第十六話 涙の還る場所③
イリスの調律が境目へ触れた瞬間、怪物の全身が、獲物を呑み込むみたいに大きく脈打った。
水の肋骨が内側へ鳴る。
白布が落ちる。
蒼い脈が、ノアの雫へ向かっていっせいに走る。
落ちる前に閉じるつもりだ、とイリスは悟った。
「……っ」
壊さないための調律だけでは、足りない。
外側は剥がせる。
けれどそれでは、ノア自身の涙まで薄くなる。
残さなきゃいけないものがある。
残したまま、返さなきゃいけない。
その一拍のためらいへ、セラフィオの声が、細い刃みたいに落ちた。
「……あなたの救いとは、やはり断彩ですか」
イリスの杖先が止まる。
刺さった。
その言葉は、痛いほど正確だった。
均せば静まる。
断てば終わる。
ずっとそうやって世界を均してきた。
静かにして、扱える濃さまで落として、壊れる前に止める。
それが自分の救いだった。
それしか知らなかった。
怪物が、それを待っていたみたいに締め直す。
白布が、ノアの頬へ落ちる雫の真下でぴたりと張る。
水の肋骨が、涙の落ち先だけを先回りで塞ぐ。
蒼い脈が、保管室の輪郭へ“ここで終われ”という形を押しつける。
ノアの睫毛が震えた。
ミラの喉が詰まる。
間に合わない。
この拍を逃したら、もう返せない。
イリスは白杖を握りしめた。
銀輪が、外套の内側で焼けるみたいに熱を持つ。
違う。
ここでまた薄くしたら、終わりだ。
終わらせるために救うんじゃない。
返すために、ここまで来たんだ。
「……違う」
喉の奥で、かすれた声が鳴る。
誰へ向けたのか、自分でも分からない。
セラフィオへか。
役割へか。
それとも、ずっと白だけで立ってきた自分へか。
「私の救いは……」
そこで、瞳の奥に金が差した。
紫銀の底へ、異物みたいに。
一筋。
二筋。
次の瞬間には、夜明けの針を何本も打ち込まれたみたいに、金が虹彩の内側で立ち上がる。
ルーファが息を呑んだ。
「イリス……!」
白と金が、目の中でぶつかる。
均したい白。
進ませたい金。
奪いたくない願い。
救いたい衝動。
全部が同時にせり上がって、イリスの身体の中で火花みたいに散った。
視界が揺れる。
呼吸が合わない。
白杖を握る手が震える。
「――聴け、世界!」
今度の声は、祈りじゃなかった。
叩きつけるみたいな起動だった。
白が走る。
境目へ入る、いつもの調律の白だ。
そこへ、遅れて金が噛んだ。
噛んだ、と思った。
次の瞬間には、重なっていた。
白の調律の中へ、金の脈がまっすぐ差し込まれる。
世界が、ひどく細い音を立てる。
本来、重なるはずのないものが無理やりひとつにされた音だった。
白は、奪うために入らない。
金は、塗り替えるために燃えない。
ノア自身の悲しみは、そのまま残す。
その外側へ貼りついている悲しみだけを、この先へ進めなくする。
本人のものではない涙だけを、そこで立ち止まらせる。
それは癒しじゃない。
慰めでもない。
所有権を返すための、無茶苦茶な一手だった。
「そんな……」
セラフィオの笑みが、初めてわずかに薄れる。
「それは、均しでは――」
「終わらせるためじゃない!」
イリスの声が、広間を切り裂いた。
敬語が消える。
自分でも気づかないまま、言葉の端が剥き出しになる。
「返すために、私はここにいる!」
白と金が、杖先で弾けた。
保管室の手前に張りついていた蒼い膜へ、白い亀裂が走る。
そこへ金が差し込む。
蒼が怯む。
ノアの外側へ巻きついていた悲しみだけが、ほんの一瞬、足を止めた。
だが、その代償がすぐ来る。
イリスの身体が軋む。
銀輪が割れそうなほどに熱い。
視界へ、ノアひとりの輪郭と、国じゅうの悲しみが同時に雪崩れ込む。
白は削れと言う。
金は進ませろと言う。
両方とも正しいまま、両方とも互いを殺そうとする。
胸が裂ける。
息が吸えない。
白杖を握る腕が、今にも折れそうに震えた。
「……っ、まだ……!」
次の瞬間、背中に熱ではない何かが触れた。
アッシュだった。
いつもの半拍の距離がない。
背後から、腕が回る。
肩口へ、背へ、脇腹へ、ぴたりと無の輪郭が重なる。
ゼロの距離だった。
イリスの喉が鳴る。
危険なはずの近さだった。
いつもなら、感情の膜まで薄くなる距離だ。
なのに、今は違う。
アッシュは奪わない。
崩れかけている場所だけへ、静かに無を差し込む。
白と金の衝突そのものは消えない。
ノアへ返したい願いも消えない。
ただ、自壊へ落ちる輪郭だけが、背後から半拍ぶん薄くなる。
耳のすぐそばで、低い声が落ちた。
「続けろ」
短い。
でも、それだけで足りた。
「壊れる方だけ、落とす」
イリスの呼吸が、ひとつ戻る。
止められたんじゃない。
支えられたのだと、触れた場所から分かった。
アッシュは自分を消していない。
自分の選んだ救いが壊れないよう、そこだけを残した。
イリスは歯を食いしばったまま、もう一度、杖先を押し込む。
白が境目へ入る。
金がその先へ、本人へ返る道だけを押し開く。
「白杖、応えなさい――奪わない。消さない。折らない。
その涙は、この子のものだ。
おまえたちの夜だけ、ほどけ。
返れ。返れ、持ち主のもとへ――!」
白が走った。
金が応える。
ルーファの風が、その道へまっすぐ通る。
慰めじゃない。
ノアへ返るためだけの風だった。
「行って」
やわらかいのに、命令みたいな声だった。
ミラも、泣いたまま名を置く。
「ノア」
母の声だった。
王でも女王でもない。
ただ、帰る場所を示す声だった。
水の肋骨が寄る。
イリスの白が、その“閉じる理由”だけを薄く削ぐ。
金がそこへ噛む。
前へ進めるものだけが、前へ出る。
ノアの外側へ貼りついていた国の悲しみが、ひとつずつ向きを失う。
返されなかった祈りが、持ち主の方角を思い出す。
共同体の湿りが、ノアの輪郭から静かに剥がれる。
けれど、ノア自身の悲しみだけは消えない。
消さない。
薄くならない。
胸の奥で、その子のものとして、ちゃんと残っている。
イリスの瞳から、白と金の粒が散った。
「返れ……!」
白杖の先で、世界が軋む。
ノアの睫毛が震える。
目尻でふくらんでいた雫が、ついに重さへ負けた。
落ちる。
今度こそ、誰にも奪われずに。
頬を伝い、顎先で震え、それから、落ちる。
ほんの一粒だった。
小さい。
弱い。
でも、世界のどんな悲しみよりも、その一滴はまっすぐだった。
次の瞬間、哭塔じゅうへ張っていた怪物の骨が、いっせいに力を失った。
水の肋骨が崩れる。
白布が重さを思い出す。
壁を這っていた蒼の脈が、もうノアへ噛みつかない。
ひとつずつ、遅れて、それぞれの持ち場へ帰っていく。
保管室を引き寄せていた距離の歪みも、そこでようやくほどけた。
アッシュの腕が、背後からそっと離れる。
それでも、まだ近い。
半拍の距離は戻っていない。
イリスは息を乱したまま、その温度のない近さを背中で知る。
危険だったはずのゼロ距離が、いまだけは救いだった。
セラフィオが、小さく息を吐いた。
驚きではない。
面白いものを見た時の、あの男らしい吐息だった。
彼は何も言わない。
ただ白布の影へ、舞台の終わりを見届けた演出家みたいにゆっくりと退く。
橙は残らない。
笑いに似た軽さだけが、遅れて闇へ溶けていった。
広間に残ったのは、水の落ちる音と、誰かがやっと息を継ぐ音だけだった。
その静けさを破ったのは、小さな足音だった。
保管室から出たノアがよろめく。
泣いていた。
大声じゃない。
嗚咽でもない。
けれど、もう堰を切ったみたいに止まらなかった。
自分の涙で、自分の喉を震わせながら、ノアは一歩、また一歩と前へ出る。
ミラが息を呑む。
「ノア……」
その呼び声を聞いた瞬間、ノアは走った。
まだ覚束ない足で。
転びそうになりながら。
それでも、今だけは止まらない。
小さな身体が広間を駆ける。
砕けた白布を越え、水の残りを跳ね、蒼の名残を踏み抜いて、まっすぐミラへ飛び込む。
「ははさま……!」
ミラの腕が開く。
次の瞬間には、その小さな身体を強く、壊れそうなくらい強く抱きしめていた。
ノアはその腕の中で、とうとう声をあげて泣いた。
いままで喉の奥へ押し込めていたものが、全部そこへ返っていくみたいに。
「すぐもどってくるっていっだのに、ははさまのうぞづぎぃ」
苦しかったことも。
痛かったことも。
返せなかったことも。
泣けなかった時間も。
全部まとめて、母の胸へ落ちていく。
ミラも泣いていた。
女王としてじゃない。
ただ、ひとりの母親として。
「ええ……ええ……ノア、ごめんね」
それしか言えない。
けれど、その声だけで十分だった。
泣いていい。
戻ってきていい。
ここが、おまえの帰る場所だと、腕の力が全部告げていた。
ルーファがそっと息を吐く。
風鈴が、かすかに鳴る。
アッシュは黙ったまま立っている。
イリスは白杖を支えにして、その光景を見た。
胸の奥で、白と金の残り火がまだ痛む。
それでも、見届ける。
ひとりの子が、ようやく自分の涙を、自分のまま落としているところを。
哭塔の底に溜まり続けていたどんな悲しみより、その泣き声の方がずっと深く、ずっと強く、広間へ満ちていった。




