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第十五話 涙の還る場所②

白杖の先へ返ってきた拍は、道というより、壁の向こうでまだひとつだけ倒れきっていない命の脈だった。

弱い。

だが、切れてはいない。


イリスは杖を引かなかった。

ここで手を離せば、ようやく保管室へ触れかけた線まで、また深青の底へ沈む。


「広げません。保たせます。アッシュは芯の手前だけ。ルーファは一本。ミラは名前を」


今いる全員へ向けて、ではない。

次に迷ったら負ける自分ごと、そこへ縛りつけるための声だった。


その直後、怪物の拍が変わった。

外へ広げていた圧が、今度は一点へ巻き戻る。

床を走る蒼の脈が保管室のある方角へいっせいに向きを揃え、水の肋骨も白布の膜も、見えない中心へ向けて締まり直した。


「来ます」


イリスが告げた瞬間、水の骨が内側へ鳴った。

さっきまでのように通路を潰す音じゃない。

抱え込み直す音だった。


ミラがすぐ、名を置く。


「ノア」


だがその呼び声へ、群れの嗚咽が折り重なった。

若い喉の濡れた震え。

年老いた息の擦れる音。

誰のものともつかないすすり泣きが幾層も重なり、名前だけを狙って輪郭を削っていく。


アッシュの白が痩せた。

振り下ろす刃ではなくなっていた。

細く、長く、縫い目へ針を入れるみたいな白だけが通路の先へ潜る。


泣き声の束が少しずつ掛け違い、蒼の一本がノアへ触れる寸前で外へ逸れた。

そのずれへ、ようやく風が通る。


「保持優先。深断不可」

「そのままで」


イリスは床へ膝をつく。

杖先を石へ滑らせ、保管室へ固定された“返る先”の感触だけを細く拾っていく。


冷たさがある。

重みがある。

そして、そのもっと奥に、押し潰される寸前の小さな踏ん張りがある。


共同体の悲しみは外から押す。

ノアの拍は内側で、消えきらずに残っている。


「……いる」


ルーファの風は、裂け目を広げなかった。

白布の縁と縁のあいだへ縫い込まれ、橙が入りそうな綻びだけを先回りして塞いでいく。


泣き声も嗚咽も止めない。

ただ、“終わり”だけが先に届く道を選んで殺していた。


広間の外れで、セラフィオがかすかに息をつく。


「そこまでして、まだ届かせるんですね」


咎める調子ではない。

痛む箇所へ布を掛ける前の手つきみたいな、妙に静かな声だった。


橙がひとひら、通路の奥で灯る。

笑顔になりきらない明るさだった。

泣き切れなかった夜へ、これ以上苦しまなくていいと囁くには、ちょうどいい軽さだった。


ルーファは、すぐには返さなかった。

保管室へ抜ける細い線を見る。

届きかけて、まだ届ききらない距離を見る。


それから、ようやく言う。


「うん。届かせてみせるよ」


その一言で、風の質が変わる。

守るための風ではなく、選ばせるための風。

橙だけじゃない。

共同体の湿りも、押しつけられた涙も、同じ重さでは運ばない。

ノア自身が受け取るものへだけ、通り道を残す風だ。


ミラは深く吸い込まず、ただ丁寧に息を整えた。

呼ぶための呼吸だった。


「ノア」


返っておいで、とも言わない。

泣いていい、とも言わない。

名前だけをまっすぐ置く。

その子がその子へ戻るための音だけを。


通路の奥で、水の肋骨がひとつ鳴った。

それに合わせて、白布の向こうの景色が不自然に近づく。


怪物の腹が割れたんじゃない。

保管室の光景が、幾枚もの深青を隔てたまま、こちらへ引き寄せられて見えていた。


ノアはそこにいる。

膝を抱え、肩掛けを胸へ押し当て、小さな身体を縮めたまま。


呑み込まれてはいない。

あの部屋にいるまま、この国じゅうの悲しみの“返る先”として貫かれている。


水の肋骨は守りではなく、保管室を中心に幾重もの輪を作って逃げ道を潰していた。

白布は包んでいない。

部屋の手前で張り、ノアを受け皿として固定するためだけに揺れている。


蒼の脈は背後へ集まり、ひとりの子の輪郭より先に、共同体の悲しみが帰属する器の形を先回りで作ってしまっていた。


アッシュの声が落ちる。


「位置、確定」


次の白が、壁越しに走る蒼の線だけを撚り直す。


「本体は保管室。こちらにあるのは返還接続」


さらに一手。


「最外層、共同体。中層、水鉢同期。最内層――個体拍、残存」


イリスの指先へ熱が集まった。

まだある。

弱い。

それでも、たしかにノアのものだ。


怪物はその揺らぎを待っていたみたいに動く。

今度は外へ閉じない。

内へ締める。


水の肋骨が中心へ撓み、白布が細長く絞られ、蒼い骨組みが保管室の位置へ寄り直す。

“ここへ返れ”という形だけが、むき出しのままノアの周囲へ押しつけられていく。


「締め直し」


アッシュの白が呼吸に合わせるみたいな間隔で差し込まれる。

白がひとすじ、ノアの肩口へ貼りついた湿りだけを鈍らせた。

続けて、喉元に絡んでいた“終わってほしい願い”が、ほどけるみたいに横へ流れる。


そこで初めて、ノルディアの継ぎ目が焼けるように明滅した。


「反動、上昇」

「深く行かなくていいです」


イリスは前へ出る。


「開けるより、保たせてください」


白杖を床へ這わせ、保管室へ続く一点だけを探る。

前半みたいに道をこじ開ける手応えではない。

閉じ込められた輪郭を、暗い水の底から指先でなぞるような感触だった。


国の悲しみは外側で澱んでいる。

共同体の涙はその上へさらに重なる。

ノア自身の拍は、いちばん奥で、小さく、しかし消えずに脈を打つ。


「ノア」


ミラの声が落ちる。

懇願ではない。

呼び慣れた者の深さだけがある。


「聞こえているなら、私を呼んで」


呼びかけはまっすぐ届かない。

共同体の嗚咽が攫い、白布の揺れが輪郭を薄める。

それでも、名のいちばん奥に残った音だけは消えなかった。


ノアの唇が、かすかにほどける。


「……ミ、ラ……さま」


掠れた、壊れそうな音だった。

それでも、ミラの呼吸を止めるには十分だった。


そこに残っている。

いままでの距離が。

守られる側が、守る者へ向けていた最後の敬称が。


ミラは泣きながら、でも首を振る。


「ええ。います」


怪物が軋む。

水の肋骨が鳴り、白布の膜が張り、蒼い骨組みがもう一段深くノアを固定しようと寄る。


届きかけたから、締める。

あまりにも露骨で、あまりにも醜い反応だった。


「させない」


イリスは叫ばない。

低く、鋭く落とした。


白杖を床へ滑らせたまま、ノアの外側へ貼りついている重さだけを探って押し分ける。


難しい。

長く住みすぎた悲しみは、他人のもののままではなく、ノアの輪郭へ寄り添っている。

剥がせば傷になる。

触れなければ返せない。


そのぎりぎりで、イリスは調律の白をさらに細くした。

削るんじゃない。

境目だけを撫でる。


「……ここ」


杖先の下で、押しつけられていた重さだけが僅かにざらついて立つ。


そこへセラフィオが、今度は少し違う調子で笑った。

慰めを差し出すだけの声ではない。

決着を奪いに来る響きだった。


「もう泣かなくていい。

震えも痛みも、今夜は幕のうちへ収まる。

笑顔だけを、最後に残しましょう。

歓喜律五階位――《橙・祝幕圏》」


橙が一気に濃くなる。

彼の足元から立ち上がった歓喜の色が、白布と水の継ぎ目を伝って、保管室の手前へ走った。


それは爆ぜる魔法じゃない。

軽くする魔法だ。

痛みの輪郭をぼかし、苦しみの終端だけを先に差し出すための、祝福に似た終幕。


橙の波がノアの手前へ届くより早く、ルーファの風が鳴く。

風鈴ではない。

もっと古い、始まりに近い音だった。


「――始律、ひらいて」


淡銀が一本、橙の中へ刺さる。

押し返すのではなく、通すべきでない終わりだけを撥ね分ける風だった。

歓喜の色がそこでほぐれ、白布の上へ淡い光となって散る。


セラフィオは目を細める。

今度はルーファではなく、イリスを見た。


「この子ひとりのために、他を犠牲にするつもりですか」


やわらかい問いだった。

けれど、優しさだけではない。

この国が抱えてきた悲しみ。

泣き続けた共同体。

返されなかった祈り。

その全部を背に置いた問いだった。


イリスは白杖を握ったまま、視線を逸らさない。

保管室のノア。

その外側へ貼りついた国の重さ。

その両方が、いま自分の白の届く範囲にある。


「救います」


それだけで終わらせなかった。

息を吸い、熱を押さえ込んで、はっきりと言う。


「ノアも」


白が、杖先で静かに立つ。


「他の悲しみも、希望になるように」


その言葉に押されるように、ミラが前へ呼びかけた。


「ノア!」


さっきまでとは違う、もっと深いところから絞り出す声で。

ミラは泣きながら、それでもはっきり告げる。


「あなたは、もう“ミラさま”って呼ばなくていい」


ノアの唇が震える。

母の声だった。

王でも、女王でもない。

ひとりの子へ帰る場所を教える声だった。


「呼んで。あなたの呼びたいように」


その瞬間、通路の奥で何かが切り替わった。

怪物へ返っていた線が、ほんのわずかに向きを変える。

ノアの目が、はじめてまっすぐミラを探す。


掠れた息が漏れた。

壊れそうなくらい小さい。

なのに、もう前の呼び方へは戻らない。


「……は」


ミラが泣きながら愛しい娘の言葉をただ待つ。

そして、ようやく。

胸の奥に長く押し込められていた呼び方が、ほどけるみたいに形を持つ。


「……はは、さま」


ミラの中から、女王が完全に抜け落ちた。

そこに残ったのは、ただ泣いている母親だけだった。


「ええ。そうです。母はここにいます」


返事は掠れていた。

けれど、世界がそれで十分だと知るには足りた。


怪物へ返っていた線が、そこで初めて母へ向き直る。

まだ水の肋骨は残り、白布も寄り、蒼い脈も切れていない。

それでも帰る先が変わった。


ノアの目尻へ、雫がひとつふくらむ。

まだ落ちない。

けれど、それはもう分かる。

共同体の涙でも、国が押しつけた悲しみでもない。

ノア自身の、はじめて自分の重さを持った涙だ。


その外側に、まだ幾重にも絡みついている。

返されなかった祈り。

住まわされ続けた悲しみ。

本人のものではないのに、本人の輪郭へ貼り付いていた夜の残り。


イリスの白杖の先で、それらが初めて明確に別々の手触りを持ち始める。

冷たい大河みたいな重さと、やっと生まれた一粒のぬくもり。

混じっていたはずのものが境目を持つ。


白は、その境目へ静かに滑り込んだ。

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