第一話 白き奉迎
白い花が、逃げ道を塞いでいた。
荒野の街道いっぱいに、白い旗が並んでいる。
その下で、白い鎧の兵たちが膝をつき、祈るように頭を垂れていた。
剣は抜かれていない。
槍の穂先も地へ伏せられている。
怒号もない。殺意もない。
それなのに、右にも左にも抜け道はなかった。
「進路、封鎖」
半拍ぶん前で、アッシュが告げた。
イリスは白杖を握り直す。
足元の灰に、細い深藍の痕跡が残っていた。
恐怖の色の跡。
エレリアを出てから、イリスたちはその痕跡を追っていた。
恐怖の色は濃く広がっているのではなかった。何かから逃げるように曲がり、途切れ、また細く伸びていた。
その先にあったのが、この白い包囲だった。
恐怖は、ここへ向かっていたのではない。
ここから逃げようとしていたのだ。
ルーファが風鈴へ指を添える。
鳴らさない。ただ、風の流れを読む。
「これ、祈りじゃない。配置だよ」
「配置?」
「うん。祈ってる形をしてるけど、風の逃げ道がない。右へ行っても旗で戻される。左へ逸れても兵がいる。後ろにも、たぶん別の列がある」
ルーファの声が、少しだけ低くなる。
「礼儀正しく、囲まれてる」
イリスは前を見る。
白い兵士たちは、誰もこちらを睨まない。
ただ頭を垂れ、道を塞ぎ、祈っている。
だからこそ、動きにくかった。
剣を向けられたなら、対処できる。
襲撃なら、アッシュに命じればいい。
けれどこれは、祈りの姿勢をした包囲だった。
「排除可能」
アッシュの両腕に、黒い符文が淡く灯りかける。
「待ってください」
イリスは短く止めた。
「彼らは、まだ攻撃していません」
「逃走路を削っている」
「分かっています。それでも、先に壊せばこちらが悪者になります」
アッシュは黙った。
納得ではない。保留だ。
その間にも、白い旗の奥から一人の老軍人が歩み出てくる。
白の軍装に、飾り気のない外套。深い皺と古傷の刻まれた顔は、祈りの場にいるにはあまりに戦場の匂いを残していた。
腰には剣がある。
けれど、その手は柄へ触れていない。
老軍人はイリスたちの前で立ち止まり、右拳を胸へ当てた。
それから、片膝をつく。
「白律将軍、オルド・ガレス」
名乗りは短かった。
礼を尽くしているのに、軍令のように揺らがない。
「皇帝レグナス・カレイドラ陛下の命により、調律の巫女イリス様を奉迎に参りました」
ルーファの風鈴が、鳴らないまま小さく揺れた。
「……断彩の魔女、とは呼ばないんだね」
その言葉に、白い兵たちの空気がわずかに硬くなった。
オルドは顔を上げない。
ただ、声だけが静かに返る。
「それは、外の者が畏れと無知で付けた俗称です」
「俗称?」
「はい。断つ者。壊す者。色を奪う者。そう呼べば、民は巫女様の本質を見誤る」
イリスは黙ったまま、オルドを見下ろした。
断彩の魔女。
かつてルーファが口にしたその名は、今でも胸の奥に小さな棘として残っている。
自分が何を断ったのか。
何を奪ったのか。
その答えを、イリス自身もまだ持っていない。
オルドは続けた。
「帝国は、あなたを魔女とは呼びません」
その声は、礼節の形をしていた。
けれど、どこかで命令にも似ていた。
「あなたは世界を壊した者ではない。世界を均し、過剰を鎮め、民を静寂へ導く基準です。ゆえに、帝国における正式尊称はただ一つ――調律の巫女」
白い旗が、風もないのに揺れた。
「魔女では、聖座へお迎えできません」
イリスの指が、白杖の柄へわずかに沈む。
その一言で、分かった。
彼らは、自分を赦しているのではない。
畏れていないのでもない。
呼び名を変えることで、都合のいい形へ置き直しているのだ。
断った過去を、均した役割へ。
魔女という恐怖を、巫女という信仰へ。
そして、信仰に変えたものを、聖座へ座らせるために。
帰還、ではない。
まず、奉迎。
その丁寧な言葉の奥で、白い列が道を塞いでいる。
イリスは白杖を握ったまま、オルドを見下ろした。
「……奉迎、といいましたね」
「はい」
オルドは頭を垂れた。
「カレイドラ帝国は、あなたの帰還をお待ちしておりました」
帰還。
その一語だけが、胸の奥で異物みたいに鳴る。
「私は、あなたたちを知りません」
「存じております。巫女様は長き静寂の中におられた。外の名を知らずとも、不思議はありません」
「ならば、なぜ帰還と呼ぶのですか」
オルドは、老いた軍人らしく余計な笑みを浮かべなかった。
ただ、さらに深く頭を下げる。
「あなたが、この世界の基準であられるからです」
世界の基準。
その言葉に、イリスの指が止まった。
白い塔。
調律の間。
床に刻まれた円環。
同心円の溝を流れる白い光。
中心に浮かぶ《白の核》。
漏れた色を測り、過剰な感情を均し、灰へ落とす。
怒りが人を壊す前に削る。
恐れが意味を噛み変える前に沈める。
歓びが命令へ変わる前に、拍を整える。
それが、塔での自分の役割だった。
役割。
手順。
装置。
イリスは、そこで人として生きていたのではない。
世界の過剰を均すために、白い塔の中で動くものだった。
白杖の柄へ親指が吸い付く。
擦り減った箇所だけが、身体記憶みたいに正確だった。
オルドは続ける。
「聖座は、あなたのために用意されています」
「聖座……」
椅子。
中心。
置かれる場所。
そこから動かず、世界のために働くための座。
その響きが、調律の間の白い円環と重なった。
塔では《白の核》の前に膝を置いた。
帝国では聖座に座れと言う。
形は違う。
けれど、していることは同じではないのか。
イリスという人間を、都合のいい場所へ置く。
過剰な感情を均す装置として、世界の中心に固定する。
「……私は、また装置になれと言われているのですか」
声は静かだった。
けれど、自分でも分かるほど冷えていた。
オルドの皺深い顔が、わずかに動く。
「装置ではありません。あなたは尊き巫女です」
「呼び名の問題ではありません」
イリスは白杖を握る指へ力を込めた。
「塔での私は、役割をこなしていました。過剰な感情を均し、世界を静めるために。その私を、あなたたちは今度は帝国の聖座に座らせようとしている」
オルドは沈黙した。
イリスは、その沈黙を見逃さなかった。
「違いますか」
「世界には、基準が必要です」
オルドは静かに言った。
「制御できぬ感情が、どれほど危険か。それは、調律の巫女様が最もご存じのはずだ」
イリスは、すぐに否定できなかった。
知っている。
怒りが人の輪郭を焼く瞬間を。
恐れが名の意味を噛み砕く瞬間を。
歓びが命令へ変わり、笑顔のまま人を壊す瞬間を。
塔の中で、彼女はそれを均してきた。
過剰な色を削り、拍を整え、世界が壊れすぎないように白へ戻してきた。
オルドの言葉は、間違っていない。
少なくとも、理屈だけなら。
「あなたの役割は、世界を静めることです」
オルドは続けた。
「ならば聖座へ戻り、民が抱えきれぬ感情を均す。それは、あなたが塔で果たしてきた務めと同じではありませんか」
同じだ。
イリスの理性が、冷たくそう答えた。
塔でしてきたこと。
過剰を見つけ、削り、沈める。
人が壊れる前に、人から色を遠ざける。
その手順だけを見れば、帝国の言葉は正しい。
けれど。
外套の内側で、銀輪が小さく熱を返した。
ノアの涙を思い出す。
ミラの震える腕を思い出す。
泣くことを奪わず、悲しみを持ち主へ返した、あの瞬間を思い出す。
胸の奥で、まだ名前のつかないものが反発した。
それは理ではなかった。
役割でも、手順でも、塔の命令でもなかった。
ただ、イリス自身の感情が、静かに首を振っていた。
「……同じではありません」
声は小さかった。
けれど、白い街道の上で、確かに落ちた。
オルドの目がわずかに細くなる。
「なぜです」
「塔での私は、世界を壊さないために均していました」
イリスは白杖を握る指に力を込める。
「でも、あなたたちはそれを制度にしようとしている。誰かが泣く前に、怒る前に、怖がる前に、先に取り上げようとしている」
白い花が風に揺れた。
「それは調律ではありません」
イリスは言った。
「人を、壊れる前から空にするだけです」
ルーファの風鈴が、ちり、とかすかに鳴った。
「……今の、かなり嫌な風」
アッシュの視線がオルドへ向く。
「対象、支配的」
「保護です」
オルドは即座に訂正した。
「調律の巫女様を保護し、無の器を管理し、始律の巫女には安全な休息を提供する。それが帝国の務めです」
「管理?」
アッシュの声が低くなる。
「無の器アッシュ。あなたは零番聖具として――」
「聖具ではない」
短い否定だった。
けれど、その一言で周囲の兵の肩がわずかに揺れた。
祈りの姿勢は崩れない。崩れないまま、緊張だけが揃って濃くなる。
イリスはオルドを見据えた。
「私たちを分けるつもりですね」
オルドは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
ルーファが一歩、イリスの横へ出る。
「祈りに見せて、包囲して、保護って言うんだね」
「危険な自由は、時に止めねばなりません」
「それ、自由じゃなくなるよ」
「迷われぬよう、道を一本にしているだけです」
イリスは足元を見る。
白い花の下に、薄い線があった。
街道へ刻まれた幾何の紋。まっすぐ前へ進む時だけ、足裏の抵抗が少ない。左右へ踏み出そうとすると、感覚が鈍る。
誘導されている。
花道ではない。
選択肢を消すための道だ。
「恐怖の色は」
イリスが問うと、初めてオルドの返答が遅れた。
アッシュがそれを見逃さない。
「反応あり」
オルドは静かに言った。
「恐怖の色は、帝国管理下にあります」
ルーファが息を呑む。
「捕まえたの?」
「拡散防止措置です」
オルドの声は硬かった。
そこには迷いより、戦場で何度も死者を数えた者の確信があった。
「恐怖は民を乱します。兵をすくませ、逃走、疑念、混乱を生む。ゆえに安全な場所へお預かりしている」
恐怖を、預かる。
イリスの瞳に、冷えた藍が差した。
恐怖は苦しい。
人をすくませる。足を止める。息を浅くする。
けれど、恐怖がなければ逃げられない。
危険を危険だと知れない。
大切なものを失う前に、手を伸ばせない。
その感情を、誰かが管理する。
そして、自分を聖座に座らせる。
帝国が欲しいのは、巫女ではない。
必要な濃度で感情を整えるための、白い装置なのではないか。
「この世界で、あなたを知らぬ者こそ罪なのです」
オルドは静かに告げた。
兵士たちが、いっせいに頭を下げる。
祈りの音が揃いすぎて、ひとつの機械のように聞こえた。
イリスは白杖を握り締める。
「私は、私の知らない罪で裁かれるつもりはありません」
「裁くのではありません。迎えるのです」
「迎える人は、逃げ道を塞ぎません」
オルドは目を逸らさない。
「いずれ、ご理解いただけます」
アッシュが低く言う。
「突破可能。今なら中央を抜けられる」
「犠牲は」
「不明」
「なら、まだ駄目です」
「乗れば分断される」
「分かっています」
「分かっているなら――」
「見届けます」
イリスはオルドから目を逸らさなかった。
「帰るためではありません。あなたたちが恐怖をどこへ閉じ込めたのか。私を、どんな装置に戻そうとしているのか。この目で見ます」
ルーファが小さく頷く。
「うん。帰還じゃない。確認だよ」
アッシュは一拍だけ黙った。
「命令は」
「半拍前にいてください」
「了解」
その短い返事だけで、少し呼吸が戻った。
オルドは深く頭を下げる。
「白境都市ラクリマ=アルバまで、我々がご案内いたします」
白い兵たちが立ち上がる。
剣は抜かない。槍も向けない。
ただ、祈りの列が動き、道の形を変えていく。
白い花道の先に、白い御車が見えた。
窓には薄布が掛けられ、中は見えない。
イリスは一歩踏み出した。
白い花が、靴の下で潰れる。
甘い香りはしなかった。
紙のように乾いた音だけが鳴る。
その下で、深藍の痕跡がかすかに震えていた。
恐怖は、まだ逃げようとしている。
そして今、イリスたちはその恐怖を閉じ込めた白い帝国へ、礼儀正しく連れていかれようとしていた。




