光るゴミ
私は一体、誰の代わりになれるのだろうか。
その日の依頼は、女孫であった。
ママからその話を聞かされた時点で、私の胸は鉛でも詰め込まれたように重かった。
「地元の先輩なのよ。昔から幸薄そうで、ひどく暗い女だったわ。今でもちっとも変わっちゃいないと思うね」
ママは安煙草を浅ましく咥えながら、鼻でせせら笑っていた。
他人の不幸せや悪口を貪る時だけ、妙に活き活きと愉しげになるのは、この老婆の昔からの悪癖だ。
「そんなに嫌なら、断ればいいじゃない」
「嫌よ。昔、あれこれと世話になったんだからね」
世話になった相手に対する口の利き方ではないな、と私は内心で毒づいたが、わざわざ口に出して現世の揉め事を起こすほどの元気を、私は持ち合わせていなかった。
指定された駅前へ赴くと、待ち合わせの片隅に、一人の小柄な老人が佇んでいた。
75歳半ばくらいであろうか。
薄汚れたベージュのカーディガンに、紺色の冴えないスカート。肩からは、いかにも使い古されて型崩れしたトートバッグをぶら下げている。
地味であった。
恐ろしいほどに地味であった。
もしも雑踏ですれ違ったとしても、2秒後にはその輪郭ごと綺麗さっぱり忘却の彼方へ消え去ってしまいそうなほど、どこまでも平凡な、世間に埋没した老人だった。
「あの……みずきちゃん、かしら?」
今夜の私は「私」であることを奪われ、彼女という記号にならなければならない。
「うん。おばあちゃん、お待たせ」
私は、いつもの営業用の、へりくだった道化の笑みを貼り付けた。
老女性は、せきを切ったように、ほっと胸を撫でおろして微笑んだ。
「よかった。ちゃんと来てくれて」
その笑顔すらも、どこか世間に対して怯えるように、遠慮がちであった。
この世には、まことに不思議なことに、何一つ悪いことをしていない癖に、まるで自分が生きていること、自分が幸福であることそのものに深い罪悪感を抱き、申し訳なさそうに笑う人間がいる。彼女もまた、その哀れな人種の一人であるようだった。
電車に揺られる。
目的地は泉区の巨大なアリーナで、なんでも今をときめくアイドルグループのライブがあるのだという。私は元来、俗世の流行というものに全く暗く、その高尚な名前を聞かしてもらったところで皆目見当がつかないし、唄も知らぬ。ましてや、その集団の中で誰が一番の寵児であるのかさえ知る由もない。けれど、その老人のほうは、まるで一世一代の祝祭にでも臨むかのように、本当に愉しみにしている様子であった。
携帯電話の待ち受け画面も、その偶像。
バッグの紐には、色鮮やかな記念品のキーホルダー。
会場までの道中、彼女の口からは、堰を切ったようにその話ばかりが溢れ出た。
「あの子ね、本当に、本当にこの子たちのことが好きだったのよ」
そう言って、皺の寄った手でスマートフォンの画面を私に差し出して見せる。
そこには、一人の若い娘が写し出されていた。
少し垂れ目で、笑うと愛らしい八重歯が覗く。
どこにでもいそうな、ありふれた、それゆえに眩しいお嬢さんだった。
「お孫さん、ですか?」
「ええ、そうなの」
老人は、嬉しそうに何度も頷いた。
「大学生、だったのよ」
その瞬間、私の胸を奇妙な違和感がかすめた。
「だった」と、彼女は過去の言葉を用いたのだ。けれど、私はそれ以上、その傷口を穿じるような真似はしなかった。他人の過去を詮索するのは、私の仕事ではない。私はただ、都合のいい幻影を演じるだけの機械なのだから。
会場へ到着すると、物販の広場には若い娘たちが蟻のように群がっていた。
おばあちゃんは群衆の端で少しばかり迷うような素振りを見せた後、小さなキーホルダーをそっと手に取った。
「欲しいの? 買う?」
「ううん、いいの」
「じゃあ、どうしてそれを持ったのさ」
「あの子が、これが一番好きだったから」
そう言って、寂しそうに、くしゃりと顔を歪めて笑う。
私は、返す言葉を失って立ち尽くすより他になかった。
開演までは、まだ時間があった。
近くの粗末なベンチへ腰掛け、彼女はバッグの底から透明なファイルを取り出した。
その中には、いつのものか、演奏会の入場券が何枚も何枚も大切そうに挟み込まれていた。
すっかり色褪せて、文字の薄くなったものもある。
数年分もの、狂おしい執着の履歴がそこにあった。
「これ、全部おばあちゃんが来たの?」
「ううん。私は、2回だけ」
「じゃあ、この山のようなチケットは?」
「全部、あの子の遺したものよ」
おばあちゃんは指先で、一枚一枚の紙片を、まるで極上の絹織物でも撫でるように愛おしそうに追う。それはまるで、失われた時間を手繰り寄せる追憶のアルバムを眺める姿そのものであった。
「あの子、本当にこれが好きだったのよ」
何度も、何度も、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返す。
人間という生き物は、本当に、骨の髄まで大切な話をするとき、同じ拙い言葉しか使えなくなるらしい。私はそのあさましくも美しい執念を、ただ黙って見つめているしかなかった。
開場の時間となり、私たちは重い足取りで座席へと向かった。
彼女は慣れぬ手つきでさも自分の席を探し出そうとするが、悲しいことに、彼女も私も、こうした巨大な迷宮での座席の探し方など分かりはしない。結局、制服を着た係員に訊ね、席まで案内してもらった。
「こちらのお席でございます」
促されたその場所は、舞台のすぐ目の前の、実に見事な特等席であった。恐ろしいほどに高価なチケットだったのだろうと、私は何よりも先に下衆な金の計算をしてしまった己の心の貧しさを、激しく恥じた。
私が座る。
その姿をじっと見て彼女は優しく微笑んだ。
「この席ね」
「うん」
「あの子が、最期に当ててくれた席だったのよ」
その刹那、私の脳裏ですべての歯車が噛み合った。いや、最初から薄々気づいていながら、己の自意識を守るためにあえて考えないように努めていた冷厳な事実を、正面から叩きつけられた気分だった。
だから「大学生だった」のだ。
だから「あの子が好きだった」のだ。
だから彼女の言葉は、最初からすべて、血を吐くような「過去形」で語られていたのだ。
私は、声も出せなかった。
老人は、私の偽物の顔をじっと見つめながら、他人事のように言葉を紡ぐ。
「一緒に行こうねって、あの子と約束していたの」
少しだけ、寂しそうに笑う。
「でもね、約束、守れなくなっちゃったのよ。あのこよく言ってたの「推しのライブに空席を作りたくないって。だから毎回行くの」って。だからね、あの子が言っていたとおり、空席を作りたくなかったの。」
まるで、明日の天気の話でもするかのように淡々と、彼女は言った。
そのあまりの平穏さが、かえって私の胸を鋭く抉り、たまらなく辛かった。
コンサートが始まり、劇場の照明が漆黒へと落ちる。地を揺るがすような歓声が沸き起こった。
私はただ、周囲の白痴どもの真似をして、機械的に手を叩き、色鮮やかなペンライトを振り回し、おざなりの笑みを浮かべた。
けれど隣を盗み見ると、彼女は、心の底から笑っていた。
驚くほどに、楽しそうであった。
新しい旋律が始まるたびに、彼女の顔には少女のような純真な喜びが満ち溢れる。
舞台の上の若者たちの冗談に、声を上げて屈託なく笑う。
その横顔を凝視しながら、私は不意に悟った。
――ああ、この人は今、決して孤独ではないのだ、と。
私が隣にいるからではない。彼女は、私の座っているこの席に、確かに存在している「誰か」と共に、この光の渦の中にいるのだ。
肉眼には見えない、けれど確かにそこにいる、愛おしい亡霊と共に。
終盤を迎え、最後の楽曲が鳴り響き、幕が下りた。
会場全体が、割れんばかりの惜しみない拍手に包まれる。
彼女もまた、老いた身体を震わせるようにして立ち上がった。
そして、舞台に向かってではなく、私の座る椅子に向かって、狂おしいほどの拍手を送り続けた。
私がいなければ、誰も座っていない、最初から最後まで、虚無のままであったはずのその席に向かって。
「よかったねぇ、本当によかったねぇ……」
掠れた、小さな声であった。
数万人の歓声と拍手の渦に、今にも掻き消されてしまいそうなほど微かな呟き。
それなのに、どうしてか私の鼓膜には、世界のどんな大音響よりもはっきりと、鮮明にその声が響き渡り、私は不覚にも、涙が溢れそうになった。
別に、彼女の境遇に安っぽい同情を覚えたわけではない。可哀想だなどと、上から目線で憐れんだわけでもない。
ただ、私は敗北したのだ。この席には、最初から、私などより遥かに強固な存在感を持った「誰か」が正座していたのだと、ただ圧倒されるばかりだった。私のような道化の目には、見えないというだけで。
どんなに顔の筋肉を歪めて道化を演じようとも、私は結局、誰の代わりにもなれなかったのだ。
今夜の私は「女孫」という配役を与えられていた。
けれど、この老女性が本当に会いたかった相手、その魂の全存在を懸けて隣に座らせたかった相手は、最初から、私の身体をすり抜けた別の場所にいた。
それでもなお、彼女は私を、この数万円の金を払ってまで呼び寄せたのだ。
あの子が遺してくれた特等席の隣に、ただ「誰かが座っている」という、その形式だけを満たすために。
ただ、それだけのために、私は消費されたのだ。
祭りが終わり、冷たい夜風の吹く駅まで彼女を送り届ける。
道すがら、何度も、何度も「楽しかった」と子供のように繰り返した。その横顔は、夜の街灯に照らされて、本当に幸福そうであった。
別れ際、改札の前にて、彼女は私に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうね、みずきちゃん」
「……ううん、こちらこそ、ありがとう。おばあちゃん」
それは、私のささやかな、そして無様な抵抗であった。ビジネスだと割り切れず、最後まで完璧な偽物になりきれなかった己の不甲斐なさが、たまらなく恥ずかしく、口惜しかった。
「私と一緒に、来てくれて」
私は笑った。いつも通りの、あの嘘塗れの、営業用の完璧な笑顔を作ったつもりだった。
けれど、今夜ばかりは、どうしてかいつもより少しだけ、上手く笑えなかったような気がした。
彼女の猫背で小さく震える背中が、改札の向こうの闇へと消えていく。
その後ろ姿をじっと見送りながら、私は自嘲気味に、独りごちた。
誰かの心の隙間を埋める、身代わりの仕事だと自惚れていた。
けれど、この世には、天地がひっくり返ったって代わりになれない絶対的な相手というものが存在するのだ。
死んでしまった人間には、絶対に勝てない。
美しく結晶化された思い出の重さには、逆立ちしたって敵わない。
それでも。
今夜、この私が、あの誰もいない空席の隣に「生きた人間」として座っていたことの意味は、ほんの、ほんの砂粒ほどは、あったのかもしれない。
会場の熱狂の渦の中で、私のポケットに滑り込んできた銀色のテープが、指の先でぐしゃりと不吉な音を立てた。
私はその忌々しくも愛おしい光るゴミを、どうしてもドブに捨て去ることができないまま、夜の仙台の片隅を、いつまでも、いつまでも歩き続けた。
亡くなったお孫さんの代わりと、若者と出かけたがるご老人。何人か出会いましたが自分を通して誰かを見られるという体験は慣れないものです。




