第90.5話 閑話 湯の谷連続殺人事件
弘治二年(1556年)、十月。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
昼前に帳面を返すと、ようやく机の上が空いた。次の束が運ばれてくる前に、俺は立ち上がって腰刀を差した。そのまま廊下へ出ると、向こうから来た政基と鉢合わせた。
政基は俺の足元から腰刀へと目を移した。
「十兵衛様。どちらへ行かれるのでございますか」
「風の吹くまま気の向くままってやつだよ。道の真ん中でよ、指に唾つけるだろ。で、こうやって出すわけだよ。風が吹いてきたなって方へ一緒につられて、フワフワってこう行っちゃうわけだよ」
俺が指を立てて身体を傾けると、政基は持っていた書付を近くの者へ渡した。
「では、某も御供いたします。供も付けずに出られては困りますので」
「止めないのか」
「止めている間に、裏口へ回られましょう」
よく分かっている。綾に出掛けることを伝え、政基と供の兵を連れて屋敷を出た。分かれ道では何となく山に近い方を選び、道端の店をのぞきながら歩く。そうしているうちに、湯の谷へ向かう道に入っていた。
谷へ着くと、湯殿へ続く道沿いに新しい宿が見えた。まだ昼を少し回ったところだ。俺は軒先で足を止め、政基を振り返った。
「ここまで来たなら湯に入るか。今日は泊まって、のんびりしていこうぜ」
「では、奥方様へ使いを出します。風の都合で一泊すると申し上げればよろしいので」
「普通に湯に泊まるって言えよ」
宿主の清兵衛は、俺たちの素性を知ると、自分の部屋まで空けようとした。そこまでは要らないと断ると、番頭の弥吉が空き部屋を確かめに行き、女中のお志乃が人数分の手拭いを運んできた。
部屋が決まると、弥吉は客の名を帳面へ書き付けた。清兵衛が部屋割りを指図する横で、お志乃は言われる前に膳の数を数え直している。宿は新しくても、働く者たちは仕事に慣れているらしい。
湯から戻る頃には、客が増えていた。商人の庄三郎、薬売りの源六、木地師の徳松、昔は荷駄を運んでいたという権助。晩飯の席で紹介され、それぞれ頭を下げたが、誰も隣の客へ近づこうとはしなかった。
庄三郎が、膳の向こうに座る権助へ目を向けた。
「お前さん、どこかで会わなかったか」
「荷を運んでおりましたから。どこぞの市では」
それきり話は続かなかった。清兵衛が酒を勧めても庄三郎は上の空で、源六は徳松の膳に肘が触れただけで座り直した。商売上の揉め事でもあるのだろうか。
徳松が汁椀を置き、弥吉を呼んだ。
「番頭。明日の朝、道具を研ぐ石を貸してくれ」
「裏にございます。お入り用でしたら今でも」
「明日でいい。今日はもう飲む」
お志乃が徳利を取り替えに来た。俺の膳へ魚も足そうとしたので断り、権助に勧めておいた。権助は礼を言ったが、皿を受け取る際、お志乃の顔を確かめるように少し身を乗り出した。
気にはなったが、湯上がりの眠気には勝てなかった。飯を済ませて部屋へ戻り、横になる。次に目を覚ましたのは、壁の向こうで何かが倒れる音がした時だった。
廊下へ出ると、庄三郎の部屋の前に弥吉と清兵衛がいた。政基もすでに起きている。清兵衛が戸板を叩いた。
「庄三郎様。どうなされました。お返事を」
中から返事はなかった。戸を引いても、内側の閂に阻まれて開かない。政基が皆を下がらせ、兵二人に戸を押させた。受け木が外れると、戸は内側へ傾いた。
庄三郎は、倒れた行灯の脇に横たわっていた。腹の辺りが血で濡れ、手近には短い刃物が落ちている。政基が呼び掛けても動かず、身体を確かめた兵が俺へ首を振った。
その脇には、片側が焦げた木片も落ちていた。紐を通す穴と焼印が残っている。古い荷札だ。清兵衛が拾おうとしたので、俺は止めた。
「触るな。何があったか分かるまで、そのままにしておけ」
「内から閉めておられました。御自害では……」
「まだ分からない」
俺は政基へ顔を向けた。
「弥平次を呼んでくれ。宿で人が死んだ。調べる者を連れて来いと伝えろ」
兵の一人を江野へ向かわせ、残りには俺の部屋と庄三郎の部屋を守らせた。客にも宿を出ないよう伝える。湯殿や台所にまで人を付ける余裕はなく、そこは内務軍の到着を待つしかなかった。
物音を聞いて廊下へ出てきた源六は、死体を見るなり口を覆った。徳松は権助を見ていたが、俺と目が合うと床へ目を落とす。お志乃は灯明を運び、戸口から離れた所へ置いた。
俺は清兵衛を廊下の端へ呼んだ。
「あの男とは昔からの知り合いか」
「いいえ。初めてお泊まりになったお方でございます」
「荷札に心当たりは」
「ございません。古い物のようですが」
清兵衛を戻し、部屋の床を見直した。死体の周りだけでなく、戸口近くにも血が落ちている。廊下にも小さな跡があったが、人に踏まれて擦れ、そこから先は分からなかった。
空が白み始める前に、弥平次たちが来た。光忠が表口と裏手に兵を置き、行政は広間で事情を聞き始める。茂朝は死体と部屋の様子を記し、荷札と刃物を別々に包んだ。
尋ねるのは、庄三郎を最後に見た時、夜にいた場所、以前からの付き合い、荷札への心当たりだ。徳松も権助も寝ていたと答え、庄三郎とは初対面だと言った。清兵衛については、俺が夜中に聞いた返答を伝えておいた。
弥吉は台所で片付けをしていたという。お志乃は物音がする前に、廊下で庄三郎を見たと答えた。
行政が、その時の様子を尋ねた。
「どちらへ行った」
「お部屋の方へ。急いでおられたので、道を空けました」
「血には気づかなかったか」
「暗くて、そこまでは……」
源六の部屋には誰もいなかった。清兵衛も休んでいるというので、行政は広間にいる者から話を聞き続けた。
俺は政基と庄三郎の部屋へ戻った。茂朝が壊れた戸の内側で閂を調べている。その中央には血が付いていた。庄三郎の手も血に汚れ、入口から倒れている所まで、床に点々と跡が続いている。
俺は廊下へ出て、血の跡と戸の位置を確かめた。
「こいつ、外で襲われてから戻ってきたんじゃないか」
「部屋へ逃げ込んだのでございますか」
「ああ。自分で閂を掛けたなら、不思議でも何でもない。倒れる時に行灯を引っ掛けたんだろ」
政基が戸と死体を見比べた。内側の閂は、襲われた男が逃げ込んだと考えても説明がつく。戸が閉まっていたというだけで、自害とは決められなかった。
茂朝が刃物を包んだ紙へ目を落とした。
「こちらは徳松の物だそうです。先ほど本人が申しました」
「自分からか」
「はい。ほかの道具と一緒に置いてあったはずだと」
木地師なら刃物を持っていて当然だが、死体の脇にあれば話は別だ。行政が聞き直すと、徳松は昨夜からなくなっていたと言い出した。なぜ最初に言わなかったのかと問われ、疑われるのが嫌だったと答える。
その最中、源六を捜していた兵が湯殿から戻ってきた。
駆けつけると、源六は湯の縁にもたれ、顎を水面へ落としていた。引き上げても返事はなく、首には赤黒い痕がある。着物を置いた棚には、二枚目の焦げた荷札が残されていた。
身体を支えていた兵が、弥平次へ顔を向けた。
「まだ温うございます。今しがたではございませぬか」
入口にいた弥吉が首を振った。
「今しがたなら、手前は広間におりました。お志乃も膳を運んでおります。皆様が御覧になったはずです」
ほかの者にも、その時間に居合わせた相手がいた。徳松は行政に問い詰められ、権助は兵の前で荷を開かされている。宿の外から誰かが来た様子もなかった。
広間へ戻ると、徳松が落ち着かずに座を替えていた。行政が源六との関係を尋ねても、初対面だと繰り返す。だが、湯で死んでいたと聞いた途端、顔をしかめた。
「あいつは昔から、長湯なんぞしねえのに……」
俺が足を止めると、徳松も口をつぐんだ。
「昔から、だと」
「いや、昨日も早く上がっていたから」
「昨日のことを、昔からとは言わないだろ」
徳松は権助へ顔を向けた。権助はそちらを見ず、開かれた自分の荷を睨んでいる。その中から、茂朝が折り畳まれた文を取り出した。
十二年前の荷について話がある。指定の日に、この湯宿へ来い。差出人の名はなかった。徳松の荷にも同じ文があり、庄三郎と源六の荷からも見つかった。
俺は権助へ文を示した。
「これで来たんだな」
「……はい」
「なぜ隠していた」
「何のことか、分からなかったので」
分からない文を受け取って、四人とも同じ宿へ泊まりに来たという。誰もその言い訳を信じなかった。
弥平次が文を並べると、横からのぞき込んだ弥吉が顔色を変えた。
「その字は、手前が書いたものです」
宿へ客を呼ぶ文だと言われ、清兵衛に頼まれて書いたという。字を書けない者に代わって文を書くのは、普段からしていることだった。
俺は弥吉に確かめた。
「では、宿主が四人を呼んだのか」
「はい。ただ、書くことを記した紙を持ってきたのは、お志乃です。主人に頼まれたと」
「その紙は」
「書き終えて返しました。文も一緒に」
お志乃も、主人から頼まれたと答えた。弥吉は清兵衛へ直接確かめていない。日頃の使いと同じだと思い、そのまま書いたらしい。
清兵衛を呼ぶよう頼むと、弥吉が奥へ向かった。俺はその間に湯殿へ戻り、湯の中へ手を入れた。
源六の身体が温かかったから、今しがた死んだと思った。だが、湯に入れた俺の手も、外にいた時より温まっている。
政基が後ろから入ってきた。
「何かございましたか」
「そりゃ湯に浸かってたら、死人だって温かくなるだろ」
言ってしまえば、それだけのことだった。身体の温かさを当てにできないなら、朝の居場所を確かめても足りない。夜のうちに殺されていた可能性がある。
宿へ戻って最後に源六を見た時を聞き直すと、庄三郎の死体が見つかった後だった。眠れないから湯へ行くと言っていたが、戻った姿を見た者はいない。
弥平次が行政へ、夜の動きを聞き直すよう命じたところで、弥吉が戻ってきた。清兵衛がいないという。
部屋には寝具が敷いてあるだけだった。光忠が兵を分けて宿の中を捜させると、ほどなく物置から呼ぶ声がした。
奥に置かれた大きな櫃の中に、清兵衛が身体を曲げて押し込まれていた。着物の胸元には三枚目の荷札がある。床の筵をめくると、下には血が染みていた。その上を、何人もの者が通っていたのだ。
弥平次が廊下を振り返った。
「某がここへ参ってから、外へ出た者はおりませぬ。この前も兵が通っております」
「中にいた奴なら殺せるだろ」
「人をここまで運べば、誰かが気づくかと。物置の前には、朝のうち兵も立っておりました」
俺も何度か通ったが、人を運ぶところは見ていない。そこでようやく、清兵衛自身を最後に見た時を考えた。話したのは、庄三郎の死体が見つかった直後だ。
広間へ戻り、弥平次が来てから清兵衛を見た者がいるか尋ねた。弥吉は部屋で休んでいると思ったと言い、客たちも首を振る。お志乃が台所で見たのも、まだ夜のうちだった。
俺は一通り返事を聞き、皆の顔を見渡した。
「誰も見てねえじゃねえか」
弥吉が休んでいると言ったから、清兵衛は奥にいると思っていた。四人を呼んだ理由も、本人に聞けば分かるつもりでいたのだ。だが、内務軍が来る前から櫃に入っていたとしてもおかしくない。
茂朝も書付を見直した。清兵衛が初対面だと答えたのは、俺が夜中に尋ねた時だ。朝まで生きていた証しにはならなかった。
物置を調べるうち、ほかにも古い荷札や帳面が見つかった。この宿ができる前、谷で旅人を泊めていた小屋から、清兵衛が使える物を運んだのだという。
茂朝が帳面をめくり、荷札と同じ焼印を見つけた。十二年前、旅商人が家族と奉公人を連れて泊まった時の記録だった。
弥吉がその頁をのぞいた。
「その一家なら、谷の年寄りが話しておりました。荷も人も消えて、山賊に襲われたのだろうと。荷の一部だけは焼けて見つかったそうです」
「その年寄りから話を聞けるか」
「下の村におります」
「弥平次、人を出してくれ。自分で見たことと、聞いただけの話は分けてな」
三枚の荷札を並べると、権助が口を開いた。ひとしきり木片を見つめ、行政へ頭を下げる。
「もう、隠し通せません。俺たちがやったことです」
十二年前、旅商人の荷と銀を奪おうと持ち掛けたのは庄三郎だった。源六、徳松、清兵衛、権助の五人で、泊まっている間に荷を盗むつもりだったという。だが、運び出すところを奉公人に見つかり、騒ぎになった。
権助は指を組み直しながら続けた。
「旦那も、かみさんも、奉公人も殺しました。俺は荷を運んでおりましたが、止めもしなかった」
行政が、俯いた権助へ尋ねた。
「その後、誰かへ届けたか」
「届けておりません」
「奪った銀は」
「……俺も、受け取りました」
徳松が身を乗り出した。
「こいつの言うことを、そのまま信じるんですか。仲間を売って、自分だけ助かろうとしているんだ」
「なら、お前の話も聞く。十二年前、ここにいたんだな」
俺に問われ、徳松は口を閉じた。しばらくして、懐から折った紙を出す。自分の膳の下に入っていたという文には、次はお前だ、と書いてあった。
徳松は権助を指した。
「三人死んで、次は俺だと。こいつだけ何もされていない。おかしいじゃありませんか」
疑う理由はある。だが、徳松の刃物も庄三郎の部屋で見つかっている。互いに相手が怪しいと訴える二人を、弥平次は別々の部屋へ移し、それぞれ兵を付けた。
四人を呼ぶ文は弥吉が書いた。清兵衛の指図だと伝えたのはお志乃で、その清兵衛は死んでいる。誰の話も、別の者に確かめようとすると途中で止まってしまう。
俺が書付を読んでいると、お志乃が灯明を替えに来た。茂朝が卓の上を空ける間、お志乃は物置の方へ目を向けた。
「主人のことは、まだ分かりませんか」
「調べている。最後に話した時、変わった様子はなかったか」
「いいえ。ただ、四人のお客様が文を持っていらしたか、気にしておりました」
「来ると知っていたんだな」
「はい。ですから、私も主人が荷札を見せて、何かお話をするのだとばかり……」
茂朝が顔を上げた。お志乃は灯明の位置を直し、まだ用があれば呼んでくれと言って台所へ戻った。
日が落ちてから、俺は政基と現場を回った。庄三郎の部屋の戸、湯殿、物置。廊下を歩くうちに、夕方のお志乃の言葉が引っ掛かった。
俺は政基へ確かめた。
「文に、何て書いてあった」
「十二年前の荷について話がある、と」
「そうだったな」
部屋へ戻り、茂朝に文を見せてもらった。四通とも同じだ。その横に荷札を並べてもらい、焼けた端と、擦れた紐穴を眺める。
呼び出した者と、殺した者が同じなら。俺はそこで手を止め、昨日から聞いた返答をもう一度確かめた。
政基が横から尋ねた。
「十兵衛様。何かお分かりになりましたか」
「……謎解きはここまでだ。答え合わせといこうか」
俺は弥平次を呼び、耳元で頼んだ。徳松へは誰も近づけるな。膳も湯も、兵が取り次げ。権助もそのまま守り、宿の者を広間へ集めてほしい。
光忠が席を立って間もなく、兵が徳松の部屋から紙を持ってきた。戸の下へ差し入れられていたという。権助がすべてお前の仕業にするつもりだ、裏の物置で話す、とある。
徳松はすでに立ち上がっていたが、兵に止められていた。光忠が物置へ兵を向かわせると、中に人はいなかったものの、積んだ筵の陰から布に包まれた刃物が見つかった。
広間には弥吉とお志乃、権助、徳松が集められた。俺は皆が座るのを待ち、まず徳松へ向き直った。
「その文は権助が入れたものじゃない。こいつの部屋には、ずっと兵がいた。お前を一人で物置へ来させるための文だ」
徳松は権助を睨んだまま座り直した。俺は三枚の荷札を前へ置き、庄三郎の戸が内から閉まっていた理由を説明した。続いて、源六の身体の温かさでは死んだ時を決められないこと、清兵衛を朝に見た者はいなかったことを話す。
弥吉が困った顔で口を挟んだ。
「では、三人とも、兵の方々が来られる前に」
「その可能性がある。朝の居場所だけで、誰にもできないとは言えないんだ」
俺は四通の文を荷札の横へ並べた。
「弥吉。この文を書く時、荷札を見たか」
「いいえ。渡された紙の通りに書いただけです」
「庄三郎の部屋で見るまで、知らなかったんだな」
「はい。ほかにあるとも存じませんでした」
俺はお志乃へ顔を向けた。
「お前はさっき、清兵衛が荷札を見せて話をすると思ったと言った。どうして、清兵衛がこれを持っていると思ったんだ」
お志乃は答えず、文へ目を落とした。そこに書かれているのは昔の荷のことで、荷札ではない。清兵衛が荷札を持っていたという話は、誰からも出ていなかった。
俺は返事を待ってから続けた。
「頼まれたのが文を渡すだけなら、荷札まで知っていた理由を聞かせてくれ」
お志乃の指が膝の上で重なった。
「主人に、見せられたのでございます」
「庄三郎の部屋で見つかった後も、そう言わなかったな。主人が持っていた物なのに」
「……疑われると思いましたから」
これだけで決める気はない。茂朝に頼み、客たちを呼んだ文と、徳松の部屋へ入れられた文を並べてもらった。筆跡は違うが、弥吉へ渡した下書きが残っていれば確かめられる。
お志乃の荷を改めると告げた時、権助が顔を上げた。
「お志乃。もう、やめろ」
徳松が権助へ振り返った。俺は二人の間に入り、権助へ尋ねた。
「何を知っている」
「昨夜、顔を見て、似ていると思いました。あの商人のかみさんに。歳を考えれば、まさかと……」
「誰に見えたんだ」
権助はお志乃を見たまま答えた。
「娘です。あの一家には、小さな娘がおりました」
お志乃は否定しなかった。権助が小屋へ戻った時、娘はまだ生きていた。仲間には死んでいたと告げ、外へ連れ出して逃がしたという。行政へ話した時にそこを伏せたのは、自分を助ける言い訳に聞こえるのが怖かったからだと。
お志乃が初めて権助へ顔を向けた。
「あの時、逃げろとおっしゃったことは、忘れておりません」
権助は両手をつき、頭を下げた。お志乃は俺へ向き直り、荷札は自分の物だと認めた。逃げた後、小屋へ戻って拾ったものだった。
清兵衛を見つけ、この宿へ働きに入った。文は主人の用事と偽って弥吉に書かせ、四人へ届けた。清兵衛にも別に文を置いたため、五人とも誰が呼んだか分からないまま、互いを疑っていたのだという。
お志乃は荷札の焦げた端を見つめた。
「あの人たちは十二年、何もなかったように生きていた。清兵衛は、私に笑って飯を食えと言いました。父も母も、あの小屋で死んだのに」
庄三郎へ荷札を見せたのは、お志乃だった。襲われた庄三郎が部屋へ逃げ込み、自分で戸を閉めたのは計算外だったという。その騒ぎの後、湯へ向かった源六を殺し、最後に清兵衛を物置へ呼んだ。朝まで二人が見つからなければ、その間に徳松も殺せると思ったらしい。
光忠が戻り、お志乃の荷から見つかった物を茂朝へ渡した。四枚目の焦げた荷札と、文の書き損じがある。弥吉はその字を見て、渡された下書きと同じだと認めた。
徳松が立ち上がりかけた。
「こいつが、俺を――」
兵が間に入った。その向こうでお志乃も立ったので、俺は徳松へ向かうのだと思った。だが、お志乃は反対へ身を翻し、廊下へ飛び出した。
政基がすぐに追った。光忠は徳松と権助を兵に任せ、裏手へ回る。俺も灯りを持つ兵の後を追った。お志乃は庭を抜け、荷道から外れた細い道へ入っていた。
古い小屋の跡には、土台の石だけが残っている。その先は、道から沢へ切れ落ちていた。政基が追いついて腕を掴むと、お志乃は振りほどこうと身体を振った。
政基は足を踏み直し、道の内側へ引き戻した。駆けつけた兵が反対の腕を押さえる。俺が着いた時、お志乃は地面に膝をついていた。
俺はその前へしゃがんだ。
「死んで終わりにするな」
「もう終わりました」
「終わってねえよ。十二年前のことも、今回のことも、まだ全部調べてない」
お志乃は俺を見ず、小屋の跡へ顔を向けていた。許されるとは言えない。父母を殺した者への復讐だったとしても、三人を殺したことは消えなかった。
後から来た弥平次が、お志乃の手に縄を掛けた。
「歩けますか。足を痛めているなら、申されよ」
お志乃は首を振り、支えられて立ち上がった。弥平次は兵に灯りを先へ持たせ、石や木の根に足を取られないよう、お志乃を宿へ連れ戻した。
* * *
十日ほど後、江野の机には、また帳面が積まれていた。
内務軍は十二年前の事件を調べ直している。死んだ三人の関与も確かめられたが、権助と徳松が何をしたのかは、まだ細かく調べる必要があった。お志乃の処分も、その調べを終えてからだ。
湯宿はしばらく戸を閉めた後、弥吉が再開させたという。文を書いた時の事情も調べられ、殺しへの関与は認められなかった。今度文を頼まれたら、誰の用事か本人に確かめると言っていたそうだ。
報告を置いた政基が、外へ向きかけた俺に声を掛けた。
「十兵衛様。次にお出掛けになる際は、行き先を決めてからになされてくださいませ」
「なんでだよ」
「風任せで湯の谷へ行かれ、このようなことになりましたので」
「俺が行ったから殺されたみたいに言うなよ」
政基は机に残っていた書付を一枚、俺の前へ戻した。先にこれを読めということらしい。俺は目を通して署名を済ませ、今度こそ立ち上がった。
廊下まで付いてきた政基が尋ねた。
「では、次はどちらへ」
「んなもん、風に聞けよ」




