第二話 帰還の道
御車は、揺れなかった。
荒野の道は平らではない。灰を噛んだ石畳はところどころ欠け、車輪の下で小石が跳ねる音もしている。
それなのに、座席へ伝わる衝撃はほとんどなかった。揺れる前に、揺れそのものを誰かが取り除いている。そんな静かさだった。
イリスは窓に掛かった薄布越しに、流れていく街道を見ていた。外には護衛列がいる。足音は揃い、間隔も乱れない。誰かが命令を叫ぶわけではない。ただ、次に進むべき形だけが、あらかじめ道の上へ置かれているようだった。
「……これは、護送ですね」
向かいに座るオルド・ガレスは、姿勢を崩さない。
「奉迎です」
「言葉を変えても、状況は変わりません」
「巫女様を安全に白境都市ラクリマ=アルバへお連れするための措置です」
「安全のために、私たちの行き先を決めるのですか」
「危険な選択肢は、選択肢とは呼びません」
返答は短い。
冷たいのではない。むしろ、迷いを入れる余地がないだけだった。
御車の扉のそばに、アッシュが立っている。座れと言われても座らなかった。半拍前。車内と外の境目に、楔みたいに収まっている。
ルーファはイリスの隣で、風鈴を両手で包んでいた。
「風が、ずっと整えられてる」
「整えられている?」
「うん。普通の街道なら、荷車に当たって曲がったり、人の声に混じったりする。でもここは、揺れそうなところが先に消されてる感じ」
オルドが答える。
「帝国街道は、民の不安を減らすために整備されています」
「不安って、道の凸凹と同じ扱いなんだ」
ルーファの声は柔らかい。けれど、その奥に少しだけ硬いものが混じっていた。
アッシュが外から言う。
「恐怖反応、周辺住民にほぼなし。残留は路面、標識、橋材に偏る」
「人ではなく、物に?」
イリスが聞くと、アッシュは短く頷いた。
「そうだ」
イリスは窓の向こうへ視線を戻した。
人ではなく、道が覚えている。その言葉にできない違和感だけが、御車の床下から細い冷えになって上がってくる気がした。
*
街道沿いに、小さな石橋があった。
川というより、乾いた谷をまたぐための橋だ。片側の欄干は崩れ、中央の石には亀裂が走っている。
そこへ、幼い子どもが歩いていった。
奉迎の列から落ちた花を拾おうとしているのだろう。子どもは割れた石の上へ足を乗せる。すぐそばに、母親らしい女がいた。
見ている。
気づいている。
けれど、手を伸ばさない。
イリスの身体が先に動きかけた。
その瞬間、御車の外で護衛の配置が変わる。彼女が立ち上がる前に、道の形だけが先回りして塞がれた。
「出る」
アッシュが言った。
「お願いします」
銀灰の影が、橋へ向かう。
それより一拍早く、橋の端にいた兵が笛を鳴らした。甲高い音がひとつ落ち、別の兵が子どもの前へ進み出る。
兵は子どもの肩へ触れない。ただ、進む先を変えるように立つ。
子どもは不思議そうに顔を上げ、それから花を拾うのをやめて橋を渡りきった。
石は崩れなかった。
子どもは無事だった。
何も起きなかった。
だからこそ、イリスの胸だけが冷えていく。
母親は、子どもを抱き寄せなかった。
駆け寄らない。叱らない。震えない。
ただ兵へ頭を下げる。
「ありがとうございます」
感謝はある。
けれど、失うかもしれなかったものを確かめる手がない。
イリスは、思わず口にしていた。
「……どうして、抱きしめないのですか」
母親は不思議そうにイリスを見る。
「無事ですから」
その返事に、イリスは言葉を失った。
無事だから、抱きしめない。その理屈は通っているようで、何かが決定的に抜けていた。
オルドが静かに言う。
「恐怖は、不要な混乱を生みます」
「混乱しないことと、安全であることは同じではありません」
「帝国は、安全を管理します」
「その管理が、間に合わなかったら?」
御車の中に、わずかな沈黙が落ちた。
オルドは目を伏せない。
「そのために、より強い管理が必要となる」
迷いのない答えだった。
イリスの胸元で、銀輪が小さく熱を返した。
過剰な感情が人を壊す前に削る。暴走する前に均す。危険を防ぐために、先に色を薄める。
その考え方を、イリスは知っている。塔の中で、自分もそれをしてきた。だから、オルドの言葉をすべて否定できない。
けれど、母親が子を抱きしめなかった光景が、胸の奥で消えない。
恐怖がなければ、逃げられない。危険を危険だと知れない。そして、失う前に抱きしめることもできない。
「……これは、平穏ではありません」
イリスは低く言った。
「民は怯えず、争わず、日々を送っています」
「それでも違います」
「なぜです」
「怖がることまで誰かに預けてしまったら、人は自分で守る一拍を失います」
ルーファの風鈴が、かすかに震えた。
「うん。怖かったら、抱きしめるんだよ」
母親は、最後までその意味を理解できない顔をしていた。
それが、いちばん痛かった。
アッシュが御車へ戻ってくる。
「イリス」
「はい」
「呼吸が浅い」
「……分かっています」
「おまえは今、自分の反応を均そうとしている」
イリスは息を止めた。
言われて、初めて気づく。胸の奥でざわめいたものを、いつもの癖で薄めようとしていた。嫌だと思った瞬間、その嫌悪ごと静かな方へ落とそうとしていた。
役割へ戻ろうとしていた。
「……今は、均しません」
「確認」
「嫌だと思っているだけです」
「嫌だ、を保持する?」
「はい」
「了解」
それだけ言って、アッシュはまた半拍前へ戻った。
ルーファが小さく笑う。
「今の、よかった」
「何がですか」
「イリスが、自分の嫌だを捨てなかったところ」
イリスは返事をしなかった。
ただ、膝の上に置いた手から、少しだけ力を抜いた。
*
夕暮れの終わりに、都市が見えた。
白境都市ラクリマ=アルバ。
その壁は、夕陽を受け取らなかった。
赤にも、金にも染まらない。磨かれた骨みたいに、ただ淡く立っている。外壁から伸びる細い塔の先で、鐘が風もないのにわずかに揺れた。
鳴らない。
まだ、鳴らない。
けれど、ルーファの風鈴が御車の中で小さく震える。
「……あそこ、風が綺麗すぎる」
「どのくらい」
「乱れがないんじゃない。乱れる余地を、先に抜かれてる」
アッシュが都市を見上げる。
「恐怖反応、人体からほぼ消失。残留、都市構造に偏在」
「都市構造……」
門。塔。鐘。橋。道標。
人ではないものばかりが、こちらを見ている気がした。
オルドが告げる。
「ラクリマ=アルバは、帝国感情管理の成功例です」
成功。
その言葉を、イリスは飲み込めなかった。
橋の上で、子どもは止まらなかった。
母親は、抱きしめなかった。
それでも誰も死んでいない。
だから成功なのか。
「見せたいものは、分かりました」
イリスは都市を見据えた。
「でも、まだ納得はしていません」
「納得は、聖座にて」
オルドが言う。
御車は門へ近づいていく。
その時、門の影だけが、持ち主より先に半歩ほど後ろへ退いたように見えた。
人は、怖がっていない。
けれど街だけが、何かを恐れている。
門が開く。
御車は、ラクリマ=アルバの内側へ入っていった。




