表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/45

第一話 調律の塔①

挿絵(By みてみん)

灰が、降っていた。


雪と同じ白さで、同じ速さで落ちる。

違うのは床へ触れた瞬間だけだ。

粒が白い石を打つたび、じ、と熱が残る。

踏めば靴底を抜けて、足裏へ針みたいに刺さる。


少女――イリスは、その灰を踏まない。


熱の残る粒を跨ぎ、置ける石肌だけを選んで白い廊下を進む。

塔の中では、こうして漏れた異常を見つけ、削り、灰へ戻すのが彼女の役目だった。


床の溝を走る白い光が一定の間隔で濃くなり、灰粒が同時に小さく跳ねる。

塔の心臓が脈を打っている。


その拍が今は少しだけ噛み合わない。


白銀の髪が背を流れ、紫銀の瞳が曲がり角の先を射抜く。

澄んでいるのに、表情だけが薄い。

怒りも、喜びも、驚きも、そこへ落ちない。


落とさない。

落とせない。


強い感情は、この塔では危険な“色”になるから。


外套の内側で、鎖の先の銀輪が小さく揺れた。

一部が噛み取られたように欠けた輪。

刻印は削れて読めない。

冷たいはずの金属が、ときどき理由のない熱を返してくる。


曲がり角の手前で、イリスは足を止めた。


壁の継ぎ目に、髪の毛ほどのひびが走っている。


ひびの奥が、赤い。


怒りの感情が色となって漏れ出していた。


光っているのに液体みたいに粘る緋が、白い石を内側から汚している。

近づくだけで喉が熱い。

胸の奥がざらつく。

拳を握りたくなる。

誰かを殴りたくなる。

歯を噛みしめたくなる。


――ぶつかれ。

――壊せ。


紫銀の瞳の縁へ、熱に炙られたみたいな緋が一瞬だけ滲んだ。


「……錯覚」


喉の奥でそう呟き、自分を縫い止める。


放っておけば、人が人でなくなる。

だから削る。


イリスは半歩だけ距離を取り、白杖を構えた。

杖先だけをひびへ差し入れる。

触れるのは最小限。

触れた分だけ、返されるから。


「――聴け、世界。奪わない。消さない。折らない。……均します」


杖先が緋に触れた瞬間、壁のひびから細い糸が跳ねた。

糸は空中で針に変わり、一直線に頬を狙う。


顎を引く。

最小限で避ける。

避けた軌道を、次の針がなぞってくる。


色が“狙い”を覚える。


手首をひねり、針の根元へ杖先を擦り当てた。

硬い抵抗が返る。

刃で乾いた樹脂を削るみたいな、生々しい感触。

緋が絡みつき、空気がざらつく。


削る。


もう一度ひねる。

緋が強く明滅し、耐えきれずに弾けた。


弾けた赤は形を保てず、濁って灰に落ち、熱だけを残した。


さらさら。


残るのは痛みだけ。

耳の奥にこびりついていた命令は消えた。


漏れた色を削り、灰へ戻し、塔の拍を守る。

――それだけが、自分に残された役割だった。


その手順はこれまで一度も狂わなかった。


――今日までは。


床溝の白い光が、一度だけ間違える。

濃くなるはずの明滅が二回続けて瞬き、胸骨へ来る衝撃が半拍ずれた。

塔の心臓が、咳き込んだみたいに。


同時に、銀輪がきゅ、と鳴る。


突き当たりの白い石肌に、窓みたいな割れが浮かんだ。


気づけば、手が伸びている。


見えない膜へ指先が当たり、水面みたいな弾力で押し返された。


膜の向こうに光景がある。


青い空。

緑の気配。


女が、幼い子どもを胸へ抱き寄せていた。

子どもの顔は女の肩へ半分埋まり、女の片腕が背を包み、もう片方の手が後頭部を庇っている。

守るための形だ。


ノイズが走る。


輪郭が二重になる。


子どもの口が動く。

声は届かない。

代わりに文字だけが浮かんだ。


『おかあさん』


その文字が、端から削られる。


欠けた部分へ、別の線がゆっくりねじ込まれた。


『獲物』


女の腕が、先に変わった。


背を包んでいた肘が不自然に固まり、後頭部を庇っていた指が、押さえつける向きへ沈む。

抱き寄せるために内側へ曲がっていた力が、そのまま折るための角度へ噛み変わる。


子どもの身体が、逃げるでも甘えるでもなく、ただ腕の中で持ち直せない形にずれる。


女の顔は母親のままだった。


髪も、服も、輪郭も変わらない。


なのに表情の意味だけが抜け落ちる。

そこにあるのは心ではなく、目的だけだった。


子どもは泣いている。

涙は落ちる。


けれど泣き顔の理由だけが、きれいに剥がれていく。


過剰な色が、元の感情を塗り替えていく。


イリスの喉が鳴った。


怖い。

だがこの怖さは、止まれという命令じゃない。


見ろ、という警告だ。


床の下で、重い合図がもう一度ずれた。

塔全体の空気が一瞬だけ沈む。


次の瞬間、最奥の方角から、まったく同じ拍が返ってきた。


この塔で異変に応答したものがある。


本来なら、ただちに中枢へ向かうべきだった。


けれど足が止まる。

違う。

止められたんじゃない。


これを見落としたまま核へ行く方が、危険だと身体が先に知っていた。


イリスは走り出した。


扉の向こう、円環の寝室の中央に、銀灰の髪の少年が横たわっている。

彫刻みたいに整った顔。

体温を感じさせない白さ。

返事はない。

けれど今日だけ、灰粒の落ち方が乱れ、その乱れが胸元の銀輪と噛み合っていた。


「……おはよう、アッシュ」


きゅ、……きゅ。


塔の深部でずれた拍と、少年の眠りの底に沈んだ拍が、同じ間隔で返ってくる。


この異変は中枢だけのものじゃない。

この眠りまで届いている。


「あなた、こんな時でも完璧な寝顔ですね」


口から落ちた軽口に、自分で驚く。

誰が教えた。

どこで覚えた。

そんな言い方。


「……私、ここに来る前の記憶がありません。自分が誰だったかも、何を好きだったかも。なのに――あなたの名前だけは、最初から口が知ってる」


なぜか知っている。

言葉じゃなく、骨が覚えている。


熱が生まれかける。

危ない。

熱は色になる。


イリスは少年の額の灰を指で払った。

じり、と指先が焼ける。

痛い。

痛いだけだ、と言い聞かせる。


「……ねえ。もし起きる時があるなら、たぶん今です」


銀輪がもう一度鳴く。


確認は終わった。

異変は確かに、この眠りまで届いている。


なら、次は中枢だ。

イリスは踵を返し、調律の間へ走った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
凄い詩的な文章が素敵です。 ただもう少し台詞などを増やすのも良いかもしれません。 文章だけ羅列していると読者も飽きるので。 でも個人的にはとても良い作品と思いますよ!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ