第四話 灰の荒野と、ふたり①
扉の外へ出た瞬間、世界は広かった。
塔の中で嗅いでいた灰の匂いより、ずっと薄く、ずっと悪い。
乾いた石。
焼けた鉄。
冷えきった土。
生き物の気配が遠く、遠いまま風に削られている。
灰は降っていない。
けれど降っていた名残だけが地表に積もり、白い筋となって荒野の皺へ入り込んでいた。
踏めばじゃり、と軽い音を立てる。
塔の石床みたいな刺す熱はない。
代わりに、温度の抜けた空気が肌の表面を薄く剥いでいく。
イリスは一歩、二歩と進んでから足を止めた。
遠くの空が青を名乗っている。
なのに青のままではいられず、内側に薄い群れを抱えた水みたいに濁って見える。
雲はふつうの輪郭をしていない。
角があり、裂け目があり、風に押されるというより、どこか別の命令で並び直しているみたいだった。
胸が苦しい。
息を吸うたび、外気が肺へ入る前に“ためらう”。
塔の中にはなかった感覚だ。
空気そのものが、何を自分へ渡すか迷っている。
隣から落ちた声は、相変わらず温度がない。
「止まるな」
アッシュは先に半歩だけ前へ出ていた。
白とも銀ともつかない髪が、外の風にようやく揺れる。
塔の中では彫像みたいだった輪郭が、荒野の光の下では少しだけ人に見える。
少しだけ、だ。
「確認です」
「立ち止まる確認を、止まると言う」
いちいち腹が立つ。
言い返そうとして、喉の奥に冷たいものが落ちた。
視界の縁がわずかに滲む。
紫銀の瞳の奥へ、薄い群青がひと刷けだけ混じる。
怖い。
その事実が、先に色になる。
アッシュの視線が、ほんの一瞬だけ彼女の顔を掠めた。
「外気に酔ってる」
「酔ってません」
「なら歩け」
言い方が悪い、と喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
代わりに彼は、彼とイリスの間にあった距離を指先ひとつ分だけ広げる。
空気が擦れる。
見えない膜が半拍ぶんだけずれ、肺の重さが少し軽くなった。
助けられている。
そう分かるのに、素直に礼を言いたくない。
イリスは外套の端を押さえ、もう一度だけ空を見た。
「……これが、外」
「外だ」
「世界は、もっと静かだと思っていました」
「静かだろ」
「嫌な静かさです」
「それは合ってる」
短いくせに、そこだけはすぐ同意する。
荒野には、かつて道だったものがある。
石を敷いた筋が途中で途切れ、灰に埋もれ、また別の場所で現れる。
道の脇には骨組みだけ残った家屋がいくつも倒れていた。
壁の半分は風に削られ、看板は文字の途中から白く摩耗している。
井戸の縁だけが妙に綺麗な円を保っていて、その周囲だけ、誰かが何度も立ち尽くしたみたいに灰が薄かった。
ここにも人はいたのだと分かる。
だが、いまここで息をしている気配はない。
「ここにも、人がいたんですね」
「いる」
「……現在形ですか」
「遠くに」
アッシュが顎だけで前方を示す。
イリスは目を細めた。
はじめは光の溜まりに見えた。
けれど違う。
地平のずっと向こう、空と荒野の継ぎ目に、針の先ほどの色がかすかに滲んでいる。
白でも灰でもない色だ。
淡い赤、黄、緑。
距離のせいでほとんど溶けかけているのに、それでも塔の外にしては不自然なくらい鮮やかだった。
「街……?」
「肯定。歩けば三日」
イリスはそちらを見たまま瞬いた。
三日。
近くはない。
むしろ遠い。
なのに、色だけははっきり見える。
「そんな遠くまで分かるんですか」
「おまえは今、“街かもしれない何か”と“街”の区別がつくほど外を知らない」
「すごく失礼です」
「事実だ。だから距離だけ先に言った」
本当に嫌な性格をしている。
起きたばかりとは思えないほど、無駄なく人を苛立たせる才能がある。
イリスは歩き出した。
荒野は一見なだらかなのに、実際には細かな起伏が多い。
石の尾根を越えるたび、風の流れが変わる。
ある場所では冷え、ある場所では妙にぬるい。
乾いた草が残っている区画もあれば、地面ごと白く磨耗して、色の名前を持てない場所もある。
塔の中では、全部が“手順”だった。
けれど外は違う。
同じ方向へ進んでいるつもりでも、景色の輪郭が少しずつ裏切ってくる。
三度目の尾根を越えたところで、イリスは足を止めた。
「こっちです」
「違う」
即答だった。
まだ言い切っていない、と反論しかけて、アッシュが右を指す。
イリスは左を見、右を見た。
遠い街らしき色は、さっきまで正面にあったはずなのに、いまは確かに右へ寄っている。
「風で見え方が変わっただけです」
「その自信で逆へ進めるのか」
今度こそ、言い方が最悪だった。
無表情のまま言うから余計に腹が立つ。
イリスはじっと彼を見た。
アッシュも見返す。
無表情同士の沈黙が数拍続き、先に逸らしたのはイリスの方だった。
「……方向が分かりにくい世界の側にも問題があります」
「責任転嫁を観測」
「観測しなくていいです」
アッシュはほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったわけではない。
だが笑わなかったとも言い切れない、腹の立つ角度だった。
「おもしろい」
「おもしろい?」
「おまえ、平然と間違えるから」
紫銀の瞳の奥で、ごく細い緋が瞬いた。
「間違えていません」
「さっきから三回目だ」
「一回目は確認、二回目は比較、三回目は――」
「迷子」
「違います」
「では何だ」
「慎重なんです」
「慎重さの定義を求む」
イリスは無言で踵を返し、アッシュが指した右へ歩き出した。
背中で彼の気配が近づく。
近づくだけで、肌の表面から余計な熱が薄れていく。
けれど同時に、歩く理由まで少し軽くなる。
目的の輪郭が遠のきそうになる、その一歩手前で止まる。
不快だ。
怖い。
でも、離れたくない。
胸の奥で銀輪がごく小さく鳴った。
「半拍までなら平気だ」
今度の声は、さっきより少し近い位置から落ちた。
「何がですか」
「いまの距離。おまえが薄くなりすぎない位置」
そのまま言う。
そこを照れない。
そういうところが、余計にずるい。
イリスは前を向いたまま、外套の襟を少しだけ上げた。
「勝手に測らないでください」
「死なれる方が面倒だ」
「言い方」
「意味は同じだ」
「違います」
「じゃあ訂正する。おまえが消えると困る」
足が、ほんの少しだけ止まりかけた。
けれど次の瞬間、彼は淡々と続ける。
「止まるな。進路補正が増える」
もう喋らないでください、と言い返した声は思ったより弱かった。
腹立たしいのに、なぜか胸の欠けの奥へ落ちた熱は消えなかった。




