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プロローグ ゼロの夜

その夜、世界は静かになりすぎていた。


白い部屋の中央で、少女は立ち尽くしていた。


床には細い光の線が走っている。

線は円を描き、重なり、また離れ、部屋の中心へ集まっていた。

壁は白く、天井は高い。

光源はどこにもないのに、空気だけが淡く明るい。


その光のもっとも濃い場所に、ひとつの輪郭が横たわっている。


まだ名を持たない、少年の形だった。


銀灰の髪だけが先に生まれたみたいに白い。

閉じたまぶたの下には夢も眠りも見えず、息も、鼓動も聞こえない。

なのに死んでいるようには見えなかった。

ただ静かに、この世界から削ぎ落とされた過剰だけを受け止めるために置かれた器のようだった。


胸元の銀輪を、少女は強く握る。


古い輪だった。

ひと欠け、噛み取られたみたいに欠けている。

刻まれていたはずのものはもう読めない。

それでも、これだけは手放せなかった。

失えば、ここまで歩いてきた理由まで薄くなってしまう気がしたからだ。


部屋の外で、世界がきしむ。


風は止んでいない。

灯も消えていない。

誰かの足音も、遠い祈りも、まだこの世界には残っている。


それなのに、何もかもが一拍ずつ遅れて届いた。

泣く声は涙より遅く、祈る手は願いより遅く、名前を呼ぶ口は、呼ぶ理由より先に空白へ触れていた。


静けさではなかった。

壊れる前の、息を潜めた歪みだった。


まだ壊れきってはいない。

けれど、もう間に合わない場所が増え始めているのが分かった。


外では、もう感情が感情のままではいられなくなっていた。


怒りは刃を生む前に、言葉の角度を変える。

恐れは逃げ足を奪う前に、影へ牙の形を与える。

祈りは救いを願うためのものだったはずなのに、濃くなりすぎた拍の中では、誰かを従わせる合図へ噛み変わる。


まだ誰も死んでいない。

なのに、世界のほうが先に、人を人でいさせる意味だけを壊し始めていた。


少女は眠る輪郭のそばへ膝をついた。


伸ばしかけた手が、途中で止まる。


触れれば、戻れなくなる。

触れなくても、もう戻れない。


だったらせめて、最後だけは自分の意志で選びたかった。


少女は目を閉じる。


閉じた瞼の裏で、いくつもの気配がひび割れる。

怒りが誰かの喉を借りる前に、言葉だけが尖っていく。

恐れが走らせる前に、足場だけを奪っていく。

歓びですら、同じ角度で揃いすぎた瞬間、祝福ではなく命令の顔をし始める。


もう残せない。

何かを残すためには、何かを落とさなければならない。


どれほど醜くても、どれほど取り返しがつかなくても。


少女はゆっくり息を吸い、少年の額へ指先を触れた。


冷たいはずだった。

けれど実際には、白い熱があった。

炎とは違う。

燃やすためではなく、形を決めるための熱だった。


その熱に触れた瞬間、銀輪が胸元で鋭く鳴いた。


ひびが入る。


小さな、乾いた音。


少女はそれを聞いたのに、手を離さなかった。


「……まだ、目を開けないで」


声はひどく小さかった。


世界へ向ける言葉ではない。

たったひとつの輪郭へ落とすためだけに削られた、私的すぎる囁きだった。


「今ここで起きたら、きっとだめ」


答えはない。


それでも、指先の下で何かが静かに結ばれていくのが分かった。

名のない輪郭へ、声だけが鍵みたいに沈んでいく。


少女は喉の奥を押さえるように息を継いだ。


「もし、未来に」


その先だけ、少し掠れた。


初めてだった。

決断より先に、言葉の方が泣きそうになったのは。


「もし、そのときの私が、もう私じゃなくなっていても」


銀輪のひびが深くなる。


欠けた破片がひとつ、白い床へ落ちた。


小さな音だった。

なのに、その一音だけが今夜いちばん個人的な喪失に思えた。


少女は、眠る輪郭をまっすぐ見つめる。


本当は呼びたかった名がある気がした。

けれど、その形へ舌が届く前に、世界のほうが先に崩れかけている。


だから名ではなく、条件だけを残す。


「そのときは、私の声でだけ起きて」


部屋の光が脈打った。


床の線が、ひとつの意志を持ったみたいに濃くなる。

円は重なり、中心へ寄り、少女の足元から白い拍を広げていく。


世界を静めなければならない。

そうしなければ、朝が来る頃には、人は人の名で誰かを呼べなくなる。


少女は立ち上がる。


裸足のまま、光の中心へ踏み込む。

床は焼けるように熱かった。

痛みがある。

痛みがあるうちは、まだ自分の輪郭を保てる。


「聴け、世界」


白がひらく。


光ではなかった。

境界だった。


世界と世界のあいだへ、線が引かれていく。

線は柱になり、柱は膜になり、膜は外の過剰を押しとどめる輪郭へ変わっていく。

部屋の外で荒れ狂っていたものが、一気に音を失う。

祈りも、怒号も、笑いも、嗚咽も、どれも同じ深さへ沈んでいく。


静寂が来る。

救いと呼ぶには冷たすぎる静寂が。


少女の髪が、風もないのに浮いた。

指先から感覚が遠ざかる。


胸の奥から、熱いものがひとつずつ引き抜かれていく。

悲しみかもしれない。

怒りかもしれない。

愛だったのかもしれない。

名前をつけるより先に、それらは白へほどけていった。


それでも少女は、最後まで少年の方を見ていた。


眠る輪郭だけが、白の中で消えずに残っている。

残したかったものが、まだそこにある。


だから、まだ壊れきらずにいられる。


「忘れないで」


最後にそう言ったのが、本当に声になっていたのかは分からない。


忘れないで、と願った相手が誰だったのか。

何を忘れたくなかったのか。

もうその境目すら曖昧になりながら、それでも少女は目を逸らさなかった。


白はさらに深くなる。

足元の線が柱へ変わる。

柱は天を支えるみたいに伸び、膜は世界の外縁へ広がっていく。


少女の輪郭が、その白へ溶けはじめる。


膝が、指が、声が、髪が、ひとつずつ部屋の構造へ変わっていく。


もう戻れない。

けれど、その代わりに、世界はかろうじて呼吸を続ける。


白い床に落ちた銀輪の欠片だけが、最後まで熱を失わなかった。

眠る少年の傍らで、それは小さく冷えていく。


そして夜が明ける前、世界は息を止めたまま、壊れることだけを思いとどまった。


眠る輪郭のそばに残ったのは、欠けた銀輪と、未来へ届くたったひとつの声だけだった。

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