第六話 風の末裔、街の近郊にて①
その街の明かりを見つけたのは、風の乱れを追って荒野を渡っていた少女だった。
空に色が飛んだ日から三日目の夕方。
あの日、風はいつもの順番で世界を渡らなくなった。
風の一族に生まれた者なら、耳で聞こえなくても分かる。
空を渡る流れが一拍だけ噛み合わず、遠いものと近いものの順番が入れ替わる。
鳥がいっせいに向きを変え、谷の草が遅れてざわめき、夜明けの冷えがいつもより長く居座る。
そんな小さな狂いが、ひとつではなく、いくつも重なった。
しかも今回は、乱れた風を追うたび、最後には同じ方角へ引き戻された。
風の奥で、ずっと白く立ちつづける、あの塔の方角へ。
だから彼女は祈りの地を出た。
原因を確かめるために。
世界のずれの根が、あの塔でどう裂けたのか、この目で見るために。
風の一族の娘――ルーファは、そこでようやく足を止めた。
淡い金から小麦色へほどける長髪が、夕方の風にやわらかく波打つ。
耳の後ろで細い編み込みがひと筋だけ揺れ、その先に結ばれた小さな羽根が、目には見えない流れを先に掴むみたいに震えていた。
白から生成りへ落ちる軽い巫女装束の裾には、ごく薄い青が差している。
荒野には似つかわしくないほど清らかな色なのに、不思議と頼りなくは見えない。
腰に下がった小さな風鈴も、本来ならもっと鳴るはずだった。
けれど歩くあいだ、音はほとんど立たない。
布の縁と髪の先だけが、風の道筋を見せるように静かに揺れていた。
足取りは軽い。
だが軽いだけではない。
荒野の小石も、灰のたまりも、そこへ触れれば風がどう返るかまで最初から知っているみたいに避けていく。
近づけば逃げ、離れれば入ってくる、“風の間合い”を身体が覚えている歩き方だった。
道中で見た世界は、凪の時代の静けさをまだ半分残しながら、もう半分では別の呼吸を始めていた。
色を失いきったまま眠る村がある。
そこでは洗濯物すら風に重く、笑い声も遠慮がちで、人々は静かに、薄く、生きていた。
けれど別の土地では、まるで忘れていた熱を急に思い出したみたいに、果実の赤が濃くなり、草の緑が眼に刺さり、空の青が一枚では足りないみたいに幾重にも重なって見えた。
人はそれを「景気が戻った」と言ったり、「最近は空気が明るい」と笑ったりする。
でも風は知っている。
戻ってきた色は、いつだって祝福の顔だけをしていない。
均されないまま濃くなったものは、きれいに見えるほど危うい。
その街は、まさにそういう明るさをしていた。
低地の向こうで色布が揺れている。
煙が上がる。
屋根の隙間に灯りが差し、子どもの笑い声まで届いてくる。
三百年の停滞を生きてきた世界にしては、あまりにも生き生きしていた。
生き生きしすぎていた。
ルーファは崩れた石塀の影で足を止めた。
翡翠を薄く溶かしたみたいな青緑の瞳が、夕暮れの光を受けてすっと澄む。
彼女の目は、感情が強くなるほど発光するのではなく、底まで透明になる。
そのせいで、目を閉じる前の一瞬だけ、かえって視線を逸らしにくかった。
風を読む。
音を聞く。
街から流れてくる笑いは、楽しそうだ。
温かい。
高い。
軽い。
なのに、どれも切り口が同じだった。
違う喉から出たはずの声が、同じ角度で跳ねている。
ひとりが笑った、のではない。
“笑う形”が先にあって、その型へ大勢が押し込まれているみたいだった。
「……いやだな」
小さく呟いた声は、風にほどけた。
塔はさらに向こうだ。
本来なら、この街は横目に抜けるはずだった。
乱れた風が最後に指す場所があるなら、先に確かめるべきはそこだ。
白く立つあの塔で、何が世界の拍を狂わせたのか。
風の一族なら、まずそこを見る。
けれど、風が進ませなかった。
街の縁を撫でた流れが、一度だけ怯えたみたいに細くなる。
次の瞬間、畑跡の向こうで灰が逆立った。
白い残滓が、落ちる向きを忘れたように宙へ浮く。
その下から黒が這い出した。
獣のようで、獣ではない。
四つ足に見えて、次の拍には腕の数が増えている。
口だけがやけにはっきりしていた。
裂けたみたいに大きく、その内側だけが色のない穴みたいに暗い。
感情喰らい。
世界の感情が濃くなりすぎた場所で、過剰を削ぐために生まれるもの。
人を喰うのではない。
人の中の感情だけを喰う。
喰われた者は死なない。
けれど、泣く理由も、好きなものも、自分が自分である手触りも、きれいに抜け落ちる。
だから厄介だった。
だから、嫌いだった。
「こんな街の手前でまで出るの……」
ルーファは腰の風鈴へ指をかけた。
ちり、と一音。
風が薄い膜になる。
黒が跳んだ。
速い。
凪の時代に見てきた個体より、明らかに速い。
再彩に引かれて活発化している。
その判断が、遅れた。
爪が風膜を裂く。
衝撃が腕へ食い込み、足裏が白い砂利の上で滑った。
体勢を立て直すより早く、もう一体が地面を這って角度を変え、足首の下から噛みつこうとする。
単独では押し返しきれない。
そう思った瞬間、風の流れが変わった。
正面からではない。
横からでもない。
背後から、白い静けさが一筋だけ差し込んでくる。
「息を止めないでください」
声が来る。
静かで、よく通る声だった。




