第102話 会いに行く相手
永禄元年(1558年)、四月。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
清洲から戻り、冬を越して春になった。あの時は六角の使いで出向いたはずが、信長が襲われていると勘違いし、河尻や青貝と斬り合ってしまった。実際は信長が弟を討とうとしており、俺たちが邪魔をしたせいで、その弟を逃がす羽目になった。
意図して助けたわけではないが、疑われたまま帰るわけにもいかず、その日のうちに橘と織田の約定を正式に交わした。河尻と青貝に負わせた傷は、桑名の商人によれば、まだ癒えきっていないという。
信長とは幼い頃からの顔見知りで、遠慮なく話せる。ただ、橘にはまだそういう相手が少なく、北は美濃までしか目が届かない。東の先も噂と地図でしか知らないが、桑名を押さえた今、伊勢の内だけを見ているわけにはいかない。用ができてから初めて会うより、こちらから出向き、相手を知って顔も覚えてもらいたい。
江野の市では、道を挟んで向き合う橘屋武具店とロドリゲス商会が、年を越しても客を集めている。田鶴の生まれも歳も分からず、新九郎の調べは続いているが、店番ぶりに危なげはない。今なら店を任せて、しばらく外を回れそうだ。
俺は絵図を広げている継潤へ声を掛けた。
「善祥坊、少し外を回ってくる」
「どちらへ向かわれます」
「飛騨だ。飛騨守殿には、一度会っておきたい」
継潤は筆を置き、絵図の北側を指した。
「三木家にございますな。商いのお話で参られますか」
「それもある。酒や油は持っていけるし、桑名に入る荷も増えた。飛騨で何に値が付くか、向こうで聞いてみようと思う」
飛騨の商いも道も、桜洞に構える三木飛騨守良頼を通さねば動かない。桑名へ揚がった荷を陸路でどこまで運べるのか、商人が飛騨へ通じる道をどう使っているのかは、江野で話を聞くだけでは分からない。自分でその道を通り、確かめたかった。
継潤が絵図から顔を上げた。
「では、三木家へ先触れを出し、迎えていただける日取りを確かめましょう。飛騨は雪が長く残りますゆえ、道の様子も調べておきます」
「頼む。飛騨の後は甲斐へ回るつもりだ」
「武田へも参られますか」
「ああ。大膳大夫殿にも、一度会ってみたい」
武田晴信は、後の武田信玄だ。前世では知らない方が珍しいほどの名だが、今はまだ晴信と名乗り、甲斐から信濃へ手を伸ばしている。
継潤が絵図から俺へ目を戻した。
「武田とは、何か話をまとめてこられるおつもりで」
「そこまでは決めてない。本人に会ってから考える。先に使者を出して、甲斐へ向かうつもりだから、会って話ができないかと伝えてくれ」
「承知しました。武田への使者も手配いたします」
供には政基と光秀、正吉を連れていくことにした。正吉は馬廻りに入ったばかりで、政基から道や旗、使者の扱いを教わっている。旅に出れば、江野の周りを走るだけでは覚えられないことも経験できるだろう。
贈り物の酒と油を選んでいると、光秀が控えの間から帳面と矢立を持ってきた。
「十兵衛様、道々の宿と、通った荷の数を書き留めておきます」
「頼む。次に商人を出す時、道中の日数が分かれば、荷を運ぶ費用も見積もれる」
「では、峠と川越えの場所も分けて控えておきます」
甲斐への使者を先に発たせ、数日後、支度を整えた俺たちも江野を出た。
* * *
桑名から美濃へ入り、人と荷の多い道を進んで山へ近づいた。中津川の方から北へ折れると、谷と川に沿う細い道になる。付知を過ぎて加子母へ入る頃には、向こうから来る荷馬とすれ違う場所も限られていた。
先を行く政基が馬を止め、正吉を呼んだ。
「又四郎、この先で荷馬と行き合うぞ。どこで道を譲る」
正吉が顔を上げると、荷を積んだ二頭の馬がこちらへ向かってくる。
「少し戻れば、馬を寄せられる広さがございました。そこまで下がります」
「なら、先に皆へ知らせろ」
正吉の声を受け、俺たちは広い場所まで戻って馬を寄せた。道を譲られた男たちは軽く頭を下げ、荷馬を引いて南へ下っていく。
二頭が通り過ぎると、政基が正吉へ向き直った。
「今の荷は、何が見えた」
「俵が二つ見えました。ほかは包まれておりましたので、某には分かりません」
「それでいい。分からぬ物を決めつけるな。聞ける時には荷の中身を尋ね、どこから来て、どこへ向かうのかも確かめておけ」
正吉が振り返ると、荷馬はもう道の曲がりへ差し掛かっていた。政基は進む先を指した。
「道幅だけでなく、馬を休める場所や宿、水を取れる場所も覚えておけ。次に通る時に役立つ」
「一度で、それだけ覚えるのでございますか」
「一度に全部でなくていい。通るたびに少しずつ覚えていけ」
政基が馬を進めると、俺も追い付いて声を掛けた。
「弦十郎、人に教えるのも随分板についてきたな」
「十兵衛様に長く付き合っておりますので、慣れました」
「俺を又四郎と一緒にするなよ」
横で光秀が短く笑った。俺たちは加子母からさらに北へ進み、舞台峠を越えて山間の道を行く。馬を下りて引く方が進みやすい坂も多く、川沿いへ下りては、また斜面を上がった。
道脇には伐った木が積まれ、数人がかりで太い材を転がしている。正吉は足を緩め、材の長さを目で追った。
「この山の中に、あれだけの材がございます」
「江野へ持っていければ使えるだろうな」
「ですが、この道を運ぶのでございますか」
「そこが難しいんだよ」
政基も足を止め、材の端を指した。
「あの長さの材を、さっきの曲がりで通せると思うか」
「……そのままでは通せません。担ぐにしても、人がすれ違えぬほど狭い場所がございました」
「売り物になるか考えるなら、どう運ぶかまで確かめておけ」
正吉が道幅と材を見比べる横で、光秀は矢立から筆を取り、帳面へ書き付けている。山に木があっても、通ってきた道では運び出せない。運ぶ手立てを確かめず、材の値だけ聞いて帰っても商いにはならない。
宮地を抜け、小川の方へ下ると谷が開け、川沿いに湯気の立つ集落が見えた。湯島、前世でいう下呂温泉だ。
政基が集落へ目を向けた。
「十兵衛様、湯に寄っていかれますか」
「帰りにしよう。今入ったら、動きたくなくなる」
湯島では足を止めず、そのまま北へ向かった。
* * *
桜洞では、三木家の者が門前まで迎えに出ていた。館へ通されてしばらく待つと、良頼が正面の座へ入ってくる。
三木家は二年前に古川の姉小路家を滅ぼし、飛騨のほぼ全土を手中に収めていた。今は将軍家や公家へ働きかけ、姉小路の名跡を継ごうとしているという。まだ認められた話ではないが、その名で呼んだ時の反応を見ておきたい。
良頼が座につき、俺へ声を掛けた。
「遠いところをよう来られた、橘殿」
「こちらこそ、お時間をいただき恐れ入ります。姉小路様」
良頼は脇息へ伸ばしかけた手を止めた。
「……橘殿は、わしをその名で呼ばれるか」
「はい」
しばらく俺の顔を見ていた良頼が、やがて脇息へ手を置いた。
「ならば、そのままでよい」
「分かりました」
良頼から名跡の話は出ず、俺もそれ以上は触れずに、持参した品を前へ出させた。
「酒と油にございます。ご挨拶の品として持って参りました」
「橘の酒か。美濃でも話は聞く」
「それなら、少しは知られているようで安心しました」
「これを飛騨で売りたいのか」
「売れるのであれば。ただ、品を売るだけなら某が来るまでもありません。橘の商人を、飛騨の商人と引き合わせていただきたいのです」
良頼は壺から目を離し、俺へ向き直った。
「商人同士をか」
「酒と油は、こうして運んで参りました。ほかにどのような品が合うかも、商人同士で確かめてもらいたいと思っております」
「飛騨へ入る商人は、美濃から来る者が多い。木曾との行き来もある」
「道中でも何度か荷馬とすれ違いました。山深い土地でも、外との行き来はあるのですね」
「何も入らぬわけではないからな」
俺は峠で見た材のことを尋ねた。
「道脇に伐り出した材が積んでありましたが、あれはどこまで運ばれるのですか」
「近くの村へ運ぶか、川へ落とすかだ。橘殿も見て来られたとおり、道が細うて、陸路では遠くまで出せぬ」
「それなら、まずは今の道で運べる酒や油から始めたいと思います。材の運び方は、商人の往来が続くようになってから考えてもよいかと」
良頼は扇の先で膝を叩き、少し考えてから口を開いた。
「何を買うかは、商人同士で決めさせるのか」
「はい。次は橘の商人を何人か連れて参りますので、その折に飛騨の商人も集めていただけませんか。互いの品を確かめ、値が合えば商いを続けてもらうつもりです」
「随分と小さく始めるのだな」
「初めから手を広げすぎて、荷を運ぶ途中で銭が尽きては困りますから」
飛騨から伊勢へ荷を運ぶには、美濃も通らねばならない。まずは既に行き来している商人と同じ道を使い、日数と費用を確かめたい。
良頼は扇を膝に置いた。
「分かった。こちらでも商人を呼んでおこう。その酒も、次は売り物として持ってくるがよい」
「お気に召しましたら、ぜひお買い求めください」
「まだ飲んでおらぬぞ」
「では、まずは召し上がっていただいてからで」
良頼が声を出して笑うと、話は荷を動かす時期へ移った。飛騨では雪が長く残り、夏と冬では使える道も荷の運び方も変わるという。
良頼は道の話を締めくくった。
「何を売るかより、いつ動けるかが先になることもある」
「では、次に寄越す商人には、荷を運べる時期もよく伺うよう申し付けておきます」
「そうするがよい。して、この後はどこへ回られる」
「湯島まで戻り、そこから木曾へ抜けます」
「ならば、湯にも入っていかれよ。旅の疲れによう効く」
「そのつもりでおりました。ゆっくり浸かってまいります、姉小路様」
今度は呼び方にも何も言われず、俺たちは館を辞した。
* * *
桜洞を離れて湯島へ戻る途中、政基が馬を寄せてきた。
「十兵衛様、先ほど飛騨守殿を姉小路様と呼ばれましたが、名跡の件までお考えでございますか」
「呼び方だけの話だよ。向こうから名跡の話が出ない限り、こっちから踏み込むつもりはない」
「では、あの名で呼ばれることを望んでおられるか、確かめられたと」
「少なくとも、嫌ではなさそうだったな。名跡のことは、向こうから話を持ちかけられた時に考える」
良頼が何を考えているのか、全部分かったわけじゃない。ただ、手を止めた後で呼び方を許したことは覚えておけばいい。政基もそれ以上は尋ねず、俺たちは日の傾く前に湯島へ戻った。
宿へ入る前から湯の匂いが鼻に届く。川と山の間に家が寄り集まっているが、前世の下呂温泉にあった大きな旅館や川沿いのホテルは見当たらず、随分と違う景色に見える。
俺は湯気の立つ川筋を眺め、つい口にしてしまった。
「おお、あの有名なホテルがないぞ」
正吉が真面目な顔でこちらを向いた。
「ほてる、とは何でございます」
「一つの宿に幾つも湯があって、宴の間や泊まる部屋も桁違いに多い宿だよ」
「それほど大きな宿をこの谷に建てたら、湯より先に飯と薪が足りなくなりましょう」
「……もういい。今の話は忘れてくれ」
光秀も政基も口を挟まない。俺もこれ以上説明するのが面倒になり、そのまま宿へ入った。
荷を置いて表へ出ると、杖をつく者や足をかばって歩く者が行き交っている。宿の裏では女が飯を炊き、薪を背負った男が橋を渡ってきた。湯治で何日も泊まれば、その間の飯も薪も要る。それが、ここまで荷を運ぶ者や宿で働く者の仕事になっているわけだ。
光秀が荷を運ぶ手を止め、俺の横へ来た。
「十兵衛様、また何か考えておられますな」
「九郎には分かるか」
「ただ湯を眺めておられる顔ではございません」
「湯もちゃんと楽しみにしてるよ。さあ、まずは入りに行こう」
政基が先に湯屋の中を検め、俺も後へ続いた。先客の男は俺よりかなり年上で、鍛えられた肩や胸を見ると武士らしい。ただ、湯に浸かっている今は、服や持ち物から素性を知ることもできない。
男がこちらへ顔を向けた。
「言葉も供の身のこなしも東国の者とは違うな。西から来たのか」
「よく見ておられますね。そちらは、どこから来られたのですか」
「東からだ」
「随分と広いですね、それだけじゃ」
「そなたも西としか申しておらぬ」
「……確かに」
互いに国も名も明かさないままだが、話しにくい相手ではなさそうだ。俺は湯へ身を沈め、何日も馬に乗ってこわばった脚が緩むのを感じた。
「これはいいな」
男は俺の顔を見て、少し笑った。
「初めてか」
「はい。ここは有馬、草津と並ぶ三名泉の一つだと聞いておりました」
「誰がそう呼んだ」
「林羅山という学者が――」
言い掛けて、羅山はまだ生まれてもいないと気付き、口を閉じた。
「……今の話は忘れてください」
「自分から名を出しておいてか」
「言い間違えました」
男が声を上げて笑った。
「妙な男だな」
「ええ、よく言われます」
傍らの政基も淡々と口を添えた。
「十兵衛様の場合、否定はできませぬな」
「弦十郎まで話に乗らなくていいんだよ」
男は肩へ湯を掛けながら、温泉の話へ戻った。
「だが、有馬や草津とここを並べる話なら、わしも聞いたことがある」
「それなら、俺が知っているのも同じ話ですね」
三名泉という呼び方は、林羅山より前からあったらしい。ともかく、羅山について詳しく聞かれずに済んだので、俺もそれ以上は触れなかった。
しばらくすると別の客が入り、縁に手をついて身体を支えながら、ゆっくり湯へ下りてきた。その様子を見ていた先客の男が、俺へ話し掛けた。
「ここは湯治の者が多い」
「やっぱり何日も泊まるんですか」
「そういう者もおる」
「それなら、飯や薪を運ぶだけでも、かなり人手が要りますね」
男が呆れたようにこちらを向いた。
「そなたは湯に浸かりながらも、銭の勘定をしておるのか」
「宿の裏でも飯を炊いていましたから。客が何日も泊まれば、その分だけ仕事も増えるでしょう」
「風情のない男だ」
「それと湯の気持ちよさは別の話ですよ。ところで、そちらはよく湯に入られるんですか」
「嫌いではない。昔、傷を負うた時に世話になったことがある」
男が自分の肩へ手をやり、俺もそこへ目を向けた。
「戦で負った傷ですか」
「ああ。傷が塞がってもしばらく身体が重かったが、湯へ入ると楽になった」
「国元の湯ですか」
「そうだ。志摩の湯という」
「甲斐ですね」
聞き覚えのある名につい答えると、男は肩から手を離し、俺へ問い掛けた。
「ほう。そなた、甲斐へ来たことがあるのか」
「ありません。これから向かうところです」
「なら、よく知っておるな」
「名を知っているだけですよ。下部の湯もありますよね」
男が俺へ向き直り、俺はまた余計なことを言ったと気付いた。
「西の者が下部の湯まで知っておるとは、誰から聞いたのだ」
「昔、甲斐に詳しい人がいて、色々と教えてくれたんですよ」
「その者の名は」
「信玄という人です。傷を負った兵をこっそり癒す隠し湯のことから、合戦の駆け引きまで、やたらと詳しくてね」
「信玄か……聞いたことのない名だ」
「そうでしょうね」
知っていたら困ると思っていると、男は眉を寄せたまま、今度は出身を尋ねてきた。
「どこの者だ」
「それを説明するのは、少し難しいですね」
「妙な知り合いだな」
「俺もそう思います」
男はしばらく俺の顔を見ていたが、それ以上は尋ねてこない。俺も肩まで湯に沈み、今度こそ余計な名前を口にしないようにした。
湯から上がる頃には、外も暗くなり始めていた。俺は帰り支度をする男へ声を掛けた。
「明日はどちらへ向かわれるのですか」
「国元へ戻るところだ」
「俺たちは木曾の方へ向かいます」
「なら、途中までは同じだな」
その日はそこで男と別れ、宿へ戻った。
* * *
翌朝、宿を出ると、昨日の男が供を連れて待っていた。湯では一人だったが、旅の間も一人というわけではなかったらしい。
男が俺たちの支度を見て声を掛けた。
「木曾へ向かうのなら、わしも同じ道だ。邪魔でなければ、しばらく一緒に参ろう」
「ええ、構いませんよ」
湯島から小川へ戻り、南の峠を目指した。乗政を過ぎて初矢峠へ入ると、男は早々に馬を下り、その供も指図を待たずに続いた。俺たちも馬を下り、手綱を取って進む。
俺は男の横へ並んだ。
「山道に慣れておられますね」
「馬の脚を傷めてまで乗っておる意味はあるまい」
「それもそうですね」
男は足元を確かめながら、道脇にも目を配っていた。水が流れた跡で道が崩れかけている所では、供に馬を一頭ずつ通させる。田や川の流れにも目を向けており、ただ通り過ぎる旅人とは見ているものが違った。
しばらく進むと、光秀が馬を引いて俺の横へ並んだ。
「十兵衛様、あの御方は旅に随分と慣れておられますな」
「俺もそう思ってた」
「供の者も、指図を待たずに馬を一頭ずつ通しております。あれは一日二日で身につくものではございません」
「東のどこかの武士ってところまでは分かったけどな」
本人がそれ以上のことを明かさないので、こちらも無理には尋ねず、宮地を抜けて舞台峠を越えた。加子母へ出て付知へ下るのは、来る時に通った道だ。
今度は言われる前に道の先へ目を向けた正吉に、政基が声を掛けた。
「少しは覚えているようだな」
「行きよりは覚えております。ただ、反対から来ると、曲がりも違って見えます」
「なら、分かれ道を見落とすなよ」
正吉は、行きに見落とした分かれ道や水場にも自分で気付くようになっていた。付知の手前では光秀に何か尋ね、二人で帳面を開いている。行きの記録と目の前の道を照らし合わせているのだろう。同行の男も時折その様子を眺めていたが、口は挟まなかった。
付知を過ぎて中津川の方へ下り、北東へ道を取ったところで、男が俺へ尋ねた。
「そなた、木曾へ用があるのか」
「知り合いがいるんですよ。前に馬を買いに来て、中務大輔殿に世話になりまして」
「中務大輔か。存外、義理堅い男だ」
「ご存じなんですか」
「多少はな」
男はそれ以上話さず、木曾路へ馬を進めた。志摩の湯だけでなく、木曾の義康についても噂以上のことを知っているらしい。供の者まで道に慣れていることから、かなり立場のある武士だろうとは考えたが、まさか俺が会いに行く相手だとは思わなかった。
* * *
木曾路を北へ進む途中で義康へ使いを出すと、泊まるくらいなら構わないと、すぐに返事が来た。日の暮れる前に館へ着くと、義康が笑いながら迎えに出てくる。
「久しいな、十兵衛殿。また馬か」
「今日は違いますよ、中務大輔殿」
「そなたのことだ。帰る時には一頭増えとるかもしれんぞ」
「良い馬がいたら考えます」
「やはり馬ではないか」
近づいてきた義康は、俺の横へ目を向けると笑みを消し、足を止めた。
「お、御屋形様!」
義康がその場で膝をつき、俺も同行の男へ顔を向けた。木曾の義康が御屋形様と呼ぶのを聞いて、湯島から二日、並んで歩いてきた男が晴信なのだと、ようやく分かった。
俺は改めて晴信へ向き直った。
「……大膳大夫殿でしたか」
「ようやく分かったか」
「東から来たとしか仰らなかったのに、分かるわけないでしょう」
「そなたも十兵衛としか申しておらぬ」
言われてみれば、その通りだ。義康は驚いた顔で俺たちを見比べた。
「十兵衛殿、御屋形様と知らずに、ここまで一緒に来たずら」
「ええ、今知りました」
晴信が何でもないことのように説明した。
「湯島で会うてな。ここまで道が同じだったので、一緒に来た」
「御屋形様、十兵衛殿の使いしか来とりませぬが、先触れはお出しにならなかったのですか」
「出しておらぬ。泊めてもらえぬなら、村の宿でも構わぬ」
「御屋形様に村の宿へお泊まりいただくわけには参りませぬ」
義康が奥へ声を張り上げると、館の中から人の走る足音や戸を開ける音が聞こえてきた。俺たちは邪魔にならないよう庭の隅へ寄り、支度が整うのを待った。
しばらくして戻った義康は、まだ驚きの抜けない顔で俺を紹介した。
「御屋形様、こちらは以前、木曾馬を求めてお越しになった橘十兵衛殿にございます」
「ほう、そなたが橘十兵衛か。名は聞いておるぞ」
「はい。どんな話をお聞きになったかは、伺わない方がよさそうですね」
「北伊勢の国衆をまとめ、桑名の湊まで押さえたそうだな。若い当主にしては、随分と手を広げるものだ」
俺は当主という言葉を訂正した。
「当主は父です。某は任された土地を治めているだけですよ」
「父の名代で桑名まで押さえたか」
「湊が商いに必要だったからです。土地を広げることが目的ではありません」
「そう言う者ほど、気付けば広げておるものだがな」
「では、この先もそうせずに済むか、見ていてください」
義康が俺へ尋ねた。
「それで、十兵衛殿。そなたはこの先、どこへ行くつもりだったずら」
「大膳大夫殿にお会いするため、甲斐へ向かうつもりでした。すでに使者も先へ出しております」
俺が話を続けるうちに、晴信の顔から笑いが消えた。
「先に出した使者は、今頃、甲斐でお返事を待っていると思います」
「そのわしはここにおるぞ。会いに行く相手と気付かぬまま、湯島からここまで一緒に歩いてきたのか」
「大膳大夫殿だとは知らなかったんですから、仕方ないでしょう」
晴信は一拍置いて笑い出した。
「使者には悪いことをしたな。それで、何を持たせたのだ」
「お会いしたいとだけ伝えました。詳しい話はお目にかかってからでいいと思い、甲斐におられるものと決めて使者を送り出したのです」
「なら、こうして会えた以上、返事を書く必要もないな。わしも明日には甲斐へ戻るが、急がぬなら一緒に来るか」
「お願いします」
「その代わり、道中では信玄とやらの話を聞かせてもらおうか」
「……その話だけは勘弁してください」
晴信が奥へ通され、俺たちも義康の用意した部屋へ入った。会ってから考えればいいと江野を出たが、その相手と二日も歩くとは思わなかった。
何を持ち掛けるかは、甲斐へ着くまでの道中で考えよう。先に送った使者には申し訳ないが、俺たちは翌朝、晴信とともに木曾を発つことになった。




