第十四話 涙の還る場所
そこに立っていたのは、獣ではなかった。
慟哭は、もう鳴り終わっていた。
なのに広間の石だけが、遅れてその重みを思い出したみたいに軋んでいる。
哭塔の内側を、そのまま起き上がらせたもの。
そう呼ぶのがいちばん近かった。
床を走る蒼い骨組みは半拍ずつせり上がり、さっきまで通路だった場所を閉じるための関節へ変えていく。
水鉢は肋骨だった。
底を離れた水が弧を描いて宙に並び、濡れた骨の列みたいに胸郭を組む。
白布は皮膚ではない。
喉の奥に張る薄膜みたいに震えながら肋骨のあいだへ渡され、閉じるたびに内側の音を鈍く籠らせる。
壁を這っていた蒼は血管だ。
暗層の奥から脈を運び、切れ目からときおり泣き損ねたような深青の光を滲ませる。
頭があるはずの位置には、顔がない。
あるのは、顔になりきれなかった巨大な空洞だけだった。
白布の重なりと水の縁がそこへ集まり、目でも口でもない穴を囲っている。
なのに見られていると分かる。
聞かれていると分かる。
返されなかった涙と、飲み込まれた祈りと、行き場を失った喪失だけが寄り集まって、人の形を諦めたまま、それでもまだ息をしていた。
また閉じる。
さらに閉じる。
広間そのものが、ノアへ届く道を自分の内側へ隠そうとしていた。
イリスは息をひとつだけ吸った。
迷う時間はない。
「ノアを、そしてこの国を救います。怪物は倒しません。ノアを芯から外します。アッシュ、継ぎ目だけを断ってください」
「了解」
「ルーファ、布を剥がします。風を」
「うん」
「ミラ。逆流だけを押さえて。全部は抱かないでください」
床へ手をついたままのミラが、かすかに顔を上げる。
「……ええ」
次の瞬間、怪物が閉じた。
水の肋骨が左右から打ち合わさる。
白布の膜が落ちる。
蒼い骨組みが床を走り、石畳の目地そのものを噛み替えて進路を折り畳んでいく。
空気が潰れた。
耳の奥で石が悲鳴みたいに鳴る。
挟まれたら終わると、考えるより先に身体が知った。
アッシュの白刃が閃いた。
閉じた肋骨の継ぎ目だけが無音で断たれ、水の檻に細い裂け目が走る。
イリスはそこへ白杖を差し込み、噛み直そうとする拍だけを半拍ぶん鈍らせた。
全部は落とさない。
道になるぶんだけを遅らせる。
杖先が白布へ触れた瞬間、重さだけが半拍遅れた。
布は裂けない。
けれど閉じる意味だけが薄く削がれ、膜としての張力を失って、たわんだ縁から向こうの蒼が覗く。
その横で、ルーファの風が白布の膜を払い、潰れかけた隙間へ淡銀の息を通した。
裂け目が、かろうじて一本の通路になる。
人ひとりが身を滑らせれば、どうにか抜けられる細さ。
だが、それだけだった。
怪物は痛みを覚えない。
断たれた肋骨の隣で別の水面が持ち上がり、空中で弧を描いて、すぐに次の骨を組み始める。
蒼い骨組みが床下から突き上がった。
石が割れ、白い欠片が跳ね、足場そのものが波みたいに隆起する。
イリスの膝が揺れた。
「右、来ます!」
言葉と同時に、頭上の水鉢がいっせいに底を離れた。
浮いた水が球にはならない。
肋骨だ。
数十本の細い弧となって空中へ並び、今度は上から檻を落としてくる。
アッシュの姿が半拍ぶん霞んだ。
次に見えたときには、白が上へ撥ね、落ちてくる肋骨の節だけを掬い切っていた。
断たれた水は砕けず、無音のまま左右へずれた。
そこへルーファの風が潜り込み、軌道をほんの少しだけ横へ押す。
水の骨はイリスの肩すれすれを落ち、石畳へ突き立った。
衝撃で床が沈む。
足裏にまで鈍い震えが昇った。
閉じる。
埋める。
飲み込む。
ただそれだけの構造が、いちばん容赦なく命を奪いにくる。
「アッシュ、もう一列。通路を維持します」
「了解」
イリスが言い足した、その半拍あとに、広間の外れでセラフィオが静かに目を細めた。
「――さあ、舞台は整いました」
祝辞みたいにやわらかな声だった。
怪物へ向けた言葉だった。
人ではなく、もう立ち上がってしまったこの国の歪みへ。
その一言で、蒼の骨組みの節に橙が薄く差す。
笑うには早すぎる場所へ、先に終幕だけを置く色だった。
ルーファの風が、その橙へすぐ割り込む。
だがセラフィオは止まらない。
怪物のうねる肋骨を見上げ、外縁で息を詰める人々を見て、それからルーファへ視線を戻す。
「まだ返すんですか」
その問いと同時に、橙が一筋、白布の縁を走った。
膜がふっと軽くなる。
「感情はどれも美しいですが……強すぎる悲しみは人を殺します」
怪物の内側で拍がひとつ深く沈んだ。
「なら、終わらせてあげた方がいい」
ルーファの風がそこへ割り込み、橙だけを散らして蒼の圧を通路の外へ流した。
「……うん。あなたの言うこと、たしかに正しいよ」
風鈴が、ちりと鳴る。
「でも、その幕はまだ下ろさせない。この国の感情を他人には決めさせない」
理想論だ。
それでも彼女は、それを選ぶ。
怪物が前へ身じろぐ。
水の肋骨が一斉に閉じ、蒼い骨組みが床を走って通路を組み替え、白布の膜が頭上から垂れてくる。
悲しみで閉じるか。
歓喜で終わらせるか。
そのどちらにもさせないように、ルーファの風が一本の道だけを残して広間いっぱいへ張った。
アッシュの白刃がその道の先で接続点を断ち、イリスが噛み直しだけを均し、ミラが逆流してくる国の悲しみを膝をついたまま引き受ける。
セラフィオは淡銀の境目に立たされたまま、閉じようとする怪物と、そこへ穿たれた細い通路だけを見ていた。
そして、少しだけ笑う。
諦めたんじゃない。
面白がった笑みだった。
「……なら、見せてください」
その先の声は、もうやわらかくなかった。
「悲しみを殺さずに、どうやってこの国を返すのか」
その問いを合図にしたみたいに、怪物の喉が奥で鳴る。
閉じかけた肋骨のさらに向こうで、ノアへ届くための拍が、細く、けれど確かに返った。
次の拍まで保つ保証は、まだどこにもなかった。




