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近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第三章 北伊勢戦役

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第91話 小徳丸

 弘治二年(こうじにねん)(1556年)、十一月。

 伊勢国(いせのくに)、三重郡(みえぐん)、江野(えの)、街道。


 前から荷車が近づいてきた。引いていた男が俺たちに気づいて足を緩めたので、手を振って先に通した。後ろで荷を押さえる男も頭を下げ、荷車は車輪を鳴らして通り過ぎていった。


 以前の道幅なら、荷車が来るたびに大きく脇へ避けなければならなかった。今は少し寄るだけで、積み荷に触れずにすれ違える。


 俺は踏み固められた道を踏みしめ、佐兵衛(さへえ)に尋ねた。

「随分よくなったな。雨の後はどうだ」

「水の溜まる所へ土と石を入れ、両脇へ水を逃がしたので、この前の雨でも荷車は通れました」

「脇の溝は、落ち葉や土ですぐ埋まらないか」

「はい。定期的に取り除く者が要ります。その手間も見込んでおかねばなりませぬ」


 佐兵衛が道端へ寄り、溝の枝を拾い上げた。雨で土が流れ、荷車が通れば轍(わだち)も深くなる。道は通すだけでなく、手入れを続ける人と銭も要る。


 大蔵介(おおくらのすけ)が持参した絵図を広げ、江野から町へ続く道を指した。

「荷車が通れる所は増えておりますが、橋の手前や家並みの間には、まだ狭い所がございます」

「そこで向こうから荷車が来たら、どうする」

「片方を手前で待たせます。家を動かさずに幅を取れる所には、車を寄せる場所も設けております」

「なら、どこで待てばいいか、狭い所へ入る前に分かるようにしてくれ。互いに入り込んでから戻るのは大変だ」

「承知いたしました」


 さっきの荷車は、道の先へ進んでいた。後ろで荷を押さえていた男も、今は車の脇を歩いている。ぬかるみで足を取られずに済めば、重い荷も運びやすくなる。


 俺は絵図の上で、町と町を結ぶ道を指でたどった。

「道がよくなれば、行き来する奴も増える。途中で飯を食ったり、馬を休ませたりする場所も要るな」

「すでに茶や飯を出す家はございます。人が集まる所では、泊めてほしいと頼まれることもあるようです」

「なら、そういう所を宿場にしたい。どこがよさそうだ」


 大蔵介は絵図の何か所かを指した。道の分かれ目や、町から離れた集落だ。ただ、道沿いならどこでも宿場にできるわけではない。人と馬が使う水に加え、厩(うまや)を建てる広さや、飼葉(かいば)を蓄える場所も要る。


 佐兵衛が絵図の一か所を指した。

「ここは井戸の水が少のうございます。家を増やすなら、先に水を確かめねばなりませぬ」

「水と土地を調べてから決めよう。宿や飯屋を開きたい奴、馬の世話を引き受けたい奴も募ってくれ」

「建物は橘で用意するのでございますか」

「馬を継ぐ場所と、皆で使う井戸や道はこっちで整える。宿や飯屋は、商売をする奴に任せたい。何軒要るかは、今の人通りを見てからだ」


 まずは、今ある茶屋や飯屋が商いを続けられるようにする。泊まる客が増えてから宿を増やせばいい。先に建物だけ並べても、客が来なければ商売にならない。


 大蔵介が絵図から顔を上げた。

「馬を継ぐ場所と申されましたが、使者のためでございましょうか」

「使者にも荷運びにも使う。宿場ごとに馬と人を置き、次の宿場で引き継ぐ。伝馬(てんま)の仕組みを領内で揃えたい」

「それなら、江野から出した馬を遠くまで連れ回さずに済みますな」

「ああ。急ぎの使者も、次に替えの馬がいると分かっていれば先へ進める」


 大蔵介が絵図の余白に書き込み始めた。


 佐兵衛は、先ほど荷車が通った方を見ながら尋ねた。

「宿場に置く馬は、村から出させますか」

「まず橘で何頭揃えるか決める。足りないたびに近くの村から馬を取るのはやめろ。馬を貸す奴にも、荷を運ぶ奴にも代金を払う」

「御用の荷でも、でございますか」

「ああ。その分の銭も用意する。畑仕事の途中で馬を取られたら、そいつの仕事が止まるだろ」


 急ぎのたびに人や馬を集めるのでは、村の者も予定が立てられない。役目と代金を先に決めておけば、引き受ける者も仕事として続けられる。


 大蔵介が筆を止めた。

「御用だと申して、勝手に馬を使う者も出ましょうな」

「使っていい者には、こちらで書付を出す。誰が何を運ばせたか、宿場でも控えろ。口で橘の用だと言うだけでは貸すな」

「商人が銭を払って使いたいと申した時は、いかがいたします」

「急ぎの御用に差し支えなければ使わせろ。代金は行き先と荷に応じて決め、分かる所に掲げておく」


 話を終えて道へ目を向けると、さっきの荷車の後を、風呂敷包みを背負った女と年を取った男が歩いていた。二人も町へ向かうのだろう。男は片足をかばうように、ゆっくり歩いている。


 道は歩きやすくなったが、隣の町までの距離が縮んだわけではない。俺は大蔵介と佐兵衛に声を掛けた。

「人も車で運べるようにしたいな」


 大蔵介が書付から顔を上げた。

「馬に乗せるのでございますか」

「いや、馬に引かせる車に乗せる」


 佐兵衛が、先ほどの荷車が進んでいった方を見た。

「あのような車へ人を乗せるのでございますか」

「あのままじゃ尻が痛いだろ。腰掛けと屋根を付けて、何人か一緒に乗れる車を作る。江野と町の間を、決まった道で行き来させたい」


 思い浮かべたのは、十九世紀の街並みを描いた絵や映画で見た馬車だ。四つの車輪に箱形の客室を載せ、馬に引かせる。あの形なら、人を何人か乗せられる。


 車輪を取り付けるには、荷車や水車を作った時の知恵が使えるだろう。作兵衛や木地師に見せれば、形にしてくれるはずだ。俺は大蔵介から紙を一枚もらい、思い浮かべた馬車を描いた。佐兵衛も横から覗き込んだ。


 俺は描いた車の前と後ろを指した。

「横から見ると、こんな感じだ。前に馬を操る奴が座り、客は後ろから乗る。中には両脇に腰掛けを付けて、向かい合って座らせる」

「車輪は四つでございますな」

「ああ。人が乗り降りする時にも傾きにくいだろ。入口には足を掛ける段と、掴まる所も要る」

「屋根まで付ければ、かなり重くなりますぞ」

「最初から大きくしなくていい。まずは四人乗りで考えてくれ」


 佐兵衛は俺の絵を受け取り、前の車輪を指した。

「真っすぐ引く分にはよろしいですが、曲がる時には前の車輪の向きを変えねばなりませぬ。荷車を長くしただけでは、角を曲がれますまい」

「荷車を作る職人とも相談してくれ。前の車輪を支える部分ごと、向きを変えられないか」

「まずは小さな物を組んで試します。人を乗せる車ですから、走らせてから壊れるようでは困ります」

「頼む。坂を下る時に車が馬を押すのも危ない。車輪を押さえて止める仕掛けも考えてくれ」


 大蔵介は馬車の絵と道の絵図を見比べた。

「絵のような幅では、通れぬ橋もございます。先に車を作れば、道や橋を直すことになりましょう」

「なら、まず走らせる道を一つ決める。坂が少なく、橋も通れる所だ。車の幅は、その道に合わせよう」

「ほかの町へ通すのは、それからでございますな」

「ああ。実際に走らせれば、直す所も分かるだろ」


 描いている時は簡単に思えたが、二人と話すうちに、考えることが増えていった。馬車を作っても、引く馬を慣らし、御者(ぎょしゃ)を見つけなければ走らせられない。人を乗せる以上、荷車のように荷が落ちなければそれでいいともいかない。


 それでも、座ったまま領内の町へ行けるなら便利だ。商いに出る者も、親類を訪ねる者も使える。俺だって、用事のたびに馬へ乗らずに済むかもしれない。


 大蔵介が俺に尋ねた。

「客が揃ってから出すのでございますか」

「出る刻を決める。いつまで待つか分からないんじゃ使いにくいだろ。途中の宿場でも乗り降りできるようにしたい」

「客が一人でも、でございますか」

「ああ。一人だから明日まで待てとは言えない。最初は便を少なくして、どれだけ乗るか確かめよう」

「代金も、馬の餌や御者の手間を見て決めねばなりませぬな」

「高すぎれば歩くし、安すぎれば続けられない。試しに走らせて掛かる銭を調べてから決めてくれ」


 佐兵衛が、折りかけた馬車の絵をもう一度開いた。

「この車は、何と呼びます」

「乗合馬車(のりあいばしゃ)だ。何人かで乗り合わせる馬車。そのままだろ」

「承知いたしました。まずは形にして御覧に入れます」


 宿場ができて人や荷車が行き来すれば、飯屋や厩に加え、車輪の修理や馬の餌売りにも仕事が生まれる。道の普請銭がすぐ戻るわけではないが、新たに商いを始める者も出るだろう。


 * * *


 十一月の末、普請場へ呼ばれて行くと、屋根のない馬車が置かれていた。四つの車輪で支えた床の左右に腰掛けがあり、後ろには乗り降りするための踏み段も付いている。前には御者の席が設けられていた。


 佐兵衛は、俺が描いた紙を手にしていた。折り目の周りは黒く汚れ、余白には線がいくつも書き足されている。

「まずは人が乗る所まで組みました。屋根や囲いを付けた時の重さは、荷を積んで試しております」

「もう馬に引かせたのか」

「はい。車を引くのに慣らした馬で、空の状態から少しずつ荷を増やして走らせました」


 俺は踏み段を上がり、腰掛けに座った。向かいにも人が座れば、膝が近くなりそうだ。それでも、町までの道を座って行けるなら十分だった。


 一緒に来た政基(まさもと)が、車の外から中を覗いた。

「これで町へ参るのでございますか」

「いずれはな。弦十郎(げんじゅうろう)、お前も乗れ」

「私もでございますか」

「俺一人じゃ乗合にならないだろ」


 政基が向かいの腰掛けに座り、大蔵介も乗り込んだ。佐兵衛は車輪の動きを外から見るという。御者が馬を歩かせると、馬車はゆっくり進み始めた。


 動き出した時は、思ったより悪くない。だが、車輪が道の小さなくぼみへ落ちた途端、腰掛けが尻を突き上げた。俺が慌てて縁を掴むと、向かいの政基も同じ所を掴んでいる。


 俺は腰掛けに座り直した。

「……よく揺れるな」

「十兵衛様。これで長く乗られますと、降りて歩きたくなりましょうな」

「今、俺もそう思った」


 大蔵介は腰掛けを押さえ、苦笑した。

「敷物は用意いたします。ただ、それだけでは済みませぬな」

「腰掛けの揺れを少しでも和らげたい。車体を支える所も工夫できないか、職人と考えてくれ」


 鉄をしならせて車体を支える仕掛けが頭に浮かんだが、形だけ真似ても役に立つとは限らない。まずは今ある材料で、何ができるか試してもらおう。


 広い所で馬車が曲がると、前の車輪が向きを変え、後ろの車輪もその跡を通った。車体を横へ引きずることなく曲がれている。御者は馬車を止め、今度は車輪を押さえる仕掛けを動かした。


 馬車が止まると、俺たちは降りた。佐兵衛は車体の下を覗き、職人と短く話している。俺は尻をさすりながら、その横へしゃがんだ。

「曲がる方は、うまくいったな」

「ただ、狭い所では大きく回らねばなりませぬ。宿場にも、車の向きを変えられる場所が要ります」

「客を降ろすたびに、飯屋の前で道を塞ぐわけにはいかないか」

「はい。馬を替える場所も、道から少し引っ込めた方がよろしいかと」


 宿場の絵図にも、直す所が増えた。客を乗せて走り始める前に分かったのだから、今なら場所を考え直せる。


 政基が馬車の踏み段を見た。

「乗り降りは楽でございますな。馬に乗れぬ者でも使えましょう」

「そういう奴にも乗ってもらいたい。年寄りが隣の町まで歩くのは大変だろ」

「まずは、十兵衛様が途中で降りたくならぬようにせねばなりませぬな」

「頼む。尻が痛くならない車にしてくれ」


 佐兵衛は笑い、手元の紙に何かを書き足した。

「承りました。次にお乗りいただくまでに、少しでもよくしておきます」


 客を乗せて町々へ通すには、まだ時間が掛かる。それでも、紙に描いた馬車はもう走っている。帰り際に振り返ると、職人たちは早くも腰掛けを外し始めていた。


 * * *


 弘治二年(こうじにねん)(1556年)、十二月。

 伊勢国(いせのくに)、三重郡(みえぐん)、江野(えの)、屋敷。


 屋敷へ戻って綾(あや)の部屋を訪ねると、綾は侍女から受け取った小さな着物を広げていた。生まれてくる子供の物だという。袖は俺の手のひらで隠れそうなほど短い。


 俺は着物を覗き込んだ。

「こんなに小さいのを着るのか」

「生まれたばかりでございますから。すぐに大きくなるそうですけれど」

「じゃあ、何枚も要るな」

「ええ。母上からも、同じ大きさの物ばかり揃えぬようにと申されました」


 綾は着物を畳んで箱へ戻した。四月の末に懐妊(かいにん)が分かってから、七か月余り。腹もすっかり大きくなり、座り直す時にもゆっくり体を動かしていた。


 俺は綾のそばへ腰を下ろした。

「具合はどうだ」

「変わりございません。この頃は、よく動いております」

「腹の中でか」

「はい。十兵衛様がいらっしゃると、静かになることもございますけれど」

「もう俺の顔を見て大人しくしてるのか」

「まだ見えてはおりませぬ」


 綾が笑った。俺も腹へ目を向けたが、着物の上からでは動いているのか分からない。元気だと聞くとほっとする。それでも、無事に生まれるまでは心配だった。


 医者と産婆(さんば)には来てもらえるよう頼み、必要な物も侍女たちが揃えている。ほかに足りない物はないかと綾に聞いても、今のところはないと言われた。


 綾の部屋を出ると、廊下で政基が待っていた。

「弦十郎。明日は白子(しろこ)の子安観音寺(こやすかんのんじ)へ行く。供を整えてくれ」

「安産(あんざん)のお参りでございますか」

「ああ。こういう時くらい、神仏(しんぶつ)にも働いてもらわないとな」

「では、朝から出られるようにいたします」


 翌朝、政基たちを連れて江野を発った。街道では何台もの荷車とすれ違う。馬車を作らせてから、曲がり角や橋の幅が気になるようになった。ここは通れそうだ、ここには車を寄せる場所が要ると、道を見るたびに考えてしまう。


 俺の様子を見ていた政基が、横から声を掛けた。

「十兵衛様。今日は道の見分でございましたか」

「いや、つい気になっただけだ」

「佐兵衛殿へお伝えになることが、また増えそうでございますな」

「帰ってからにするよ。今日は観音様に用がある」


 白子の子安観音寺(こやすかんのんじ)に着くと、馬を預けて境内(けいだい)へ入った。案内された堂の前で手を合わせる。


 綾が無事に産み、子供も元気に生まれてくるように。願いはそれだけだ。男でも女でも構わない。跡取(あとと)りや家督のことは、生まれてから考えればいい。


 祈りを終え、寺へ納める銭を政基に渡した。政基は額を確かめると、何も言わずに寺の者へ取り次いだ。


 寺を出て馬を進めていると、政基が隣へ来た。

「四月には奥方様がお歩きになるのまで止めようとなさっていたのに、今日は観音様へお願いでございますか」

「綾ができることまで止めるわけにはいかないだろ。医者も産婆も頼んであるし、今は俺にできることがあまりないんだよ」

「四月の御様子をお忘れになったわけではないのですな」

「余計なことまで、よく覚えてるな」

「忘れる方が難しゅうございます」


 懐妊を知った頃は、重い物を持つな、庭へ降りるなと口を出し、綾にたしなめられた。政基が覚えているのも無理はない。


 俺は政基に言い返した。

「今度は余計な口を出さないぞ」

「そのお言葉、奥方様にもお願いいたします」

「分かってるよ」


 江野へ戻って綾の部屋を訪ねると、綾が立ち上がろうとした。俺はそばへ腰を下ろし、子安観音寺で安産を祈ってきたことを話した。


 綾は少し驚いた顔で俺を見た。

「私のために、白子までお出でくださったのですか」

「他に誰のために行くんだよ」

「いえ。そこまでしてくださるとは思っておりませんでしたので」

「弦十郎にも似たようなことを言われたぞ」


 二人にどう思われているのか気になったが、綾は嬉しそうだ。俺は寺に銭も納めてきたと伝えた。

「あとは観音様にも働いてもらう」

「それでは、私も頑張らなければなりませんね」

「もう十分頑張ってるだろ。無理だけはするなよ」

「はい。それくらいでしたら、お聞きいたします」


 四月のことは、綾もよく覚えているらしい。それ以上は口を出さず、綾が箱から取り出した小さな着物を一緒に眺めた。


 * * *


 弘治三年(こうじさんねん)(1557年)、正月上旬。

 伊勢国(いせのくに)、三重郡(みえぐん)、江野(えの)、屋敷。


 年が明け、正月も数日が過ぎた朝、綾に産気が来たと知らされた。政務(せいむ)の書付(かきつ)けを読んでいたが、どこまで目を通したのかも分からなくなり、そのまま置いて奥へ向かった。


 綾の部屋には産婆と侍女(じじょ)たちが出入りし、湯や布を運び込んでいた。俺も入ろうとすると、戸口にいた侍女が前に立った。

「十兵衛様は外でお待ちくださいませ。奥方様のお世話は、私どもでいたします」

「何か必要なら、すぐに言え。医者も近くにいるな」

「すでに控えております。今のところ、奥方様に異変(いへん)はございません」


 支度は整っているし、俺が入っても邪魔になるだけだ。廊下に座っても落ち着かず、戸口へ近づいては戻り、庭を見ても部屋の中の声が気になった。


 湯の入った桶(おけ)を運ぶ侍女が、俺の前で足を止めた。

「十兵衛様。もう少し離れてお待ちいただけますか。皆が通れませぬ」

「……すまん。ここは空ける」


 部屋へ入らなくても邪魔になっていた。侍女たちの通り道を空け、廊下の端に腰を下ろす。余計な口を出さないと政基に言ったが、黙って座っているのも難しい。


 しばらくして、政基が湯飲みを持ってきた。

「お飲みください。先ほどから何も口にしておられませぬ」

「ああ、悪い」

「何かあれば、すぐに知らせが参ります」

「分かってる。ここで待つよ」


 湯飲みを両手で持ち、少しずつ飲んだ。綾の声が聞こえるたびに顔を上げる。道や馬車なら、気になる所を見に行って佐兵衛たちに聞ける。今は中の様子も分からず、任せて待つしかなかった。


 どれほど経ったか、戸の向こうで声が重なり、湯飲みを置いて立ち上がると赤ん坊の泣き声が響いた。戸口へ踏み出しかけて足を止めると、もう一度はっきり聞こえる。生まれたんだ。だが、綾の様子はまだ分からない。


 ほどなく戸が開き、侍女が顔を出した。

「十兵衛様。若君が御無事にお生まれになりました」

「綾は。綾も無事なのか」

「奥方様も御無事にございます。中を整えますので、もう少しお待ちくださいませ」

「そうか。……分かった」


 二人とも無事だと聞き、ようやく肩の力が抜けた。そこで、侍女が「若君」と言ったことに気づく。息子が生まれたのか。


 政基が深々と頭を下げた。

「おめでとうございます」

「ああ。二人とも無事だってよ」

「はい。ようございました」


 政基には、聞いたばかりの言葉を繰り返すことしかできなかった。俺は戸口の前に立ったまま、中へ通されるのを待った。


 しばらくして部屋へ入ると、綾は疲れ切った顔で横になっていた。枕元(まくらもと)には布に包まれた赤ん坊がいる。思っていたより小さい。顔は赤く、目はほとんど開いていない。さっきまで泣いていた口が、今は小さく動いていた。


 俺は綾のそばに腰を下ろした。

「大丈夫か」

「はい。少し疲れました」

「そりゃそうだろ。よく頑張ったな。今はゆっくり休めよ」


 何か言おうとしても、それ以上の言葉が出てこない。綾は俺の顔を見て笑った。

「十兵衛様は、外で随分と歩いておられたそうですね」

「誰だ、余計なこと言ったの」

「皆が申しておりました」

「……次は、もっと離れたところで待つ」


 次があるかも分からないのに、そんなことを言ってしまった。赤ん坊へ目を向けると、布の中で小さな体が動いている。あの着物を着せる相手が、本当に生まれたのだ。


 綾も赤ん坊を見て、俺に尋ねた。

「十兵衛様。お名前は、もうお決めになっておられますか」

「名前か。……そこまでは考えてなかったな」


 無事に生まれてくることばかり考えていた。その顔を眺めているうちに、ふと自分の幼い頃の名が浮かんだ。


 俺は綾に言った。

「小徳丸(しょうとくまる)だ。俺の幼名(ようみょう)を継がせる」

「小徳丸……。随分と早くお決めになりましたね」

「今決めた。俺の嫡男(ちゃくなん)なんだから、いいだろ」

「そうではないかと思いました」


 綾は声を立てずに笑った。俺も赤ん坊へ目を戻す。数年前まで自分が呼ばれていた名を、今度はこの子に渡す。そう考えると、少し妙な気分だった。


 翌朝、朝霧へ誕生を知らせる使いを出すと、数日後、頼政(よりまさ)と春(はる)が惟丸(これまる)と初音(はつね)を連れて江野へ来た。二人はすぐ赤ん坊のそばへ寄り、惟丸も後ろから覗き込む。春と手を繋いだ初音は、布に包まれた小徳丸をじっと見ていた。


 頼政は赤ん坊を抱き上げ、顔を覗き込んだ。

「これが十兵衛の子か」


 それきり黙って、小徳丸を見ている。隣に寄った春は、頼政の顔を見て笑った。

「殿も、十兵衛が生まれた時は、そのようなお顔をなさっておりましたよ」

「そのような顔と言われても、わしには分からぬ」

「ええ。あの時も、御自分ではお気づきでなかったでしょうね」


 頼政は言い返さず、腕の中へ目を戻した。たしかに、普段より口元が緩んでいる。


 惟丸が俺の横へ来た。

「兄上。名はもうお決めになったのですか」

「ああ。小徳丸だ。俺の幼名を継がせた」

「父上には、お話しになったのですか」


 俺が答える前に、頼政がこちらを向いた。

「わしも今初めて聞いたぞ。勝手に決めおって」

「駄目ですか。綾にはもう、この名だと言ったんですが」

「誰も駄目とは申しておらん」


 それなら問題ない。綾も寝具の中で笑っている。まだ休ませておきたいが、出産直後より顔色はずっと良くなっていた。


 初音が春の袖を引き、頼政の腕の中を指さした。

「ちいさい」

「初音も、生まれた時はこのくらいでしたよ」

「わたしも」

「そうですよ。父上にも抱いていただいたでしょう」


 初音は頼政を見上げ、それから背伸びして小徳丸を覗き込んだ。惟丸もそばへ寄ると、頼政は二人に見えるよう、腕の位置を少し変えた。


 小徳丸の口が動き、初音が春の袖を引いた。

「わらった」

「そう見えましたね」


 頼政まで赤ん坊の顔を覗き直している。俺もつられて近寄ると、春に笑われた。


 春が俺に声を掛けた。

「十兵衛も、抱いてみなさい」

「抱いてはいるんですが、まだ慣れなくて」

「首を支えてあげれば大丈夫ですよ」


 頼政から小徳丸を受け取り、恐る恐る抱くと、春が頭を支える手の位置を直してくれた。小徳丸は少し身じろぎしたが、泣かない。この子が歩いて外へ出たがる頃には、町へ行く乗合馬車も走っているだろうか。


 道や宿場のことを考えていた時は、そこを小徳丸も行き来するとは思っていなかった。腕の中で小さな手が動いたので、そっと指を触れさせる。思ったより強い力で握り返してきた。


 俺は綾に顔を向けた。

「見ろ。結構、力があるぞ」

「十兵衛様の指を離したくないのでしょう」


 そう言われると、抜くのが惜しくなった。俺は小徳丸を抱いたまま、しばらくその手に指を握らせていた。

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