第十三話 始まりの色《悲哀》②
ミラの背から、胸から、腕から、抱え込みきれなかった過剰が一気にあふれ出す。
床へ落ちる前に石畳が軋む。
落ちればまた別の形で噛み直す。
イリスが白杖を上げるより早く、アッシュが前へ出た。
倒れかけたミラの身体を、真正面から抱き止める。
抱え込んだ、と思った。
でも次の瞬間には、それはどう見ても抱き締めていた。
逃がさないためじゃない。
壊させないための抱き方だった。
噴き出した過剰がアッシュの背と腕へ絡みつき、肩口から手首へ這って白刃の根元へ噛みつくみたいに濁った熱を走らせる。
感情そのものじゃない。
成立を失って暴れ出した、行き場のない余剰だけを、器として引き受けている。
アッシュの肩が、わずかに沈んだ。
はじめてだった。
あの無音の器が、重さに触れたみたいに見えたのは。
ミラの瞳が揺れる。
王の光が抜けていく。
壊れた母の目だけが、近い距離でアッシュを映す。
アッシュはミラを抱えたまま、短く言った。
「ノアは未消失。まだ届く」
慰めでも祈りでもない。
でも、届くべき場所を指し示すには十分だった。
「……止めてくれて、ありがとう」
ミラの唇が震える。
息を吸う。
そのとき、アッシュの頬を細い雫がひとつ伝った。
光の反射かもしれないのに、イリスには涙みたいに見えた。
床へ落ちる前に、アッシュは少しだけ顔を上げる。
イリスが目を見開いたまま動けずにいると、彼はいつもの調子で言った。
「平気の範囲」
その声の終わりだけが、ほんの半拍、沈んだ。
「……反動あり。行動継続可能」
平気には見えなかった。
白刃の縁は静かに明滅しているのに、ノルディアの継ぎ目だけが一拍遅れて脈を打っていた。
それでもアッシュはミラを離さない。
ミラの指先が、ようやく彼の外套を掴む。
その瞬間だった。
ミラの肩が、びくりと大きく震える。
アッシュを通してまだ残っていた共鳴の熱が、途切れきる前に逆流したみたいに、その瞳の奥へ別の蒼が差した。
見てしまった、という顔だった。
「……いる」
掠れた息のまま、ミラが呟く。
視線は広間の中央を見ていない。
白布の向こうでもない。
もっと深い、見えない奥を見ている。
「違う」
唇がもう一度、震える。
「あの子が、繋がれてる」
ミラの瞳から、ひとすじだけ涙が落ちた。
「返る先じゃない……芯に、されてる」
その一言で、イリスの中で斬る相手が変わった。
アッシュの白刃が、わずかに角度を変えた。
個人へ向いていた切っ先が、より深い一点を測る。
ルーファの風が細く鳴る。
ミラはイリスの袖を掴む。
弱い力だった。
けれど、そこに残っている願いは弱くない。
「返して」
さっきよりも、ずっと母の声だった。
「ノアへ……あの子へ、返して」
ミラの術は終わった。
けれど、終わったことで、別の器が空いた。
答えるより先に、共同体が沈んだ。
胎へ変わり始めていたものが、そこで初めて骨を得る。
水鉢が底で震え、白布が見えない風に引かれるみたいに持ち上がる。
暗層そのものが、どこにもない喉で息を吸い込んだ。
次の瞬間、すべてが噛み合い直した。
泣き続ける者たちの拍。
外縁で支えられていた者たちの湿り。
水鉢に落ちた涙。
白布に染みた祈り。
壁を這っていた蒼。
哭塔の底へ沈んだ悲しみ。
その全部が一本の巨大な拍へ束ねられ、見えない奥を芯にして輪郭を取りはじめる。
白布が裂けるみたいに高く持ち上がる。
水鉢がいっせいに底を離れ、浮いた水が柱ではなく肋骨みたいに並ぶ。
壁を這っていた蒼は血管を超えて骨組みみたいに広がり、遅れて渡った白布が肺と喉の形を取る。
水鉢でも、白布でも、哭塔でもない。
その全部を抱えたまま立ち上がる、形を得た巨大な悲しみだった。
セラフィオは、もう動かなかった。
淡銀の風の縁に立たされたまま、立ち上がる輪郭だけを見ていた。
その直後、哭塔の底で。
それは初めて、慟哭として口を開いた。
人の声ではない。
獣の咆哮でもない。
泣くことを返されなかった悲しみそのものが、ようやく喉を得たみたいな、世界の底をひっくり返す声だった。




