第95話 橘に従うということ
弘治三年(1557年)、五月。
伊勢国、桑名郡、桑名。
桑名で最後まで残った仕事は、帳面の整理だった。町の一角に置いた詰所には、朝から蔵や港、商人たちの帳面や書付けが次々と持ち込まれ、書役たちが誰の控えかを確かめながら仕分けている。俺が江野へ戻る支度を進めている間にも、その束は増え続けていた。
政基が、選り分けた束へ紐を掛けながら報告した。
「十兵衛様。古い控えは桑名に残し、今まで帳面を付けていた者にも引き続き仕事をさせるつもりにございます」
「ああ。それで進めてくれ。数字が合わないところから先に調べさせろ」
「では、誰がいつまで付けていた帳面かを確かめ、その者にも事情を聞きます」
今朝も、船や米俵の数が帳面と合わないという報告が上がっている。だが、沈んだ船を帳面から消していなかったり、米を出した記録が抜けていたりする可能性もある。それだけで誰かが盗んだとは決めつけられない。
今までの仕事を続けながら、帳面と現物を照らし合わせてもらう。俺は政基へ、江野に戻った後の報告についても伝えた。
「桑名のことは、急ぎだけ江野へ上げろ。それ以外は、こっちで調べてからでいい」
「では、調べ終えたものから順にまとめておきます」
現地で処理を続けられるよう整え、翌朝、俺は本部の兵を連れて江野へ戻った。六月末には盛信との和睦が切れるため、桑名まで取った今、多度から四日市にかけて残る国衆も、独立したままにはしておけない。
江野へ着いた翌日、俺は政基に用意させていた文へ目を通した。
「期限までに江野へ来い。それだけでいい。条件を聞いてから従うかどうか決めるためじゃない。橘に従うと決めた奴だけ来させろ」
「来なかった者は、橘へ敵対する意思ありと扱うとも書いております」
「ああ。それで出せ」
政基はその文を脇へ置き、別の紙を取りながら伝えた。
「山本へも使いを出しております。刑部少輔から浜田へ話を通してもらい、そこから羽津と赤堀へも伝えてもらうつもりにございます」
「ああ。ただ、橘からの文もそれぞれに直接出しておけ」
刑部少輔は浜田の田原と縁があり、浜田を治める田原遠江守元綱や、羽津の田原右京亮近宗へ話を通すには、その繋がりを使える。ただ、後から山本にしか聞いていないとは言わせないよう、橘からも正式な文を出しておく必要があった。
文を出して数日すると、返書が届き始めた。すぐに出頭すると答えた者もいれば、丁寧な文面でも、行くとも行かないとも書かない者もいる。そんな返事を待って期限を延ばすつもりはない。周りの出方を見てから安全な側へ付くことを許せば、先に腹を決めた奴ほど馬鹿を見る。
指定した日、江野の表座敷には多度から四日市周辺までの国衆が並んだ。そのうち、後藤采女正藤勝、近宗、元綱、茂福掃部助盈豊、小串次郎右衛門常政の五人を前へ座らせ、それぞれの膝前に同じ書付けを置かせた。
俺は集まった国衆へ話を始めた。
「先に言っておく。今日は、一人ずつと条件を相談するために呼んだんじゃない。橘へ従うなら条件は全員同じだ。まず読め」
一斉に紙を開く音がし、やがて近宗が顔を上げた。
「城も土地も、兵や年貢、村への指図も橘へ渡せと。先祖伝来の所領も例外にはならぬのか」
「ならない」
近宗が言葉を継ぐ前に、藤勝が口を開いた。
「臣従なら、所領を安堵して軍役を課せば済むはず。何故、城も土地も兵も取り上げるおつもりなのか」
「家ごとに別々にやってるのが非効率だからだ」
「非効率、と申されるか」
「徴税も徴募も、普請や水利、兵糧と武具の管理も、それぞれの家でやってるだろ」
「それは領主であれば当然の務めではあるまいか」
「だから、そのやり方を変える。必要な城だけ残し、兵糧と武具を集める場所も、城ごとの兵の数も橘で決める。道も家の境で切らずに繋ぐ」
近宗が書付けを膝へ置き、口を挟んだ。
「されど、橘殿は我らの所領を細かく御覧になったわけではありますまい」
「土地ごとの事情は調べる。だが、家ごとに同じ仕事を繰り返す無駄とは別の話だ」
「そこまで言い切られるか」
「ああ。お前ら一人一人が特別に馬鹿だと言ってるんじゃない。今まで当たり前にやってきたやり方を変えると言ってるんだ」
俺は五人の前へ、橘の昨年の収支をまとめた帳面を出させた。年貢や商いの収入と、家臣への知行・役料、兵糧・武具、普請・輸送、療治や遺族への扶持などの支出を、項目ごとに分けてある。
帳面が開かれると、俺は収入と支出の項目を指した。
「銭や米がどこから入り、何に使われてるかを見ろ。橘が一年で動かす額は、お前らの家よりずっと大きい。土地も人も橘でまとめて使う。その代わり、家臣として働く奴には橘から払う」
元綱が臣従条件の書付けへ指を戻し、知行の項目を示した。
「では、この知行は土地ではないと申されるか」
「銭で払う。役目が増えれば、役料も別に付ける」
元綱は、その先を読み直した。知行の額と半年ごとの支給、別に出す年暮れの餅代に続き、公用の馬や舟、宿、関銭、軍務の兵糧・武具・玉薬、城の修理費は橘が負担するとある。負傷者の療治や働けなくなった者の扱い、遺族への扶持も記してあった。
常政が、支給額と費用の項目を見比べた。
「……これらは、すべて先ほどの知行とは別なのか」
「そうだ。仕事で使う銭まで給料から出させる気はない」
「では、この年暮れの餅代も」
「それも別だ。家族と餅くらい食え」
盈豊は、その下の項目を指した。
「湯の山へ湯治に出す場合、宿と湯も橘が持つとあるが」
「こっちから湯治に出すなら、行き帰りの銭も出す」
「それでも元の役目に戻れぬ者は、どうされる」
「何ができるかを確かめて、別の仕事を任せる。槍を持てなくても帳面は付けられるかもしれないし、馬に乗れなくても蔵で働けるかもしれない」
藤勝が書付けから俺へ目を移した。
「何故、そこまで橘殿が負担するのか」
「働いた分は払う。怪我をすれば治す。死ねば残った家族へ扶持を出し、休ませる時は休ませる。その代わり、橘から銭を受け取る以上は橘の仕事をしろ。それだけだ」
元綱は知行の項目へ戻り、そこに記された家臣の名を指した。
「我らに出す額は分かった。では、こちらに記されている者たちは」
「今、城や方面を任せている家臣だ」
「この森三左衛門殿の知行と役料も、実際に支給されている額なのか」
「そうだ。三左衛門も、そこにある彦九郎たちも、記した額を払ってる」
「我らも働き次第では、ここまで上がれると」
「ああ。最初から同じ額は出さないが、同じだけの役目を任せられるようになれば、同じ基準で払う」
元綱が紙を膝前へ戻すと、まだ書付けを開いていた藤勝が口を開いた。
「待遇については分かった。ただ、一つ腑に落ちぬことがある」
「何だ」
「従った者の扱いはここまで整えるのに、抗う家には容赦がない。桑名の三家も、家として残らなかったと聞く」
「その通りだ」
「失礼ながら、橘殿は戦を厭わぬようにも見える」
「必要ならやる。だが、好きで戦ってるわけじゃない。桑名の三家は最後まで城を明け渡さなかった。さっさと渡せば、戦う必要もなかった」
藤勝が黙ったので、俺は続けた。
「負けた後まで土地を返せ、城を返せと揉めるくらいなら、力ずくで奪って家を終わらせた方が早い。後腐れもない」
「では、一度抗えば、その家を終わらせると」
「最後まで条件を拒んで戦った三家を残さなかっただけだ。足軽や百姓まで殺す気はない。桑名でも武器を置いた奴は残した」
俺は脇に用意させていた硯と五人分の書付けを前へ出させ、署名を促した。
「お前らには、そうなる前に選ばせてる。機会は一度だ。蜘蛛の糸を掴むか、地獄に落ちるか。一度拒んでから掴ませてくれと言っても知らん。分かったなら、そこへ名を書いて花押を据えろ」
最初に膝を進めた元綱は、筆を取ると迷わず名を書き、花押を据えた。その紙が書役へ渡るのを見て常政が続き、次に盈豊、近宗が前へ出る。
四枚目が書役の手へ渡ると、最後まで座っていた藤勝も腰を上げ、俺に尋ねた。
「最後に一つだけ聞きたい。我らの子を、人質として江野へ置けとは言われぬのか」
「求めない。期限を守ってここへ来て、自分で従うと決めた奴から人質を取る必要はない」
藤勝は頭を下げて五枚目へ花押を据え、それに続いて後ろの国衆も順に前へ出始めた。書役が受け取った紙を乾かすと、別の者が控えと照らし合わせ、束へ加えていく。これで、北伊勢で橘へ従うという意味を知らなかったとは言わせない。
* * *
国衆の出頭が一段落しても、桑名から届く帳面は減らず、仕分けは政基たちに任せていた。そこへ、尾張から奥村助十郎永福が利家を訪ねてきた。仕官を求めての来訪ではないらしい。
翌日、利家が俺のところへ顔を出した。
「十兵衛様。荒子から助十郎が参りました」
「聞いた。戻れと言われたんだろ」
「そうだがね……いや、左様にございます。ただ、某は戻るつもりはございません」
「なら、そう返せばいいんじゃないのか」
「父上からの話ゆえ、某だけで突っぱねるわけにも参りませぬ。戻るとなれば妻のこともございますので、彦九郎殿にも同席していただきたい」
それなら政虎を呼ぶ理由も分かる。俺は事情を伝え、政虎とともに利家の屋敷へ向かった。座敷には永福のほか、長頼もいた。
皆が揃うと、永福が改めて荒子からの用件を告げた。
「又左衛門様。御父上も御歳を重ねられております。前田家の先々を考え、荒子へ戻って家を支えていただきたいとの仰せにございます」
「父上のことは分かっておる。だが、某が戻って何をする」
「御兄弟で御父上を支えられる道もございましょう」
「いずれ家を継ぐのは兄者だ。その下で働くために、今の役目を捨てて戻れというのか。某はここで三百を預かっておる。荒子へ戻って、それ以上に何を任される」
永福が答えあぐねていると、利家は少し声を落とした。
「前田との縁を切るとは申しておらぬ。父上は父上だし、兄者は兄者だ。だが、もうこちらにも某の家がある。彦九郎殿は、某の舅殿だ」
永福は政虎へ目を向けた。
「又左衛門様が前田家を捨てたとは、某も思っておりませぬ」
政虎は永福へ答えた。
「又左衛門が娘を娶り、この地で兵を預かっているのも事実だ。荒子へ戻るか、ここへ残るかは、本人が決めることだろう」
長頼も言葉を添えた。
「助十郎殿。私も前田家から又左衛門様の側へ参った身です。されど、荒子へ戻られても、三百を預かる今以上の役目があるとは思えませぬ」
永福はそれ以上、帰還を勧めず、利家へ返事をした。
「……承知いたしました。御父上には、又左衛門様のお考えは変わらぬと申し上げます」
話はそれで終わると思ったが、利家が永福へ尋ねた。
「それで、助十郎はどうする」
「某でございますか」
「わしは帰らん。お前は荒子へ戻るのだろう」
永福は少し考えてから答えた。
「そのつもりでおりました。ただ、今日のお話を聞き、又左衛門様はこちらに残られる方が前田のためになると思いました」
「わしが、ここに残る方がか」
「はい。某もこちらでお支えしたく存じます。いったん荒子へ戻り、御父上にお許しを願います」
利家が俺を見たので、声を掛けた。
「何だ」
「いや、十兵衛様の御家中だろう」
「お前に仕えたいって話だ。受けるかどうかは、お前が決めろ」
三百は橘の兵だが、利家個人に仕える者まで俺の直臣にする必要はない。俺の返事を聞き、利家は永福へ向き直った。
「なら、父上の許しをもらって戻って来い。ただし、わしの下におれば楽ができると思うなよ」
「今の又左衛門様を見て、そのようには思いませぬ」
「それならええがね」
利家は今度は言い直さずに笑った。その数日後、俺を目当てに若い男が訪ねてきた。名を聞いて顔を見直し、以前一度会った兼松又四郎正吉だと思い出した。
俺は正吉へ声を掛けた。
「随分かかったな」
「申し訳ございません」
「怒ってない。だが、今になって来たのは何でだ」
「以前、仕官先を探すなら朝霧へ来いと仰っていただきました。桑名まで取られたと聞き、今こそ橘殿のお側で働きたいと思い、参りました」
正吉は姿勢を正し、用件を切り出した。
「某を、橘殿の馬廻りとして召し抱えていただけませぬか」
「いきなり馬廻りか。俺の側にいれば出世できると思ったか」
「それもございます」
「あるのかよ」
「ここで違うと申しても、後で分かることですので」
思っていたより図太い。俺は正吉を召し抱えることにし、政基へ声を掛けた。
「分かった。馬廻りとして置く。弦十郎、最初はお前が道や家中の決まりから教えてくれ」
「では、まず江野周辺の道と家中の決まりを覚えさせ、その後、旗と使者の扱いへ進めます」
「それで頼む」
正吉が政基へ頭を下げた。俺の側で動く者を育てるなら、昔から使者も護衛も任せてきた政基に預けるのが一番早い。
その数日後には、堀尾茂助吉晴が父親からの書状を持って江野へ来た。父は岩倉に残るという。
俺は書状を読み終え、仕官を受ける前に吉晴の意思を確かめた。
「俺は上総介殿とは比較的親しい。お前から見れば敵に近いだろ」
「否定はいたしませぬ」
「なら、先に言っておく。お前を雇っても、岩倉に残る父親まで助ける気はない。そのために上総介殿と争うこともないぞ」
「父からも、それを求めるなと言われております」
「それでも仕えるのか」
「はい。父のための援兵ではなく、某自身の働き口を求めて参りました」
そこまで割り切っているなら、雇うことに問題はない。ただ、まだ若い吉晴へいきなり兵を預ける気はなかった。第二大隊では政泰にも小隊を預け、味方の槍兵との位置関係や射線を確かめながら兵を動かすことを覚えさせている。吉晴も、まずはそこで学ばせよう。
俺は吉晴へ配属先を伝えた。
「内蔵助のところへ行け。まず兵と鉄砲の数、玉薬の扱いを覚え、橘の兵の動かし方を学べ」
「鉄砲も扱わせていただけるのですか」
「撃つのはその後だ。先に覚えることは内蔵助が教える」
「承知いたしました。一から覚えます」
吉晴が頭を下げた。正吉は政基へ、吉晴は成政へ預けることになり、新しく入った者を俺が一人ずつ最初から教える必要はもうなかった。
* * *
その数日後、堺から持ち帰った作物を、ようやく試しに育てることにした。屋敷の裏に小さな畑を作らせ、近くの村から百姓を何人か呼んである。政基が用意した鍬や籠の横には芋と種が分けて置かれ、綾も一緒に畑へ来ていた。
頼んでもいないのに畑の端で腕を組んでいた正利が、俺へ声を掛けた。
「桑名まで取った男が、今度は屋敷の裏で芋作りか」
「城を取ったって腹は膨れないだろ」
「それにしても、おぬしは何にでも首を突っ込むのう」
「俺だって何でもできるわけじゃない。できる奴を見つけて、やらせてるだけだ。俺と勘九郎に共通してるのは、悪知恵と油売りくらいだろ」
「わしまで一緒にするな」
「油売りだったのは否定できないだろ」
「悪知恵まで強く否定できぬのが腹立たしいわ」
綾が笑う一方、百姓たちは笑っていいのか迷ったような顔をしていた。俺は籠から芋を一つ取り、百姓たちへ話を始めた。
「俺が知ってるのは、増やし方と育てる時の注意くらいだ。この土地のどこへ植えるかは、お前らの方が詳しい。俺の知ってることも伝えるから、一緒に試してくれ」
年嵩の百姓が畑へ屈み、指先で土を崩した。
「この辺りでも、水の残る所と抜ける所は分けた方がよろしゅうございますな。下の方は雨の後に水が寄ります」
「なら、下は避けよう。このサツマイモは水が溜まり続ける場所を嫌う。四つの中で一番増やしたいのも、こいつだ」
別の百姓が、俺の手にある芋を見ながら尋ねた。
「これを切って植えるのでございますか」
「いや。まず芋を伏せて芽を出させ、伸びた蔓を切って苗にする。芋を一個ずつ埋めるんじゃない」
「なら、今ある芋から何本苗を取れるかが大事になりますな」
「今年は特にな。だから食うのは後だ」
綾も俺の手元を見て、口を挟んだ。
「十兵衛様が一番食べたそうに見えます」
「食いたいから我慢するんだよ」
「では、増えたら最初にお出しします」
「それは頼む」
前世では焼いても蒸しても好きなだけ食えたが、今一つ食えば、増やす元がそれだけ減る。俺が芋を籠へ戻すと、年嵩の百姓が肥やしを置いてある方へ目をやった。
「芋でございましたら、肥やしは多い方がよろしいでしょうか」
「いや。入れすぎると蔓と葉ばかり伸びて、芋が太らなくなることがある」
「それなら、肥えた所と少し痩せた所へ分けてみましょう。水の残る方は畝も高くできます」
「それで試そう。肥えた所と痩せた所へ、同じだけ植えられるか」
「苗が揃えばできます」
政基が木札を持って近づいてきた。
「十兵衛様。でしたら、植えた場所と本数に加え、肥やしの違いも書き残しておきます」
「ああ。後で、どの育て方が一番取れたのか分からなくなったら困る」
「では、百姓衆と場所を決めてから札を立てます」
百姓たちが畝の取り方を話し始めると、そのうち一人が籠の芋を見ながら尋ねた。
「十兵衛様。これは、それほど多く取れる物なのでございますか」
「俺の知ってる通り育つなら、少し植えてもそれなりに取れる。広く植えられるようになれば、米より多く食い物を取れる可能性もある」
「米より、でございますか」
「ああ。だが、一番欲しいのは米が駄目な年にも食える物だ。凶作になってから植え始めても遅い。米が取れなくても芋が残るよう、平年のうちに増やしておきたい」
百姓たちの顔つきが変わり、一人が確かめた。
「では、米の代わりにこちらを広げるのでございますか」
「米を作るのをやめろと言ってるんじゃない。米しかないのが危ないんだ」
別の百姓が芋を手に取り、先ほどより丁寧に籠へ戻した。
「なら、今年は食うより、来年の種にする芋を増やした方がよろしいですな」
「ああ。広く植えるのは、その後だ」
サツマイモを試す場所が決まると、百姓の一人が隣の種袋へ目を向けた。
「こちらも同じように増やすのでございますか」
「そっちはトウモロコシだ。種を播く。上の穂から飛ぶ花粉を、実の先に出る毛が受けるから、一列より何列かまとめて播く方がいい」
百姓は袋から数粒を掌へ出して眺め、畑の一角を指した。
「なら、あちらへまとめて播きましょう」
「それで頼む。実が付いたら、粒が抜けてるところが多くないかも確かめてくれ」
百姓が種を袋へ戻すと、綾はカボチャの種袋へ手を伸ばした。
「こちらも食べる物でしたね」
「ああ。一つ採れれば結構な量になる。煮てもいいし、味噌汁に入れてもいい」
「それなら、屋敷でも使いやすそうですね」
「採れるようになったら試してくれ」
百姓が畑の端を指した。
「蔓が広がるのでございましたら、こちらへ寄せた方がよろしいでしょう。真ん中へ植えると、他の畝まで塞ぎます」
「かなり伸びるから、端でいい。それと、花が咲いたら実の付き方も確かめてくれ」
「花に何かございますか」
「雄花と雌花が別に出る。雌花は花の下が膨らんでるから、見分けられるはずだ。実が付きにくければ、朝に雄花の花粉を雌花へ付けてやればいい」
それを聞いた綾が袋を置き、俺へ頼んだ。
「花が咲いた頃に、私にも教えてください」
「見たいのか」
「味噌汁へ入れる物が、どのように育つのか見ておきたいです」
「分かった。その頃にまた来よう」
百姓が残った袋を手に取った。
「では、こちらが最後にございますな」
「唐辛子だ。腹を満たすためじゃなく、味を付ける物だ」
「先ほど奥方様が仰っていた、辛い物でございますな」
「ああ。これも今年は食うより種を増やす。十分暖かくなるまでは外へ出すな。水を切らしすぎても、水浸しにしても駄目だ」
「でしたら、下の湿る畝は避けましょう。こちらなら、乾けば水を持ってこられます」
「それで試そう」
四つの作物を植える場所が決まると、百姓たちは鍬を持って畝へ散っていった。その様子を眺めていた正利が、俺へ声を掛けた。
「なるほどのう。おぬしが教えておるようで、実際に植える場所を決めておるのは百姓どもか」
「当たり前だろ。この土地の土や水の流れを知ってるのはあいつらだ。俺の知識だけで決める方が危ない」
「先ほど、何でもできるわけではないと言うたのは本当だったわけじゃな」
「最初からそう言ってるだろ」
綾が横から口を挟んだ。
「少し安心しました」
「何でだよ」
「十兵衛様が何でも御存じでしたら、私からお教えできることまでなくなってしまいますので」
正利が声を上げて笑った。
「よい嫁を貰ったのう、十兵衛」
「勘九郎は黙ってろ」
そこへ畑の方から百姓の声が掛かり、政基が呼ばれた。サツマイモを試す二つの畝のうち、片方だけもう少し高くするらしい。政基が百姓と話しながら違いを木札へ書き留め始めたので、俺もそちらへ向かった。最初の札はすでに土へ差し込まれ、その横では次の畝を作る鍬が動いている。




