忘れ草
ママから呼び出されて店へ赴くと、そこにはいつも通り、不機嫌という仮面を顔面に張り付けた老婆が立っていた。
「今度のお客さん、ちょっと特殊だから」
紫煙の向こうから、面倒臭そうに差し出された資料。そこには84歳の老人、齋藤浩一の名があった。元教師。妻は10年前に他界。認知症が進行中。
――ああ、またこれだ。妻に先立たれた男というのは、どうしてこうも哀れに枯れ果ててしまうのだろう。逆に、夫の遺産を懐に入れた途端、まるで春を得た女学生のように活き活きと習い事を始める未亡人たちの、あの図々しいほどの生命力に比べたら、男という生き物のなんと脆弱で、未練がましいことか。
備考欄には『孫の健太さん(故人)として接してほしい』とある。
私は小さく眉をひそめた。死人を演じるなど、いくらなんでも悪趣味が過ぎる。レンタル孫とはいえ、生者のささやかな虚栄や寂しさを誤魔化すための「おままごと」であって、地獄の門を叩くような真似をする仕事ではないはずだ。少なくとも、私はそう信じたかった。孫の代わりはいいが、孫そのものに成り代わるのは私のポリシーに反する。
「ママ 」
「だから言ったでしょ。特殊だって」
「これ、受けたくない」
「だめよ、もう受けるって金もらってんだから。」
この婆さん、本当に嫌いである。
初対面の日。
老人は半目で縁側に座っていた。
「こんにちは」
そう声をかける。
老人はしばらく私の顔を見つめる。焦点の合っていない目線に、少しばかり不安になったが、その後すぐに、嬉しそうに笑った。
「おお、雄介」
資料のどこをひっくり返したって、そんな名前は載っていない。私は内心で、苦い、へりくだった笑いを浮かべた。
「違うよ、おじいちゃん。私は健太だよ」
「そうかそうか」
老人は、悪びれもせずにまた破顔する。私の言葉など、彼の耳には端から届いていないのだ。気にしないのではない、はじめから「わかっていない」のである。しかし、その無邪気な頑迷さが、かえって私を奇妙に安堵させた。
その日は縁側に並んで腰掛け、ただ黙々とスイカを食んだ。
人間という生き物はまことに不思議なもので、昨日の夕飯のメニューは忘れてしまうくせに、大昔の恥や傷の記憶だけは、まるで昨日のことのように鮮明に覚えているらしい。
おじいちゃんは、敗戦直後の引き揚げ船の泥臭い思い出話を、ぽつりぽつりと語り出した。まともな船には乗れず、手持ちの全財産をはたいて密航同然の漁船に潜り込んだのだという。
他の哀れな引き揚げ者たちが、生きるために米や芋の入った鞄を必死に抱え込んでいる中で、この老人だけは、帰国後に闇市でひと儲けしてやろうと、鞄一配にタバコをパンパンに詰め込んで帰ってきたのだそうだ。
――なんという、あさましくも愛すべき人間の業だろう。
普段、私が勤めるショーバーで、成金どものくだらない自慢話や、中身の空っぽな虚栄心に付き合わされて辟易していた私にとって、この老人が語る「本物の人間の欲臭さ」は、毒気の抜けた良薬のように心地よく、私は不覚にも、うれしかった。
「また、その手真似を聞かせてくださいね」
「ああ、もちろん」
きっと次の瞬間には、私の顔ごと綺麗さっぱり忘れているに違いない約束を交わし、その日の私の「偽りの孫」としての業務は、ひとまず幕を閉じた。
数日後、またママから電話が入った。
「齋藤さん、またあんたにお願いだってさ。息子さんから連絡があったの。明後日、よろしくね」
息子、と聞いて、私は胸の底に冷たい澱が広がるのを感じた。
実の親の面倒を見もせず、金の力で赤の他人を買い、孫の代役を演じさせて良心の呵責から逃れているその「息子」とやらは、一体どんな立派な顔をして生きているのだろう。世間というやつは、どこまでも身勝手で、どこまでも不気味な「おままごと」を平然と要求してくる。
――まあ、道化たる私には、これっぽっちも関係のない話なのだが。
「久しぶりだな、和也」
誰だ、それは。
「お前、大きくなったなあ」
――大きくなったも何も、私の身長はここ数年、一ミリだって伸びてやしない。
つい脳内で、そんな下俗なツッコミを入れてしまう己の貧しさが嫌になる。
その日も、老人の口から溢れ出る、大昔の、泥に塗れた薔薇のような懸想話に耳を傾けた。昭和初期の、今とは比べものにならないほど不器用で、それゆえに濃密だった時代の空気が、縁側を渡る風に乗って私の肌をかすめていく。私は奇妙な満足感を抱きながら帰路についた。
まあ、そこそこ気楽な仕事であった。死んだ「健太」を必死に演じる必要などないのだ。どうせおじいちゃんは、私の顔など覚えていないのだから。
しかし、何度か足を運ぶうちに、私の胸に薄気味悪い、奇妙な違和感が芽生え始めた。
老人は、確かに私の顔を見ている。しかし、その濁った瞳の奥の焦点は、私を通り抜けて、もっと別の「誰か」を凝視しているのだ。しかも、その「誰か」は、会うたびにくるくると万華鏡のように変わる。ある時は和也、ある時は雄介、ある時はまた別の名。
私は、彼の人生の劇場の舞台裏で、次から次へと名もなきエキストラを押し付けられているような、得体の知れない目眩を覚えた。
3度目の依頼の日、私たちは近くの寂れたスーパーへ買い物に出かけた。
カートを握るおじいちゃんの手は、驚くほど骨張っていて、まるで枯れ木のようにおぼつかない。その歩幅に合わせて、私もまた、己の汚れた人生の歩度を緩めて進む。おじいちゃんがふと、安っぽい駄菓子が並ぶコーナーの前でピタリと足を止めた。
焦点の合わない目で、じっと色鮮やかなパッケージを見つめている。
「おじいちゃん、どうかした?」
声をかけると、老人は首が折れるようなスローモーションで、ゆっくりと私を振り返った。その瞳の奥には、濁流のように言いようのない切なさが満ちていた。
「ごめんな」
掠れた声だった。
「え? 何が?」
「約束したのになあ。……どうしても、思い出せんのだ」
私には、それが何の約束なのか、天地がひっくり返ったって分かりはしない。事前に渡された薄っぺらな資料には、そんなエピソードは一言も書かれていなかった。おじいちゃん自身も、自分が「何を忘れてしまったのか」さえ分かっていないのだろう。ただ、脳の細胞がどれだけ死滅しようとも、胸の奥底にこびりついた、剥がれない後悔のトゲだけが、今もおじいちゃんの魂をチクチクと刺し続けているようだった。
老人の認知症という名の夜は、さらに深く進行していき、やがて私の偽物の顔さえ、完全に闇の中へ没した。
ある日の帰り際、お手洗いから戻り、「また来るね」といつもの営業スマイルで挨拶をすると、老人は見知らぬ迷子を見るような目で、不意に首を傾げた。
「どなたかな」
――その瞬間、私の胸の奥が、カミソリで薄く切り裂かれたように痛んだ。
レンタル孫だと、ビジネスだと、あれほど冷徹に割り切っていたはずの私が、見事に傷ついているのだ。なんと滑稽で、浅ましい自意識だろう。
何度も会ったのに。何度も共に笑ったのに。私の費やしたあの時間は、老人の頭の中から、消しゴムでこすり取られたように全部消えてしまったのだ。そう思った。
ところが、私がすごすごと逃げ出そうとした、まさにその時。
老人が突然、鋭い声で私を呼び止めた。
「なあ」
「……うん?」
「また来てくれ」
先ほど誰かと聞いたのに何を言っているのだろうか。
「おじいちゃん、私のこと、覚えてないかもしれないよ?」
自嘲気味にそう告げると、老人は、まるで世界のすべての秘密を知ってしまった聖者のように、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「それでもいい」
彼は言った。
「会うと嬉しいからな」
名前も、顔も、共に過ごした縁側の記憶も、すべて忘却の彼方へ消え去っていく。それでも、細胞の底、魂の澱に沈んだ「会うと嬉しい」という感情の体温だけは、消えずに残り続けているのだ。
帰り道、私はガタゴトと揺れる電車の窓ガラスに、一人の男の顔を見出していた。
晴人でもない。みずきでもない。ただ嘘に嘘を塗り重ねて、誰かを演じることでかろうじて息をしている、道化の顔だ。本当の自分の名前さえ怪しくなった私の輪郭は、ひどく虚ろであった。
――ふと思う。
全てを忘れることは、不幸なんかではなく、案外、神様が人間に与えてくれた唯一の救いなのかもしれない。
恥ずかしい記憶も消える。見っともない後悔も薄れる。けれど、誰かを愛おしいと思った気持ちの残滓だけは、魂の底に沈殿して、その人を温め続けるのだ。
もしそうなら、名前も忘れてただ微笑む老人は、この濁世において、最も幸福な人間と言えるのではないか。忘れることは、きっと、少しだけ救いなのだ。
忘れた方が楽なこと。ありますよね。記憶というものは痛いですから。




