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第十二話 始まりの色《悲哀》

哭塔の底で脈を打っていた胎動に、ミラの拍が重なった。


その中心で、ミラが立ち上がる。


ゆっくりと、壊れたものを隠しもしない立ち上がり方だった。


蒼い髪が揺れる。

瞳の奥にあったはずの理は、もう見えない。


それでも願いだけは、痛いほどまっすぐだった。


「……返して」


ひどく小さな声だった。


なのに、その一言だけで広間じゅうの拍が揃う。


水鉢が鳴る。


ひとつではない。

縁から縁へ、誰も触れていない器どうしが同じ拍で震え、水面がいっせいに内側へ沈んだ。


白布が翻る。


風に煽られたんじゃない。

上から引かれたみたいに、重さごと持ち上がる。


浮いていた蒼がミラの背後へ集まり、弧を描き、重なり、巨大な涙の冠みたいに広がった。


深青の底に、もうひとつ、名前を持たないほど古い色が沈んでいる。


始まりの悲哀を戴いた王。


そう見えた瞬間、広間じゅうの拍がひとつ深く沈んだ。


泣きの行き先が塗り替わる。

誰の悲しみかより先に、どこへ返るかだけが決められていく。


抱くという願いが、願いではなく法へ変わりはじめていた。


ミラの唇が、もう一度だけ動く。


「――哭いてもいい。零してもいい。返らないなら、私が抱く」


声はやわらかいのに、そのたびに広間の拍が深く沈んだ。


「悲哀律第七階位――《深青・万涙抱界ばんるいほうかい》」


イリスは息を呑む。


攻撃じゃない。


抱き込むための術だ。


広間に満ちた悲しみも、哭塔に沈んだ悲しみも、ノアへ流れ込んだ悲しみまで、全部ひとつへ寄せて引き受けようとしている。


優しすぎるがゆえに、世界ごと呑む。


水鉢の水位が勝手に下がる。

白布の裾が石床を離れる。


床の目地へ深青が滲み、哭塔そのものがミラの詠唱に合わせて息をしていた。


「ミラ、だめ!」


ルーファの風が鋭く鳴る。


けれどミラは聞かない。


聞こえていないんじゃない。

ノアの名よりほかを、もう選べない。


アッシュの黒が走る。


浮き上がる水柱の接続点を断ち、白布へ噛んだ蒼の継ぎ目だけを削る。


だが、削れた端から別の線がすぐに生え直す。


「対象、王権発現」


短い声。


「進行速度、増大」


このままでは、ミラが哭塔ごと悲しみを抱き込む。


抱き込んだ先にあるのがノアなら、なおさらだ。


止めるしかない。


でも、ミラごと落としたら、その瞬間、請いも、繋がりも、ノアへ届く最後の細道も一緒に断つ。


広間の外れで、セラフィオが静かに笑った。


「ええ。やはり、母は強い」


一歩、出る。


その前へ、風が先に滑り込んだ。


淡銀の風が床を撫で、彼の靴先の前で見えない段差みたいに立ち上がる。


ルーファが見据える。


「そこから先は、もう好きに歩かせない」


「怖いですか?」


「ううん」


ルーファは首を振った。


「いまは、終わらせたくないだけ」


風がもう一段だけ厚くなる。

祝福みたいに静かなのに、通すつもりのない風だった。


セラフィオは踏み込めない。


淡銀の境目に立たされたまま、広がっていく蒼だけを見ていた。


その一拍のあいだにも、第七階位は広間の形そのものを書き換えはじめていた。


水鉢は涙を集める器ではなく、巨大な術式陣の節へ変わる。


白布は祈りの布ではなく、悲しみを引き寄せる膜になる。


「アッシュ!」


呼ぶ。


何を命じるのか、まだ言葉にならない。


それでもアッシュは振り向かなかった。


ミラを見たまま、ひどく短く言う。


「命令を」


黒を走らせたままの声だった。


けれど次の一拍、右手の親指がわずかに擦れた。


「……何を」


「起動名を」


意味が分からない。


分からないはずなのに、銀輪が熱を持つ。


左胸の奥じゃない。

熱が指先へ這い上がってくる。


白杖を握る手が震えた。


記憶じゃない。

思い出したんじゃない。


長い時間、呼ばれるのを待っていた音だけが、喉の奥へ戻ってくる。


イリスは目を見開いた。


「――アッシュ」


銀輪が熱い。


熱いまま、その名の先を押し出してくる。


「起動しなさい――《ノルディア》を!」


言った瞬間だけ、アッシュの親指の癖が止まった。


無色の瞳が、ほんのわずかに揺れる。


イリスは息を吸う。


「ミラではなく、あの人を呑んでいる第七階位だけを断って!」


返答は一拍も置かなかった。


「――命令受領。保護対象、ミラ。断彩対象、第七階位」


その瞬間、アッシュの両脇の腕甲に白が灯った。


眩しいのに、音だけが遅れる。


細い光が一息で伸び、両腕の外側へ羽根の骨みたいな軌跡を描く。


次の拍で、白刃が無音のまま展開した。


光っているのに、そこだけ世界の音が削られる。


白刃は鋭いというより、成立そのものの輪郭をなぞるための線だった。


アッシュが、消えた。


見失った、と思った時には、もう守る位置にいた。


床は鳴らない。

踏み込みも見えない。


ただ灰だけが半拍遅れて跳ねる。


ミラの正面から姿が消え、次に見えたときには、もう斜め後ろ――ミラを斬線から外した位置へ回り込んでいた。


蒼の冠が脈打つ。


反応した第七階位が、冠の縁から蒼い筋を噴き出させた。


床を這うもの。

頭上から落ちるもの。

白布の影を伝って回り込むもの。


どれもアッシュだけを狙っている。


だが、遅い。


左の白刃が低く走る。

這い寄ってきた蒼がまとめて支えを失い、石畳へ崩れ落ちた。


右が返る。


今度は上。


頭上から落ちた蒼の杭が、真ん中から音もなく裂ける。


白だけがさらに前へ詰める。

蒼の筋は追いつけず、冠の防ぎもすべて半拍遅い。


強い。


今さらみたいに、その一言がイリスの胸へ落ちた。


怖いほど綺麗だった。


アッシュは止まらない。


狙うのは冠でも、ミラでもない。


その奥。


蒼の冠、そのいちばん濃い継ぎ目。


願いと王権が噛み合い、世界を呑む術として閉じている一点だけ。


そこへ届く。


届かせる。


アッシュの声が、白の軌道に重なった。


「――返せ。それは、彼女の悲しみだ」


白が走った。


針みたいに細い一閃だった。


けれど迷いはない。


継ぎ目へ、まっすぐ吸い込まれる。


触れた瞬間には何も起きない。


一拍。


さらに半拍。


遅れて、冠の表面に白い亀裂が十字に浮いた。


さらに半拍遅れて、継ぎ目の奥から音が死ぬ。


鳴っていたはずの拍だけが急に落ち、蒼の輪が支えを失ったみたいに内側へ崩れた。


黒ではなく白だった。


壊すためじゃない。


守るために、現象だけを断つ刃。


音は遅れて来た。


重くも高くもない。


泣き終わったあとの部屋みたいな、ひどく薄い無音のひびだった。


アッシュの足が、そこで初めて止まる。


白刃を引いたまま、蒼の冠を見上げる。


振り向かない。

誇らない。


ただ、確定事項を告げるみたいに静かに言った。


「対象分離、完了。願いは持ち主へ返還する」


だが、返る先そのものが、もう書き換わっていた。


次の瞬間、第七階位だけが崩れた。


ミラは残る。

悲しみも残る。

ノアへ向けた願いも消えない。


ただ、その願いが王権と結びつき、世界を呑む術として成立していた形だけが、白い亀裂に沿ってほどけ落ちる。


蒼い冠が砕ける。


水鉢の水が一斉に床へ落ち、白布が重さを思い出したみたいに垂れた。


けれど終わらなかった。


術として閉じていた形だけが断たれ、その内側に抱え込まれていた過剰だけが、行き場をなくして噴いた。


蒼でも白でもない。


悲しみの熱だけを削り取って煮詰めたみたいな、重く濁った残滓だった。

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