第二話 調律の塔②
塔の中枢、調律の間。
扉を開けた瞬間、空気が重くなる。
円形の床いっぱいに幾何の線が刻まれ、同心円状の溝には白い光が流れていた。
その中心に浮いているのが、《白の核》。
一抱えほどの乳白の球晶。
ここが崩れれば、外が崩れる。
今日は、もう乱れている。
イリスは入口から中心へ進み、定位置へ膝を置いた。
白杖の柄へ親指が吸い付く。
「……測定、開始」
杖先を溝へ当てた瞬間、白い光が一度だけ逆流した。
空気が詰まる。
床の線がずれ、円が歪み、中心を指していたはずの線が別の方向を向く。
ここで基準が崩れたら、世界の色は暴走する。
さっき見た『獲物』が、増える。
「――聴け、世界。奪わない。消さない。折らない――」
詠唱の途中で、核の表面に黒い亀裂が走った。
ド、クン。
重い合図。
白の中の黒が、最初からそこにあったみたいに馴染む。
次の瞬間、《白の核》が割れた。
床溝の白い光が途切れ、灰粒が一斉に浮き上がる。
壁の紋章が裂け、祈りの形が命令の形へ崩れる。
裂け目から、色が噴き出した。
最初に走った緋は、空中で一気に槍の穂先へ固まる。
切っ先はぶれず、イリスの胸をまっすぐ指していた。
次に藍。
床を這った光が輪を編み、足首へ一つ、手首へ二つ、冷たい鎖となって喰らいつく。
遅れて、残りの色も一斉に溢れた。
蒼い霧が喉へまとわりつき、白い薄片が視界の奥行きを折り、匂いの濁りが判断を鈍らせる。
痛みではない。
選べない。
立つ、退く、振り向く、その起点になる感情ごと、外から決められていく。
(均せ。均せ。均せ)
役割が叫ぶ。
藍の鎖が足首を床へ縫い止め、手首を引き、白杖の軌道を殺す。
緋の槍があと一拍で胸に届く。
届けば終わる。
そのとき、胸の銀輪がきゅ、と鳴った。
熱が走る。
像にはならない。
けれど振動だけが言葉になる。
『……前を、見ろ』
短い。
叱るみたいに。
最後の一音だけが少し丸い。
今際の際で走馬灯みたいに流れたその言葉が、イリスの心を震わせた。
役割のまま終わるのは嫌だ。
無色のまま終わるのも嫌だ。
最後に一度だけでいい。
自分の色で泣きたい。
紫銀の奥で、細い光がひと筋だけ灯る。
イリスは喉の底から声を引きずり上げた。
「起きろ――アッシュ!」
床溝の白い光が逆流した。
裂けた天井から、銀灰の影が落ちてくる。
それはイリスと《白の核》を結ぶ直線へ、寸分違わず割り込んだ。
片膝で床を抉り、砕けた石片を外へ散らしながら着地する。
鳴るはずの音の代わりに、衝撃だけが輪になって広がった。
緋の槍が少年を貫く。
――はずだった。
降り立った少年――アッシュは最短距離で半歩踏み込み、胸を狙った穂先を掌で掴み取る。
赤い槍が、そこで止まる。
次の瞬間、形を保てなくなった緋が崩れ、灰になって指の隙間から落ちた。
「動くな」
短くて無機質な言葉が落ちる。
藍の鎖がなおも足首に残る。
動けば絡む。
イリスは歯を噛み、動きを止めた。
ふと、胸の欠けが軽くなるのを感じる。
救いのはずなのに、彼のそばでは欲望まで薄くなるのが分かる。
(近いほど、削れる)
その事実が、遅れて恐怖として背骨を這い上がった。
部屋の彩度が落ちた。
蒼い霧は水滴へ変わって床へ沈み、薄片は砕け、匂いは遠ざかる。
色が、色のままでいられなくなる。
残ったのは、緋と藍だけだった。
怒りと恐怖。
最も原始的で、最も命令に近い二つ。
緋は再び槍へ凝り、今度は右肩越しにアッシュの喉を狙う。
藍は床を走って輪を作り、彼の足首へ絡みつこうと跳ねた。
アッシュは退かない。
喉を狙う槍を、左手で外へ弾く。
穂先が逸れた瞬間、右手が柄の根元を掴み、緋はそこで輪郭を失って灰へ崩れる。
足首へ食らいつく寸前の鎖は、起点ごと踵で踏み砕いた。
藍は締まる理由を失い、砕けた輪から霧になってほどける。
なおも一本、細い青が蛇みたいに跳ね、イリスの喉元へ回ろうとする。
アッシュは振り向きもせずにそれを掴み、引きちぎった。
輪でいられなくなった青が、音もなく消える。
「半拍、下げる」
指先が空を撫でた。
見えない境界が擦れ、彼と彼女のあいだの灰が一筋だけ左右に避ける。
空気の密度が変わり、イリスの胸に自分の重さが戻った。
戻るのに、薄くなる怖さは消えない。
アッシュは渦の中心へ向き直る。
両腕に装着された腕甲から黒い符文が淡く発光した。
直後、天井の高さまで跳躍する。
色の中心へ、全身の落下を乗せた拳を叩き込んだ。
「断彩」
無の衝撃。
床が割れ、中心から放射状に白い亀裂が走る。
衝撃波が部屋を駆け、緋の槍は尖りを失い、藍の鎖は締まる理由を失う。
怒りと恐怖は余りへ落ち、滝みたいな灰になって降った。
さらさら、さらさら、と。
砕けた核の隙間から、細い尾を引く光がいくつも飛び出した。
緋。藍。蒼。翠。金。白。橙。黄緑。
八つ。
それは壁を抜けて外へ逃げていく。
イリスは息を吸った。
過剰は落ちた。
部屋は静まった。
命も、まだある。
なのに終わっていない。
胸の欠けだけが、ひどく冷たかった。
砕けた《白の核》の隙間から抜けた八つの尾が、視界の奥へ焼きついて離れない。
あれが世界のどこかに落ちる。
イリスは砕けた床の上で、息を止めた。
静かだった。
静かすぎた。
だから分かってしまった。
この夜は、終わりじゃない。
世界が壊れ始める、最初の拍だった。




