第96話 人探しはここまで
弘治三年(1557年)、五月。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
新九郎を呼び、正利のいる離れへ向かった。長良川の戦いが終わってから、正利には美濃に残った者や各地へ散った旧臣の名と、最後に分かっていた居場所を書き出してもらっている。障子を開けると、正利は美濃の絵図を広げ、その上に細い木札を置いていた。
正利が絵図から顔を上げた。
「今度は何だ」
「勘九郎。竹中の倅と話をする機会を作れないか」
狙っているのは竹中家そのものではなく、その倅、竹中半兵衛重治だ。
正利は絵図の木札へ目を戻した。
「半兵衛か。まだ親父の下におるし、家もある。すぐに連れて来るのは無理だぞ」
「今すぐ引き抜くつもりはない。まず話ができればいい」
それを聞くと、正利は木札を一つ摘まみ、絵図の西へ動かした。
「なら、兵助を頼れる。あやつなら竹中への仲立ちができるかもしれん」
「兵助か。姓は何だ」
「猪子だ」
「長良川で、あんたの側にいた奴か」
「ああ。あやつじゃ」
猪子兵助高就か。道三に仕えた後、織田へ移り、本能寺の変では明智勢と戦って討死する男だ。
新九郎が口を挟んだ。
「兵助殿なら、長良川の後に探させました。今は美濃の寺に潜んでおります」
「なら、兵助に半兵衛との仲立ちを頼んでくれ」
「兵助殿にはまだ接触せず、動きだけ追わせております。仲立ちを頼む際は、どこまで事情を明かしてよろしいでしょうか」
「勘九郎が江野にいることも、口外しないと約束させた上で話していい」
「承知しました。同じ者を何度も行き来させると目を付けられますので、連絡には別の道を使います」
「頼む。半兵衛には、俺と会って話す気があるか、まずそれだけ聞いてきてくれ」
正利は別の木札を二つ取り、養老山地の東側へ置いた。
「この二人はどうする」
「誰だ」
「わしの倅の玄蕃助と、蜂屋だ」
玄蕃助は正利の息子、斎藤玄蕃助利堯だ。蜂屋というのは、蜂屋兵庫頭頼隆か。
正利は二つの札を指した。
「最後に聞いた時はこの辺りにおったが、今もおるかは分からん。兵助なら、その後の居場所も知っておるかもしれん」
「なら、兵助に二人の居場所も聞いて、知っていれば連絡を付けてもらおう」
「それがいい」
重治との接触は新九郎に任せる。利堯と頼隆も、高就が居所を知っているなら会いに行こう。わざわざ二人まで探し回らせる必要はない。
ちょうど多度から四日市までの国衆が橘へ入ったばかりで、六月末には盛信との和睦も切れる。その前に、新たに加わった土地の南北の端と、そこから外へ続く道を自分の目で確かめておきたかった。巡検に合わせて美濃境まで回れば、二人にも会いに行ける。
俺は養老山地の東側に置かれた二つの札を示した。
「その二人には、俺が会いに行く」
「お前が美濃へ入る気か」
「表向きは巡検だ。四日市と多度を見て、美濃境まで回る。二人との待ち合わせ場所が決まれば、そこから少人数で美濃へ入るつもりだ。勘九郎も来い」
「わしまでか」
「息子に会いたくないなら置いていく」
「誰がそんなことを言った」
正利は木札を置き直し、同行する上での念を押した。
「ただし、この顔のまま出歩くわけにはいかんぞ」
「分かってる。道中は変装してくれ。同行するのは、あんたと九郎だ」
「明智の小僧までか」
「美濃を知ってる人間は多い方がいい。巡検の途中で、あいつにも見せたい物がある」
* * *
翌朝、新九郎が一足先に江野を発ち、数日後には俺も正利と光秀を連れて南へ向かった。正利は目立たない旅装に替え、笠を深く被って供の一人に紛れている。道三は長良川で死んだことになっているから、顔を知る者に見つかるわけにはいかない。
まず浜田城で元綱と合流し、城の周囲を一通り見てから町へ下りた。道沿いには家や店が並んでいるが、そこを少し離れれば田畑が広がり、その向こうに海が見える。
前世で四日市と聞けば、真っ先に工場とコンビナートが思い浮かんだ。海沿いに煙突が並び、夜には工場の灯りが続いていたが、今は影も形もない。市と街道の周りに家が集まり、海辺では人足や舟が行き来している。
市へ入ると、莚に干物や塩魚が並び、その脇では反物を広げた行商が声を張っていた。道の端には荷を積んだ牛が止まり、荷主と商人が値段を交渉している。人の多さに比べて道は狭く、荷車がすれ違うたびに、歩いている者たちは端へ寄って道を空けていた。
元綱は市を抜けて俺たちを海辺まで案内し、荷の集まる場所を示した。
「近在の荷は、こちらへ集めております。海から来た荷も、ここで陸へ上げてから市へ回します」
「なら、九鬼の舟もここへ寄せたい」
「九鬼殿の大きな舟を、直接岸へ着けるのは難しゅうございます。沖に留め、荷を小舟へ積み替えれば、ここへ運び上げられます」
「それでいい。南から来る荷をここで下ろして西へ運べれば、わざわざ桑名まで回さずに済む」
元綱は浜から市へ続く道を振り返った。
「荷車は今の道でも通せます。ただ、大雨の後はぬかるむ場所がございます」
「道の具合も確かめたいな。九鬼に話を通して、一度ここで荷を下ろし、実際に運んでみよう」
「では、大舟を沖に留める場所と、小舟を着ける場所を先に確かめておきます」
「頼む。積み替えに要る人手も、実際に荷を動かして確かめてくれ」
「岸へ上げた荷は、そのまま西へ運んでみましょう。途中で荷が滞る場所も確かめられます」
「それでいい。まずは少しの荷で試してくれ。いきなり大きくやる必要はない」
目の前では、二人の人足が俵に掛けた綱を取り、声を合わせて小舟から浜へ運び上げていた。砂へ直接置かず、広げた筵の上に積んでいく一方、濡れた跡のある俵は口を開け、中身まで傷んでいないか確かめている。
今の四日市に必要なのは煙突よりも、海から上げた荷を江野やさらに西へ送り出せる場所だ。
俺は元綱に、六月末の和睦期限に向けた支度も命じた。
「動かせる兵の数と、使える荷駄を調べておけ。兵糧も別に用意して、命を出せばすぐ出陣できるよう、兵と荷を集める場所も決めてくれ」
「浜田だけでなく、この辺りで橘へ付いた者たちとも話を通しておきます」
「頼む。ただ、まだ兵を境へ集めなくていい。和睦が切れた時に出せるよう、今は準備を整えておけ」
帰り際、光秀が市の入口で荷を量る様子を眺めていたので、俺は横へ寄って声を掛けた。
「九郎、何が気になる」
「こちらの升が、江野で揃えた物とどれほど違うのかと思いまして。今すぐ改めるつもりはございませぬが、次に参る時は孫十郎殿にも確かめてもらいたく存じます」
「なら、江野へ戻ってから相談しろ。今日はそこまで手を広げなくていい」
「十兵衛様がそれを仰いますか」
「俺だって、仕事を増やしたくて歩いてるわけじゃない」
「某には、そうは見えませぬ」
* * *
四日市から北へ向かい、常政の案内で多度へ入った。山際へ近づくにつれ、街道を歩く人々の中に参詣らしい姿が増えていく。菅笠を被った者や荷を背負った者に交じり、家族連れらしい一行も歩いていた。
多度社に近づくと、参道沿いに笠や草鞋を商う店、茶を出す店が軒を連ね、供物らしい餅を並べた店もあった。
鳥居の手前で常政が足を緩め、社について話し始めた。
「多度は伊勢の大神宮とも縁の深い社にございます。伊勢へ参る者の中には、こちらへも足を延ばす者がおります」
「それで、これだけ人がいるのか」
「時期によって増減はございますが、近在だけでなく、遠くから参る者もおります」
前世で、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」という言葉を聞いた覚えがある。今もそう言うのかは知らないが、これだけ人が集まれば、食い物も宿も要る。馬を休ませる者も、荷を運ぶ者もいる。社だけでなく、その周りの町や道も見ておきたかった。
参詣の邪魔にならないところまで離れると、常政が道の先を指した。
「この道を北へ進めば、美濃へ抜けられます。普段から商人も荷を運んで行き来しております」
「なら、兵を集める時も、この道は空けておきたい。関との戦になれば、多度からも兵を出してもらうつもりだ」
「では、道を塞がずに兵と荷を集められる場所を選びます。参詣の者を足止めすれば、町の商いにも響きますので」
「頼む、次郎右衛門。和睦の期限までに、何人出せるかも確かめておいてくれ」
「出せる人数が分かり次第、それに合わせて兵糧を用意し、出陣の支度を整えます」
「それでいい」
常政が橘へ臣従したからといって、俺までこの土地に詳しくなるわけじゃない。どの道に荷が集まり、どこで人が詰まるかは、ここで暮らしてきた常政に任せる方が早い。
* * *
多度での巡検を終え、そのまま北へ向かった。表向きには、ここから先の道や村を見て回るだけだ。正利は供の中に紛れ、引き続き人目を避けている。
夕方には美濃の柏尾村へ着いた。山際には、多芸七坊の一つ、柏尾寺の堂や坊が建ち並んでいる。その近くの百姓家に宿を借り、供の者たちを休ませた。家の周りでは水を張った田に植えたばかりの苗が並び、昼間は汗ばむほどだった陽気も、日が山へ隠れると冷たい風に変わった。
家の者には、道を見て回っている一行とだけ話し、囲炉裏端で麦を混ぜた飯と山菜の汁をいただいた。正利も余計な口を利かずに飯を食い、その夜は早めに休んだ。
翌朝、供の大半を宿所へ残し、俺と正利、光秀の三人で山へ入った。道は踏み固められておらず、所々で柔らかい土に足を取られる。転ばないよう踏ん張りながら登るうちに、草鞋の紐まで緩んできた。
登るにつれて水音が大きくなり、木立が開けると、白い水が岩壁から落ちているのが見えた。養老の滝だ。平地では初夏の暑さを感じたのに、滝のそばはひんやりしている。前世から名前は知っていたが、実際に目の前にすると、写真で見た時に想像したよりずっと迫力があった。
滝を眺めていると、正利が横から声を掛けた。
「滝見物のために、ここまで来たわけではあるまい」
「分かってるよ。少しくらい見たっていいだろ」
「お前は時々、妙なところで子供みたいになるのう」
「十四だぞ。子供みたいも何も、まだ子供だ」
「その子供が兵を何千も動かすから、気味が悪いのだ」
二人との待ち合わせ場所は、滝から少し下ったところにある、道脇の木立だった。中へ入ると滝は見えなくなったが、谷を流れる水音はまだ大きい。これなら、少し離れるだけで話し声も聞き取りにくくなる。
下草を踏み分けて進むと、利堯と頼隆の姿が見えた。その後ろでは、長良川の戦いの後から身を隠していた旧臣らが、荷と得物を木の根元にまとめて座っている。小屋などは見当たらず、ここへは待ち合わせのために来ただけらしい。
利堯は俺ではなく、まず正利に目を向け、足を止めた。
「……父上」
正利もすぐには答えなかった。長良川で死んだことになっている父と、美濃で身を隠していた息子が、ようやく顔を合わせたのだ。俺は口を挟まず、二人を見守った。
利堯が膝をつこうとすると、正利は片手を上げて制した。
「ここで膝をつくな。斎藤山城守は、もう死んだのだ」
「されど」
「今のわしは西村勘九郎だ。これからも、その名で生きていく」
利堯はしばらく父を見つめた後、立ったまま深く頭を下げた。頼隆は二人のやり取りが終わるのを待って、口を開いた。
「山城守様が御存命と聞いても、こうしてお目にかかるまでは半信半疑にございました」
「その名で呼ぶな。お前まで死人を生き返らせる気か」
「これは失礼を」
正利はそれ以上言わず、俺へ顎をしゃくった。
「話があるのはこいつだ」
二人がこちらへ向き直ると、俺は名乗って用件を伝えた。
「橘十兵衛だ。二人のことは勘九郎から聞いている。俺のところへ来てほしいと思っているが、まずは今後どうするつもりか聞かせてくれ」
利堯が先に答えた。
「治部大輔の下へ戻るつもりはございませぬ。父上が御存命と分かった今は、なおさらです。叶うのであれば、再び父上に仕えたく存じます」
正利は即座に断った。
「それはできん」
「何故にございます」
「わしはもう斎藤の家を捨てた。土地も城も兵もなく、お前を家臣として抱える立場でもない。武士として生きるなら、わしではなく十兵衛に仕えろ」
「父上も、橘殿に仕えておられるのですか」
「仕えておらん。勝手に茶を飲んで、勝手に口を出しておるだけだ」
俺は横から口を挟んだ。
「いや、あんたは俺に養われてるだけだろ」
頼隆も今後の考えを話した。
「長良川の戦いの後、治部大輔の下へ戻る気にはなれませなんだ。いずれ尾張へ出て、上総介殿に仕えようかと考えておりました」
「なら、尾張へ行く前に、俺のところへ来ないか」
「橘殿が桑名まで押さえたことは、美濃にも届いております。それでも、わざわざ御本人が誘いに来られるとは思いませなんだ」
「巡検のついでだ」
「そのついでに美濃まで足を延ばされる方は、そう多くはございますまい」
それは否定しにくい。俺は二人に、仕官する上で守ってもらいたいことを伝えた。
「橘へ来るなら、勘九郎が生きていることは外へ漏らさないでくれ。玄蕃助も、人前では父上と呼ばないように頼む」
利堯は正利へ目を向けてから答えた。
「ならば、某も西村玄蕃助と名乗り、お仕えいたします」
「それでいい。役目は江野へ戻ってから決める」
頼隆も仕官の意思を示した。
「某も、お仕えいたします」
正利は何も言わず、利堯が立ち上がる時に、その肩へ一度だけ手を置いた。
山を下りるにつれ、滝の水音は遠ざかっていった。柏尾の宿所へ戻る頃には日が山の向こうへ傾いていたので、もう一泊し、翌朝に伊勢へ向かった。
江野へ戻ると、利堯と頼隆、同行してきた旧臣らに、一人ずつ素性とできる仕事を書き出させた。利堯が正利と会う時は、人目につかないよう取り計らった。
その二日後、美濃から帰ってきた新九郎が報告に来た。
「竹中殿と話ができました。今は父君と家を離れることはできぬとのことですが、十兵衛様と直接お会いすることには応じると」
「それなら十分だ」
「次は別の者に仲立ちをさせます。兵助殿は、しばらく動かしませぬ」
「そうしてくれ。急いで半兵衛を引き抜く必要はない。今は連絡を取り合えるようにしておけばいい」
* * *
六月半ば、桑名から、ロドリゲスの船が入ったと知らせが来た。
俺が桑名へ着いた時には、すでに荷下ろしが始まっていた。沖の船から小舟へ移した箱や樽が次々と岸へ運ばれ、南蛮から来た荷の中から、江野へ送る物が分けられている。箱の一部には、見慣れない焼き印が押されていた。
ロドリゲスが連れてきた人も増えていた。南蛮人に交じって日本人の武士や従者が立ち、妻子を伴った者までいる。船着きには噂を聞きつけた町の者も集まり、南蛮人を遠巻きに眺めたり、子供を抱き上げて沖の船を見せたりしていた。
人の集まる向こうにロドリゲスを見つけ、俺は声を掛けた。
「随分、人が増えたな」
「江野まで商いに来いと言ったのはお前だ」
「商いに来いとは言ったが、こんなに人まで連れて来いとは言ってない」
「商いをするにも人は要る。それに、連れてきた方がいいと思った者たちもいる」
ロドリゲスは少し離れたところに、旅装のまま並ぶ日本人を示した。
「博多で会った大内の旧臣たちだ。家族を連れた者もいる。毛利に仕える気はなく、ほかに身を寄せる先を探していた」
「それで桑名まで連れてきたのか」
「江野なら使えると思った」
「勝手に決めるな」
「なら、連れてこない方がよかったか」
「……まず話を聞く」
大内旧臣の一団は、妻子や従者を合わせて三十人余りいるらしい。
その中から武士が一人進み出て、吉田左兵衛尉興種と名乗った。
「大内家に仕えておりました。御家滅亡の後、行く先を失った者どもをまとめております」
「左兵衛尉。大内では何をしていた」
「奉行人を務めておりました。諸方から上がる書付や算用を取りまとめ、政務に当たっておりました」
奉行人なら、桑名を任せられるかもしれない。俺は秀吉を呼んだ。
「藤吉郎」
「こちらに」
秀吉は興種たちの荷を分け、人数も数え始めていたらしく、書付を何枚か手にしている。俺は桑名の仕事を引き継がせるよう命じた。
「今、お前が受け持っている桑名の仕事を、左兵衛尉へ引き継いでくれ」
「全部でございますか」
「全部だ。ただし、今日から任せきりにせず、帳面や蔵、港の仕事、商人や書役への対応を一通り教えろ」
「では、今動いている仕事から覚えていただきます。古い控えや数字の食い違いは、その後で確かめてもらいましょう」
「それでいい。急ぎだけ江野へ上げる決まりも伝えて、今月中に引き継ぎを終わらせてくれ」
「承知しました。それまでは某も一緒に仕事をいたします」
興種が秀吉へ向き直った。
「某と一緒に来た者には、祐筆や算用を務めた者、蔵や港で働いていた者もおります。それぞれの経験に合う仕事へ付けていただければ」
「それは助かります。桑名で今まで働いてきた者もおりますので、まずは一緒に仕事をしていただきましょう」
秀吉がその場で書付を広げると、俺は興種へ任せる範囲を伝えた。
「左兵衛尉。桑名での権限は、ほかの土地を預けている連中と同じだ。普段の差配は、江野へ聞かずに決めていい」
「処分や土地の割り振りについても、某が判断してよろしいのでしょうか」
「大きな処分と、土地の割り振りを変える話は俺へ上げろ」
「承知しました。まずは桑名の今の仕事を引き継ぎ、直すべきところを直します。旧大内のやり方へ一律に変えることはいたしませぬ」
「頼む」
秀吉は興種と旧大内家臣たちを役所へ案内した。荷を運ぶ人足の間を縫って進みながら、手にした書付を示して仕事の説明を始めている。
秀吉たちを見送っていると、隣でロドリゲスが口を開いた。
「役に立っただろう。私の商館の方も頼むぞ」
「助かったよ。商館の場所は江野に用意するから、そこで使う荷には印を付けて、桑名に置く荷と分けておいてくれ」
「商館を開いても、私は今まで通り船で動いていいんだな」
「ああ。ただ、江野の留守を任せる奴は置いてくれ」
「なら、誰を残すかは江野を見てから決めたい」
「それでいい」
商館の細かな形は、江野を見てから決めればいい。今は場所を用意し、必要な荷を送る準備を進めよう。
港では、江野へ送る箱が一か所に集められていた。その脇で旧大内家臣の一人が、運び込まれる箱を数えて木札へ刻んでいる。秀吉がさっそく仕事を任せたらしい。
* * *
六月も残り十日を切った。
江野へ戻ると、継潤が関方の動きをまとめた書付を持ってきた。
「亀山と領境へ兵糧を運ぶ動きが増えております。ただし、大きな軍勢はまだ動いておりませぬ。和睦延長の使者も来ておりません」
「桑名を取ったことは、向こうも知ってるはずだ」
「それを踏まえた備えでしょうな。こちらが今から境へ兵を集めれば、攻め込む支度と受け取られます」
「なら、兵を動かさずに支度を進めるか」
「今いる兵はそのままにして、兵糧と矢玉を先に入れておくのがよろしいかと」
絵図の前には可成、利家、成政が座り、桑名から戻った秀吉も加わっていた。各方面から届いた書付は、畳の上に方角ごとに分けて並べてある。絵図の縁には四日市、多度、桑名など、この数か月で加わった土地の名を書いた木札が連なっていた。
俺は可成たちに、出陣させられる兵の数を尋ねた。
「三左衛門、又左衛門、内蔵助。和睦が切れた時に動かせる兵の数を、明日までに出してくれ。城の守りまで減らしてかき集めた数じゃない。命を出せば、すぐ出せる数だ」
可成が答えた。
「山口勢も合わせて数を出します」
利家は第一大隊の見込みを伝えた。
「第一大隊は三百をそのまま出せる見込みです。ほかに加えられる兵は、彦九郎殿とも話を合わせ、明日までに報告します」
成政が続いた。
「第二も三百を出せます。玉薬は別に数えさせます」
秀吉は桑名から持ち帰った書付を一枚、脇へ置いた。
「左兵衛尉殿は、もう自分で差配を始めております。急ぎだけ江野へ上げる決まりも引き継ぎましたので、某はこのまま江野に残れます」
「なら、第三大隊も桑名へ残さず、すぐ出せるよう支度を整えておけ。向こうで兵が要る時は、左兵衛尉から知らせてもらう」
継潤は各方面の書付を分け、玄以へ渡す束を脇へ寄せた。
「各城の兵糧と守備兵は、孫十郎にも現地で確かめさせます。帳面だけ揃っていて、蔵が空では困りますので」
「それで頼む。新九郎には美濃との連絡を続けさせるが、新しい人間を探すのは一度止めよう。今は、迎えた連中に仕事を任せられるようにする方が先だ」
政基が暦の脇に並べていた木札を一つ外した。
「和睦期限まで、あと八日にございます」
桑名を取り、美濃から人を迎え、大内の旧臣まで入ってきた。任せる相手は増えたが、兵や荷をすぐ動かせるかは、まだ確かめなければならない。南の亀山では、すでに兵糧を運び込んでいる。
俺は絵図から顔を上げ、皆へ指示を出した。
「明日から、各方面の報告を朝と夕の二度にする。兵はまだ境へ寄せるな。兵糧を運び込み、荷駄が通る道を先に整えろ」
可成たちはそれぞれ書付を手に取り、座を立った。




