第三話 外の世界
砕けた床の縁で、白い灰がまだ細く流れていた。
落ちてくる音は静かなのに、部屋の奥では塔そのものが痛みに耐えるみたいに低く唸っている。
壁の紋章は明滅を繰り返し、床を走る光の筋はところどころで途切れ、また遅れて繋がった。
世界の中心だった場所が、いまは壊れた巨体みたいに息をしている。
銀灰の髪の少年が、砕けた《白の核》の前に立っていた。
さっきまで眠っていたはずなのに、もうずっと前からそこにいたものみたいに、崩れた空間へ馴染んでいる。
けれど、立ち上がった拍子にその輪郭が一度だけ揺れた。
光が薄く、影が遅れる。
存在そのものが、半拍ぶんずれて見えた。
イリスは喉の奥の乾きを押し込み、ようやく声を出した。
「……大丈夫?」
少年は振り向かない。
砕けた核の残骸を見たまま、短く答えた。
「平気の範囲」
「範囲、って何ですか」
「壊れてはいない、という意味だ」
噛み合わない。
噛み合わないのに、言葉が返ってくるだけで呼吸が少し戻る。
イリスは砕けた床に転がっていた白杖を拾い上げた。
柄の擦り減った場所へ親指が吸い付く。
そこだけは、記憶がなくても迷わない。
「……あなた、起きたんですね」
「起きた」
「私が、呼んだから?」
少年は親指で、人差し指の第二関節を一度だけなぞった。
それから初めてイリスを見る。
感情の色を持たない、薄い瞳。
けれど何も映していないわけではない。
映して、切り分けて、必要なものだけを拾う目だった。
「おまえの命令だけが、鍵だった」
「命令」
「そう記録されている」
「ずいぶん勝手な仕様ですね」
「不満か」
随分とふてぶてしい態度。
「寝顔はあんなにきれいだったくせに、起きた途端に中身がずいぶん生意気です」
「寝顔と性格に相関はない」
生意気だ。
なのに、さっきまで胸骨を締めつけていた恐怖の輪郭が、ほんの少しだけずれる。
笑ったわけではない。
ただ、息だけが一度うまく抜けた。
塔の奥で、また重い呻きが走る。
壁面の紋章が明滅し、床の溝を流れる光が遅れ、砕けた《白の核》の縁から白い灰がさらさらと落ち続けていた。
もうこの場所は、世界を支える中心ではない。
ただ壊れたものの拍だけが残っている。
イリスの視線が、彼と自分のあいだの空間へ落ちる。
さっきそこには、見えない境界があった。
近づけば、自分の欲望も、恐怖も、記憶の欠けを抱く痛みまで薄くなる。
助かったはずなのに、同時に、ひどく怖かった。
「あなたは……色だけじゃなくて、私の中まで削っていく」
「削れる。近いほど」
「なら、離れて」
「……離れたら、守れない」
即答だった。
イリスは眉を寄せる。
「守るって、何を」
「おまえ」
短い。
迷いもない。
その一語が、胸の空洞へまっすぐ落ちる。
温かいわけではない。
甘いわけでもない。
ただ、そこに置かれた動かない石みたいな言葉なのに、イリスの心を揺らす。
「……どのくらい離れれば、私が薄くならずに済みますか」
「半拍」
「それが私たちの距離ですか」
「そうだ」
瞳の縁に、わずかな蒼が挿す。
気づいて、イリスは視線を逸らした。
そして、逃げた八つの色のことを考える。
あれはただの色ではない。
《始まりの色》――落ちた先で感情が世界を壊していく。
「追わなければ」
「危険」
「知っています」
「理解しているなら、なお危険だ」
「それでもです」
言い切ると、胸元の銀輪が小さく熱を返した。
役割だからではない。
世界を守るためだけでもない。
そこを曖昧にしたら、また自分は役割だけをこなす人形へ戻ってしまう。
イリスはゆっくり息を吸った。
「逃げたものを放ってはおけません」
これは身体が覚えている役割の言葉だ。
それから、もう一つ。
「それと――私の欠けを、取り戻します。私が何者なのかを、私は知りたい」
少年は何も言わなかった。
否定もしない。
慰めもしない。
ただ事実みたいに立っている。
崩れた核とイリスのあいだに、いつの間にか半歩だけ割り込む位置で。
先に危険へ触れるつもりの立ち方だった。
気づいて、イリスは少しだけ目を細める。
「……そういうところだけ、ずるいですね」
「不明」
「分からないなら、そのままで結構です」
「了解」
本当に分かっていない声だった。
だから腹が立つし、だから少しだけ救われる。
イリスは白杖を握り直した。
「アッシュ」
「何だ」
「行きます」
短い沈黙。
少年は否定しない。
「異論なし」
それだけだった。
なのに、その四文字で、もう進める気がした。
*
二人は調律の間を出る。
白い回廊は、さっきまでと同じ形のはずなのに、もう別の場所みたいだった。
床へ落ちる灰の音が増えている。
壁の継ぎ目には、赤だけではなく、他の色の薄い滲みまで混じり始めていた。
塔の内側へ戻れば戻るほど安全だったはずの世界が、もう安全の顔をしていない。
イリスは歩きながら、横の少年を盗み見た。
眠っていた時は、白い彫像みたいだった。
起きた今は、それよりずっとたちが悪い。
無表情で、遠慮がなくて、必要なことしか言わない。
なのに歩幅だけは、いつの間にかイリスの半歩前へ固定されている。
近づきすぎない。
離れすぎもしない。
削りすぎず、守れる距離を、最初から知っているみたいに。
回廊の果てに、大扉が見える。
塔の外と内を隔てる、白い石の境界。
今までは近づくだけで見えない膜に押し返されていた。
出る必要など、なかったからだ。
イリスは扉の前で立ち止まる。
呼吸が浅くなる。
この向こうへ出たことはない。
記憶がないのだから当然だ。
けれど、記憶がなくても分かる。
ここから先は、塔の手順が届かない場所だ。
灰が落ちる理由も、色が漏れる理由も、全部が剥き出しのままある場所だ。
怖い。
怖いが、この怖さは、もう止まれという命令にはならない。
胸元の銀輪が熱を持つ。
イリスは扉へ手を伸ばした。
重い石へ触れる。
いつもならそこにあるはずの見えない圧が、今日はない。
扉が、きし、と長く軋んだ。
細い隙間から、外の風が流れ込む。
灰の匂いとは違う匂いだった。
乾いた石。
焼けた鉄。
冷えた土。
遠い、広い、知らない世界の匂い。
イリスは目を閉じる。
一拍だけ。
それから、開いた。
「行きましょう、アッシュ」
返事はない。
けれど、隣にはもう気配がある。
半歩前。
先に危険へ触れる位置。
それだけで、十分だった。
イリスは白い大扉の向こうへ、一歩を踏み出した。




