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第五話 灰の荒野と、ふたり②

歩きながら、イリスは荒野の変化を見ていった。


凪いだ場所は、本当に凪いでいる。

色は薄く、風は軽く、壊れた家も“壊れたあと”の静けさに留まっている。


けれど再彩が始まりかけている場所では、何もかもが少しだけ過剰だ。

草の緑が濃すぎる。

錆の赤が浮きすぎる。

空の青が一枚ではなく、何枚も重なって見える。


色が戻ることは、美しくもある。

だが戻り方が乱暴だ。

忘れていた呼吸を、いきなり肺へ押し込まれるみたいに。


「……世界は、生き返ろうとしてるんでしょうか」


前を向いたまま零すと、隣から少し間を置いて返事が来た。


「まだ分からない」


「あなた、分からないも言うんですね」


「分からないことも多い」


「なんでも観測して、なんでも答えるのかと思ってました」


「答えられるものだけ答える」


「それは誠実ですね」


「効率的だ」


「そこで可愛げが消えます」


「必要か?」


「少しは」


「要検討」


その返事が妙に真面目で、イリスは少しだけ黙った。


冗談のつもりだった。

たぶん彼は、冗談として処理していない。

そこがまた、腹立たしいくらいに変だ。


道の痕は緩やかに下り始めていた。

窪地の向こう、荒野の皺の隙間から、遠い街の色がまた見える。

昼の光の下では滲みにしか見えなかったものが、傾きはじめた陽を受けて少しだけ輪郭を持ち始めていた。


その時だった。


白い灰の下に空洞があったらしい。

爪先が沈み、身体が傾く。

咄嗟に杖を突こうとしたが、斜面の角度が思ったよりきつい。

重心が外へ流れる。


「っ――」


声になる前に、腕を掴まれた。


強くはない。

だが、逃がさない力だった。


アッシュが半身だけ踏み込み、イリスの落ちる方向と逆へ体重をずらしている。

最短の動きだ。

けれど掴まれた箇所から、指先の熱が一瞬だけ薄くなった。

怖さの輪郭まで削れそうになり、胸が跳ねる。


彼女は反射的に、もう片方の手でアッシュの外套を掴んだ。


そこで二人とも止まった。


斜面の下で、細かい石がからからと落ちていく。


アッシュの視線が、自分の腕ではなく、彼女の掴んだ指へ落ちたのが分かった。


イリスはすぐに手を離す。

その一拍あとには、アッシュの方ももう離れていた。

助けた勢いのまま近くに留まらない。

彼は一歩だけ下がり、きっちり半拍ぶんの距離を戻す。

そこまでして初めて、彼は彼女の顔を見る。


「立てるか」


今度は少しだけ、言い方が普通だった。


それだけで、逆に困る。


「……立てます」


「なら立て」


差し出されたわけでもないのに、立つための空間だけがちゃんと残されている。

押しつけがましくない。

けれど落ちないだけの位置に、彼はもういる。


イリスは斜面を上がりきって、息を整えた。

心臓の鼓動が、さっき掴まれた手首の内側でまだ少しだけ早い。


「……助かりました」


「先に立て直せ」


「お礼より先ですか、それ」


「落ちたまま礼を言われても困る」


「人の心がありません」


「あると困るのはおまえの方だろ」


痛いところを突かれて、イリスは口を閉じた。


本当に、その通りだから困る。


アッシュはそれ以上何も言わず、視線だけを前へ戻した。

助けたこと自体を特別にしない。

だが、さっきまでよりほんの少しだけ前へ出て歩く。

次に足場が崩れたら、自分の方が先に触れられる位置だ。


図々しい。

でも、ありがたい。


その両方が同時にある。


太陽は思っていたより早く傾いた。

荒野には影を受け止める木も壁も少ないくせに、ひとたび夕方に入ると、温度だけが先に沈む。

風は細くなり、代わりに冷えが石の隙間から這い出してくる。


それでも街は、まだ遠かった。


何度尾根を越えても、何度白い道筋を辿っても、地平の端にある小さな色の滲みは大きくならない。

ただ、太陽が傾くにつれて、その上に灯が混じりはじめた。

黄の点。

赤の筋。

青の窓。

生きた灯りだ。

距離のせいで瞬きみたいに見えるのに、数だけは多い。


「……本当に三日は掛かりそうですね」


「言った」


「そんなに偉そうに言われなくても」


「当たったからな」


「そこで得意げになれるの、ちょっとむかつきます」


「おまえが外で最初に負けた相手は方角」


「最低です」


「解答保留」


本当に性格が悪い。



野営地に選ばれたのは、崩れた石の列が半円みたいに残る窪地だった。

昔は旅人の休息所か、荷車の待避所だったのかもしれない。

腰ほどの高さで折れた壁が風を半分だけ受け止め、背後には黒ずんだ岩盤がある。

上から見れば目立たず、下からなら空も見える。


イリスは周囲を見回し、窪地の奥を指した。

だがアッシュは一目で首を振る。


「夜風が溜まる。灰も寄る」


それだけ告げて、彼は窪地の入口寄り、折れた壁と岩の角がちょうど噛み合う場所へ荷を置いた。

荷と言っても大したものはない。

塔から持ち出した布と、水と、最低限の器具だけだ。

彼は迷いなく石を三つ選び、地面の傾きを手のひらで確かめ、寝る場所と見張る場所を一息で分けていく。


無駄がない。


イリスが布を広げようとすると、向きだけ変えられた。

「風下に背を向けると夜中に冷える」と、遅い説明が落ちてくる。


「最初からそう言ってください」


「いま言った」


「遅いです」


アッシュは彼女の手から布を奪うでもなく、端だけを持ち上げて向きを直した。

指先が近づくと、夜気の刺が少し丸くなる。

だが、その分だけ心臓の鼓動まで均されそうになる。


イリスは一歩ぶんだけ離れた。

アッシュは何も言わず、その距離をそのままにした。


空はもう青ではなかった。

群青の底へ薄い紫が沈み、その上から早い星がいくつか刺さる。

けれど星より先に目につくのは、遠い街の灯りだ。


三日先にあるはずなのに、夜の中でそこだけが妙に目立つ。

人の営みの明るさというには、均一すぎる。


イリスは膝を抱えて、遠くを見た。


たしかに灯りは美しい。

暗い荒野の中に、あれだけ色がある。

黄や橙が寄り合い、所々に赤や青も混じって、夜の向こうで小さな祭りみたいに揺れている。


もしあそこに人がいて、火を焚いて、食べて、笑っているのなら。

それはたぶん、塔の中にはなかった温度だ。


胸の奥で、違う種類の緊張がほどけかける。


もしかしたら。

ほんの少しだけ。

あそこには、壊れていない何かが残っているのかもしれない。


その時だった。


風が、ひとすじだけ、妙な音を運んだ。


笑い声に似ていた。


遠すぎて、声とは言い切れない。

ただ高く、軽く、楽しそうな響きだけが細く裂けて届く。

ひとり分の高さで鳴ったはずなのに、同じ形のものがいくつも重なっている。


イリスは顔を上げた。


「……聞こえましたか」


アッシュは街の方角から視線を逸らさない。


「聞こえた」


短い返答のあと、少しだけ間が落ちる。


「でも揃いすぎてる」


寒さとは別のものが背中を撫でる。


楽しそうなのに、楽しい音に聞こえない。


イリスは外套の襟を握りしめた。


あそこへ行く。

危険でも、たぶん行くしかない。


その事実だけが、夜の底で静かに固まっていく。


アッシュは折れた壁に背を預け、脚を組んだ。

見張りの位置だ。


「寝ろ」と落ちた声は、提案なのか命令なのか分からない。

けれど倒れると面倒だ、という理屈だけは相変わらずだった。


言葉の形は生意気なのに、ときどき中身だけがずるい。


イリスは布の上へ腰を下ろした。

石の冷たさが布越しに伝わる。

眠れるとは思わない。

けれど目を閉じれば、今日一日の空の濁りと、風の刃と、遠い街の灯りが、まぶたの裏で混ざり合う気がした。


隣にいるだけで削られる。

でも、隣にいないと風が尖る。


嫌な二択だ。


なのに彼が見張っているというだけで、夜の広さが少しだけ狭くなる。

世界全部を相手にしている感じが、ほんの少しだけ薄れる。


この少年は起きたばかりのくせに、ひどく図々しく自分の隣へ居座っている。

そして、その図々しさに少しずつ救われている自分がいる。


目を閉じる直前、イリスはもう一度だけ遠い街を見た。


三日先の灯りは、夜が深くなるほど逆に輪郭を増していく。

普通なら夜に呑まれるはずの色が、むしろ夜の中で浮き上がっていた。


生き返ったみたいに見える世界が、そこにあった。


けれど風の奥では、何かが笑いすぎている。


イリスは杖を抱き寄せ、半拍ぶんだけアッシュから離れた位置で身を丸める。


「……今度は、たぶん合ってます」


「何がだ」


「進む方向です」


アッシュは一拍だけ黙って、それからほんの少しだけ口元を動かした。


笑ったわけではない。

でも、笑わなかったとも言い切れない角度だった。


「たぶんなら、上出来だ」


悔しい。

けれど、その悔しさの奥で、ほんの少しだけ前を向く力が増えた。


夜は冷え、荒野は広く、街はまだ三日先にある。

それでも二人の進む先は、もう決まっていた。

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