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幕間 内側を守る風の夜

火はもう、炭に近かった。

赤く残った芯が、ときおり小さく息をする。そのたび、湿りを含んだ夜気の匂いがわずかに返った。


エレリアを出て最初の野営地は、街道を少し外れた低い岩場の陰だった。

哭塔の深い蒼はもう背の向こうへ沈んだはずなのに、耳の奥にはまだ水音が細く残っている。


イリスは眠っていた。

正確には、眠ろうとしているだけだった。

薄い毛布を肩まで引き上げ、白杖を手の届く位置へ置き、外套の内側へ銀輪を沈めている。


目は閉じているのに、呼吸だけがどこか浅い。

胸の上下が一定になりきらない。

夢の底で、まだ何かを押し返しているみたいだった。


半拍ぶん前、見張りの位置にアッシュが立っている。

焚火の残り火より少し外。眠るイリスへ近づきすぎない距離で、荒野と夜の境目だけを見ていた。


ルーファは最初から眠っていなかった。

風が変わる夜は、どうしても眠りが浅くなる。

まして今夜は、悲しみの底から引き上げたものの余熱が、三人の呼吸へまだ少しずつ残っていた。


イリスの指が、毛布の端を小さく掴む。

次の瞬間、喉の奥で息がつかえるみたいな音がした。


ルーファは体を起こす。

アッシュが振り向かないまま言った。


「呼吸、浅い」


「見れば分かるよ」


「深度、悪化」


「うん」


ルーファは膝を立てて、眠るイリスのそばへ寄った。

そのとき初めて、アッシュの視線がそちらへ流れる。


「半拍の内側は」


「わたしが持つ」


ルーファはやわらかく返した。


「あなたは前を見てて」


アッシュは何も言わなかった。

止めない、ということだった。


ルーファはイリスのすぐ横へしゃがみ込む。

近づいても削られない側の手つきで、額へ落ちていた白銀の髪を耳の後ろへそっとよけた。

汗ではない。けれど、冷えた湿りがうっすらと張りついている。


「イリス」


呼ぶ声は、ごく小さくした。

起こすためではない。眠りの底へ落ちすぎないよう、岸だけを教えるための声だ。


返事はない。

代わりに、閉じた睫毛の下で目がわずかに揺れた。


「……だめ」


掠れた寝言だった。

ルーファの指が止まる。


イリスの唇が、夢の向こうの誰かへ追いつこうとするみたいにかすかに動く。


「……風よ、名を……還して……」


そこで一度、息が詰まる。


今の祈りの地で使う言い回しではなかった。

風の一族の祈りとも少し違う。

もっと古くて、もっと個人的で、誰かひとりへ届くためだけに削られた祈りみたいな響きだった。


ルーファは問い返さない。

問い返していい種類の言葉じゃないと、肌の方が先に知っていた。


そのかわり、息だけで風をひらく。

風鈴は鳴らさない。


ただ、イリスの喉元から胸元へ、冷えすぎない細い流れだけを通す。

閉じかけた呼吸の筋が、少しずつほどけていく。

泣かせるためでも、眠らせるためでもない。

ただ、息が通れるようにするための風だった。


アッシュが低く言う。


「脈、戻りつつある」


「うん。だから、そのまま」


「見ている」


短い返答だった。

でもその声は、さっきより少しだけ近かった。


ルーファは水袋を取る。

口元を湿らせる程度の量だけ掌へ移し、指先を濡らしてイリスの下唇へ触れた。

乾きが少しだけほどける。


「イリス」


今度はもう少しだけはっきり呼ぶ。


「起きなくていいから、ひと口だけ」


瞼がゆっくり開いた。

紫銀の瞳は、夜の底からまだ半分しか戻ってきていない。

何を見ているのか、自分でも決めきれない目だった。


「……ルーファ」


「うん」


「すみません。私……」


「あとで聞く。いまは飲む」


言いながら水袋を支える。

イリスは少し迷い、それから素直にひと口だけ飲んだ。

喉が動く。呼吸がひとつ、前より深く落ちる。


その様子を見ていたアッシュが、焚火の向こうから短く言った。


「呼吸、正常域」


イリスがそちらを見る。

眠気の残る顔のまま、小さく眉を寄せた。


「……観測報告、ありがとうございます」


「事実だ」


「そういうところです」


ルーファが思わず息だけで笑う。


イリスはまだ完全には起きていない。

笑う余力もないのに、ちゃんといつもの言い方だけは戻っている。

そこが妙に可笑しくて、少しだけ安心した。


「もう少し寝てていいよ」


ルーファは毛布を肩へ掛け直す。


「見張りはいるし、風もいまは悪くない」


イリスは何かを言いかけて、やめた。

代わりに、ルーファの手首をほんの一瞬だけ掴む。

自分でも意識しないままの動きだった。


すぐに離れたが、その一瞬で十分だった。


「……ここに、いてください」


声は小さい。

夢の続きのままみたいな弱さだった。


ルーファの胸の奥で、何かが静かに揺れる。


「うん」


それしか返さない。

それで足りる夜だった。


イリスはまた目を閉じる。

今度はさっきより早く、呼吸が落ち着いていった。

浅さはまだ残る。

けれど、もう押し戻されるだけの眠りじゃない。


ルーファはそのそばへ座ったまま、髪を撫でるでもなく、ただ乱れた流れだけを指先で整えていた。


焚火の向こうで、アッシュがようやく口を開く。


「さっきの言葉」


ルーファは顔を上げる。


「聞いた?」


「聞こえた」


「珍しいね。聞くつもり、あるんだ」


「記録対象だ」


いつもの低い声だった。

でも、少しだけ間がある。


ルーファはイリスを起こさないよう、声を細くした。


「問いたださないの?」


「いまは不要」


「へえ」


「不安定時の追及は悪手」


ルーファは口元をゆるめる。


「ちゃんと分かってるんだ」


「観測の範囲だ」


そう言ってから、アッシュはほんの一瞬だけ親指で人差し指の第二関節をなぞった。

短い、ひと撫でだけの校正動作。

ルーファは見て見ぬふりをした。


「じゃあ、半拍の前はあなた。半拍の内側はわたし」


「役割分担」


「そう。あなたは危険に先に触れる。わたしは、こういう時の呼吸を守る」


アッシュは返事をしない。

けれど、否定もしなかった。


風がひとつ、岩場の上を抜ける。


さっきまでならその風は“行き先”だけを教えてきた。

恐怖の国へ向かう道筋、色の痕、歪みの拍。

今もそれは変わらない。


それなのに今夜だけは、もうひとつ別のものも教えてくる。

眠る少女の呼吸と、見張りの少年の沈黙と、そのあいだへ自分が座っていること。


調べるために塔を出たはずだった。

確かめるために、このふたりを追ってきたはずだった。


けれど、いま自分の手は、原因の輪郭を測るためではなく、眠れない仲間の髪をそっと整えるために動いている。


ルーファは、小さく息を吐いた。


「……もう、そういうことなんだ」


誰にも聞かせない独り言だった。


そのまま腰の風鈴へ手を伸ばす。

結び目のひとつを、静かに解く。


祈りの地を出るときから、ずっと触らずにいた小さな結びだった。

ほどいた紐は白く細く、月の薄明かりの下では風そのものの骨みたいに見えた。


ルーファは立ち上がる。

岩場の端に低く張っていた枝へ、その紐をそっと結ぶ。

強くは結ばない。

風が通れる程度に、けれど切れない程度に、ゆるく三人の寝場所の上を渡す。


音は鳴らない。

風鈴も沈黙したままだ。

それでも、結んだ瞬間に風の流れだけが少し変わった。


外から入る夜気が、直接イリスの喉へ落ちない。

半拍の外を回る冷えも、少しだけ遠回りする。

三人ぶんの夜を、ひとつの風で包む形だった。


戻ってきて、ルーファはまたイリスのそばへ座る。

眠りの顔は、もう苦しそうじゃなかった。

そのかわり、頬の線が少しだけ幼く見える。


泣き疲れた子どもみたいだと思って、ルーファはすぐにその考えを胸の中へ押し戻した。


「何をした」


焚火の向こうから、アッシュが問う。

ルーファは肩をすくめた。


「大したことじゃないよ」


「説明不足」


「じゃあ、説明する」


ルーファはやわらかく笑う。


「今夜は、内側も外側も、風に持っていかれないようにしただけ」


アッシュは数拍ぶん黙った。

それから、ひどく短く言う。


「理解した」


本当に理解したのかは、分からない。

でも、その返答で十分だった。


夜はまだ深い。

遠い方角では、恐怖の国へ続く重い拍が、地の底でかすかに脈を打っている。

明日になれば、またそちらへ歩き出さなければならない。


その途中で何を見るのか。

イリスの欠けが何を返してくるのか。

まだ何も分からない。


分からないままでいい夜が、ひとつくらいあってもいいと、ルーファは思う。


眠るイリスの呼吸。

半拍前で見張るアッシュの気配。

鳴らない風鈴。

結び直した夜の風。


その全部を胸の奥へ静かに置いて、ルーファはようやく目を閉じた。

監視する人間の眠り方では、もうなかった。

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