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断章二 カレイドラ帝国

白磁の床に、跪く音が落ちた。

その音さえ、広間の奥へ届く前に角を削られる。


カレイドラ帝国、白冠宮。


最奥の謁見の間で、帝国伝令は額を伏せたまま、淡々と報告を読み上げていた。


「調律の巫女イリス、悲哀律国エレリアを通過。哭塔中枢にて高濃度の悲哀反応を観測するも、同国の完全崩壊は確認されず」


玉座の前に沈黙が落ちる。


驚きはない。

ただ、左右に並ぶ者たちの呼吸が、わずかに整え直された。


「同行者、二名。無の器アッシュ。始律の巫女ルーファ。いずれも調律の巫女と行動を共にしている模様」


玉座の男は、指先ひとつ動かさなかった。


レグナス・カレイドラ。


帝国皇帝。


濃い白の外套を肩にかけ、王冠ではなく、細い白銀の環を額に戴いている。表情は穏やかだ。だがその目は、民ではなく、国そのものの脈を測っているようだった。


「続けよ」


低い声が落ちる。

怒号ではない。けれど、命令よりも深く背筋へ届く声だった。


「恐怖の色の痕跡、帝国辺境方面へ接近中。現在、白境都市ラクリマ=アルバ周辺にて、恐怖反応の低下が進行しております」


広間の右手で、鎧の擦れる音がした。


白い軍装をまとった男――オルド・ガレスが、わずかに眉を動かす。


「低下、だと」


「はい。都市感情管理網は正常稼働中。ですが、恐怖拍のみが管理基準を下回っています」


「下回りすぎている、ということか」


「はい。住民の逃避反応、危機回避反応、警戒拍がいずれも基準値未満。暴動および混乱は確認されておりません」


「それは平穏ではない」


オルドの声は硬かった。


「兵から恐怖を落とすことと、民が危険を危険と認識できぬことは違う」


伝令の喉が小さく鳴る。


その横で、黒縁の記録板を抱えた女が一歩進み出た。


クラウディア・メルク。


彩籍長官。


人の感情を数え、分類し、国家の表へ置き直す者。


「白境都市からの報告では、住民の幸福値、従順値、秩序維持率はいずれも上昇しています」


淡々とした声だった。


「ただし、危険察知に伴う恐怖拍のみが著しく希薄です。火災時に逃げ遅れた者が十七名。獣害発生時に避難勧告へ反応しなかった者が四十二名。恐怖の不足による判断遅延が疑われます」


オルドは短く息を吐いた。


「恐怖を落としすぎた街か」


「都市感情管理網だけでは、ここまで偏りません」


クラウディアが言った。


「恐怖の色が接近したことで、白律処理が過剰反応している可能性があります。恐怖が街を避けているのではありません」


彼女は記録板へ目を落とす。


「街が、恐怖を人体の外へ弾いているのです」


その一言に、玉座の傍らで白い衣をまとった女が顔を上げた。


ユーディア・ヴェル=カレイドラ。


聖宰。


祈りを政治へ、政治を祈りへ翻訳する女。


彼女の瞳は澄んでいた。澄みすぎて、目の前の人間ではなく、遠い祭壇の上に置かれた理想だけを見ているようだった。


「巫女様は、まだ世界を歩いておられるのですね」


その声には、うっとりするような響きがあった。


イリス。


調律の巫女。


世界を一度、静かにした者。


帝国において、その名は人の名というより、祈りに近い。


ユーディアは胸の前で指を組む。


「本来ならば、あの方は聖座にて白を保たれるべき御方。灰の荒野を歩かせるなど、世界はなんと乱れているのでしょう」


「世界が彼女を歩かせている」


レグナスが言った。


ユーディアの祈る手が止まる。


皇帝は玉座の肘掛けへ指を置き、白い広間の奥を見た。


「ならば、我々が世界を彼女のもとへ揃える」


それが帝国の理念だった。


感情は、放っておけば色に呑まれる。


資格なき者には、抱えきれない。


だから国家が測り、分け、整え、必要な濃度だけを許す。


それを支配と呼ぶ者もいる。


帝国では、保護と呼んだ。


「陛下」


オルドが一歩進み出る。


「白境都市ラクリマ=アルバに、白律兵を送ります。恐怖の色が帝国中枢へ流入する前に、白境管区で捕捉を」


「捕捉だけでは足りません」


クラウディアが記録板を閉じた。


「調律の巫女が同地へ向かう可能性が高い。無の器と始律の巫女も同行しています。三者を同時に扱える指揮権限が必要です」


「扱える、ですか」


ユーディアの眉が、ほんの少しだけ動いた。


「言葉を選びなさい、クラウディア。巫女様は対象ではありません」


「失礼しました」


クラウディアは即座に頭を下げる。


「保護すべき御方です」


ユーディアは満足げに頷いた。


オルドは何も言わない。


その沈黙には、言葉が変わっても現場の手順は変わらない、という硬さがあった。


レグナスは静かに目を細める。


「討伐軍ではない」


その一言で、広間の空気が定まった。


「奉迎軍を出す」


ユーディアの表情が、花がひらくように明るくなる。


「白律奉迎軍、でございますね」


「そうだ」


レグナスは頷いた。


「調律の巫女は討つものではない。傷つけるものでもない。迎えるものだ」


「抵抗した場合は?」


オルドが問う。


広間の端で、何人かが息を止めた。


皇帝は怒らない。

当然の確認として受け取ったように、静かに答える。


「討つな。傷つけるな。膝をつき、祈り、迎えよ」


「それでも拒まれた場合は」


レグナスの指が、肘掛けを一度だけ叩いた。


乾いた音が、白磁の床を渡る。


「その時は、祈り方を変える」


ユーディアは祈るように目を伏せた。


クラウディアは記録板を開き、命令文を書き起こす。


オルドは表情を変えず、背筋だけを伸ばした。


拘束とは呼ばない。


捕縛とも呼ばない。


帝国はいつでも、正しい言葉を選ぶ。


「第一命令」


レグナスの声が、広間へ落ちる。


「調律の巫女イリスを保護せよ」


クラウディアの筆が走る。


「第二命令。無の器アッシュを、零番聖具として管理せよ」


ユーディアの指が、胸元でかすかに強く組まれた。


人ではなく、聖具。


その扱いに異を唱える者はいない。


「第三命令。始律の巫女ルーファを、調律の巫女より分離・隔離せよ」


一瞬だけ、広間の空気が揺れた。


風を扱う者。


感情を運ぶ律を持つ者。


帝国にとって、それは最も測りにくい不安定要因だった。


「第四命令。恐怖の色の拡散を防止せよ」


オルドが深く頷く。


これは軍の仕事だ。


色であれ、災厄であれ、帝国領へ無秩序を入れるわけにはいかない。


「第五命令」


レグナスは、そこで声を低くした。


「巫女が帰還を拒む場合、保護段階を引き上げよ」


筆の音が止まる。


短い静寂が満ちた。


不穏ではない。


むしろ、あまりにも整っていた。


だからこそ、冷たかった。


ユーディアがゆっくり顔を上げる。


「陛下。巫女様は、帰ってきてくださるでしょうか」


「帰るのではない」


レグナスは言った。


「お戻りいただくのだ」


迷いのない声音だった。


ユーディアは目を閉じ、祈る。


「空の巫女よ。どうか、再び聖座へ」


オルドは片膝をついた。


「白律奉迎軍、出立準備に入ります」


クラウディアも頭を下げる。


「彩籍庁より、対象三名の分類票を即時更新します。調律の巫女は最上位保護。無の器は零番聖具。始律の巫女は分離対象。恐怖反応低下区域は、白律兵による警戒強化へ」


レグナスは立ち上がった。


玉座の背後に垂れる白い幕が、音もなく揺れる。


そこに描かれているのは、欠けのない輪だった。


感情を均し、世界を整え、二度と壊さないための輪。


その中心に、本来ならば巫女が座るべきだと、帝国は信じている。


「世界は一度、感情で壊れた」


皇帝の声が、広間の隅々まで届く。


「我々は、その過ちを繰り返さぬために在る」


誰も頷かない。


頷く必要がなかった。


この国では、それは空気より前にある前提だった。


「迎えよ」


短い命令だった。


だがその一語で、白冠宮の外に待機していた兵たちの拍が揃う。


中庭で、白い旗が上がった。


旗には剣ではなく、祈りの輪が描かれている。


白律兵たちは一斉に膝をつき、胸へ拳を当てた。


恐れはない。


迷いもない。


彼らは命令通りに進む。


逃げることを知らない兵は、誰よりも早く死地へ入れる。


それを帝国は、勇敢と呼んだ。


「調律の巫女を、聖座へ」


ユーディアが祈る。


「無の器を、正しき場所へ」


クラウディアが記す。


「始律の巫女を、風から切り離せ」


オルドが立ち上がる。


レグナスは白い旗を見下ろしたまま、最後に静かに言った。


「そして恐怖を、民の外へ置け」


白い門が開く。


馬蹄の音は乱れない。


軍靴の音も、祈りの声も乱れない。


白律奉迎軍は、討伐のためではなく、奉迎のために出立する。


傷つけるためではない。


殺すためでもない。


ただ、世界が再び壊れないように。


感情を、正しい場所へ戻すために。


その列が、帝都の門を抜けていく。


行く先にある白境都市では、すでに人々が危険を危険として恐れなくなり始めていた。


そしてその先で、恐怖の色が逃げている。


白い帝国へ近づきながら。


白い帝国の民の胸からも、弾かれるように。

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