」
「あれが町で妙なことを始めおってな。気にせんでよい」
詳しく話す気はないらしいので、俺もそれ以上は尋ねなかった。代わりに、廊下で義信から言われたことを思い返した。
「話はよく分かっておられるようですね」
「……頭が悪ければ、まだ扱いやすかったのだがな」
その返事を聞き、俺も義信の話はそこまでにした。
翌日、甲斐を発つ俺たちを見送りに出た晴信が、南へ抜ける道を示した。
「湯島では、下部の湯も知っておると申していたな。帰りに寄っていけばよかろう」
「ええ。下部に寄ってから、駿河へ抜けて帰るつもりです」
「そうか。道中、気をつけよ」
馬に乗る前に、一つ思い出して晴信を振り返った。
「ああ、大膳大夫殿。一つだけ」
「何だ」
「啄木鳥は、あまり信用しない方がいいですよ」
「……啄木鳥とな?」
「では、これで失礼します」
俺はそれ以上説明せず、皆とともに躑躅ヶ崎館を後にした。
* * *
下部で一泊し、翌朝、駿河へ向かった。山を抜けるにつれて人や荷の往来が増え、駿府では布や紙、酒、油、薬種を扱う店の前を、人足や荷馬が行き交っている。寺社も目につき、前世で聞いた「東国の京」という呼び方を思い出した。
町の賑わいに加え、橘の酒がどこで誰に売れているかも見ておきたい。駿河には以前から甲賀の者を入れ、酒も流していたが、これまでは帳面や商人の話で売れ行きを知るだけだった。
俺は政基に、宿を決めた後、町へ入る荷も確かめるよう頼んだ。
「弦十郎。又四郎と宿を決めて、馬と荷を預けてくれ。その後、町へ運び込まれる荷を確かめてほしい」
「何を運んでいるかだけでなく、どこから来たかも、ですか」
「ああ。特に西から来る荷と、海路で届く荷を頼む」
「では、宿に馬と荷を預けてから調べてまいります」
政基と正吉を見送り、俺は光秀と通りの店を見て回った。やがて、店先に見覚えのある形の壺を見つけ、足を止めた。
俺は店先の壺を示し、光秀に尋ねた。
「九郎。あれは、うちの酒じゃないか」
「はい。橘のものですね」
江野から出している酒が、少しずつ並んでいた。遠い土地で自分たちの品を見るのは妙な感じがする。聞けば値は江野より高いが、運び賃を考えれば当然だ。どの酒がよく売れるのだろう。
俺は店の者に、よく売れる酒を尋ねた。
「どれがよく出ますか」
「こちらでございます。旅のお方や、武家のお使いの方がよくお求めになります」
示されたのは、日持ちして輸送中も傷みにくい蒸留酒だった。遠くへ出すには向いているのだろう。贈り物にも使われるというのは、売れた数だけでは分からなかったことだ。
店を離れてから、光秀が酒の並ぶ店先を振り返った。
「十兵衛様。駿河へ出す酒を増やされますか」
「伊勢や桑名でも注文が増えているから、ほかの売り先との割り振りを考えないとな。蔵にどれだけ余裕があるか、帰りに駿河から何を運べるかも確かめてからだ」
昼過ぎに宿へ入り、政基たちが荷を置いて町へ出た後、一人の男が訪ねてきた。見た目は商人の供だが、駿河へ入れている甲賀の者だった。
俺は男を部屋へ通し、酒の売れ行きを尋ねた。
「座ってくれ。まず、こちらで酒がどう売れているか聞かせてほしい」
男の話では、駿府や街道沿いから、清酒より蒸留酒の方が遠くまで売られているという。桑名から酒を運ぶ九鬼の船は定期的に清水へ入り、そこで売る分を降ろし、残りは伊豆や東へ向かう船に積み替えていた。
海路なら陸路より早く、多くの酒を運べる。清水での荷の扱いも確かめておきたいが、まずは新たに酒を扱いたい商人がいるか尋ねた。
「二人ほど、扱いたいと申しております」
「まず、今の商人がどこまで売っているか確かめてくれ。こちらも出せる量には限りがある。売り先を増やすかは、その後で決める」
甲斐で晴信と話したばかりなので、続いて駿府での銭の扱いを聞いた。男の話と今日店先で見た様子を照らし合わせると、受け取る銭は店や商人によって違っている。これを禁令だけで揃えるのは難しいだろう。
商いの話を終え、俺は今川の動きへ話を移した。
「三河と尾張東南部の動きを、今までより詳しく調べてくれ」
「今川方の城を中心に調べますか」
「城だけでなく、街道を通る人や荷もだ。米や馬が集まったり、武具の買い付けが増えたりしたら知らせろ」
「今川が尾張へ出るとお考えですか」
「三河を押さえている以上、西へ進むことも考えるだろう。普段の往来が分かれば、動きが変わった時にも気づける。何もなければ、それでいい」
大軍を動かすには、先に兵糧や馬、武具を揃えなければならない。その準備なら、城内へ忍び込まずとも、街道や宿、市場での人や物の動きから分かるはずだ。
俺は男に、どこで情報を集め、報せをどこへ送るか指示した。
「駿府に人を集めず、三河にも増やし、尾張側にも入れてくれ。商人や旅人が出入りする場所に分け、城内は無理に探らなくていい」
「報せは、これまでどおりこちらでまとめますか」
「急報は駿府を経由せず江野へ送れ。今川がまとまった兵を集める、三河から西へ大量の兵糧が動く、尾張東南部で人の出入りが急に増える。そうした時だ」
「承知しました」
既に商人が行き来し、酒の販路もある。甲賀の者がその往来の中で普段の荷を調べておけば、軍勢が出る前に変化を知らせられるだろう。
男が下がった後、光秀が俺に尋ねた。
「随分と東の動きを気にされますな」
「今川と織田がいつまでも動かずにいるとは限らない。兵が動いてから慌てるより、今のうちに調べておいた方がいい」
「それだけの理由でございますか」
「今はな」
光秀はそれ以上尋ねず、俺も先のことまでは話さなかった。
翌朝、俺たちは清水へ向かった。駿府から東へ進む道では、俵だけでなく箱や樽を積んだ馬も目についた。港に着くと沖にも船が見え、浜では荷の積み下ろしが続いている。陸へ上げられた荷は、すぐに運び出されるものもあれば、その場に置かれるものもあった。
隣で荷の積み下ろしを見ていた正吉が、桑名との違いを尋ねた。
「違いはあるが、船から荷を下ろし、仕分けて運ぶのは同じだ。荷の置き場が足りなければ下ろせないし、蔵までの道が悪くても滞る」
俺は運ばれる荷を目で追い、港の奥へ目を向けてから政基に頼んだ。
「弦十郎。又四郎と、荷の置き場や、そこから駿府へ運ぶ道を確かめてくれ」
「陸へ上げた荷の運ばれる道を辿ってまいります」
二人を見送り、俺は光秀と港を歩きながら、橘の酒を扱う商人にも話を聞いた。酒は九鬼の船で従来どおり樽のまま届くため、割れ物ほど気を遣わずに済むという。清水向けの荷と、伊豆や東へ送る荷では、下ろした後の扱いも違っていた。
駿府の店先だけでは、船と陸の間を誰が取り次ぎ、次の船までどこに荷を置くかは分からない。桑名の荷の扱いや、いずれ四日市を整える時にも役立つので、確かめておきたい。
商人の話を聞き終える頃には日が傾き、俺は港を見渡して光秀に声を掛けた。
「そろそろ戻るか」
「江野へお戻りになるのですか」
「ああ。今度こそな」
飛騨から木曾を経て、甲斐、駿河まで足を延ばした。長い寄り道になったが、帰れば今回見聞きしたことをもとに、酒の出荷量や帰りに運ぶ荷を相談できる。俺たちは清水を離れ、江野を目指して西へ向かった。




