第101話 信行を逃がした日
弘治三年(1557年)、十月。
伊勢国、三重郡、江野、橘屋敷。
江野の市に新しく設けた区画へ店が入り始めた頃、桑名からシセロが来た。ロドリゲスの下で働く男で、江野に設ける商会本店の番頭を任されるらしい。屋敷へ通すと、畳に書付を広げて一角を指し、何やら話し始めた。
ポルトガル語なのは分かるが、何を言っているのかはさっぱり分からない。しばらく黙って聞いてみたものの、最後まで一言も聞き取れなかった。
俺は仕方なく、知っている南蛮の言葉を返してみた。
「ペンデホ」
「…………」
シセロの顔つきが変わった。お、通じたらしい。
隣に控えていた通詞が、言いにくそうに口を挟んだ。
「十兵衛様。それは、馬鹿という意味にございます」
「通じるのかよ。ポルトガル語じゃないだろ」
「スペインの言葉にございますが、意味は通じたようでございます」
シセロが早口で何か言い始めた。中身は相変わらず分からないが、通詞は話の途中で俺へ顔を向けた。
「かなり怒っております」
「それは声で分かる。最初からお前に訳してもらえばよかったな」
通詞を通して話を聞き直すと、ようやく用件が分かった。書付には店の間取りのほか、裏の倉と荷車の入り口まで描かれている。桑名から届いた荷を表の通りへ回さず、裏から倉へ運び込みたいらしい。
俺は書付で荷車の入り口を確かめてから、通詞に伝えた。
「道と隣の区画さえ塞がないなら構わない。荷車が何台も店先に並ぶより、その方がこっちも助かる」
「それと、店構えも他の商家とは変えたいとのことです。南蛮の品を扱う店だと、一目で分かるようにしたいそうです」
「好きにやってくれ。商売なら目立った方がいい」
その日のうちに、俺は政基を連れて店を出す区画へ向かった。江野の市には以前より店が増え、かつては空き地の方が目立っていた通りにも、今は屋根が続いている。
ロドリゲス商会が入る場所では、もう大工が仕事を始めていた。柱が二本据えられ、削り屑が地面に広がっている。指図を出すシセロの横で、俺は道の向かいへ目を向けた。そこには、まだ使われていない区画が一つ残っている。
俺はその空き地を指し、政基に言った。
「弦十郎。道の向かいも使うぞ。せっかく人が集まる場所なんだから、空いた区画も使わないとな。それに、あっちだけ派手な店を構えさせておくのも面白くない」
「店を出されるのは構いませんが、向こうと張り合うためだけに商いを始めるおつもりではありませんよね」
「ちゃんと売る物もある。作兵衛たちが今まで作った物のうち、外へ出しても困らない物を並べればいい」
「武具のほかにも、おせん殿の袋物や、喜平殿が鉄砲の手入れに使わせている道具がございますね」
「売っていい物なら、そういう物も全部並べる。槍や弓だけじゃなく、戦へ持っていく物をまとめて置いて、ここ一軒で大体揃うようにする」
工房で作ってきた物を全部売るつもりはない。試作中の物や、まだ他家へ広めたくない物もある。それでも、普通の武具に火縄、手入れ道具、縄、袋、雨除けを加えれば、一軒分の棚は十分に埋められる。
政基は、工房から店へ回す品の扱いを確かめた。
「店へ回す品には、あらかじめ印を付けておくべきかと。売ってよいかどうかまで店の者に判断させれば、いずれ間違いが出ます」
「そこは作兵衛たちと決めてくれ。鉄砲に関わる品は、喜平にも見せる」
「あとは、品数をどこまで増やされるかですね」
「まずは売ってみる。売れなければ棚から外せばいい」
店の中身はそれでいい。次は店構えだ。向かいのロドリゲス商会では、柱を塗る支度が始まっている。
俺はこれから店を建てる空き地へ向き直った。
「こっちの壁も、墨と茶色、それに緑っぽい色でまだらに塗るぞ。迷彩だ」
「その迷彩とは、何のためのもので?」
「本来は周りの景色に紛れさせて、目立たなくするためのものだ。軍用品を売る店なんだから、それらしくしないとな」
「店を目立たなくしてどうするので?」
「今回は逆に目立たせるんだ。細かいことは気にするな」
政基は口を結んだままだったが、大工へ塗り方を伝えることには反対しなかった。
正式な屋号は橘屋武具店にする。帳面や書付もその名で揃えるが、看板まで普通にするつもりはない。
俺は看板の字についても注文を付けた。
「字は太くて丸みのある形にしてくれ。道の向こうからでも読めるようにな」
「橘屋武具店、と書かれるので?」
「いや。ミリタリーショップ橘だ」
「先ほど決めた屋号はどこへ行ったので? 二つも名を付ける必要がございますか」
「格好いいだろ」
「……そういうことにしておきます」
数日もすると、道を挟んだ二軒は嫌でも目につくようになった。鮮やかな色と南蛮風の飾りを使ったロドリゲス商会。その真正面には、墨と茶とくすんだ緑で壁をまだらに塗り、太く丸い字の看板を掲げたミリタリーショップ橘がある。左右には普通の商家が並んでいるから、二軒だけが完全に浮いている。
いい感じだ。
店ができた以上、次は任せる人間が要る。品の値や売っていい物はこちらで決めるが、日々の帳面や奉公人の管理まで俺がするなら、店など増やさない方がいい。そこで書役に募集の書付を書かせ、町の掲示板に貼り出すことにした。
『未経験者歓迎。職歴年齢一切不問。給金応相談。アットホームな職場です』
書役は最後の一文に差しかかると、筆を止めた。
「十兵衛様。この、あっとほーむ、という言葉もそのまま書くのでございますか」
「そのまま書いてくれ。働きやすい職場という意味だ」
「ですが、読んだ者には意味が分からぬのでは」
「気になって聞きに来れば、それだけ人が集まるだろ」
「左様でございますか」
「たぶんな」
書付を貼り出すと、思っていたより多くの人が来た。商家勤めの者もいれば、店に立ったことのない者もいる。
欲しいのは、ただの店番ではない。俺がいなくても店を回し、銭と帳面を預かり、売っていい物と駄目な物の区別を覚えられる人間だ。その条件を先に伝えてから、一人ずつ話を聞いた。
商家で帳面を付けていたという男は、算用の話にはすぐについてきたが、火縄や鉄砲の手入れ道具を見ても用途までは分からなかった。次の男は、槍や弓には詳しかった。
だが、品揃えを説明し終えると、男は眉を寄せた。
「武具屋なら、槍や弓だけを扱うべきではありませんか。縄や袋まで売るのは、どうも……」
武具のことは分かっているが、この男は俺が作りたい店には合わない。俺は面接を切り上げ、男へ告げた。
「ご応募ありがとうございました。検討の結果、今回は採用を見送らせていただきます。今後のご活躍をお祈り申し上げます」
何人かと話したあと、田鶴と名乗る女が入ってきた。若いが歳は読めず、十代と言われても二十過ぎと言われても納得できる。身なりにも目立つところはなく、江野の通りでは人混みに紛れそうだった。
田鶴は俺の前に座り、用件を告げた。
「貼り出された書付を見て参りました。店を任せる者をお探しとか」
「そうだ。読み書きと算用が出来て、店を任せられる奴を探してる。前はどこで働いていた」
「あちこちです」
「職歴不問とは書いたけど、そこまで答えないとは思わなかったぞ」
「不問なのでしたら、問題はないのでは?」
「……まあ、そうなんだけどさ」
妙に堂々としている。紙と筆を出させると、崩しのない読みやすい字を書いた。品の数と値を並べて渡すと、合計もすぐに出してみせる。知らないことを誤魔化す様子もない。
俺は紙を脇へ寄せ、働き方について話した。
「忙しい時は休みの日にも出てもらうし、店を閉めたあとに仕事が残れば、続けて働いてもらうこともある。構わないか」
「構いません。ただ、余分に働いた分の給金は出るので? 毎日続くのは困りますけど、休みはどのくらいございます?」
「……その分の給金は出すよ。毎日残らないと店が回らないなら、人が足りないってことだし、俺も困る。休みの日数はこれから決める」
「まだ決まっていないのに、休みの日にも出てほしいと?」
「休み自体はあるんだよ。何日休めるかは、まだ決めてないだけで」
政基が横で何とも言えない顔をしている。募集を出す前に決めておけと言いたいんだろうが、まだ店を預ける者すら決まっていない。先に全部を決めても仕方ない。
田鶴は休みの話をそれ以上追及せず、品の扱いへ話を移した。
「武具には、詳しくありません」
「そこはこれから覚えてもらえばいい。知ったふりで勝手に売られる方が困る」
「では、売ってよい相手まで決まっている品もございますか」
「ある。品によっては売り先も限る」
「でしたら、品の数だけでなく、誰へ売ったかも帳面に残した方がよろしいですね」
「それも頼む。働く者の手配と品の並べ方も任せる。人数はそっちで決めていいが、何十人も勝手に増やすなよ」
悪くない。分からないことは分からないと言うし、こちらが言う前に売り先の記録まで考えている。
俺は最後に、思いついた質問を一つ投げた。
「根性はあるか」
「根性があるかは、どうやって確かめるので?」
返事に詰まった。ブラック企業の面接ではありがちな質問だが、考えてみれば根性なんてどうやって測るんだ。
俺は少し考えてから答えた。
「……嫌な客が来ても、すぐに逃げ出さないとか」
「それでしたら、多分大丈夫です」
「多分なんだな」
「まだ、その嫌な客とやらに会っておりませんので」
なるほど。この女でいい。俺が採用を伝えると、田鶴は頭を下げ、部屋を出ていった。
廊下の足音が遠ざかると、政基がこちらを見た。
「十兵衛様。なぜ田鶴殿を選ばれたので?」
「結局は顔だろ。そこらの男を店番に置いたって、こんな胡散臭い店に誰が来るんだよ」
「……先ほどまで、随分と細かく話を聞いておられましたが」
「算用も読み書きも出来る。物怖じもしないし、分からないことは覚える気がある。その上、顔もいいんだから、田鶴でいいだろ」
「顔で選んだという話は、田鶴殿にはなさらない方がよろしいかと」
「褒めてるんだけどな」
「なおさらです」
よく分からんが、田鶴には店へ入らせ、商品と帳面の付け方から覚えさせた。
数日後、新九郎が屋敷へ来た。軍用品まで扱う店を任せる以上、念のため田鶴の素性を調べさせていたのだ。
新九郎は座るなり、調べた結果を報告した。
「十兵衛様。田鶴ですが、江野へ来る前の足取りがまったくつかめません」
「お前らが調べてもか。仕えていた家や、出入りした商家は」
「いずれも辿れません。生まれも歳も分からぬままです。ただ、今のところ怪しい動きはございません」
「今は何をしている」
「店と屋敷を行き来しております。誰かと文を交わした様子も、夜に出歩いた様子もございません」
「なら、仕事に問題がないうちは店も任せるが、そのまま見張らせておいてくれ。何か掴んだら、その日のうちに知らせてくれ」
甲賀の連中が調べても分からないというのは、それはそれで妙だ。職歴年齢一切不問と書かせたのは確かに俺だが、本当に何も分からない奴が来るとは思っていなかった。
とはいえ、店の支度は進んだ。向かいではシセロが荷を運び込ませ、こちらでは田鶴が届いた品を確かめ、棚の並べ方を奉公人へ言いつけている。派手な南蛮商店も、迷彩模様の武具屋も、江野の町並みには馴染んでいない。まあ、そのうち慣れるだろう。
* * *
十一月二日、俺は政基と光秀を連れて尾張国の清須へ入り、清洲城へ上がって信長と向かい合う。
六角と織田をつなぐ話は俺が持ち出した。信長とは面識があり、互いの領分に手を出さない約束もあるから、間へ入る役は俺しかいない。ただ、観音寺で許されたのは信長の意向を確かめるところまでで、義治には条件を決めてくるなと念を押されている。
先に口を開いたのは信長だった。
「久しいな、十兵衛。北伊勢で随分と暴れたそうではないか。そういえば、今日は猿がおらんな」
「藤吉郎なら、働かせてみたところ思ったより使えましたので、千種を任せています」
「本人が聞けば怒りそうな言い草だな」
信長が俺の隣へ目を向けたので、光秀を紹介した。
「こちらは、美濃で山城守殿の下にいた明智九郎です」
「明智九郎にございます」
「山城守の下にいた明智か。美濃でその名を聞いたことがある」
「某自身は、さほどの者ではございません」
正利が生きていることも、光秀が橘へ来た経緯も、ここで話す必要はないし、信長もそれ以上は聞かず、俺が差し出した六角の書状へ目を落とした。
俺は信長に、今回の使いで任された範囲を伝えた。
「上総介殿からお話があれば聞く用意があるというところまでで、某は条件を決める権限までは頂いておりません」
「随分と曖昧な使いだな。では、右衛門督といったか、その新しい当主はどうだ」
「無能です」
「お前は六角の使いで来たのではなかったか」
「某が使いとして来たからといって、右衛門督殿が有能になるわけではありません」
信長の口元が動いたが、笑ったのか呆れたのかは分からない。俺はそのまま話を続けた。
「ただ、右衛門督殿が無能でも、大殿はおられますし、六角は近江で力を持っていますから、敵を増やすより話せる相手を残しておく方がいいでしょう」
「なら、お前も右衛門督へ従い続けるのか」
「某が仕えているのは六角の家ですし、今のところ橘と六角の利も合っていますから、それで十分です」
「利が合わなくなったらどうする」
「その時になったら考えます」
「相変わらずだな」
「先のことまで全部決めて生きているわけではありませんよ」
話がひと区切りつき、信長が六角へ返書を出すと言った後、俺たちは座敷を出て廊下を進んでいた。
城から下がろうとしたところで、俺は忘れていた用件に気づいた。
「あ」
「どうされました」
「弦十郎、父上に話した橘の用件を、まだ伝えてない」
「……戻られるのですか。上総介殿は、もう話が終わったと思っておられますよ」
「そのためにも来たんだから、戻って説明すればいい」
政基は何か言いたそうだったが、そのまま踵を返し、光秀も俺たちの後へ続く。
元の座敷へ戻ると、信長は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前、帰ったのではなかったか」
「帰るところで思い出したんですが、六角の話は終わっても、橘と織田の話はまだ残っているんですよ」
「最初に一緒に話せ」
「忘れてました」
「堂々と言うな」
俺は改めて座り直し、もう一つの用件を切り出した。
「橘と織田の間で、どちらかが他家に攻められて本当に危なくなった時だけ、出来る範囲で助け合うという約定をもう一つ結んでおきたいのです」
「共にどこかを攻める話ではないのだな」
「違います。某は六角の下にいますから、無条件の出兵は約束できませんし、上総介殿も同じでしょう。互いの事情が許す範囲で、本当に困った時だけ助け合う話です」
「そこまで言うなら、わしの下へ来れば話は早いぞ」
「某は上総介殿の下につく気はありませんから、その点はお忘れなく」
信長が答えずに脇息へ肘を置き直したところで、廊下から勘十郎が見舞いに来たと知らせる声が掛かった。
俺は信長の顔を見た。
「上総介殿、具合が悪かったんですか。そうは見えませんけど」
「……まあな。だが、余計なことは気にするな」
どう見ても元気だが、信長は俺たち三人を見回し、顎で隣の部屋を指した。
「その話は後にして、隣で待っていろ」
「まだ返事を聞いてませんよ」
「待てと言った」
案内された隣の部屋へ移ると襖が閉まり、向こうから兄弟で話す声が聞こえ始める。俺はその間、政基と光秀を相手に、約定をどう書付にまとめるか話していた。
その時、隣で何かが倒れる音がしたかと思うと、怒鳴り声に畳を強く踏む音が重なり、刀が鞘を走る音まで聞こえた。
政基が腰の刀へ手を掛けた。
「十兵衛様、これは普通の見舞いではなさそうです」
「だろうな。さっき、窮地になったら助けるって言ったばかりなんだけど」
窮地といっても、俺が考えていたのは桶狭間だったんだぞ。それがどうして、言ったその日のうちに来るんだ。
俺は立ち上がって二人に声を掛けた。
「行くぞ」
そのまま襖へ手を掛け、一気に開けた。
「大丈夫か、上総介殿!」
襖の向こうから、肩口の衣を裂かれた男が飛び出してきた。俺が反射的に身体をずらし、政基も避けると、男は俺たちの横をすり抜け、そのまま部屋を突っ切って廊下へ出ていった。
止める間もなかった。向こうの座敷へ踏み込むと、抜き身の刀を持った男が二人立っており、奥にも人影が見える。だが、まず目に入ったのは、近い方の男が持つ刃だった。
片方がこちらを向いて怒鳴った。
「退け! そこを開けろ!」
もう一人が俺たちの脇を抜けようとする中、政基が俺の前へ半歩出ると、こちらを向いていた男が切っ先を持ち上げた。
「邪魔をするなら斬るぞ!」
「先に刀を向けてきたのはそっちだろうが、この曲者が!」
俺も刀を抜いて手前の男へ斬り込むと、刃がぶつかって狭い座敷に甲高い音が響いた。横では政基がもう一人の刀を受け止め、間合いを詰めさせない。後ろから入った光秀も襖口を塞ぎ、さっきの男を追うには俺たちを突破するしかなくなった。
手前の男は、俺を倒すよりも、どうにか脇を抜けようとしていた。
「どけと言っている!」
「何で斬られそうになってる俺が、どかなきゃいけないんだよ!」
振り下ろされた刀を外へ流すと、男は身体を入れ替えて襖口へ抜けようとしたが、その先には光秀がいる。
俺は男を追いながら光秀へ声を掛けた。
「九郎、そこを開けるな!」
「承知しております!」
その時、廊下の先から声が上がった。
「勘十郎様!」
今、勘十郎と言ったか。そう思った直後、逃げていった男の声が、遠ざかりながら響いてきた。
「兄上、謀ったな!」
兄上と言った。なら、今の男は信長の弟か。
考える間もなく、目の前の男が強引に前へ出てきた。刀を受け流してそのまま腕へ返すと、布が裂けて血が飛んだ。横でも政基の相手が腿を斬られながら、なお襖口へ向かおうとしている。
俺は政基へ声を飛ばした。
「弦十郎、そっちは出すな!」
「承知しておりますが、こちらを斬ってでも追いたいようです」
「なら、なおさら出すな!」
手前の男がもう一度踏み込んできた。刃を弾くと男の腕が開き、俺は一歩詰めて首筋へ刀を走らせた。
信長が制止の声を上げた。
「待て、十兵衛!」
信長の怒声が飛び、俺は男の首筋に刃が触れる寸前で腕を止めた。
「そいつらはわしの者だ!」
「……今、何と」
刀を止めたまま奥を見ると、倒れた文机の脇に立つ信長が、ものすごい顔でこちらを睨んでいた。
「そいつらは、わしの家臣の河尻と青貝だ!」
「じゃあ、今逃げたのは誰なんですか」
「勘十郎だ!」
「……ああ」
そこでようやく名前が繋がった。織田勘十郎、信行だ。
俺が河尻の首筋から刀を離すと、政基も相手から刀を引いた。
「先に言ってくださいよ」
「言えるか!」
信長はすぐ廊下へ出て城の者に信行を追わせたが、もう遅いだろう。信行は襖が開くなり隣室へ飛び込み、そのまま廊下へ逃げていた。名を呼んだ声からして供もいたはずだし、何より、追うはずの二人は俺と政基に止められ、傷まで負っている。
しばらくして信長が戻ってきたが、その顔を見れば、結果を聞くまでもなかった。
河尻と青貝が部屋の端で手当てを受けている間に、俺も刀の血を拭って鞘へ戻した。危なかったけど、殺してはいない。
信長は俺の前で足を止めた。
「十兵衛、お前が戻ってきた途端に勘十郎が逃げるとは、偶然にしては出来すぎだが、本当に何も知らなかったのだろうな」
「知りませんよ。隣で待てと言われていただけですし、出来すぎだという上総介殿の感想だけでは、俺が事情を知っていた証拠にはならないでしょう」
「では、勘十郎の周りがまた動いていることも知らなかったと言うのか」
「ああ……そういえば、前に甲賀の者からそんな話が上がっていた気はします」
「知っていたではないか!」
「尾張の細かい話まで全部覚えてませんよ。俺の領地じゃないんですから」
信長のこめかみが動いたが、俺は信行が今日ここで殺されるなんて話までは聞いていない。
信長は手当てを受けている二人へ目をやってから、再び俺に向き直った。
「お前のせいで勘十郎が逃げたのだぞ」
「なら、こっちでも追手を出しますよ」
「これは織田の問題だから、お前の追手はいらん」
「なら、事情を言わなかったのは上総介殿なんですから、俺に文句を言われても困るんですが」
「言えるわけがなかろう!」
話が堂々巡りになってきた。手当てを受けている二人も信行も生きているのだから、もういいだろう。
俺は信長へ言った。
「そもそも、暗殺なんてみっともない真似はやめて、正々堂々とやりましょうよ」
政基が口を挟んだ。
「……笠松と酒井の件もございますのに、それを十兵衛様が仰いますか」
「……あれは別だ」
「左様でございますか」
「別だよ」
信長も横から口を挟んだ。
「お前も同じようなことをしておるではないか!」
「あれには事情があったんですよ」
「こちらにも事情がある!」
「まあ、それはそうでしょうけど」
俺は話を本来の用件へ戻すことにした。
「それはそうと、上総介殿」
「待て、今『それはそうと』で終わらせようとしたな」
「終わった話でしょう」
「終わっておらん!」
信長は俺の前まで来て、声を落とした。
「勘十郎が外へ出て、橘十兵衛に助けられたと言い触らしたらどうする」
「だから今日、橘と織田が助け合う約定を結びましょうよ。勘十郎殿を担ぐつもりなら、同じ日に上総介殿と約定なんて結びませんから」
「お前が逃がしたその日に結べと言っておるのか!」
「だから今日がいいんでしょう。六角への返書も俺が持ち帰り、橘と織田が表で話を進めていることを示せば、勘十郎殿が何を言っても通りにくくなります」
信長が黙った。腹は立っているようだが、こちらの言い分は聞いたらしい。俺だってわざと信行を逃がしたわけではないが、このまま何もせず帰る方が、後で面倒になる。
信長は念を押した。
「わしは勘十郎を逃がしたお前と、その日のうちに約定を結ぶのか」
「結果だけ見ればそうなりますね」
「本当に腹の立つ男だな」
「それも上総介殿の感想ですよね」
「もうそれを言うな!」
ようやく約定の中身を詰める話になった。互いの領分への無断の出兵と、相手に従う城や国人の引き抜きを禁じる取り決めを確かめ、危機には事情の許す範囲で助け合う約束を加える。共同で攻め込むための約定ではない。
織田の書役が書付をまとめ始めると、俺は出兵について念を押した。
「六角の下にいる以上、常に俺から先に兵を出すとは約束できませんので、その点は書いておいてください」
「分かっておる。その代わり、わしも橘のためなら何でもするとは書かんぞ」
「それでいいです。条件をきつくして守れなくなるよりはましでしょう」
「その辺だけは現実的だな」
「その辺だけって何ですか」
信長は答えなかった。
しばらくして六角への返書が運ばれてきた。俺は中身を確かめて受け取り、書付にまとまった橘と織田の約定も互いに取り交わす。途中で妙なことにはなったが、持ってきた仕事そのものは片付いた。
俺が立ち上がると、政基と光秀も続いた。
「では、返書は確かに預かりましたし、約定の方もこれで」
「ああ。二度と忘れ物をして戻ってくるな」
「次から気をつけますよ。また用があれば来ます」
「次があると思うな。いいからもう帰れ」
「今帰るところですよ」
何なんだ、まったく。俺は返書を懐へ収めると、政基と光秀を連れて清洲城を後にした。




