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断章一 彩の母

硝子瓶の底に、涙が沈んでいた。


水ではない。


宝石でもない。


涙の形をした、蒼い光だった。


小指の爪ほどのそれは、瓶を傾けても揺れない。振っても音はしない。けれど、見つめた者の喉だけが、一拍遅れて詰まる。


泣く理由を思い出すより先に、身体が悲しみを知ってしまう。


そんな光だった。


「エレリアより、持ち帰りました」


白金に近い淡金の髪を後ろへ流した男――セラフィオ・ラハルトが、硝子瓶を両手で差し出す。


その仕草は、戦利品を捧げるものではない。


咲き終えた花の足元から、こぼれた種を拾い上げた者の手つきだった。


「悲哀の始まりの色。その残響です」


広間の奥で、ひとりの女がそれを受け取った。


白でも黒でもない髪。


光の角度で七色に見える髪が、肩へゆるやかに落ちている。瞳は柔らかい。柔らかすぎて、見つめる者の奥にある色まで、何も傷つけずに撫でてしまうようだった。


彩主オルフェリア・プリズムレイン。


色の使徒たちは、彼女を母と呼ぶ。


オルフェリアは瓶の底を見つめ、静かに微笑んだ。


「……よく、泣きましたね」


責める声ではなかった。


憐れむ声でもなかった。


花が雨を受けてひらいたことを、ただ美しいと認める声だった。


セラフィオはわずかに目を伏せる。


「哭塔は砕けました。けれど、エレリアは沈み切らなかった。ミラ・アルメリアは、最後まで悲しみを国の底へ落とそうとした」


「ええ」


「ノアという泣けぬ子も、壊れなかった」


「ええ」


「そして、断彩の魔女は――」


セラフィオはそこで一度、言葉を切った。


唇には柔らかな笑みがある。けれど、薄い琥珀の瞳の底だけが静かに冷えていた。


「悲しみを消しませんでした。持ち主へ返した」


広間の空気が、わずかに動く。


円卓の端で、赤い爪がこつ、と卓を叩いた。


反対側では、鈴のような笑い声が一粒だけ落ちる。甘い香の匂いが、いつの間にか場を二つに分けていた。


誰も名乗らない。


誰も席を立たない。


ただ、色だけがそこにいた。


オルフェリアは瓶を掌の中でゆっくり回す。


「なら、なお美しい」


セラフィオの瞳が上がった。


「返された悲しみは、次にもっと深く咲きます。閉じ込められた悲しみより、いちど胸へ戻った悲しみのほうが、よく根を張るものですから」


「危険とは、見ないのですね」


「危険でしょう」


オルフェリアは微笑んだまま言った。


「でも、危険であることと、美しいことは、別の話です」


その言葉に、広間のどこかで低く息を呑む音がした。


セラフィオは笑みを深める。


「彼女は、白ではなくなりつつあります」


白。


その一語だけが、広間でひどく冷たく響いた。


均された世界。


薄められ、整えられ、灰へ落とされてきた長い時代。


色の使徒にとって、その白は救いではない。


咲く前の花を閉じ込める、優しい檻だった。


「幸福の街で、彼女は笑顔を均しました。けれどエレリアでは、悲しみそのものを否定しなかった」


「ええ」


「そして、あの無の器も。彼女の望まない断ち方を、選びませんでした」


硝子瓶の蒼い光が、ほんの一瞬だけ暗くなる。


オルフェリアの指先が、瓶の口をそっと撫でた。


「色を受け取らない器」


「アッシュ、と呼ばれていました」


「世界でいちばん色づきにくい花ですね」


「花と呼ぶには、あまりに静かです」


「静かな花もあります」


オルフェリアは柔らかく言った。


「咲く音が聞こえないだけで」


セラフィオは答えなかった。


オルフェリアは硝子瓶を円卓の中央へ置く。


蒼い涙が、卓上に置かれた深紅の薄片、翠の結晶、黄緑の棘、白い羽根へ、静かに影を落とした。


「イリス」


その名を、彼女は初めて口にした。


敵の名ではなかった。


まだ眠る子へ、朝の光を知らせるような呼び方だった。


「あなたは世界を均した。なら今度は、世界に咲かされる番です」


広間の色たちが、ほんのわずかに拍を揃えた。


深紅が熱を増し、翠が硬く結び、黄緑の棘が少しだけ伸びる。


セラフィオは静かに頭を垂れた。


「母。彼女は、こちらへ来るでしょうか」


「来ます」


「断言なさるのですね」


「ええ。あの子は、逃げた色を追っているのでしょう?」


「はい」


「なら、色のほうがあの子を連れてきます」


オルフェリアは蒼い涙を見つめたまま、少しだけ目を細める。


「欠けを取り戻したい子は、欠けたものの匂いに逆らえません。まして、あの子は自分が何色を失くしたのかも、まだ知らない」


「母は、彼女を救いたいのですか」


「もちろん」


あまりにも自然な返事だった。


だからこそ、セラフィオは笑った。


「その救いに、彼女が壊れる可能性があっても?」


「咲くことと、壊れることを、あなたは分けて考えすぎます」


オルフェリアは、少し困った子を諭すように言った。


「人は泣いて、怒って、恐れて、愛して、壊れて。それでもなお、美しいのです」


その時だった。


広間の隅の影が、ほんの少しだけ濃くなった。


柱の陰。


深紫にも、黒にも見える気配が、音もなく輪郭を持つ。


セラフィオがそちらを見た。


「ノクス」


名を呼ばれた影は、すぐには答えない。


広間の色が、一拍だけ遅れた。


赤い爪が卓を叩くのをやめ、鈴のような笑い声が止まり、香の匂いさえ薄くなる。


やがて、影の中から声が落ちた。


「……恐怖の色が、逃げています」


叫びではなかった。


報告ですらない。


暗い水底から泡がひとつ浮かぶみたいに、静かに届いた。


セラフィオの笑みが、初めて薄くなる。


「恐怖が?」


「はい」


ノクス・ヴェリタの気配は、柱の陰から動かない。


「追われているのではありません。呼ばれているのでもない。あれは、自分で逃げている」


円卓の中央で、蒼い涙が小さく震えた。


振っても音のしなかった硝子瓶が、今だけ、かすかに鳴った気がした。


オルフェリアはその音へ耳を傾けるように、ゆっくり瞬きをする。


「恐怖が、恐れるものを見つけたのですね」


誰も答えない。


答えられる者はいなかった。


恐怖は、人を縛る。


恐怖は、人を走らせる。


恐怖は、暗闇に名を与え、危険へ輪郭を与える。


その恐怖が、逃げている。


オルフェリアは静かに立ち上がった。


白を基調にした衣の裏地で、淡い七彩が水のように揺れる。


「セラフィオ」


「はい、母」


「悲しみの種は、よく眠らせておきなさい。泣く季節は、また来ます」


「承知しました」


「ノクス」


影が、わずかに濃くなる。


「その恐怖を見失わないで」


「救うために、ですか」


ノクスの声には、わずかな湿りがあった。


怖いものを知る者だけが持つ、静かな熱。


オルフェリアは微笑む。


「咲かせるために、です」


硝子瓶の底で、涙の形をした蒼い光だけが、変わらず沈んでいる。


泣き終えたのではない。


まだ、次に泣く場所を探しているだけだ。


そして世界のどこかで、恐怖の色が逃げている。


逃げながら、まだ誰にも届かない警報を鳴らしている。

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